第9話 決意
いったいどれだけ悲鳴をあげつづけていたろう。
自分でも止めようがなかったのだ。
その状態があともう少しつづいたら、まちがいなくメリーナは狂っていたろう。
「姫、落ち着いて! 気をたしかに!」
その声に、メリーナの意識はかろうじてもどってきた。
だがひどい頭痛がして、また一瞬気がとおくなりかけた。
それはわずかな時間だったはずだが、メリーナは夢を見た気がした。
薔薇や百合の花びらが頭上を舞い、青空から光が降りそそぐ。屋敷の庭園の泉水が光を受けてきらめき、侍女たちが笑いさざめく。強くたのもしい父、美しくやさしい母。
やがて侍従がうやうやしげに羊皮紙の巻紙をメリーナのまえにさしだす。それは愛しい許婚からの恋文だ。侍女たちにひやかされながらメリーナは白い頬を薄桃色に染めて手紙を読む。そこには丁寧な文字で恋の詩が書かれてある。
メリーナは幸せいっぱいだった。
それは常夏のバリヤーンで、一番気候温暖な蘭の月(三月)のころだったろうか。世界は美しく、愛と夢と希望にあふれていた。
すると、どこからか竪琴の音色がひびいてきた。八弦琴だろうか、美しい調べがいっそうメリーナの幸福感をかきたてた……と思った瞬間、一陣の風が吹いてきた。
花びらが吹きとばされ、あたり一面が灰色に変じる。
荒々しい甲冑姿の兵士たちが楽園のような庭園にのりこんできた。
「罪人たちをつかまえろ!」
冷たい声がひびきわたった。
美しい音が濁る。花びらが枯れる。皿が割れ、杯が砕けた。世界が、崩壊した。
くずれゆく夢の世界のなかでメリーナは叫んでいた。
「ちがうわ! わたしたちは罪人じゃないわ!」
「いいや! おまえたちは謀反人だ!」
声の主はあの暗灰色の瞳の青年だった。バリヤーンにはないはずの、冬の夜空色の瞳をもつ男。美しい顔に氷の心のもちぬし。
「罪人たちをひっとらえろ!」
「ちがう、ちがう、わたしは罪人じゃない」
気がつくとメリーナは夜の街をさまよっていた。一人で街を出歩いたことなど一度もなかった。ひどく不安で恐ろしい。
そんな暗い世界に、一条の光が見えた。
メリーナがほっとして光にむかって歩いていくと、そこには大勢の人があつまって、何かを取りかこんでいるのが見える。
不安も忘れてメリーナが近づくと、そこに見えたのは晒し台の上にある生首だった。
メリーナは悲鳴をあげていた。
血のしたたる首。
それだけでもおぞましいが、それは――。
夢のなかでメリーナは絶叫していた。
(お父様! お父様! お父様)
走ってその場を逃げ出したメリーナは、誰かとぶつかった。
見上げると、それは母レオナだった。メリーナ、と母が悲しげに、それでも愛をこめて娘を呼ぶ。
(ああ、お母様、お母様、お父様が、お父様がぁ)
メリーナ……そう母が呼んだ。美しい唇がひらいた瞬間、そこからいくつものルビーがこぼれた。けれどメリーナはすぐ気がついた。ルビーに見えたのは、ぼこぼことこぼれてくる……血の塊だった。
(いやあぁぁぁぁ!)
