第7話 門栗ヶ淵伝説

 伊豆の下田に長居はおよし 縞の財布がかるくなる


 江戸時代の下田は、嵐に非難する港であり、男女混浴の公衆浴場などもある色街として賑わっていた。その下田には、日本で始めて外国の領事館が置かれた場所がある。伊豆下田にある玉泉寺というお寺だ。そこにアメリカから派遣された「タウンゼント・ハリス」という外交官が滞在する事になった。


 安政元年(1854)11月の大地震と津波が下田に大被害をもたらした頃、14歳で「新内明烏のお吉」と呼ばれるほどの下田一の芸妓になった斉藤きちという娘がいた。3年後(安政4年)、下田奉行はハリスの身の回りの世話係として、その斉藤きちを仕えさせるという準備がなされていた。下田奉行支配組頭・伊佐新次郎がお吉の説得の任に差し向けられた。


「お吉殿…何とぞ…」

「冗談も休み休み言っとくれよ。お上のためになんぞと、こんな女ひとりに何が出来るというんだい。そういう難しい事は、男衆がなさる事ではないのかい」

「男衆ではどうにもならぬ事もある」

「ほ~ら、本音が出ましたね。芸者だからと粗末に見られては困りますよ。あたしには添い遂げようと心に決めたお人がおります。どこのどんなお偉いお方か存じませんが、どうしてもあたしをそこへ連れて行きたいんなら、いっそ伊佐様のその腰のものでバッサリとおやりになってからになさいな。あたしゃこのお話、きっぱりとお断り致します」


 下田奉行所からハリスの世話係を命じられた時、既にお吉には心に決めた人がいた。鶴松という幼馴染であり、それを承知の上でお吉と鶴松を離すべく、伊佐新次郎が説得役にあたっていた。


「万事窮しておる。5月18日に交わされた数項目の条約を翌日に破断するといって来た。これも当方が身の回りの世話係手配を渋っておるがための催促である事は分っている。異人に対し、そばづめを公に就けるのは国辱であると、烈火の韮山代官に対し、我らが奉行は三度に渡り切腹を覚悟しての使者を出しておったが、ジョン万次郎殿のお口添えもあって、やっと韮山代官の許可を得て、こうして、お吉殿にお願いに上がったのだ」

「どうして許可が出たんでしょうね。あたしを遊女だとでも? 人間以下のものは後で闇から闇に葬ればいいとでも? 口添えしたんでしょうか? …バカにおしでないよ」

「支度金二十五両を持参致した。この他に、年棒百二十両が遣わされる事に相成った」


 伊佐新次郎は、お吉の前に支度金を出した。お吉はその金に見向きもしなかった。


「受け取らなければお上の命に反逆する者として罰せられるのだが、私はそのようにはさせたくない。時間をやる。改めて沙汰あるまで、奉行所の事情も含み置き、ありがたく受けるように願っている」

「何と言われようが、お断りだよ」

「さようか…、ならば、その心に決めたお方と、一度ご相談なされ。お吉殿…奉行の言葉を忘れないでくれ。一人の人を愛するよりも大切な事は、万人のお国を愛する事だと…おまえの運命は、もうおまえだけのものではないのだ」


