第10話 小さな太陽

 通されたのは、おそらく塔では一番明るい部屋なのだろう。

 塔をあずかる塔主がつかっている部屋は壁の色が黄褐色きかっしょくで、それだけでも黒一色の建物のなかでは、ほのかにやわらかさを感じさせる。よく見ると色石をめこみ鳥や獣、草原の風景画が壁一面にえがかれている。それはみごとなモザイク画で、メリーナは目をうばわれた。

 〈黒百合塔〉は、数百年ものむかし、もとは身体の弱かったさる太守夫人の別館として作られたのだという、家庭教師から聞いた話が思いだされた。

 家庭教師が授業のあいまの雑談で聞かせてくれた話によると、夫人の夫には愛人がおり、それを気に病んで屋敷を出た夫人が、都のはずれにかまえた居城が、〈黒百合塔〉だったという。夫人が亡くなってから転売され、最初は罪を犯した高貴な身分の人ための幽閉所としてつかわれ、時代が下ってからは一般の人間も収容されるようになったという。メリーナはそんな歴史のこぼれ話を思いだしながら室に入った。

 床は飴色あめいろの板で中央には虎皮の敷物がしかれ、その上には木造の卓と椅子が配置されている。中流ほどの家庭の居間のようだ。サヌバ邸では、筆頭家令の私室をひろくしたぐらいだろうか。思えば、屋敷の召使たちはどうしたろう。

(きっと皆どこかへ行ってしまったのでしょうね……もう新しい仕事をしているかも)

 メリーナはわいてくる苦い想いを押し殺した。

「セラミス、姫様のお世話をしろ」

「はい、塔主様」

 おくにもうひとつ部屋があり、そこから十四、五歳ほどのメリーナと変わらない年頃の少女が大きな盥を持ってあらわれた。黒衣の男たち以外に人を見たのは久しぶりな気がして、メリーナはつい彼女に見入ってしまった。

 少女もまたメリーナを見て一瞬、興味ぶかそうな顔をしたが、すぐに作業にとりくんだ。

 盥は大きく、少女は日に焼けた顔を赤くしながら必死にはこんでくる。

 それから少女はすばしこい栗鼠のような機敏さで奥から桶で水をはこんできた。あわてるものだから、ぽたぽたと水滴が散って彼女の黒麻の衣に染みをつくるが、いっこうに気にせず、呆然としているメリーナのまえで盥に水をみたしていく。

 窓からあふれる光に――メリーナは部屋に長方形の窓があることにやっと気づいて感動した。

 盥の水面は金剛石ダイヤモンドのような輝きをはなち、メリーナを誘惑した。

 そうなると俄然、そばの男の存在が忌々しくなる。

「私は外で待っているから、身体の汚れを落とされるといい」

 男はあわてたように退散し、メリーナとセラミスと呼ばれた娘ふたりだけになった。

「待ってくださいね、お湯をすこし足せば、ちょうどいい温度になりますから」

 セラミスの少しかすれたような声は、いかにもはきはきしていて下町の娘特有の活気と生命力を見せつけている。外の仕事もよくこなすのか、日に焼けたあわい玉蜀黍とうもろこし色の頬は健康的で、メリーナは自分のやつれて荒れた顔や肌が気になってきた。

「お手伝いいたしますね」

 メリーナはうつむいてセラミスのするがままにさせた。

 すっかり痩せた身体をさらすのが苦しいが、それでも臭気をはなつ衣からときはなたれ、ほどよい加減の湯水のなかに腰をおろした瞬間、メリーナは生きていることに感謝した。

「お気の毒に、肉が全然ありませんね」

 心から同情しての言葉なのだろうが、主の身体に触れるときは、誉め言葉以外は口にしない侍女たちにかこまれて育ったメリーナには心外だった。

 腹がたったが、娘は熱心に湯水を手ですくっては髪や首、肩にかけ懸命に垢を落とし、濡れたメリーナの顔を清潔な布でふいてくれる。垢を落とすという共通の目的をまえにして、メリーナはそれこそ生れたての子猫のようにおとなしくしセラミスの手にすべてをゆだねた。

 大理石をくりぬいた浴槽、湯水のうえに浮かべた薔薇の花びら、しつけ良い侍女たちの賛辞、かおりたかい紫芳香草ラベンダ―の香油。入浴後に身につける絹の衣も宝石も何ひとつないけれど、それでもメリーナはつかの間の至福感に恍惚としてきた。

