第6話 楊枝の里

 熊野川上流の奥深い山中に、楊枝ようじと呼ばれる里がある。楊枝と書いて “やなぎ ”とも読む。現在の三重県 南牟婁郡みなみむろぐん紀和町楊枝きわちょうようじにあたる。楊枝の里にはその名のとおり柳の樹が多く、一際目立つ、高さ六十余丈(一八〇メートル以上)の巨大な柳の樹が繁っていた。


 ある日、紀伊国一帯を治める城主・湯浅宗重の一行が、遥々この楊枝の里に鷹狩りにやって来た。ところが、放った鷹が運悪くその巨木柳の遥か梢に、足緒をからめて動けなくなってしまった。鷹を助けようにも、柳の樹があまりにも高く、手を拱く鷹匠の無様に腹を立てた宗重は、その柳の樹を伐ってしまえと家来に命じた。家来達がまさに樹を伐ろうとしているところに、山仕事に向かう一人の若者が通りがかった。


「お侍様、この柳の樹は、里のご神木でございますゆえ、どうか伐らないで下さいまし」

「なにやつ!」

「麓に住む者でございます。村の者にとっては大切な心の拠り所でございますゆえ、何卒」

「さようか…なれば、鷹を無傷で助けられたなら、お前の願いを叶えてやろう。ただし、もし過って鷹を殺めたならば、即刻この場でお前の首を刎ねるが、その覚悟はあるのか」

「覚悟はございます」


 若者は家来の一人から弓を借り、バタバタもがく鷹の足緒を見定めて弓をしならせた。一同が静まり返ったか次の瞬間、ビューンッと空気を切って射放った矢が、鷹の足緒に見事命中し、鷹は勢い柳の梢から放たれた。


「おお、見事だ! あの者に褒美を取らせよ」


一行が大空に舞う鷹に目を奪われてる間に、若者の姿は消えていた。その若者はかつて京の都で、味方の裏切りによって命を落とした横曾根光当よこそねみつまさという武士の子・平太郎という者で、執拗な追手の目から逃れ、この熊野の里に落延びて、ひっそりと暮らす身だった。


 数日後の日暮れ時、平太郎は山仕事を終えて、いつものように家路に着いた。すると、例の柳の樹の下で、この里では見慣れない美しい娘が一人心細げに佇んでいた。平太郎は必死に心を閉じて通り過ぎようとすると、その娘は恥らいながらも平太郎の袖を引いて放さなかった。


「いかがいたした?」

「私は 〟おりゅう〝 と申します」

「あ、さようか…わ、わたしは…」

「平太郎様ですね」

「…どうして私の名を!」

「過日、このご神木の柳をお守りくださったのを遠くから拝見いたしておりました」

「そうでござったか…」


 平太郎はおりゅうの美しさに閉じた心が解けてしまった。運命の紅い糸に逆らう事無く、二人はそのまま夫婦になり、幸せな歳月が流れた。


「おりゅう…後悔してないかい…」

「平太郎様こそ…」

「私は、この里に落ち延びて以来、我が身の運命をどれだけ怨んだかしれません。まさかこんな素晴らしい日を送れるとは思わなんだ。これが夢でなければいいと…」

「夢じゃない…夢じゃないわ…夢なら私が絶対覚まさない!」

「おりゅう!」

「平太郎様!」


 ふたりは子を儲け、緑丸と名付けた。


 その頃、京都東山では後白河上皇が日毎夜毎、頭痛に悩まされていた。自ら都の因幡堂に籠って頭痛平癒を祈願し続けていた。ある夜、夢枕に金色の御仏が現れ…私は薬師如来である。熊野川の畔に高さ数十丈の柳の大樹がある。その柳を伐て都に大伽藍を建立し、我が像を彫って祀れば、頭痛はたちどころに平癒するであろう…とのお告げがあった。そこで上皇は、熊野詣に出向き祈願したところ、その夜に再びお告げがあり…上皇の前世は、熊野に住む蓮華坊という僧侶である。仏道修行の功徳によって現世、天子の位に付かれる程の高貴なるお方に生まれはしたが、岩田川の川底に髑髏のまま沈んでいる。その髑髏を貫いて柳の樹が生えており、風が吹くたびに髑髏を刺激し、上皇の頭が痛むのである…との仰せだった。そこで、岩田川を調べたところ、お告げの如く髑髏が沈んでいたのが発見された。

