第8話 聖断

 一夜明ければ悪い夢は終わり、いつものように緋色のとばりと絹につつまれた寝台で目をさますのではないかとメリーナは期待したが、世界は暗黒一色の石と鉄の牢だった。

「メリーナ、起きているの?」

「ああ……お母様、まだそこにいらっしゃるのね」

 壁際によって母の声に必死に耳をかたむけ、メリーナはなんとか格子から隣の牢の母の手に触れることはできないかとこころみてみたが、指先はむなしく暗い宙をさまようだけだった。

「メリーナ、心して聞いてちょうだい。わたくしは裁判にかけられて、もうこの牢にもどってくることはないわ」

「いやよ! やめて!」

 想像するだけで全身の骨がきしむ。 

「これは運命なのかもしれない。メリーナ、わたくしはお父様のもとへ行けるならいっそ幸福よ。でも、あなたのことだけが気がかりだわ。メリーナ、なにがあっても自害などしないでちょうだい」

「こんな状況でどうして生きていけばいいの? お父様が亡くなって、いいえ、殺されて、そしてお母様まで死んでしまうというなら、わたしも死ぬわ。食べ物を食べなければ飢えて死ねるのでしょう?」

「おろかなことを言わないで……」

 しばし逡巡するかのような沈黙のはてに、レオナ夫人は言葉をつないだ。

「メリーナ、どうか生きてちょうだい。そしていつしか牢を出て、お父様の汚名をそそいで」

 しばしの沈黙の後に、また声はつづいた。

「わたくしたちをこんな目に合わせた人達に復讐をして。復讐という目的を生きるかてとするのよ」  

 言いながらも夫人の美しい理知的な瞳には苦悩がにじんでいるはずだが、それはメリーナには見えない。

 愛する我が娘に復讐の女神になれとは酷なことであり、生来心優しく物静かな夫人は本音ではそんなことは望んでいないのだ。

(でも……、こうでも言わなければこの子は本当にわたくしの後を追って自害してしまうかもしれない。怒りでも憎しみでもいい、どうにかしてメリーナに生きる目的をあたえなくては。生きてさえいれば、希望は消えないはず。この子には、きっとまだ生きて果たすなにかの使命があるはずだわ)

 死は恐ろしくなかった。

 バリヤーンならず当時の人々のあいだでは宗教や信仰はたがえても、輪廻転生の思想が世界的な精神文化として浸透しており、死は終わりではなく、次の生への旅立ちの通過儀礼だと見なされていた。

 勿論そうはいっても、やはりほとんどの人は本能で死を恐れるものだが、昨夜のサヌバ太守の生首を見た瞬間、すでに夫人にとって現世は無意味なものでしかなく、死が救済であり希望だった。

 メリーナのことだけが気がかりだが、夫人は己が娘に伝えた血に確信をもっていた。

 かならずメリーナは生きのびる。かならず生きて、メリーナは自らの運命をまっとうするはず。巫女の血がそうささやくのだ。

「いい、メリーナ、生きるのよ。どんな屈辱を受けても生きのびて」

 夫人の言葉は石床を打つ木沓きぐつの音にさえぎられた。やがて鍵がはずされる金属的な音がメリーナの耳にもとどいた。

「レオナ=サヌバ未亡人、裁判所より召喚だ」

 メリーナは必死に母を呼んだ。

「お母様! お母様!」

「愛しているわ、メリーナ。バリヤヌス神の祝福がありますように」

 夫人は最後まで気品高くしとやかな動作をくずさず、黒衣の男たちにはさまれて石床をすすんでいく。かろうじてメリーナのいる場所から、ほっそりとした後ろ姿が見えた。

 メリーナの白い頬に、涙がとめどなく流れた。

 それが、父につづいて、メリーナが最愛の母を見た最後だった。

 

「囚人メリーナ、あなたは裁きを受けることになる」

 母と別れて三日後にメリーナの前にあらわれた男は、今までの獄吏たちとはすこし様子がちがっていた。黒い覆面で顔をかくし、すっぽりと黒衣をかぶってはいるが、声に張りがあり、まだ若い男だと知れ、言葉づかいも他の男たちにくらべれば丁寧で学があるように見受けられる。