 お吉は口を噤んだ。


「失礼仕る」


 お吉は、伊佐の置いて行った支度金に扇子を投げて被せた。


「いくらお上だからって、よりにもよって異人さんに売られちゃかなわないよ」


そこに鶴松が落ち着きなく現れた。


「おや、鶴さん…こんな時分に…仕事は終わったのかい?」

「…ああ」

「どうしたんだい、そんなとこに突っ立って?」

「お吉…実は…」

「なによ、はっきりおしよ、鶴さん」

「あのな、お吉…おれの夢は…その…」

「夢がどうかしたのかい?」

「おれの夢を知ってるよな、お吉。」

「およしよ、そんな出来もしない侍になる夢なんて。そんな事より、そろそろ…」

「武士になる!」

「何かあったのかい、鶴さん? 仲間と喧嘩でもしたのかい?」

「江戸に仕官の道が出来た」

「なんだって…」

「江戸に仕官出来るんだ! おれは武士になってお上に仕えたい!」

「そうかい…鶴さんが武士に…それじゃ、あたしも江戸に…」

「一年待ってくれ! 一年経ったら…迎えに来る…」

「一年も…なぜ一年も…」

「約束なんだ…仕官の条件が…一年間の奉公見習いの間は所帯を持てねえんだ」

「そうなんだ…一年…」

「必ず迎えに来るからよ! 一年なんてあっという間さ。その分を後で二人で取り返せばいい」

「一年なんて…あっという間だよね…あいよ! 鶴さんの夢が叶うんだ! お祝いだね!」


 お吉は奥に立ち、酒の支度をして戻って来た。


「さ、祝いの酒だ…このお吉は聞き分けのいい女だよ!」


 お吉は鶴松に酒を注いだ。鶴松が注ぎかえそうとするのを、お吉は拒んだ。


「いいんだよ、鶴さん。酒ぐらい自分で注げますよ、ははは…」


 二人はおちょこを持って見つめ合った。


「しばらく、お別れだね」

「済まねえ、お吉」

「船大工の鶴松ならいざ知らず、お侍の川井又五郎様がしみったれた事をいわないでおくれ」


 お吉は粋なそぶりで盃を空けた。


「鶴さん…お別れにあたしが教えたかっぽれを見せておくれ」


 鶴松も盃を空け、お吉の囃子で踊り始めた。お吉は、下田一の透きとおった声音で、踊り続ける鶴松を愛しく見つめていた。


「もういいよ、鶴さん。相変わらず下手くそだね。そんな踊り、当分見なくてもいいと思ったらせいせいするよ」


 お吉は伊佐から受け取った金を鶴松の懐に押し込むと、背を向けて縁側に座り、庭の山桃の木に目をやった。


「お吉…」

「もう行きな」

「・・・・・」

「表でお侍様が待ってるんだろ」

「・・・!」

「早くお行きよ!」


 鶴松はお吉の背中に手を合わせて去っていった。


「…達者で暮らしておくれ。あたしだって、この下田で…鶴さんのように…お上に仕える事にするよ…一年なんか、あっという間だよ。でもね、鶴さん…女には取り返せないものだってあるんだよ!」


 お吉はここで泣くまいと思った。


 安政4年(1857)5月21日、17歳のお吉が引戸駕籠に乗せられ、5人の役人に付き添われてハリスの官吏かんり召仕女めししじょとなるべく、沿道の人垣から浴びせられる罵声と石礫の中、日本初の米国領事館となった玉泉寺の門をくぐった。

 玉泉寺には後に斉藤きち以外にも4人の娘たちが召し抱えられ、下田の人々の偏見に晒されながら、日々を過ごすことになる。当時流行った俗謡に “旦那持つなら異人さんを持ちゃれ 二朱の女郎に 二分くれた ”とある。一朱は25銭、一分は4朱なので、50銭の料金に4倍の二分を払ってくれたわけだ。そうした妬みや怨み、憤りが歪んで、高額のお給金でハリスの元に傅くお吉に、人々の非難やら嫉妬が集中したのも無理からぬ事だったかも知れない。金離れのいい異人さんに憧れた娘もいたようで、玉泉寺に近い柿崎の浜辺には、雑草に見え隠れする石塚が残っている。それは、外国人水兵との間に出来た哀れな赤子の埋められた跡だ。


