第11話 女神の錫杖

「わたしって、知りたがり屋なんです。しょっちゅう、みんなにあれこれ訊いているんですよ」

 みんなというのは、その不運な女囚たちのことだろう。

「外の世界のことも、みんなが色々教えてくれました」

 セラミスの身の上は、メリーナにとっては不思議で興味深いものだった。

 子のない女囚もセラミスには優しく、セラミスは彼女たちから充分な母性愛をもらい、この暗い灰色と黒色の籠の世界で不思議なほど幸福な幼少期をおくり、笑顔の美しい明るい娘となったのだ。

 貧民窟で生まれ育ち、掏摸となって囚われたある女は庭で遊んでいるセラミスを見て、「親のいる貧乏人の家に生まれるより、この石の塔の中で生まれたあんたの方がよっぽど幸せだよ」と羨ましそうに呟いたほどだ。 

 かといって遊んでばかりいられるわけもなく、五、六歳のころから老女の手伝いをして台所仕事をつたないながらも手伝い、老女にいろいろ教えられて、今では高齢のため職を辞した彼女に代わって、牢主の身のまわりの世話、炊事、掃除、洗濯など彼の専属召使の役割をこなすまでになった。

 なにもかも一人でするのは十五の娘には大変だが、身体を動かすことが好きなセラミスは日々の仕事を楽しんでこなしていた。

 唯一の悩みは、たまに買物などで塔外へ出たときに、獄吏の身内として街の人から冷たい目をむけられることだ。無遠慮に向けられる視線は、ときに石礫いしつぶてのようにセラミスを打つ。

 セラミスにとっては、塔の中こそが平和と安らぎに満ちた故郷だった。

「わたし外が怖いんです」

 十二になったとき牢番の男とはじめて外へ出て商店を歩いていたとき、セラミスは都の大きさと人の多さに圧倒された。見るものすべてが刺激的で新鮮で、卒倒しそうになった。

 小麦や野菜、魚や肉を売る店、色とりどりの布や衣、装飾品を売る店、商人たちのけたたましさ、行き交う人々のなかには異国人も多い。

 この世のなかはなんとにぎやかな音や色に満ちているのか。セラミスは舞い上がってしまった。だが、そんなセラミスの興奮をひとりの子どもが打ちくだいた。

「〈黒い人〉だ! 〈黒い人〉が来てる!」

 獄吏や塔ではたらく役人たちは皆黒い衣を着ることを義務づけられており、男はもちろん妻子も塔外へ出るときは黒い面紗めんしゃ被衣かつぎを身につけることになっている。その日のセラミスも魔女のように黒い長衣で身体をおおっていた。それを目ざとく見つけた街の悪童がはやしたててきたのだ。 

 この時代、どこの国でもそうだが一般人は罪人の処罰にかかわる人種を忌み嫌う。

 彼らは罪人とおなじ場所に住み、その拷問を担当し、ときに処刑を執行するため、残酷で不吉な存在と見なされているのだ。

 獄吏牢番とて好きで拷問や死刑をおこなっているわけではないのだが、どうしても世間からは、おぞましい者という目で見られてしまうもので、彼らが来ると不吉で縁起が悪いと店主たちはいやがり、女子どもは彼らから血の臭いや死臭を感じとっておびえる。

 掏摸、かっぱらい、売春婦などの、貧しさや心の弱さから罪をおこなう都の最下層の者たちですら、自分たちに危害をくわえる職種の人間として彼らを恐れ、敵視する。

 老若男女、貧富貴賎の差を問わず、その場にいた全員から凍った視線を投げつけられ、セラミスは全身に針を刺された気分になった。

 牢獄で生まれ育ったセラミスが、生れてはじめて経験した恐怖だった。

「〈黒い人〉、〈黒い人〉、あっちへ行っちまえ!」

 いきなり粗末な衣の裸足の子どもが、小石をひろって投げつけてきた。

 セラミスは悲鳴をあげた。

 かたわらの大柄な牢番に怒鳴られて子どもは逃げ去ったが、セラミスに同情をしめす者はひとりもおらず、悪いのはおまえだと言わんばかりに皆、氷柱つららのような目をむけていた。

 迫害視とはこういうものだとセラミスは本能で学んだ。はじめて憂いと哀しみを知ったセラミスは大急ぎで買い物をすませ、牢番とつれだって塔へもどった。セラミスの表情から、ザザルは外でなにが起こったかを悟ったのだろう。

