第4話 野の薔薇

「まぁ、見て、可愛い花売り!」

 メリーナの目線の先では、十歳ぐらいの少女が籠いっぱいに花をつんで行きかう人々に声をかけていた。

 父とならんで馬車の座椅子に腰かけたメリーナは、あたりの風景をめずらしげにながめた。本当は銀のヴェールを脱ぎすて、思いっきり風をあびたいが、さすがに父太守はそれをゆるしてはくれない。風がいざなうようにメリーナの珊瑚色の衣の袖をゆらす。

 今日はふたりで噂のエレの歌を聞きに行くところだ。エレ自身の歌ももちろん聞きたいが、メリーナは街を見るのもたのしかった。とくにこのあたりは庶民が暮らす下町で、メリーナのような身分の娘はめったに足を踏み入れることができない場所だ。

 泥煉瓦作りのちいさな家々、道をうずめるような大勢の人々、屋台など、見ているだけでおもしろくてしかたない。異国を旅しているような心持ちになれる。それを言うと、太守はわらった。

「この辺りで感激しているようだったら、それこそ本当に異国に行くと、まるで月の世界にでも行ったように感じるのではないか?」

「お父様は、いろんな国に行かれたのよね?」

 イレニアスは黒い瞳をなつかしそうに青空にむけた。彼の瞳は、かつて旅した世界を見つめているのだろう。

「ああ。いろいろな国をおとずれ、そこで様々なものを見たり聞いたりした。若いころは、父上、おまえのお祖父じい様と私は意見が合わなくてな……、あまり屋敷にいたくはなかったのだ。……旅は実におもしろかった。感心することや、驚くようなこともたくさんあった」

「いいなぁ。わたしも一度でいいから他所よその国を旅してみたい」

 女の身には難しい。それも貴族の令嬢となると、それはほとんど不可能だった。

(こんなことを言ったら、お父様もお母様もびっくりしてお怒りになられるだろうから絶対言わないけれど……時々、旅の芸人や行商人たちがうらやましい……。粗末な衣に身をつつんで、お風呂もろくに入れなくても、それでもあの人たちは、わたしの知らない遠い世界を見ることができる……)

 ここから少し行けば港に出、そこからは様々な船が出たり入ったりしている。

 バリヤーンの南側にひろがる海、バルバド海は、別名〝円海えんかい〟とも呼ばれている。それはちょうど北と南の小さな海峡をのぞいて、大小十の国で海をとりかこむようになっているからだ。そして小国ながらも海上貿易のかなめを務めるバリヤーンには、それらの国々からの輸入品が、山のようになだれこんでくる。

 東側につらなる隣国アルデアからは銅や銀、この時代もっとも高価だとされた紫磨しま黄金、バビルニアからは真珠や珊瑚、その隣国ダリスからは材木や家畜、南のタルバスからは香辛料、薬草、西方エリンからはみごとな芸術品や、調度品、そして、名も知らぬどこかの国からは、鎖につながれた奴隷たち……。

 青い海のむこうは、とおい別世界だった。海洋の国々のむこうには、さらに砂漠や、巨大な大陸もあるという。隣国どころか、生まれそだった王都バリアの中のこともろくに知らないメリーナには、想像もつかない世界だった。

 船にのって海をわたったり、馬や駱駝で遠路を行ったりするのはどんな気分なのだろう。メリーナは想像してみる。それはきっと吟遊詩人たちが語るように、めくるめくものなのだろう。

 メリーナはとなりに座っている父が、青空にかさねて追いかけているだろう青春時代の夢が、自分も無性に欲しくなった。

(男の人はいいなぁ……。行きたい所へ行って、やりたい事をやれるのだもの。女は、お嫁に行ったら、あとは子ども生んで育てて、たまに息抜き程度によその奥様方とお茶会でおしゃべりするだけ……なんて、なんだか……つまらないかも)

 母の人生を侮るわけではないが、メリーナの胸のなかにひそむ〝何か〟が時折、メリーナをゆさぶるのだ。

 それはちいさな火のようで、内側からじりじりとメリーナを焦がし、いてもたってもいられない心持ちにさせる。

 幼いころ、メリーナはよく酔った父から若いころの冒険談を聞かされた。遠国の食べ物、調度品、楽器、衣などの風物の話は、幼いメリーナに強烈な印象をあたえた。

 それらの話は、メリーナに、この世にはちがう世界があるのだということを、世界はここ、メリーナをとりまくバリヤーンの貴族社会だけではないのだということを教えたのだ。

 父がおとずれた地で出会ったという、獰猛な戦士、天才学者や芸術家、異国の花を頭にかざして歌いおどる舞姫たちは、幼いメリーナの夜毎の夢にあらわれて、メリーナを幻惑した。