 お吉は松浦武四郎に連れられて初めてハリスに会った。ハリスに一礼して去る松浦武四郎を見送り、お吉は意を決してハリスに近付き、頬擦りをした。


「こうするために来たか! それとも、(人差し指を交差させて)こうするために来たか!」


 するとハリスはお吉を引き寄せて、優しく頬擦りを返した。


「こうするために来ました」


 お吉は慌ててハリスから離れた。


「大きな船で来なさったんですね」

「・・・・・」

「私のお父っつぁんは船大工です…小さな舟の…」

「船大工…舟の設計技師ですね」

「設計技師? お父っつぁんが設計技師?」


 お吉は思わず笑った。


「お吉さんにはいつもそういう顔でいてほしい」


 思いがけないハリスの言葉に、お吉は顔をこわばらせた。


「私は日本に戦うために来たのではありません。自由に国と国で行き来できるようにするために来ました。この玉泉寺に、初めて我が国の国旗が掲揚された時の感動は忘れられません。国旗が旗棹を上る時、我々はその周りに輪を作って決心をしました。日本における最初の領事旗を、我々合衆国が掲揚したのです。世界に対する責任が始まる厳粛な瞬間でした」

「偉い人のいう事は、あたしにはさっぱり分らないわ」

「偉い人? …私は貧しくて、幼い頃の正規の学校教育は受けていません」

「じゃ、どうしたらそんなにお偉くなれるのかしら?」

「私の叔母に習いました。社会に出てからは全て独学です。私のような苦労は全ての子供達にさせたくありません。日本の子供達に対しても、その気持ちは同じです」

「日本じゃ無理よ」

「日本はすべて天皇が権力を持っています。ですから変わらないのです。合衆国は国民がその力を持っています。いつの日かこの下田の人々と笑顔ですれ違い、幼い子たちの頭を優しく撫でてあげられる日が来ればいいと思っています」

「…そうね。そんな時代になったらいいね。あたしがここに来るだけで、下田の連中は獣でも見る目だよ」

「お吉さんは私のせいでつらい思いをしなければならなくなりましたね。この地の人々は、私を異国人として恐れているのですね。私は、武士には礼儀として握手を求めますが、握ったまま離さない人もいるので、実はいつ斬られるのかと冷汗ものです」

「握手?」

「私の国の初対面の挨拶は、お互いの手を握り合う事です」

「それを知らないからよ、きっと。日本にはそんな習慣なんてないんだもの」

「やはりそんな事でしたか」

「この国は貧しいのよ。アメリカと戦いたがっているのは、殆どが攘夷党の浪人だけよ」

「浪人?」

「侍の失業者みたいなもんよ」

「浪人はなぜアメリカと戦いたがっているのですか?」

「戦になれば藩のおかかえに取り立てられて、今の貧乏生活から抜けられるとでも思っているのよ。異人さんだからって嫌ってるわけじゃないよ、きっと」

「それを聞いて安心しました」


 突然、抜刀した侍が乱入した。


「貴公がハリスだな」

「…お、お吉さん…(哀願)頼みます…」

「に、日本の言葉を!」


 侍は化け物でも見るように警戒し、ゆっくりと上段に構えた。


「お命、頂戴仕る…」


 お吉がハリスの前に立ちはだかり、侍を見据えた。


「女、どけ!」

「あいよ、すぐにどいてやるよ。あたしだって何も好き好んでここに居るわけじゃないさ。だけど、目の前で人が切り殺されるのを、黙って見ているわけにもいかないじゃないか」

「さっさとどけ!」

「お侍さん、しっかりと見ておく事だね。この人を斬って、おまえさんと同じ赤い血が出たら、どうするつもりだい? 外国の使節が何のためにこの日本に来ているのか分ってるんだろうね。無礼な斬り方をしたら、徳川様への忠義にはならないよ。足元をご覧よ、土足じゃないか。武士の誇りを捨てたのかい?」

「ラシャメンの分際で邪魔立てするな…どけ!」


 太刀を振り下ろさんとしたその時、お吉は侍に向かって下半身を露わにした。


「あたしを斬ったら…このラシャメンお吉を斬ったら、おまえさん、武士として恥の上塗りだよ!」

「・・・!」

「あたしはお上のご聖断でここに来てるんだ。この人はお上があたしに任した人なんだ!このままおとなしく帰ったら、何もなかった事にしてやるわ。騒ぎが起こる前に早く帰んな!」