「買い物はなるべく他の者にしてもらうといい」

 セラミスはうなずかなかった。都人の視線がいかにきびしくとも、はじめて知った外の光景はやはり若いセラミスには刺激的だったのだ。

「いいえ、大丈夫です。これからもわたし、買い物に行きます。行かせてください」

 ザザルの返事はそっけなかった。

「好きにしろ」


 セラミスの話を聞き終えたメリーナは憂悶の吐息をもらした。

「わたしも、そんなふうに見られるようになるのね」

 堕ちてけがれに染まった者として、都人の蔑視と嫌悪の対象とみなされるのかと思うとメリーナの心はまた沈んだ。

「それでも……今回は〈聖見せいけん〉は行われないはずです」

 〈聖見〉とは、聖断にかけられる者が下着姿で裸足にされて、都の大通りを縄につながられて引きまわされるという残酷な儀式のことである。

 晒し者にすることで、この者はもはや貴人ではないということを神々や人々に知らせるのだ。

 貴族の子女がこのような目に合わされれば、もはや未来永劫誇りをとりもどす術もなく、それが嫌さに〈聖断〉を納得したものの〈聖見〉の前になって恐ろしくなり塔の窓から飛びおりて自害した者もいれば、〈聖見〉が終わってから心痛のあまり病になって、買われてしばらくたたぬうちに病死した者もおおい。

 メリーナはおぞましさのあまり、か細い両手で自分の身体を抱きしめふるえた。

(そうだった……〈聖見〉があったんだわ)

 今の今まで、うっかり〈聖見〉という慣例のことを忘れてしまっていた。

 もし自分が〈聖見〉をされるようなことがあれば、自分のみならず両親の名誉のためにも、その前に舌を噛んで死のうとすら思う。

 メリーナの青ざめた顔に、セラミスはあわてた。

「ごめんなさい! わたしがよけいなことを言ってしまったから。心配しないでください。ザザル様が、おえらい方に必死に抗議してくださったんです。お嬢様は王様にも縁ある方だから、あまりにもひどい辱めは王様にも無礼になるし、よその国にも聞こえが悪くなりますって」

 ザザルという男は、メリーナには何も言わなかったが、メリーナのためにかなり骨を折ってくれたようだ。すこし意外な気がした。

 メリーナがそんなことを思った瞬間、木の扉がたたかれた。

「姫君は落ち着いたかな?」

「ザザル様、ご覧ください。やっぱり洗うとお綺麗でしょう?」

 セラミスが磨きあげた皿を見せるように、自慢気に胸をはる。ザザルは黒い覆面をかしげた。

「うむ。……だが、やはり痩せすぎだな。はたしてよい買い手がつくかどうか。裁判所が提示した金額より低ければ、〈聖断〉はならぬ」

 そうなるとメリーナは永遠に牢屋暮らしとなる。そのうえ〈聖断〉を受けそこねた娘――つまり売り物にもならなかった娘として、不名誉きわまりない語り草となり、二重にも三重にも恥のうわぬりをすることになる。

 メリーナは悔しさに頬が熱くなるのを自覚した。そして悔しいと思っている自分が、さらに恥ずかしくなった。

「鏡を見せてもらってもいいかしら?」

 セラミスが奥の部屋からもってきた粗末な手鏡におそるおそる目線をむけ、メリーナは泣きそうになった。

(いやっ! ……こんなの、わたしじゃない!)

 無理もないことだが、頬がげっそりと痩せこけ、若い娘らしい活気がまるでなく、哀れさと惨めさに満ちている。肌の色は白よりも青に近く、瀕死の病人のようだとメリーナは思った。

 こういう娘を欲しがる男などいるだろうか? いるとしたらかなり不健康な趣味の持ち主であり、それはまた悲惨である。ザザルはかすかに見える唇を、さも苦そうにゆがめている。

「ううむ……。化粧でなんとかごまかすしかないだろう。なるべくゆったりとした衣を着せて、少しでもふくよかに見えるようにしよう」

 自分を売りつける算段をのべる男を前に、メリーナは消え入りたいほどの恥辱をおぼえつつも、もうこの運命に身をゆだねるしか道はないのだという絶望感にさいなまされ、唇を噛みしめた。

 なるようになれ、なるしかないのだ、という開きなおりの気持ちもわいてくる。

(もう逃げられないのなら、わたしの運命を最後まで見届けてやるわ)

 いよいよとなったら〝死〟という救いがある。

(どうにもならなくなったら、死ねばいいのよ。死んでお父様とお母様のところへ行けばいいだけの話)

 捨て鉢ともいえる想いを強みにして、メリーナは決意をかためた。


 セラミスは使用人用のちいさな扉をぬけて外へ出ると、門番にたのんで橋をおろしてもらった。赤くなりつつある空を背に向こうがわへと橋がかかる。セラミスが礼を言うと禿頭の中年の門番は心配そうに眉をしかめた。

「セラミス、今日はひとりなのか?」

「ええ。すぐに帰ってくるわ」   

「そうか。くれぐれも気をつけてな」

 世間からは残酷だ不吉だと忌み嫌われる塔の人々だが、この門番はセラミスに親切だ。もちろん皆が皆そうだというわけではない。なかには確かに囚人に対して横暴で残酷な態度をとる恐ろしい獄吏たちも大勢いる。セラミスもそんな連中には決して近づかないようにしている。