気の狂うほどの悲しみ、痛み、恐怖、屈辱、憎悪。それらに圧倒され、ふりまわされ、メリーナは自分の魂を手ばなそうとしていた。
鉄格子のはざまから男が腕をつかみ、支えるように力を添えてくれなければ床に倒れていたろう。
「なにが……」
メリーナは苦しげに息を吐き、咳こんだ。吐き気がしたが、吐く物が何もない。
「なにがご温情よ!」
メリーナは痩せた両手で鉄格子をにぎりしめ、自分の頭を格子に打ちつけるようにした。
「……落ち着いてください」
「ほうっておいて!」
メリーナはその場にうずくまり、嗚咽した。
涙がとまらない。苦痛と怒りの叫びが唇からもれる。胸の内を憎悪の炎が焦がし、このまま憤辱のあまり憤死してしまうのではないかとメリーナ自身でも思った。
「悔しい! 悔しい! 悔しい!」
「姫、姫様」
「死にたい! わたしも死ぬわ! 死んでお母様のもとへ行くわ」
やつれはててなお全身から憎悪の黒い光をはなつ今のメリーナは、魔女か幽鬼のようで人間ばなれして見える。
それでいてほっそりとした身体は痛々しげで可憐さをまだぎりぎり保っており、黒衣の男は圧倒されて魅入られたようにしばし無言で立ちつくした。
そのあいだもメリーナは身悶えせんばかりに泣きじゃくっている。
父への愛も深いが、メリーナにとって母はすべてといっても過言ではないのだ。父だけの死なら、なんとかのりこえることが出来たかもしれないが、母の死は彼女の魂を打ちくだいた。
くだけ散った魂は、それでもわずかに残って、メリーナの意識をどうにか狂う直前で支えてはいるが、それは凍りつき、今後何があっても溶けることのない黒い氷塊のように変じてしまった。
「姫、生きのびれば復讐を果たすこともできますよ」
どれぐらい時がたったか。
やがて怒り泣く力もなくして床に座りこんでしまったメリーナに、男は優しい悪魔のようにささやいた。
「とにかくここを出るのです。後のことは運命の女神メグルヌスと、守護神バリヤヌスにまかせてみればいい」
「おまえは……」
メリーナは涙でよごれた顔をあげた。
(この男は、わたしにとって味方なの?)
わずかに残った理性で、この男の言葉にしたがってみた方がいいのだろうか、と考えてみた。まだ考える力がかろうじて残っていたのはわずかな幸運だった。
「おまえは、復讐ができると言ったわよね? お父様とお母様をあんなひどい目にあわせたのはロルカ武相だというわ。わたしにロルカ武相を殺せると思うの? 今のわたしは、なんの力もないか弱い娘なのよ」
家族も財も地位もなにもない。あらためてメリーナはその事実に泣き伏したくなった。
「知恵をしぼるのです。剣を使うばかりが復讐ではありません。ですが、そのためには、やはり生きのびなければならない。メリーナ姫様、生きるのです」
覆面をとおした男の声はひくいが、熱がこもっている。
「〈聖断〉は無理強いしないことになっており、囚人が七日以内に承諾しなければ、その機会は消滅してしまう。死罪をまぬがれたとしても、一生この牢のなかで過ごすことになります。あなたは今ですらすっかりやつれ果てている。このままでは、確実にここで死ぬことになります。それも、とおからず。……千にひとつ、万にひとつの機会に賭けてみませんか? 死ねば
「死ねばすべてが終わり……」
メリーナは男の言葉を復唱した。
その目は
「このままではあなたは半年、いえ
牢の薄闇に沈黙がみちる。
「明日、あらためてまた来ます。どうかそれまでにご決断を」
メリーナは唇を噛みしめ、男の背が石廊の闇へきえていくのを見送ってから、床にずるずるとくずれるようにして座りこんだ。
絶望で爆発しそうだった頭に、かすかな光がともった気がする。だが、それは希望とは呼べないものだった。
その夜、メリーナは疲れきった頭で必死に考えた。
(死にたい。このまま死んで早くお父様とお母様のところへ行きたい。……ああ、でもそうしたら、わたしたちをこんな目に合わせた敵に復讐できない。お父様は謀反人の烙印を押されたまま。……いいえ、仮に生きのびて外に出られたとしても、どうやって復讐できるというの、メリーナ? 今のお前はなんの力もない若い娘にしか過ぎないのよ)
それを思うと涙があふれた。
剣を使えるわけでも軍馬を率いられるわけでも、それこそ物語に聞く毒や魔術を使える魔女妖女というわけでもない。
(魔女……。そういえば……お母様はわたしには不思議な力があると、おっしゃっていらしたけれど)
もし、それが本当なら、この状況をどうにかできないものだろうか。
考えてみて虚しさにため息が出た。その哀しい吐息は、黒い石壁に吸いこまれて消えてゆく。
(侍女たちから聞いた、あの大臣家の姫君は、どんな想いで〈聖断〉を受けたのかしら……?)
