第2話 蜜の日々

「お母様、見て」

「まあ、なんですかメリーナ、そんな大声を出して、はしたない」

 真紅の花毯がしきつめられた広い部屋の中央では、藍白あいじろの衣に身をつつんだ白百合の花のような貴婦人が、象牙の椅子に腰かけ刺繍にはげんでいたが、愛娘のはしゃいだ顔を見て、針を裁縫箱にもどした。

「見て、この首飾り。ダルシスの贈りものなのよ」

 つい先ほど婚約者の従者が持ってきてくれた高価そうなルビーの首飾りを、メリーナは誇らしげに白絹につつんで母に見せ、その細い肩に抱きついた。

 レオナ太守夫人は娘とよく似た黒曜石の瞳をきらめかせて、己の首にからまってくる細い手を撫でた。

 そうしてふたりたわむれあう様子は母娘ははこというよりも、歳のはなれた姉妹のようである。扉際にひかえている侍女たちは微笑ましげに美しい主たちを崇め、神の恩寵への感謝と祝福の言葉をつぶやく。

「いけませんよ、メリーナ、未来のご夫君を呼びすてにしては。ちゃんとダルシス様とお呼びしなさい。そして結婚してからは旦那様と呼ばなければ駄目よ」

 メリーナは頬をふくらませた。

「あら、だってお母様、わたしとダルシスは三つの頃からの幼馴染みなのよ。今さらダルシス様、なんて呼び方できないわ」

 夫人は黒く長い眉をしかめた。

「メリーナ、あなたはちょっとお転婆で気が強すぎるところが玉に瑕ね。そんなことではお姑様に嫌われるわよ」

 遠い北の大陸に降るという雪の色に似たメリーナの白い頬にかるく接吻してから、太守夫人は愛する娘をたしなめた。

 いくら溺愛しているひとり娘とはいえ、教育と躾はきちんとしておかねば、先々婚家でこの娘が恥をかくのだ。王家の娘であった自分は万事において特別あつかいされてきたが、メリーナでは世間もそう甘やかしてはくれないだろうし、相手のダルシスは宰相家の跡取り息子なのだ。万が一にも婿殿をないがしろにするようなことはあってはならない。

 バリヤーンならずとも、どこの国でも男尊女卑思想がきびしくまかりとおっている時代である。世の風潮に染まらぬこの天衣無縫てんいむほうの娘がつらい想いをするのではないかと、夫人は今から気が気ではない。

「だいじょうぶよ、お母様。わたしとダルシスはずっと仲良しだったし、わたし、ダルシスのお母様も好きよ」

「そうね」

 愛娘の無邪気な言葉に、太守夫人は曖昧に微笑んでみせた。

 ダルシスの母親はいい。物静かな女性で、時折文のやりとりをしているが、その文面はつねに謙虚で、思いやりぶかい人柄が感じられる。

 だが、ダルシスの父親は、そうはいかない。

 ダルシスの父ドリアディス=メグルクは太守の娘であった夫人と結婚することによって貴族の地位を得、さらに辣腕かつ強引なやり方で、五太守家の人間のなかからえらばれる宰相の地位を得た、いわば成りあがり者であり、立場を利用して私腹をこやしているという、かんばしからぬ噂がつきまとっている人物だ。

(そんな所へこの子をやって、大丈夫かしら?)

 夫であるイレニアスは「だからこそこの結婚をまとめ、メグルク家とつながりをもつことで宰相の野望をなだめ、専横をくいとめるのだ」と言うが。

 嫁入り前の乙女のころ、レオナは王国一といわれる楽人から竪琴を習っており、同じ楽人に師事していた、当時は太守家令嬢だったダルシスの生母とは親交があり、ときに王宮内でともに演奏会をもよおしたりした仲であった。

 結婚してからも文を送りあい、季節の折々の宴や祝祭のもよおしごとで顔をあわせ、そのように母親同士が仲むつまじい関係から、メリーナとダルシスも幼いころから親しみあって、たがいに好意を抱いていたことは事実だ。

 だが、それ以上に、最近権力を拡大しつつある宰相の手綱をにぎり、国のまつりごとを正しい形へもどすことを王家と祖国に忠実なイレニアスは狙っており、この結婚は彼の政治的意図をふくんでいた。それは無論、くもりなき愛国心ゆえの政治的意図であるとレオナは信じている。

(でも、若いこの子たちは、そんなことは関係なく好きあっているわ……。これでいいのよ。きっとメリーナは幸せになれる)