 居直るお吉に侍は怯み、去った。茫然となって腰を落とすお吉を、ハリスは抱えたが、お吉はさっと離れた。


「お吉さん、ありがとう」


 ハリスはポケットから名詞を出して、お吉に差し出した。


「何、これ?」

「名詞です」

「名詞って何?」

「私の国では大切な人に渡します」

「大切な人…」

「お吉さんは私の命の恩人です。長くお付き合いをしたいと思います」

「あたしは…そんなに長くは…」

「そうだ、ささやかながら、お吉さんの歓迎会と思って向こうの部屋で支度を…」

「歓迎会?」

「新しい世界に通じるお酒を用意しました。乾杯しましょう」

「新しい世界に通じるお酒?」

「ラム酒です。きっと気に入ります」

「あら、そう…ありがとう…あの…」

「どうしました?」

「おまえさんの事を何て呼べばいいのかと思ってさ」

「con・su・late(コンソレイト)と呼んで下さい」

「コン…ス…」

「領事のことです」

「そう…コン…コンレ…」

「con・su・late」

「コン…コンス…コン四郎…コン四郎でいい?」

「はい、命の恩人のミスお吉さんがそういうなら」

「あ、そう。じゃ、そう呼ばせてもらうわね」

「そのうちにcon・su・lateと呼んで下さい」

「お堅い事はいいっこなしよ、コン四郎さん」

「はい、お吉さん」


 お吉が玉泉寺に来て5日後の安政4年(1857年)5月27日には、ハリスの通訳官・ヒュースケンの官吏召仕女として、お吉の妹芸妓、16歳の「ふく」が玉泉寺に赴いた。


 翌、安政5年(1858)6月8日、ハリスは将軍謁見のため江戸に向かう事になった。お吉は持病を持つハリスの希望で、一行と共に江戸へ同行したようだ。その時、お吉の胸には鶴松の事がよぎり、“鶴さんに会えるかもしれない! ”…同時に鶴松と別れの盃を交わしたあの日の自分ではもうない事に懊悩としたに違いない。

 同年6月19日、ハリスの草案、日米修好通商条約十四ヶ条は孝明天皇の勅許なしのまま、十三代将軍家定に代わって大老の井伊直弼が即日調印。世にいう「安政の大獄」と呼ばれる恐怖政治が断行されていく。条約締結後の8月22日、お吉は江戸で完全にお役ご免となった。そんな夏のある日、江戸で暮らすお吉のもとに、伊佐新次郎の部下・松浦武四郎が訪ねてきた。


「ハリス様は下田に帰還する事になったが、お吉さんは下田へは戻られぬのか?」

「どの面下げて帰れるというんだい?」

「・・・・・」

「知ってるだろうけど、あたしはついせんだってお払い箱だよ。今までお上のご聖断でコン四郎の世話をするお役目があったからこそ、下田の人達の罵りにも耐えられたんだ。もう、あたしはただのラシャメンだよ。帰れるわけがないじゃないか」

「あれほど尽くしても、お役ご免とは無念ですねえ。ハリス様は深酒が祟って吐血までなさった。そんな折にお吉さんは、柿崎の玉泉寺から下田までの夜道を走った。奉行の侍医の浅岡杏庵先生の元へね。先生から伺いました。お吉さんの足の親指の生爪が剥がれておったのに、手当てをさせようともせず、ハリス様の元へ駈け付けてくれるようにと、物凄い形相だったそうですね。その後もハリス様の体力を快復させようと、幕府ご禁制の牛の乳を、農民に畜生扱いされながらも買いあさっていたと聞いております」

「無断で出仕したあたしは、幕府の顔をつぶしたんだってさ。協議だ通知だなんて言ってる間にコン四郎が死んじまったら元も子もないだろ」

「江戸ではどうやって過ごされるおつもりですか?」

「さあ、どうするかねえ」

「もし、お決まりでなければ、我々と京へ参らぬか?」

「京へ?」

「これまでに幕府とハリス様の間を見事に取り持たれたお吉さんだ。このたび江戸に向かう道中、ハリス一行が赤心隊の襲撃を免れたのも、お吉さんの機転のお陰です。絵師を装った間者から、赤心隊の動きを聞き出す事が出来たからです。お吉さんのその力をもう一度我々にお貸し願えないでしょうか」

