第5話 黒い巫女

 屋敷に帰ると、召使たちの雰囲気がおかしいことにすぐ太守は気づいた。

「どうしたのだ? なにか皆様子がおかしいようだが」

 夫人が白絹の裾をゆらして階段をおりてきて、夫の胸にすがりついてきた。いつもはしとやかな夫人がこんなふうに慌てているのはめずらしい。

「ああ、あなた。ご無事で良かった。変わったことはございませんでした?」

「いったいどうしたというのだ?」

「お母様、どうなさったの……?」

 呆然としているメリーナの前で夫人は涙を流しはじめる。いよいよもって尋常ではない。

「あなたたちが出かけて行ってからすぐロルカ武相ぶしょうが屋敷へ来て……」

 武相とはバリヤーンにおいて武人を統括する最高責任者となる。

 バリヤーンの政は、国王より領地をあずかる貴族のなかでも大貴族となる五人の太守と、武官をたばねる武相と、文官をたばねる宰相の二人、そして三人の大臣たち、合計十人でとりしきられる。

 勿論、最終的決断をくだすのは国王だが、政治の要は宰相である。だがここ数年、武相が、めきめきと力をつけてきている。本来なら宰相は武相を牽制しなくてはならないのだが、メグルクが宰相になってからは、牽制するどころか、武相に取り入ろうとすらしている。

「ロルカ武相が? それでどうしたのだ?」

 夫人の紅い唇から武官の長の名がもれ、さすがに太守も眉をひそめた。

「あ、あなたに反逆罪の疑いがあると」

「……馬鹿な!」

 広間の空気が凍りついた。

 メリーナは背後にひかえている侍女たちの存在もわすれて一瞬立ちつくし、次には声を荒げてしまった。

「そ、そんなの嘘よ!」

「当たり前だ!」

 夫人の顔は真っ青だった。

「そ、それであなたをさがしに王宮の兵が派遣されて……わたくし訊かれてもあなたの居場所がわからなくて」

 夫人は自分を責めるように切なげに目を伏せ、泣きじゃくった。

 もともと繊細で神経質なところのある深窓の貴婦人である。見慣れぬ武衣をまとった甲冑姿の男たちが屋敷に入ってきただけでも恐ろしかっただろうし、まして最愛の夫が国王への反逆罪をかけられていると聞かされれば、それこそ太守が帰ってくるまでの数刻を、身を切り刻まれる思いで過ごしていたにちがいない。

 太守はこれ以上ないほど眉をしかめ、歯ぎしりをした。

 ロルカ武相というのはあまり評判が良くない。

 メリーナは宮廷の宴で一度か二度、ヴェール越しに遠目に見たことのある、狡猾そうな鋭い黒い目を思い出した。

 今の国王が気の弱いことをいいことに政権を己の思うがままにあやつっているという悪評もあり、どちらかといえば武より文を重んじるバリヤーンの風潮を脆弱などと批判し、強兵策を推進している。

 彼が武相になってから王宮の雰囲気が固く暗くなったように太守は感じ、いっそう宮殿へも足がむかなくなったことを、両親の会話からメリーナも察していた。

 そのことが国王の不興を買ったのかもしれない。国王には頼みとなる優れた忠臣やこれといった腹心がなく、もともと気質もどこか弱いところがあり、それを紛らわせるためなのだろう、自分の権力や威力をやたら誇示したがる癖がある。

 いまだに跡継ぎとなる男子を得ていないことも、一因となっているかもしれない。そんな彼の幼稚な虚栄心や焦燥をあおっているのが、ロルカ武相だと太守はにらんでいる。

(お気をつけくだされ陛下、サヌバ太守は陛下に二心をいだいておりますぞ。最近王宮へ顔を出さぬのは、反逆をこころみておるのかもしれませぬ。サヌバ太守の妻は陛下の異母妹。王家との縁にかこつけて、王権を狙っておるのかもしれませぬ)