 岩田川は現在の富田川の一部で、和歌山県西牟婁郡中辺路町辺りから下流を指している。昔は、熊野に参詣するには一旦死ななければならないと考えられていた。熊野詣とは、生きながらにして死に、浄土に生まれ変わって成仏し、きれいな身になって再び現世に帰って来るというものだった。そのための第一歩として、この岩田川を三途の川に見立てて渡る事で、死んだ事になる。中には三途の川を一度渡っただけでは、自分の身はきれいになれないとして、何度も渡る者がいたという。さらに熊野詣は、往路復路ともに同じ道を辿らなければならなかった。


 後白河上皇は、大伽藍建立を平清盛に命じた。建立する寺院の名は、薬師如来のお告げに従って、後白河上皇の前世の蓮華坊の名を取り “蓮華王院 ”と名付けられる事になった。蓮華王院の本堂内陣の柱の間が、三十三間ある事で、俗に三十三間堂と呼ばれることになる。三十三という数字は観 音菩薩が三十三もの姿に身を変えて人を救うという信仰による。

 柳の巨木の生茂る熊野の奥深い楊枝の里には、各地から選りすぐりの木挽き達が集められた。清盛の揮う采配を地元で担うのは、かつて鷹狩りの際に、伐採する大樹の梢に鷹の足緒が引っ掛かったいわくのある湯浅宗重だった。湯浅公は、ふと過ぎし日の、弓を引くあの若者の姿を思い出した。「この柳の樹は、里のご神木でございますゆえ、どうか伐らないで下さいまし」という若者の言葉が脳裏を霞めはしたものの、君命とあれば致し方なく、いよいよ明朝、夜明けと共に大樹伐採の号令を掛ける段となった。

 柳の樹が伐られる当日、夜も白み始めた頃、おりゅうは、まだグッスリと眠っている平太郎と緑丸をいとおしく見つめていた。その目からは、はらはらと止めどない涙が流れていた。その時…カーン! カーン! と、ついに始まった柳を伐採する音がこだましてきた。その音のたびに、おりゅうは全身に激痛が走った。カーン! カーン! おりゅうは必死に声を殺して呻き始めた。異変に気付いた平太郎がはたと目を覚ました。


「おりゅう、どうしたんだ!」

「いえ、なんでもありません、平太郎様…起こしてしまってご免なさい」


 おりゅうは一日中痛みに耐え続けたが、夕方になって木の伐る音が止むと、やっと苦しみから解放された。それまで緑丸は、平太郎の背にしがみついたまま、形相凄まじく身悶えしていた母のおりゅうをジッと見つめていた。


「緑丸…おいで…」


 その言葉に、緑丸は堰を切ってワーッと泣き叫びながら母にしがみついていった。


「ごめんね、緑丸。怖かったのね。もう大丈夫だからね」


 おりゅうはしっかりと緑丸を抱きしめた。そしていつもと変わらぬ夜を過ごし、平太郎と緑丸が寝静まった頃、おりゅうはそっと起き出して家を出た。

 闇夜の雲がゆっくりと流れ、月明かりに巨大なご神木の柳がゆらゆらと姿を現した。その根元に目をやると、痛々しく抉り取られた無数の斧の跡があり、その周囲でさらさらと柳のこけらが風のままに地を這っていた。そのこけらをジッと見ていたおりゅうが、目に溢れんばかりの涙を浮かべ、柳の大樹に吸い込まれるように消えた。柳の大樹がゴーッと唸ると、バサバサバサーッと一斉に無数の鳥のシルエットが空に広がった。ついで地面が小刻みに揺れ出すと、周りに散っていたこけらが、ザザッ、ザザッ、ザザザザーッと根元に吸い寄せられ、切り口が見る見る塞がっていった。大樹の唸りが収まると、一羽、また一羽と鳥達が元の塒に戻って来た。おりゅうは大樹から姿を現わし、静かに村へと帰って行った。


 一夜明けて、柳の大樹の前は大騒ぎとなった。昨日伐ったはずの柳の根元の切り口はすっかり元どおりに塞がっている。何が起こったのか分からぬまま、木挽き達は仕方なくまた初めから伐採をやる事になった。ところが、その翌日もまた同じ事が…気味悪がった木挽き達が、ご神木の祟りとばかり恐れをなして、ひとり逃げ、またひとりと減っていった。堪り兼ねた木挽きの棟梁が、鎮守様にお伺いをたてたところ、その夜に夢悟ゆめざとしがあった。次の朝、またまた大騒ぎとなっていたが、棟梁は夢悟に従って火を焚けと指示し、木挽き達は柳の切りくずをその火で焼きながら伐っていった。