「いったい、なんの裁きを受けるのよ?」

 母の姿を見なくなってこの三日間メリーナは生きた心地がしなかった。食欲などもとよりわかず、一日二度はこばれる固い麺麭パンやうすいスープなど見むきもしない。

 頬はげっそりとやつれ、黒髪は汗と埃にまみれて首もとにへばりついている。着たきりの衣もすっかり垢じみて、その姿はつい数日まえの花のさかりの美貌を誇った乙女の、信じられない変わりようである。

 かつてのメリーナを知っている人間が見たら、悲惨さに同情の涙を禁じえないだろう。だが、目の前に立っている男はそんな感傷などはけずり落としてしまったようだ。

「あなたは罪人の家族として〈聖断〉を受ける」

 これ以上青ざめようのないはずのメリーナの頬が、さらにいっそう青ざめ、ほとんど土気色に変わった。


 〈聖断〉とは、当時バリヤーンおよびえ円海周辺諸国でとりいれられていた刑罰の一種で、犯罪者の肉親であることから連座して罪に問われた、おもに女人が受ける残酷な刑であった。

 重罪人の血縁者は死刑か、入獄、良くて追放処分を受けるのが世の習いだったが、囚人が美しく高貴な身分の女性や少年である場合、希望する人間をあつめて競売にかけられることになる。

 競売の最高額が、裁判所がさだめた金額より多ければ、牢からはなたれ希望者のもとへ売られていくことになる。

 これは美男美女の囚人を国の財とみなし、あたら牢獄で美貌と若さを浪費させたり、ましてや殺してしまうのが惜しいために、売り物としてその代価を国益にまわそうという、あまりにも合理的、かつ非人間的な刑である。  

 とはいうものの、囚人にしてみれば命が助かり、また少なくとも牢から出ることのできる唯一の方法であり、しかもそれには本人の同意を得ることが条件とされているので、涙をのんで受諾する者も多い。

 どうしても嫌だという者は死刑になるか、身分、財産を剥奪されて国外追放されるか、生涯牢獄で過ごすことになる。

 深窓で育ったメリーナも〈聖断〉については侍女たちのおしゃべりから聞き知っていた。

 過去には、大臣までつとめたある高貴な家柄の姫君が、権力争いの犠牲となって両親を処刑され囚われの身となり、泣く泣く〈聖断〉を受けたことがあったという。

 彼女を買ったのは、なんと花街最大の娼館の主であり、その姫君は高級娼婦として夜毎身をひさぐことになり、連日の客のなかには父の政敵であり讒言をもって父大臣を失脚させ罪人の汚名をきせた仇の貴族の顔もあったという。

 これは本当にあった哀しい史話としてバリアの都人みやこびと、特に女たちに語りつがれている。メリーナはその話を聞いたとき悲惨な姫君の運命に涙したが、まさに今自分がその姫君とおなじ運命に堕ちようとしているのだ。

「わ、わたしに娼婦になれというの?」

 黒い男は首をふった。

「必ずしもそうとは限りません。金持ちの貴族や、気のいい御大尽に買われれば、側室や妾として裕福な暮らしをすることができるかもしれません」

 買われる、という言葉がメリーナの神経をひっかいた。考えただけでもおぞましい。

「お、おまえ、誰に向かってものを言っているの? わたし、いえ、わたくしはメリーナ=サヌバよ。サヌバ太守家の一人娘よ! 母上は国王の妹。わたくしは国王陛下の姪よ! そのわたくしに身を売れというの?」

 これだけ運命に打ちのめされつづけても、メリーナの小さな胸には、もの心ついたときから骨身に染み込まされてきた貴種の誇りが燃えていた。

「いやよ! いや! 見知らぬ男に買われるぐらいなら死んだ方がましよ」

「生きていればこそ……ですよ、姫様。生きていれば、やがてご両親の仇討ちができるやもしれません」

 メリーナはぎょっとして相手の覆われた顔を見た。

「両親の仇討ちって……まさか、お母様は」 

 相手はしばし無言になった。

「……残念ですが。昨夜刑を受けて」

 石床のうえにメリーナの息をのむ音がひびいた。

「こ、殺されたの?」

「その屈辱を厭われ、舌を噛まれて亡くなられました。ご遺骸は、さすがに陛下のご温情で都のはずれの神殿で弔われることに」

 メリーナは悲鳴をあげた。


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