 悪臣の邪悪なつぶきが太守には聞こえてきそうだった。

 今日半日行方を告げず下町をさまよっていたことも不運だった。

 妻にも居場所を知らせず無用な外出をしていたことは、すでに国王の耳へ邪推をそえて報告されているにちがいない。

「すぐに王宮へ行くぞ。陛下に申し開きをせねば」

「あ、あなた」

 いきなりレオナ夫人はひきつったような悲鳴をあげ、恐ろしいものでも見るように夫の顔を凝視した。

 だがメリーナには母の目線が夫の顔ではなく、別のものに向けられているように見えた。

 あるはずのないものを見て母は驚愕している。そのことにメリーナは怯えた。

「いったいどうしたというのだ?」

「い、行ってはいけません!」

「なにを言う?」

 夫人は太守の紺色の長衣にしがみついた。

「レオナ、いったいどうしたといのだ? メリーナや召使たちが変に思うではないか」

 小声で妻をたしなめながらも太守は困惑しきって、妻の細い指を丁寧にはなそうとした。

「メリーナ、母上はお加減が良くないようだ。寝室へつれて行ってやるがよい」

「あ、あなた! 死んでしまうわ! ああっ! 見える、見えるのよ! あなたが血まみれになって苦しんでいる!」

 いきなり宙を見つめて太守夫人は叫びだし、扉のところでひかえている侍女たちは恐怖に悲鳴をあげた。

「お、お母様……?」

 メリーナはあやうく衣の裾をふんで転びそうになりながらも必死に母の腕をとった。

 ふだんは完璧な貴婦人の妻の、信じられない醜態に、太守は、彼にとってはこれまでの人生でほとんど経験したことがないだろうが、狼狽してしまった。

 気が狂った巫女のようにレオナ夫人は哄笑にちかい悲鳴をあげつづけ、品のいい唇からは呪詛にも似た予言がとびだした。

「歌っているわ! 歌っている! あの女が、碧の魔女が歌っている! あの女は私たちの運命を告げる黒い巫女だわ!」

「……い、いったい何のことだ?」

 太守は必死に妻の身体をささえ、落ち着かせようと抱きしめた。夫人は夫の腕のなかで気をうしない、広間には不気味な静けさがもどったが、メリーナも侍女たちも真っ青だ。

「すぐに医者を呼べ」

 太守は妻の身体を横抱きにすると広間を出て階段をあがり寝室へとむかった。呆然としていたメリーナもいそいで父のあとを追った。

「メリーナ、私はすぐに王宮へ行かなければならない」

「で、でもお父様、お母様が行ってはいけないと。行くと、お父様は死んでしまうと」

「馬鹿な……」

 太守はややわざとらしい笑みを作った。

「メリーナ、お前に言っておいた方がいいかもしれない。母上はときどき気がたかぶるのだ。おそらく女性特有の病気なのだろう。あまり気にしてはいけない。母上は、病気なのだ。だが、すぐに良くなる。よいな、その方たちもこのことは他言するでないぞ」

 侍女たちは平伏せんばかりにうなずいた。

「急がねば。……とりかえしのつかないことになるまえに、なんとか陛下にお会いせねば」 

 メリーナは父の呟きにますます心配になってきた。

 どうやらこれは相当危ない状況になっているようだ。

 お転婆で気が強いとはいえ、メリーナはしょせん世間知らずの姫君である。一家を襲った困難と母の異常な様子に打ちのめされてしまっているが、それでも両手をにぎりしめ胸もとで神への誓いの印をむすんだ。

「お父様に神のご加護を」

 幼児のときによくそうしたように太守はメリーナの額を撫で、もう一度こわばった笑みを見せた。

「行くぞ。馬車の用意はできているか?」

 あわただしく階段をかけおりていく父の背はたくましく見えたが、メリーナは肩のあたりに不吉な黒い影がよぎったのを見て息をのんだ。

 それは黒い靄か煙のようで、一瞬、ちいさな炎のように燃えあがったかのように見えたが、すぐにきえた。

(まさか……)

 それが、メリーナが愛する父を見た最後だった。



 そのまま父太守は帰ってこなかった。

 強大だった太陽神サラズもまどろみはじめ、夕焼けの女神イベリアが淡い血の色にも似た裳裾をひるがえしはじめても、父はもどってこなかった。王宮につきそっていった家臣たちからもなんの伝言もない。    

 夕焼けの女神の姉、夜の女神であり月の女神でもあるニルベルが天を支配するようになっても連絡はない。

 母も目覚めることなく、まるでこのまま永遠に眠りつづけるのではないかとメリーナが心配になっても起きることはなく、メリーナは恐怖で泣きだしたくなった。

「ひ、姫様、姫様!」

 侍女頭の中年の女が転がるように室に入ってきた。

「どうしたの?」

「い、今、たった今、早馬が」

「王宮から伝言なの?」

「だ、旦那様が、太守様が」

 侍女頭の顔は夜目にも蒼白で、蝋燭の明かりに照らされた様はそれこそ不吉な予言者のようでメリーナはふるえた。

「いったい、どうしたっていうのよ!」

 メリーナは半泣きになって叫んだ。

「太守様はお亡くなりになられました!」

 言って、侍女頭は両手で顔をおさえ嗚咽し、花毯のうえにしゃがみこんでしまった。

「嘘よ! 嘘つき!」

 一瞬、呆然としてから、メリーナは悲鳴のような声を出していた。

「どうして! どうしてお父様が?」

「こ、殺されたのでございます。ロルカ武相の命令で」

「どうしてお父様がロルカ武相ごときに殺されなければならないの? お父様はバリヤーン五太守の一人で、その妻であるお母様はルドルス国王陛下の妹なのよ!」

「……だ、だからこそ殺されたのです」

 つぶやいたのはレオナ夫人だった。

 よろよろと寝台の上に起きあがり、うつろな黒い瞳でメリーナを見ている。

「お母様、気づかれたのですね」

 涙をこぼしながら寝台に近づくと、母の膝につっぷしてメリーナは泣いた。

「わたくしの夫だから、お父様は殺されたのよ」

「ど、どういうことですの?」

 夫人の膝にうずめた顔をあげてメリーナはすすり泣いた。

「ディオ、お下がり。しばらくわたくしとメリーナ二人だけにしておくれ……」

 二人きりになると、太守夫人は血を吐くように苦しそうに言葉をつないだ。

「メリーナ、よくお聞き、お父様は罠にはめられたのよ」

 壁際の燭台から散ってくるほのかなだいだい色の光に照らされた母の顔は、死霊のように青ざめ、黒い瞳には、おそらく今までの人生で生まれて初めて燃やした火のような憎しみが輝いている。