 このところ、伐採の音が始まるたびに、激痛に苦しむおりゅうに、さすがの平太郎も柳の大樹との因果関係に気付き始めていた。


「おりゅう、あの音がするとおまえは決まって苦しみ出す。何かわけがあるのではないのか? これ以上、おまえが苦しむ姿を、緑丸に見せるわけにはいかない。わけがあるなら話してくれ」


 おりゅうは激痛に耐えながら、ついにそのわけを話し始めた。


「平太郎様…実は私は湯浅宗重様の鷹狩りの際、梢に鷹の足緒が絡みつき、切り倒されるところをあなた様に助けて戴いた、あの柳の精でございます」

「…そうであったか」


 平太郎は驚かなかった。


「しかしこのたび、後白河上皇の君命により、京の都に蓮華王院建立が決まり、棟木としてこの私が選ばれました。恐らく私は、今日の夕刻迄には伐られてしまいます。今迄、人間の姿になり、あなた様の愛情に支えられて参りましたが、明日には京の都に向けて旅立たなければなりません。もう今夜限りになってしまいました…お許して下さい!」

「・・・・・」

「…緑丸…父上の言う事をよく聞いて、父上のような立派な人になるのですよ」

「はい!」


 緑丸はおりゅうの話を凛として聞いた。その目に母の姿を焼き付けるかの如く、目を潤ませながらも瞬きせず、おりゅうを見つめた。おりゅうもまた、我が子の姿を心に焼き付けるかの如く緑丸を見納め、そして、愛する平太郎に全てを託した。


「平太郎様、お別れです…今まで大事にしていただいた事、忘れません。幸せな…この上ない幸せな毎日でした。ありがとう。緑丸を頼みます!」


 おりゅうのふらつく姿はたちどころに消えた。平太郎が立ち上がった。


「緑丸、母上を京になどやるものか! 今ならまだ間に合うかもしれない! ここで待っていなさい!」

「はい!」


 平太郎は狂ったように柳の樹を目指して走った。やっと辿り着いた時既に遅く、おりゅう柳は既に伐り倒されて千年の命が今まさに朽ち果てようとしていた。ご神木運搬の指揮を執っていた湯浅宗重公に気付くわけもなく、平太郎は柳の大樹にしがみついた。


「おりゅう! おりゅう! おりゅうーッ!」

「無礼者! 何奴!」

「待て! その方、あの鷹狩りの時の!」

「・・・?」

「見忘れたか…わしじゃ」

「湯浅様!」

「そのほうらのご神木のこの柳の樹を、“おりゅう ”と呼ぶのはどうしたわけか」

「湯浅様、この柳の精は “おりゅう ”と申します。おりゅうは私の女房です!」

「なんと!」

「おりゅうと私は、湯浅様の鷹狩りがご縁で結ばれました。以来、私共は幸せに過ごし、緑丸という子を儲けて、今日まで幸せに過ごして参りました」

「…そうであったか…それは気の毒な事をした…許せ」


 湯浅公から後白河上皇の話を聞かされた平太郎は、おりゅう柳にそっと手を添えた。


「おりゅう…」


 平太郎はそのまま大樹を抱擁し、頬を合わせて目を瞑った。しばらく待っていた家来らが、堪らず平太郎を引っ立てようとするのを、湯浅公は制止した。平太郎は湯浅公に平伏した。


「湯浅様、かたじけのうございます。おりゅうを宜しくお願い申し上げます」

「承知したぞ、平太郎…では皆の者、京へ向けて出立致せ!」


 “おうーッ! ”という人足達の掛け声で、巨大なおりゅう柳にコロを噛ませ、一斉に引き始めた.。ところが、ビクともしない。困り果てた湯浅公が、何か名案はないものかと平太郎に問うと、平太郎は思案の後、大樹の先頭に立った。そして、ひとり歩き始めると、大樹はその後を追うかのように、ゆっくりと動き出したのだ。事の不思議に怯えた人足達に、すかさず湯浅公は叫んだ。


「皆の者、このご神木はただの柳の樹にあらず! 神の心の宿る樹なれば、丁重に扱って京に辿り着かば、多大なる御利益があろうぞ!」


 すると人足達も競っておりゅう柳を引き始めた。移動の速度も波に乗ったかと思われたが、村の中ほどにある平太郎の屋敷の前でまたしても動かなくなった。そこには、母の帰りを今か今かと待っていた緑丸が立っていたのだ。ピタリと止まったまま、おりゅう柳は人足達がどれ程の人数がかかろうと、動かない。