(気持ちいい……ああ、わたし生きているんだわ)

 また瞳に涙がわいたが、それは嬉しさからの涙だった。砂漠を放浪した旅人が一杯の冷水を得たような心持ちだ。

(……やっぱり、生きていたい。もう少し生きて、この先の運命を見たい。そして……できることなら両親の無念を……)

 相手は国最高位の武人であり、しかもその背後にいるのは最大権力者である国王なのだ。

 いったい何ができるというのだろう、と自問してまた虚しくなる。復讐を大儀名分にして、ただ命が惜しいばかりに名誉を売っただけではないかと切なくもなる。

「ほら、すっかり綺麗になりましたよ。お召しものは洗っておきますので、しばらくはこちらの衣を着ていてください。待っていてください、すぐお茶をお淹れしますね。ああ、そのまえにこの盥を片付けないと」

 ばたばたとせわしくセラミスがしゃべり、走りまわる。彼女の皮沓サンダルが床上で小気味良い音をたてる。

 メリーナの知っている屋敷の召使たちは、こんなふうにあわただしく駆けまわることはなかった。貴族の屋敷に奉公する者たちは、たいてい主人の御前ごぜんに出るまえに行儀作法をしこまれるからだ。メリーナはこの、今までまわりに見たことのない種類の少女に興味がわいてきた。 