「我々?」

「此度、幕府が結んだ条約は決して平等とはいえません。民衆の貧困を救うには条約を平等なものにしなければなりません。そのためには武力よりもまず開国による貿易で国を富ませなければならないのです」

「お上に騙されるのは、もう、ごめんだよ。あたしはコン四郎と一緒にアメリカに行きたかったのさ。伊佐の野郎が嘘付きやがった。あたしはね、コン四郎に仕える時に伊佐に約束してもらったんだよ。コン四郎がアメリカに帰る時に一緒に行かせてもらう事を」

「伊佐殿も必死に奉行に懇願したようだが、渡航条令に幕府は特例を認めなかったのです。吉田松陰の密航未遂事件があった後なので、条令はさらに厳しくなるだけでしょう」

「奉行所に連れて行かれた時、伊佐のお殿さんが言いなさった。 “一人の人を愛するよりも大切な事は、万人のお国を愛する事だ ”と。その一言が胸に突き刺さったんだよ。一人の女にすら嘘を付く幕府なんか…」

「私もお吉さんと同じ考えです」

「・・・!」

「私は今まで伊佐様の元に仕えて参りましたが、必ずしも志を同じにする者ではありません」

「今更、どっちでも…あたしに何の関係があるのさ! おまえさん達は何か間違ってないかい? 人を幸せにするために動いてるはずのおまえさん達は、考えをとおすために逆に人を犠牲にしてないかえ? あたしはもう振り回されるのはごめんだよ! これからは一人の人を愛するんだ!」

「一人の人…鶴松殿の事ですか?」

「・・・・・」

「鶴松殿は江戸で所帯を持たれました」

「え…」

「・・・・・」

「今、なんて言ったんだい?」

「鶴松殿は江戸で所帯を持たれました」

「なんだって!」

「・・・・・」

「今…聞こえなかったよ…なんて言ったんだい?」


 武四郎はお吉を直視した。


「お吉さん…」

「良かったじゃないか…一人の人を愛せて…」

「・・・・・」

「あたしがいたら困る人が江戸にも居たんだね…行くよ!」

「・・・!」

「京へ行くよ! 気の変わらないうちに仕度しとくれ!」

「心得た! のちほど迎えに上がります!」


 武四郎は仕度に去った。


「しっかりおしよ、お吉! おまえは新内明烏のお吉だよ! これくらいの事で…これくらいの事で潰されてたまるもんか!」


 この年の10月4日にお吉の妹芸妓のふくも官吏召仕女を解雇になったとされる。翌、安政6年、ハリスは日米修好通商条約締結の功によって、総領事から公使に昇任。この年の9月、吉田松陰・頼三樹三郎・梅田雲浜らが次々に鈴が森の刑場で処刑されていった。

 お吉は条約締結後の幕末の動乱の中、開国の奔走に巻き込まれ、お吉の流浪の旅が始まった。ハリス一行が下田に帰還してから、お吉の代わりに須崎町の為吉の娘、17歳の「さよ」が、7月から仕え、お吉より長い同年12月14日までの約6ヶ月に及ぶ日々を過ごしたとされる。通訳のヒュースケンには、殿小路の利兵衛の娘、「まつ」が2月19日からの約一年間の長きに渡って仕えていたが、ハリスが日米通商条約締結の功績で合衆国より日本駐在公使に任命されたため、召使女たちを含めた身辺整理を余儀なくされた。


 安政7年(1860)3月3日、世にいう「桜田門外ノ変」と呼ばれる大事件が起きた。天皇の勅許なしにハリスとの条約を締結した井伊直弼が、江戸城桜田門外で襲われ殺害されたのだ。

 その2年後の文久2年(1862年)、ハリスがアメリカに帰国。その事も知らされず、お吉は京で祇園の芸妓になって京都所司代に近付き、松浦の思惑どおりに動いていたが、元号も安政から万延、文久、元治、慶応と替わって、1868年9月に明治となり、伊佐新次郎は外務省の要職に、松浦武四郎は民権新聞の記者となっていた。お役目不要となったお吉の姿は、既に祇園から消えていた。