「いかが致した平太郎、京まで運んではくれぬのか」

「いえ…おりゅうは今一度、息子・緑丸に別れを告げたいのでございます。今しばらく時をいただきとうごさいます」

「あの者がそのほうの倅の緑丸か。いい面魂をしておる童じゃ! よかろう、今しばらく別れを惜しむがよい」


 緑丸は柳の大樹をじっと見つめていた。


「緑丸…母上は…」


 この柳こそが母である事を平太郎が告げようとすると、緑丸は駆け出して大樹にとりすがった。


「母上ーッ、母上ーッ、母上ーッ!」


 今迄、必死に堪えていた悲しみが、一機に湧き上がった緑丸は、その巨大な大樹に全身で泣きすがった。その姿に湯浅宗重一行の誰もが皆涙して無言で見守り続けた。


「緑丸…母上は後白河上皇様のために京の都に立たねばならぬ。この里の出口まで、お前が指揮を執って送れば母上はきっと喜ぶぞ」

「いやだーッ、父上の嘘吐きーッ! 母上を連れて帰ると言ったではないかー!」

「緑丸…父は嘘を吐いた。母上を連れて帰ると嘘を吐いた。許せ。しかし、父は思った。母上は今、私と緑丸だけの母上ではないと。母上は、この世が続く限り、多くの人々の幸せのために、必要とされて京に上るのだ。父も寂しい。おまえは父の何倍も寂しかろう。悲しかろう。しかし、母上はもうわれらのもとに帰る事はできないのだ」

「父上の嘘吐きーッ!」


 父の胸に飛び込んで思い切り抗議をする緑丸を、平太郎は強く抱きしめた。


「湯浅様、私にはこれ以上のお役には立てませぬ。我ら父子、おりゅうのいないこの世に生きて何の意味がありましょう。この場でおりゅうと今生の別れを遂げさせていただきとうございます」


 楊枝の里に落ち延びて間もなく、無念の死を遂げた平太郎の父・横曾根光当の形見の守り刀を、やにわに抜いた平太郎は、その切っ先を、グッと緑丸の喉元に当てた。


「おりゅう、我ら今すぐにおまえの元へ!」

「待て、平太郎! 腹を切る前にもう一度そちの倅・緑丸の顔をよーく見よ!」

「・・・!」

「その方、誠わが子をその刃にかけるのか! なればこの宗重、その前にそちのその腕を切り捨てる! 倅を刃にかける事は許さん!」

「湯浅様!」


 湯浅公は刀を抜いた。すると、父の懐からすり抜けた緑丸が、もみじのような手を広げ腕を真一文字に湯浅公の切っ先に立ちはだかった。


「父上に何をする!」


 睨みつける緑丸を前に、湯浅公はフーッと息を吐いた。


「あっぱれじゃ、緑丸! この両親にしてこの子あり。悪いのは君命を預かったこの宗重じゃ。許せ」


 湯浅公は静かに刀を収めた。


「ありがたきお言葉…父親としてお見苦しき様を誠に申しわけなく、このご恩は必ずや、いつの日か…」

「見よ、平太郎! そちの恩返しは無用のようじゃ」


 湯浅公の指し示す先を見ると、緑丸が大樹の上にまたがていた。


「母上、参ろうぞーッ! これはおりゅう柳と申すこの緑丸の宝じゃ!」


 不思議にも、おりゅう柳はゆっくりと動き出した。


「緑丸!」


 その軌跡に、湯浅公一行に合掌の輪が広がっていった。


 一一六四年、蓮華王院、俗にいう三十三間堂が建立された。本像の十一面千手千眼観世音菩薩を中心に、左右に十段五十列の五百体ずつの千手観音立像が総計一〇〇一体、堂内をびっしりと埋め尽くして立ち、仰ぎ見るどの角度からも、全ての観音像を拝めるように安置された。そのご尊顔の中には、会いたいと願う人の顔が必ずあると伝えられて久しい。この功績によって平清盛は播磨守に任ぜられ、太政大臣にまで上り詰めたという。


 三十三間堂建立により、頭痛が平癒した後白河上皇は、おりゅう柳の話に感銘を受け、熊野の楊枝の里の柳の伐り跡に、楊枝薬師堂を建立し、柳の枝で自ら彫った薬師如来像を安置した。その後、後白河上皇は出家し法皇となり、自ら大導師となって頭痛山平癒寺ずつうさんへいゆじと名付けた。一方、おりゅうに先立たれた平太郎は、緑丸が一人立ちするのを待って出家し、それからの人生をおりゅうの供養に捧げた。楊枝薬師堂の境内には、今でもおりゅうと平太郎の墓が並んで立てられているという。


〈 おわり 〉

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