 まるで別人のようだが、メリーナはいっそう母への愛情を感じた。

「ああ……」

「敵はわかっているわ、ロルカ武相よ。お父様とは意見や考え方が合わず、互いに良い感情をもっていなかったの。けれどお父様は位も高くルドルス国王とは義理の兄弟になるわ。武相はいつかお父様が、自分がこの国を思いどおりに動かそうとする野望の邪魔になると睨んだのよ」

 レオナ夫人は兄王に陛下という尊称をつけなかった。

「お父様は無実なのよね」

「当たり前でしょう」

「だったら」

 メリーナは瞳にかすかな希望の光をきらめかせた。

「ダルシスに、いえ、ダルシスのお父様に頼んで陛下に申し開きをしてもらいましょうよ。お父様の名誉を取り戻してもらいましょう」

「もう遅いわ」

 夫人が力なく細い首をふる様子は、白百合の花弁がぽとりと茎から落ちたようで、メリーナの背に悪寒を走らせた。

「宰相はお父様のためには指一本動かしてはくれないわ」

「そんな……だって、わたしとダルシスが結婚したら、宰相はわたしの義理のお父様になるのだし、縁戚が罪人扱いされるのはきっと宰相だって嫌がるでしょう」

「ああ! メリーナ」

 夫人は瞳に新たな涙をうかべて娘を力いっぱい抱きしめた。

「ダルシスは、こうなったらもうあなたとは結婚しないわ。ええ、決して!」

「ど、どうして?」

 夫人の品の良い切れ長の目尻に涙がつたう。 

「だれが謀反人の疑いをかけられて死刑にされた男の娘と婚姻を結びたがるものですか? ひどいようだけれどもメリーナ、母の言葉をよくお聞き。わたくしたちは陥れられたのよ。明日じゅうにも位剥奪、家系断絶の旨が宣告されて、わたくしもおまえも牢屋に入れられてしまうわ」

 メリーナは冷水を顔にかけられたほどに仰天して、飛び上がりそうになった。

「そ、そんな、そんなことあり得ないわ! だってお母様は陛下の血のつながった妹じゃない? わたしは陛下の姪なのよ」

 夫人は悔しげに唇を噛んだ。

「権力の座にある者にとってはね、メリーナ、ときに血のつながった者ほど疎ましく、危険に感じることがあるのよ」

 夫人の黒い瞳には闇がこもっていた。

 おおむね平和な時が続いていたバリヤーンだが、それでも政権や王権をめぐっての争い、陰謀などの黒い噂は、ひそかに囁かれつづけていた。陥れられて牢に入れられた者や自害した者、もしくは殺された者についても、夫人の三十年ほどの人生で幾度か見聞きしてきた。完全に平和な時代などはないのである。

「謀反人は眷属全員連座となり、咎を受けるよう法で定められているのよ。それに、なまじ血がつながっているからこそ、国王から見たらわたくしたちは厄介者なのよ」 

「ひどいわ! そんなことありえないわよ!」

「ありえるのよ、メリーナ」

 いつもは物静かで、実の娘相手にもめったに声を荒げたり言い争ったりしたことのない太守夫人が、頑固なほどに気強く言いつのった。

「それが大人の、貴族や王族の世界なのよ。過去にも陰謀によって罪もない貴族や王子、王女が国外追放されたり、獄につながれたり死刑にされたことだってたくさんあったのよ。知っている? わたくしの異母妹のひとりは、隣国アルデアの王妃候補に名前があがったとき、下僕との密通の噂がながれ、そのことで亡き父陛下から詰問され名誉をけがされ、泣く泣く王女の地位も身分もすてて神殿にはいったのよ。もちろん噂は隣国の王妃の地位をねらう、別の王女の後見人がながした嘘にきまっているわ」

 その別の王女もまた、夫人にとっては血のつながった異母姉妹になるのだ。

 骨肉同士が表向きはにこやかに宮廷作法にのっとって仲むつまじくふるまいながら、美しい綾絹あやぎぬとばりのむこうに嫉妬につりあげたまなじりをかくし、珍鳥ちんちょうの羽でつくった宝石の留め金もきらびやかな扇の影に呪詛をつぶやく唇をひそませては、同胞の幸運を恨み不幸をおもしろがるのが、後宮という女の魔宮である。

 また、そんな女たちの背後には、かならず地位や権力というものを欲せずにはおれない、邪悪な欲望に燃えた男たちがひかえている。

 そのおぞましい伏魔殿から夫人をすくいだし、この健やかで優しい風が吹く屋敷につれてきてくれたのがイレニアス=サヌバだった。その素晴らしい夫がもういないのだ。

「奥様、ご主人様……」

 扉がたたかれ、召使のふるえる声がひびいてきたかと思うと、数人の兵士たちが一気に入ってきた。


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