権力争いで親を殺され、すべてをうしなった姫君は、きっと今のメリーナのように苦痛と屈辱になげきぬいて、粗末な寝床で号泣したにちがいない。その哀哭の切ない声がメリーナには聞こえてくる気がする。
そして悩みぬいたあげくに、最後には、それこそあの男が言うように千に一つ、万に一つの機会をのぞんで、〈聖断〉を受けたのだろう。
機会とは、この場合なんとむごいのだろう。
いくらかでも選ぶ権利があったとき、人は苦渋のはてに、それこそ自身で手足を切り落とすような痛恨の決断をしなければならない。
選ぶことが出来た人間は、ときに選べずに運命に流されることしかできなかった人間よりも、苛酷な状況を経験することになるのだ。
さらに、その姫君は、たしかに〈聖断〉を受けることは自分の判断で決めたことだが、自分を買う相手を選ぶことはできなかった。
よりにもよって娼館の主に買われ、娼婦とされてしまい、零落した悲劇の姫君を好む金持ちの男たちの相手をさせられることになったのだ。親の仇の男が、客として目の前にあらわれたときの姫君の屈辱はどれほどのものだったろう。それでも運命として受け入れたのだ。そうするしかなかったのだろう。
(もし、もし、わたしがそんな目に合ったら……?)
メリーナはまた涙を流した。
だが、夜は待ってくれない。夜の女神ニルベルは天を姉の暁、フロレスにゆずった。
やがてどこかで朝をつげる鶏の鳴き声がひびいた。
「メリーナ姫様、お覚悟は決まりましたか?」
「おまえが憎いわ」
メリーナは空ろな瞳を唯一の話相手にむけた。メリーナの黒い双眼には煮えたぎるような怒りと憎悪がこもっている。
「いっそ選ぶことができなければ、わたしはこの牢屋のなかで朽ち果てたでしょうけれど、おまえはわたしの前に別の道を知らせてきた。そこにわずかでも可能性があるなら、命懸けで賭けてみたくなってしまう。……選べるならば、わたしは、どうにかして両親の仇を討つことを……それがどれほど無理だとわかっていても選び、賭けてみたいの」
今もまた真珠の涙がメリーナの頬をつたう。
体中の水分がすべて涙となってこぼれていくようだ。肌はすっかり荒れてはいるが、だが天性の麗質は損なわれることなく、今のメリーナは泥にまみれた白薔薇のように痛々しく可憐に見える。
黒ずくめの男はまたも気圧されたように硬直した。
これだけひどい目に合って、すべてを失くし、尚この先唯一の支えである誇りと、そして彼女にとっては命以上に貴い純潔を捨てようという十五の娘が、どうしてこれほど気強くなれるのだろう。
普通の娘、それも苦労知らずの大貴族の姫君なら、絶望のあまり気が狂っていても不思議ではない。それなのに、この娘のふてぶてしいまでの気骨はどうだろう。これが貴族という者の真の強さなのだろうか。そんなふうに男は推測したり考察したりしているようだ。そしてかすかに首をふった。
いや、貴族の娘だから、というよりも、やはりメリーナ=サヌバというこの娘は普通ではない。尋常ではない運命と、尋常ではない魂を天から授かったのだろう。
そして、やはり神々はそんな彼女の命を、ここで終わらせるわけにはいかなかったのだ。
「では……?」
「〈聖断〉を、受けます。わたしを売って」
怒りをささえにしてメリーナは断言した。その様子は、千人の敵にたった一人でむかっていく戦士のようで、どこか誇らしげにすら見える。
「……お気の毒な話を聞きました。お父上のお屋敷、財産のすべては没収されることになり……おそらくは半分は王宮の所有となり、残りはロルカ武相のものになるのではないかと……」
「裏で手をまわしたんだわ」
男はあまりこれ以上この話をしたくないのだろう。口早に告げた。
「陛下もそれをゆるされたのでしょう。姫様、こちらへ」
鍵があけられメリーナは鉄格子から出されたが、足取りは当然重い。
「どこへ連れていくの?」
「〈聖断〉を受けることを承諾した者は別の室へ行くことになります。そこで湯浴みを」
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