 いつもなら護衛がわりの屈強な牢番や召使とともに出歩くが、今日の買い物はメリーナの新しい衣を作るための布なので、セラミスはひとりで買いに行きたかった。

 この時間帯なら悪戯をしかけてくる子どもは少なく、人々はそれぞれの用を終わらせるために忙しいから、あまりからまれないだろう。もっとも暗くなってくると、物騒な連中が路地にたむろするようになるので、それはそれで用心が必要だが。

 足早にすすむと、じきに商店がならぶ大通りにつく。すぐ目と鼻の先に牢獄とは対照的な、バリヤーンの自由と繁栄を象徴するにぎやかな光景があらわれるのが、幾度見てもセラミスには不思議で切なかった。

 買いもの帰りで家路をいそぐ女が五、六歳の男の子の手をひいているのを見ると、さらにその切なさがたかまる。

 ふたりの向かう先には、つつましくとも幸福な家庭というものがあり、それは獄舎のなかで女囚の腹から生れたセラミスがけっして持ったことがなく、これから先の人生でも、永劫得ることのかなわない幸せである。

 生命と死をつかさどるといわれる銀髪と黒髪の姉妹の女神、サラシア、サラレアが、それぞれ持ち、死んで生まれかわる魂をふりわけるために振るという錫杖しゃくじょうを、ほんの少しちがうように振って風のむきを変えてくれていたら、セラミスは都の平凡な女性の腹にやどり、ごく普通の家の女の子として両親にいつくしまれ、可愛らしい桃色の衣の裾をひるがえし、大どおりをお転婆にかけていたかもしれない。

 近所の男の子たちはセラミスに石を投げるかわりに、おずおずと照れながらも花を摘んできてくれていたかもしれない。

(夢だわ。はかない夢。あきらめなさい、セラミス。おまえは牢獄の囚人から生れた罪人の子。その運命をせおって生きていくしか道がないのよ)

 人は皆それぞれの運命を生きるもの――それは彼女の主でもあり保護者でもあり教師でもあるザザルの教えだった。ザザルはセラミスが自分の宿命に気づき、時折暗い目をしてしまうようになったとき、その言葉をくれた。

(おまえが塔の中で生まれ、世間から忌まれる身となったことにも必ず意味があるのだ。ただ神々の指示とおのれの運命を信じて、今生こんじょうの生をまっとうしろ)

 それを聞いたときセラミスは十二歳になったばかりで、当時は意味が良くわからなかったが、ようするに悩んでいないで一所懸命生きろということだろう。

(そうよ。わたしは、わたしの道をがんばって生きていけば、いつかきっと神様が、よくがんばったね、と誉めてくださるわ。そうだわ、メリーナ様だって、今必死にご自分の運命と戦っていらっしゃるんだから)

 セラミスは青白い唇を噛みしめていたメリーナのほっそりとした横顔を思い出した。

 〈聖断〉のことを考えると、通りを急ぐセラミスの足はおそくなる。

 〝聖〟という言葉がついているだけに、それはひどくおぞましく、残酷なものを感じさせる。失権した不幸な貴族の娘を見せ物のようにして、金持ちの男たちが値をつけ、り合おうというのだ。十五のセラミスの胸に小さな怒りの炎がたつ。

 そうこうしているうちに日は暮れ、通りの商人たちは店じまいをはじめ、ぎゃくに仕事帰りの男たち相手に酒や食べ物を売る店がぽつぽつ明かりを灯しはじめている。

 セラミスはあわてて布を売っている小さな天幕に入ると、メリーナに似合いそうな色布を物色した。メリーナのものを、と思いつつも、紅薔薇の赤色、太陽の黄色、海の水色、新緑の緑色と棚にならぶ色鮮やかな布地をながめているだけで胸が浮きたつ。頭のなかで、それぞれの色の衣をまとったメリーナを想像してみた。

(赤は今のメリーナ様には少し派手で重たいかも。黄色は……もう少しふくよかになっていたら似合ったかもしれないわね。緑は……いえ、あの色はきつ過ぎるわ。もっと淡い若草色の方が)

 と、まよったあげく、結局淡い紅色が一番似合うように思えて手をのばした。

「おじいさん、これをちょうだい」

「あいよ。お嬢さんに似合いそうだね」

「いいえ、わたしのじゃないわ」

 首をふるセラミスの寂しげな表情と、彼女のまとっている黒色の衣から、老商人は事情を察したのだろう。ここは塔から遠くない。

「安くしておくよ」

 皺の奥の黒い瞳は、やんわりと日没の光に染められ輝いている。〈黒い人〉と知ると嫌な顔をする店主がおおいが、老人は善良で寛大な性格らしい。セラミスは内心感謝した。


「そこの娘」 

 買い物包みをかかえて帰路を急ごうとしたセラミスは、背後から呼ばれて足をとめた。

 見たこともない若い男、まだ少年と呼んでいいほどに若い男が立っている。

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