 レオナ夫人はダルシスの栗色の髪と鳶色とびいろの瞳を思いうかべながら、メリーナの黒絹のような髪をほそい指でいつくしんだ。

 いつの時代でもどこの国でも、女にとって結婚とは人生最大の転機であり、その後の一生の運命を決定してしまう。

 夫人は安心とも憂悶ともつかぬ吐息を、紅薔薇べにばらのような唇からこぼした。

 夫となる相手とうまくいけばいいが、相性が悪ければ、まさにその後の一生が地獄になってしまうのだ。

 幸いなことに夫人は王籍を捨てて臣下のもとへ降嫁したことを、いまだかつて一度たりとも悔やんだことはない。

 因習と慣例にがんじがらめにされた後宮での暮らしは窮屈で、王女といっても側室腹で、はやくに母を亡くしたレオナの立場は弱かった。しかも実父である先の国王は政務で忙しく、あまりかまってももらえず、レオナは乳母と侍女たちによって後宮の最奥でひっそりと育てられた。

 親身になってくれる骨肉の一人もなく、女ばかりの後宮で、異母姉妹たちとその母たちとのまじわりにも気をつかい、心のやすまる暇もなかったほどだ。

 それこそ十二、三歳のころから、どうにかして生まれ育った豪奢な牢獄のような後宮を出たいと、そればかり考えて娘時代を過ごしてきたようなものだ。夫人にとって、結婚はそのゆるい地獄からぬけ出せる唯一の機会でもあり、父王から、これがおまえの未来の夫だと、ありし日のイレニアス=サヌバを、王の指ししめす王錫おうしゃくのむこうに見たとき、ほのかに胸がときめきさえした。

 黒髪を後ろで束ね、黒絹の衣に身をつつんだイレニアスは獅子のように雄々しく、その黒瑠璃くろるりの瞳は情熱的にきらめき、父とたまに見る異母兄弟、男のうちにははいらぬ宦官しか見てこなかった当時十三歳のレオナには、まさしく彼、イレニアスは外界から彼女を救いにやってきた英雄であり、真の男であった。

イレニアスは長く異国を旅していたため結婚が遅くなり、当時すでに三十を過ぎていたが、レオナにはそれがかえってたのもしく思えた。

 彼を一目見た瞬間、レオナは、一目惚れなど絵物語だけのこと、と年上の異母姉が言っていたのはあやまちだと確信できた。

 レオナはサヌバ太守を一目見て恋したのだ。

 対面の日より一年後、初夜の褥で太守もおなじ気持ちだったとうちあけられたとき、レオナは、あのぬるま湯責めの拷問のような後宮生活から一転、楽園の女王となった気がした。

 婚儀より三年後には、父親の黒い髪と黒い瞳と強い心を、母親の光り輝く白い肌と美しさと愛らしさとを受けついだ娘をもうけ、幸せの絶頂だった。

 この幸せは永遠につづくと信じて疑わず、歳月をかさね、はやいものでその娘も来月には嫁ごうという年頃になっている。

(まるで……なにもかも、夢のよう)

 永遠につづく夏のあいだには父王の死や異母兄ルドルスの即位、異母姉妹たちの結婚と、悲喜こもごもさまざまな事があった。

 姉妹のなかには神殿に入って俗世と縁を切った者もいた。また親代わりの乳母と死にわかれるなど、つらい別離もあった。だが国は平和で富み栄えており、屋敷の奥にも朝夕に平安の象徴そのもののような鐘楼ろうしょうの鐘音が鳴りひびき、レオナの人生はおおむね平和で幸福なものだった。。

(何も、不幸なことも恐ろしいことも起こり得ないはず。起こるわけがないわ……)

 レオナ夫人は己のほそい腕で絹の衣の胸もとを撫でた。

(ルドルス兄上様の政には不足なく、国民は王家を信望しているし、わたくしはその兄上様の血のつながった妹。夫は民の信任あつい素晴らしい貴族で、世上の評判も良いと聞いているし、それぞれ嫁がれたり神殿に入った姉妹たちの誰ひとりとして憎んだり嫌ったりした者はいなかった)

 同胞とはうまくつきあい、民衆からは敬意を得て、なにひとつ不満のない人生をおくっている。

 唯一残念なのは、男子にめぐまれなかったことだが、夫はこの先メリーナが子どもをおおく生んでくれれば、その子をもらいうけて跡を継がせることもできるし、いざとなれば己の血縁から養子を取ればいいと、息子を生めなかった妻の負担を思いやって、つねに理解と愛情あふれる言葉をかけてくれている。

(……それなのに、どうして?)

 胸騒ぎがするのだろう? 

 レオナは彫刻のように美しい繊細な五本の指を、そっと胸にあててみた。

(これは、きっとわたくしの母の血が、わたくしの身体のなかで揺れているのだわ)

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