「そちらの椅子に腰かけてお待ちくださいね」

 それからさらにセラミスは動きまわり、盥をかたづけ床にこぼれた水をふきとり、奥から茶器をのせた盆をかかえてやってきた。

「お嬢様のお口に合うといいんですが」

 真剣な顔つきで茶をそそぐセラミスの首あたりがしっとりと汗で濡れて、褐色の髪が数本額にへばりついているのにメリーナは見気づいた。

 我知らず、不思議とやすらいだ気持ちになってきた。それは半月ぶりに味わった他人の優しさなのかもしれない。

 つねなら目もとめない下級階層の娘に、メリーナは己の傷ついた心がほんの少しいたわられた気がした。

「ありがとう……」

 自然と、屋敷のなかでは滅多に目下の人間につかったことのない言葉がもれた。

気恥ずかしくなったが、考えてみればセラミスはメリーナの召使ではないのだから、礼の一言は口にすべきだろう。

「あら! お嬢様、口がきけたんですか!」

 セラミスが茶水晶の瞳をまるめて仰天する。

 その大げさな反応にメリーナの方が驚いた。両親の死がなければ、もしかしたら少しは笑ってしまったかもしれない。

 この部屋にはセラミスという名の小さな小さな太陽がかがやき、暗闇の獄舎のなかで漆黒に染めつくされていたメリーナの心に、ほのかな陽光を当ててくれているのだ。

 暗い塔のなか、この部屋だけは光であふれている。メリーナはぎこちなく表情をくずした。

「きけるわよ。ちゃんとしゃべれるわ」

「おゆるしください。だって、部屋に入ってきてから一言もお話しにならないから、これはてっきり口がきけないと思ったんです。あの……こんなこと訊いても良いですか?」

「なに?」

 セラミスは少しとまどうような表情をしながら、好奇心に勝てなかったのか、訊いてきた。

「……お嬢様みたいな方が、どんな罪を犯したのですか?」

 無神経な質問だが、まるで棘を感じさせないのは、セラミスの率直で正直、天衣無縫の性格のせいだろう。

「罪なんて犯していないわ」

「ああ、申し訳ございません。お嬢様じゃなくてお嬢様の家族がしたことなんですよね」

「ちがうわ! わたしの家族は誰も罪など犯してはいないわ!」   

「はい……」

 おそらくは塔に囚われた者たちは皆そう言うのだろう。そしてたしかにとがなき人もこの塔の中にはいるのだろう。  

「……美味しいわ」

 かすかに甘い苦みのあるお茶は美味で、メリーナは久しぶりにまともなものを口にした気がしたが、小皿の焼き菓子には手が出ない。まだ胃が食べ物を欲しないのだ。

「さようでございますか? わたしが摘んだ薬草で作ってみたんです」

 セラミスがうれしそうに健康そうな白い歯を見せた。

 メリーナはもう一口お茶を飲んでから、気になったことを訊ねてみた。

「……ねぇ、この塔の中にはどれぐらいの人がいるの?」

 訊かれたセラミスは、思案するように天井の梁をながめる。

「えーっと、そうですね、三百人以上はいると思いますよ」

「そんなにいるの?」

「お嬢様が入れられていたのは、きっと貴族のための一人用の牢だったはずです。身分低い人は、大きな牢に数十人まとめて入れられているので」

「あれが貴族用の牢だというの?」

 あの不潔で暗い牢が貴人用だというなら、平民のための牢というのは、いったいどんなものなのだろう。メリーナは想像するだけで背が寒くなった。

「王族のための牢というのもありますよ」

 さらにメリーナはぎょっとした。

「……王族でも牢屋に入れられるの?」

「ここしばらくはありませんが。わたしも見たことはないんです。そういう方とはお会いできないし」

「……おまえ、獄吏の家族なの?」

 賤民と同席している自分の身の上が悔しくなったが、セラミスの愛らしい顔を見ると、相手を卑しむよりも、獄吏の家族として生れた境遇に不憫な気持ちになる。

 罪人として位を剥奪された貴族の遺児で、〈聖断〉を受ける身のメリーナの立場の方がむしろ不幸と思われるかもしれないが。

「みたいなものです。わたし養女なんです」

「養女?」

「わたし、牢の中で生れたんです。わたしの母さん、わたしを生んですぐ死んだんです。それで塔主のザザル様――、あの男の人がわたしを育ててくれたんです」

「そ、そうなの?」

 黒ずくめのあの陰気そうな男が赤ん坊を育てているところなど、とても想像できない。相手はメリーナの考えを察知したのだろう。

「といっても、おしめを替えてくれたり、お乳を飲ませてくれたのは、台所のお婆さんなんですけれど」

「ああ……、それはそうようね」

 老女はこういうところで働いている女にしては情があつく、子どもを生んだばかりの下働きの女からもらい乳をしてくれたり、夜泣きするメリーナを嫌がりもせずおぶって子守唄を歌ってくれたりしたという。

「友達はいないの?」

 久しぶりに同じ年頃の娘としゃべれたせいか、メリーナはついそんなことを訊いていた。

「います。といっても牢の人たちですけれど」

「囚人が友達なの?」

 つい見下すような言い方をしたようだ。セラミスが困ったように眉をしかめた。

「良い人達ですよ。牢には、たまたま親や夫が罪を犯したというだけで一緒につかまった気の毒な人たちもたくさんいるんです。もとは裕福な家庭の奥さんやお嬢さんだった人たちもいて、わたしにも親切にしてくれました」

 夫や父の罪に連座して入牢した女達が他にもいるのかと思うと、メリーナは気になった。

「その人達、ひどい目に合わされたの?」

 セラミスは首をふる。

「そういう人達には看守や獄吏も甘くて、けっこうお目こぼしをしてもらえるんです。天気の良い日は中庭を自由に歩いてもいいことになっていて、そこでわたしも一緒におしゃべりしたり、詩を詠んだりしたんです」 

「囚人が詩を詠むの?」

「はい。わたし、その人たちから読み書きを習ったんですよ」

 セラミスは誇らしげに胸をはった。これはメリーナにも意外だった。屋敷の下女や下男でも自分の名前すら書けない者もめずらしくない。

 つまりセラミスは、バリヤーンの中流階級程度の教養を持っているということだ。

「読めるって、何を読んだりするの?」

 メリーナはつい試すように訊いていた。

「たいしたものじゃないです。えーと、今は『バリヤーン聖人伝』を読んでます」

 メリーナは沈黙した。

メリーナも家庭教師に命じられて読んだことはあるが、かなり難解な書物だった。

「読んで解ったの?」

「正直言って、おもしろくなかったですね。やっぱりわたしは『イレシス冒険譚』とか、『メリアヌクの恋歌』みたいなのが好きです」

 どちらも虚実とりまぜた歴史物語であり、どちらかといえば娯楽的な書物だが、どちらも長編で、読破するには相当の根気と理解力を要する。高等教育を受けた貴族の子女でも読んでない、もしくは読めなかったという者はおおい。メリーナは不思議なものでも見るように、目のまえの獄舎育ちの娘を見つめた。

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