(いいなぁ……わたしも、そんな人たちと会ってみたい)

 そんなメリーナの、いかにも子どもっぽい夢想を御者の声がさえぎった。

「太守閣下、あちらでございます」

 菩提樹の巨木が深緑の葉を空にささげて作った天然の四阿あずまやのまわりに、都一の歌姫の芸を鑑賞しようと大勢の人があつまっていた。

 聴衆のほとんどは女性か、彼女たちに連れてこられた子どもたちだが、遠巻きに、ちらほら男性の姿も見える。

 昼下がりに歌を聞きにこられるのだから、たいていは中流程度の主婦や娘たちで、彼女たちの色とりどりの衣が花びらのように辺りをうめつくしている。

 なかには買物や水くみなどの仕事のあいまに、こっそり道草を食っている下層の貧民らしい粗末な衣の女たちもいるが、貧富の差もなく、一様に彼女たちの瞳は夢見るようにうっとりとしている。

 女たちの衣の花びらにつつまれるようにして、巨木の根元には若草色の衣をまとった女が座っていた。両手に凝ったつくりの竪琴をもち、ほっそりと長い五指ごしで弦をはじくや、人々は息をのんだ。鳳仙花からつくった爪紅つまくれない(マニキュア)でほんのり赤く染められた指先がうごくたび、瑠璃るり玉、玻璃はり玉をはじいたような神秘的な音がひとつ、ふたつ、草地にころがる。

 歌い手の朱唇がほころぶ。

 音と声のつくりだす世にも妙なる調べがあたりにひびき、女たちはほとんど瞳をうるませ、彼女のつむぎだす虹色の風に身をまかせた。


今、どこにいるの? あたしの愛しい人

あなたが去って行ってしまってから

季節がめぐっても薔薇は咲かない

小雨が降っても、陽が照っても

薔薇は咲かない

かたい蕾はひらかないまま

あなたが行ってしまったから


あなたが戻ってきてくれたら

薔薇は咲くわ

白薔薇、赤薔薇、黄薔薇、黒薔薇さえも


まだ今はあなたを待って蕾をひらかない

だから、愛しいあなた

はやく戻ってきて

愛しいあなた

はやく戻ってきて


「これは……素晴らしいな」

 女たちの群れからすこし距離をとって、無蓋むがいの二輪馬車の座席から耳をかたむけていた太守は目を見はり、感嘆の吐息をこぼした。

 隣のメリーナは紅繻子べにしゅすをはった座席でうっとりとして、うなずくことも忘れてひたすら憧れのエレを見つめた。

 なんという素晴らしい曲だろう、声だろう。

 これほどとは思ってもみず、すっかり魂をうばわれてしまった。

(あの人は本当に歌の女神なのかもしれない。いいえ、女神というより妖精みたい)

 遠目に見る痩身の身体は、美しさより可憐さがまさっていて、その細い身体から、これほど人を圧倒する歌を作りだせる妙技に、いっそうメリーナは興味をひかれた。

 微風にゆれる若草色の袖や裾、うしろでたばねた豊かな髪は白銀しらがねにも似た亜麻色。まるで絵のようだ。

 おそらく彼女は異国人の血をひいているのだろうが、この海洋王国ではめずらしいことではなく、むしろ芸を売る者のほとんどは異国の風貌をもっており、黒髪黒目の純粋なバリヤーン人ではかえって客受けしないぐらいで、そのため生粋のバリヤーン人の芸人は髪を薬草で染めたり、異国風の衣や装飾品で身をかざり、異国流の化粧をほどこしエキゾティックな雰囲気を出そうとする。 

