千尋の波のはてで見る夢は

平坂 静音

第1話 闇

「メリーナ姫様、お覚悟は決まりましたか?」

 もう夕餉の時刻なのだろうか。

 地下牢に、すっぽりと黒いフードをかぶった牢番が、いつものように固い麺麭パン一切れとうすいスープの入った木の椀を盆にのせて階段を下りてきたのを見て、鉄格子のなかのメリーナ=サヌバは黒い瞳に憎悪を燃やした。

 彼を憎むのは筋ちがいだとはわかっている。

 彼はただ己の勤めをはたしているだけなのだ。だが、今のメリーナは憎む対象がほしかった。憎しみが、唯一メリーナをささえてくれている気がするのだ。

(いったい、ここに来てから、どれぐらいたったのかしら?) 

 たしか最後に夜空を見あげたときの月は三日月だったが、石の天井の割れ目からようやく見える今夜の月は満月だ。

 牢に入れられた日の前日のことを、メリーナは思い出してみた。

 あれはこの常夏とこなつの小王国バリヤーンがもっとも美しいといわれる八番目の月、〈百合の月〉。

 メリーナが十五歳の誕生日をむかえた月であり、やがてくる結婚の日にそなえて、母が商人たちを屋敷の居間にあつめて花嫁道具を見立てていた夜だった。

 目をとじれば瞼に浮かぶ。花毯かえん(絨毯)の上にならべられた真珠、紅玉ルビー碧玉エメラルド蒼玉サファイア、翡翠、金銀でこしらえた首飾り、腕輪、額飾ひたいかざり、帯留おびどめめ、七色なないろの絹糸の刺繍もあざやかな衣、銀の鏡、黄楊つげの櫛、メリーナのまわりは美しいもので埋めつくされていた。

 それからまだ月がひとめぐりもしていないというのに、信じられない我が身の変わりように、メリーナは悪夢を見ている気がしてきた。

(そうよ……これは夢なのだわ。悪い夢)

 メリーナは銀糸ぎんしで編んだヴェールで涙をぬぐった。そのヴェールもすっかり汚れて黒ずんでしまっている。

 いまだに自分のおかれた立場が受け入れられないメリーナは、毎夜、かたい木の寝台で、目覚めればすべてが淡い夢に変わるのではないかと期待しつつまどろみに身をゆだね、毎朝、かすかに天窓てんまどから地下へ漏れ入ってくる陽光に、この薄暗い牢が真実なのだと知らされ、あらたに涙を流す毎日をおくっている。

「姫様、お気の毒なお知らせでございます」

 この牢屋に入れられてから毎日食事をはこんでくる牢番は、いつも覆面や黒衣で身体を包んでいるので顔がよくわからないが、声からするとまだ若い男のようで、今日はその声も心なしかかすれ、ふるえている。

 彼のふるえが伝染したかのようにメリーナの背もふるえ、かぼそい身体の芯が凍っていく気がした。

 この牢獄生活で、もとは美しかった珊瑚色の衣もすっかり汚れてしまい、射干玉ぬばたま色を誇った黒髪は櫛けずることもできず、身体もあらえず、それだけでも十五歳のメリーナは死んでしまいたいほどの絶望感に泣きだしたくなる。それなのに、さらに男の声はおぞましい事実をつたえようとしているのだ。

(どうしてこんなことになってしまったの……? わたしが、いったい何をしたというの?)

 メリーナは、本来このような牢獄につながれる身分の娘ではない。

 父はバリヤーン王国五太守のひとりである。太守とはバリヤーンにおいては貴族階級の最高位であり、生母は降嫁して王籍を捨てたとはいえ、先の国王の娘、王女である。

 王家の血をひく国有数の大貴族の大切なひとり娘として、本来なら豪華で堅牢な屋敷の最奥さいおくで、絹と花にかこまれ侍女たちにかしずかれ大事に守られているべき存在であり、事実、そうやって十五年ちかく生きてきた。

 すべては、あの日、荒くれた兵士たちが屋敷に攻め入ってきたときに、変わってしまったのだ。

 メリーナの白い頬に真珠の涙がこぼれる。

 想いは〈百合の月〉の三日月の夜へととぶ。


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