「祝儀をやろう。あの者を呼んでまいれ」

 歌が終わるのを待って、太守が従者の男をエレのもとに走らせると、エレの方が先に立って彼をともなって馬車の前へすすみ来て、礼儀正しく草地に膝をついた。

 亜麻色の頭髪の上に巻いている銀色の飾り布が、霧霞きりがすみのようにゆれ、いっそう彼女を神秘的に見せる。 

「お初にお目にかかります。エレと申します身分卑しき歌い手にございます」

「苦しゅうない。もっとこちらへ」

 エレが立ちあがって近寄ってくると、メリーナは胸がときめいた。エレのつけている香だろうか、かすかに甘酸っぱい匂いがする。

「思ったより若いな。その方、いくつになる?」

「十五でございます」

 ぱっちりと開いた菫色の双眼は、妖しい猫かいたずら好きな妖精を思わせる。

「ほう。それであれほどの歌をうたえるとは。相当修行したのであろう?」

「三つのころより歌をうたわぬ日はございませんでした」

 こういうときの淑女の習慣としてメリーナは口を聞いてはならないことになっているが、相手も同い齢ぐらいの気安さでつい口をはさんだ。

「毎日練習してつらくない? 喉を痛めたりしないの?」

 エレの翡翠を溶かしたような瞳が午後の光をはねかえし、きらめいた。頬は太陽神サラズの愛撫を受けてほんのり肉桂シナモン色だ。

「つらいなどと、とんでもない。歌い手エレにとっては歌をうたえぬことこそ拷問でございます、お嬢様」 

「わたくし、メリーナよ」

 となりの父太守は当然芸人風情には名をなのることはなく、メリーナの令嬢らしからぬふるまいを横目でにらんでいるが、あえて口を閉じている。

 もうすぐこの娘はよそへ嫁いでいく。自由な娘時代ももう終わると思うと、いっそう甘くなるのだろう。

「三つのころから歌っていたなんて、おまえの親も歌い手なの?」

「いえ、親の顔は知りませぬ。わたくしは赤子のころ路地に捨てられていたのを、芸人の一座に拾われたのでございます」

 一片の自己憐憫もなく事実のみを淡々と説明するエレに、メリーナは目を見はった。

 メリーナには赤ん坊を捨てる親や、親に捨てられた赤ん坊が、この都に存在するなど想像もつかないことだった。

 都のみならず国じゅう、いや世界じゅうで、路傍に捨てられる子どもなど実はいくらでもいるのだということを、当然ながら彼女の父親も、召使も、家庭教師も誰ひとりとして彼女に知らせたりはしない。

「まぁ……可哀想に」

「そうでもございませぬ。一座の頭をはじめ、大勢の芸人たち、お客に可愛がってもらいました。むしろ捨てられたおかげで歌をうたえる仕事につけるようになったのでございますから、エレは幸せ者でございます」

 あっさりと、また笑った。

「エレ、また是非おまえの歌を聞かせておくれね」

「ありがとうございます」

「わたくし、もうすぐ結婚してお嫁に行くの」

メリーナはそこで唇を軽くかんだ。

「そうなったら今日みたいに気ままなことをするのは難しくなるでしょうけれど、きっとまた聞きに来るわ」

「エレの歌を聞いた者は、必ずそうせずにはいられなくなります」

 エレは胸をはって唇の両端をあげたが、目は真剣だ。

「とくに今日は高貴な方の馬車を見て、エレはたま呼びの呪いをいたしましたので、必ずお嬢様はまたわたくしの歌を聞くことになります」

「魂呼び?」

「はい。お嬢様の心をわたくしの歌にむすびつける呪いでございますぞ」

「これ、これ、エレとやら、呪いなどと昼間から口にしてはならぬ」

 太守は苦笑しながらいさめた。

 バリヤーンでは魔術、妖術の類をみだらにおこなってはいけないと法で定められている。

 とはいうものの、科学も医学もあまり発達していないこの時代、無知な庶民は開運厄除けをねがって頻繁に術師をおとずれ、高貴な身分の者でもおかかえの術者をひとりかふたりはひそかにはべらせていた。

 この世には魔術妖術はおとぎ話のなかのことではなく、生きるための術としてあふれていた。健康や守護のためのみつかうならば問題はないが、悪用して他人をおとしいれる術師や、それを当てにする人間もまたおおく、政府は民衆がひっそりと都のかたすみでおこなう分には目こぼししつつも、呪殺などの悪い噂がひろがった場合はその当事者を逮捕し、殺人を専門にするような術師はきびしく処罰した。

「本当におまえの歌を聞きたいわ」 

 エレが礼のかわりに微笑みをかえした瞬間、彼女の薄紫の瞳が濃くなり、妖しくかがやきだし、メリーナは不思議な気持ちになった。 

(きっと、またお会いできますよ)

 そう語りかけてくる瞳に、メリーナは心がとらわれていくようで背がこわばり、銀紗ぎんしゃのヴェールをきつく引きよせた。

 そうしてメリーナの無邪気な少女時代の最後の日は終わった。

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