 その年の正月、流れ流れたお吉の姿が横浜にあった。そしてお吉は、横浜のとある裏通りで偶然にもうらぶれた鶴松を見つけたのだ。


「まさか横浜でおめえに会えるとは思ってもみなかったよ。よく、オレだって分ったな」

「すぐに分ったよ…だって…鶴さんだもの…」

「・・・・・」

「・・・・・」

「いろいろあってな…このざまだ」

「達者がなによりさ」

「すまなかったな…オレが馬鹿だったんだ」

「馬鹿はあたしのほうだよ」

「・・・・・」

「鶴さんはいつだって肝心な時にあたしを守ってくれた。あの大地震(安政元年の大地震)のあと、海が干上がって油断している下田の街が、見たこともない恐ろしい大波で一呑みにされた。あれが津波というやつだったんだね。あたしから何もかも奪っていっちまった。鶴さんは、浜に残った流木で、ひとりぽっちになったあたしに家を建ててくれた。そして、そこであたしは初めて…あたしは14だった。下田の街は地獄が続いたけど、あたしは幸せだったよ…」

「真っ黒になった下田の街から、いつまでも水の引く音が聞こえていた…オレはその夢をよく見るんだ。そのたびにおめえの事を思い出す…侍になんかなるんじゃなかった。折角あの津波は、オレにお吉をくれたのに、オレはその大切なものをお上に浚われちまった…」

「…鶴さん」

「おめえの噂は江戸にも聞こえてきた。ハリスがお上に自分用の特別の駕籠を作らせたそうじゃないか。おめえはその駕籠に乗って、毎日送り迎えのいいご身分だったろうな」

「人の口なんていい加減だよ。雨の日だけは土地の山駕籠の世話にはなったけど、いつも下田から玉泉寺まで歩いて通ったもんさ。人の罵りを避けるには、夕暮れの暗がりに紛れて裏門をくぐって、朝方に下田の街が起き出す前に帰ってたよ」

「異国人というのは、どんな部屋に住んでるもんだろうね」

「そんなの聞いてどうするのさ」

「襖じゃなくて板戸なんだそうじゃねえか。中に幕を引いてあったって本当かい」

「そんな話、よしとくれよ」

「畳には真っ赤な綿のようなものを敷いてあったって…」

「やめておくれ!」

「おまえを迎えるところがこんなボロ家じゃ…居心地も悪いだろうと思ってよ」

「鶴さんまであたしを蔑むのかい? 鶴さんは言ってくれたじゃないか…下田に戻ろうって。おれは人の罵りなんか気にしない。おまえはおまえだ。下田に戻って小さな店でも出してやり直そう…って。それがどれだけ、あたしの救いだったか知れやしないよ」

「・・・・・」

「ハリスに抱かれたこのお吉が、そんなに憎いのかい、鶴さん…答えておくれよ! そんなにこのラシャメンのお吉が憎いのなら、今に裸足で歩くみじめったらしいお吉を、下田中引きずり廻しておくれよ!」

「・・・・・」

「鶴さんが江戸で所帯を持ったと聞いた時、あたしは…あたしは…だけど、それで良かったんだと…あたしは、コンシロウが鶴さんだと思って、必死に尽くしたのさ。馬鹿だねえ…そうするしかなかったんだよ」

「・・・・・」

「なんで江戸で幸せになってくれなかったんだ。なんでまたあたしの前に…姿を現したんだよ!」

 お吉は鶴松の襟首を掴んで泣き崩れた。

「おれぁ…ちいせえ男だ…もう、おめえを抱え切れねえ…」


 時代の犠牲となり、失われた日々を懸命に取り戻そうとした四年の歳月だったが、お吉の元を去った鶴松は、その翌年の明治9年6月、好物の山桃が実を結ぶ頃、当時、一夜ポックリと呼ばれた心臓麻痺で帰らぬ人となった。


 明治22年(1889年)、お吉は49才で乞食の群に入り、下田の17人の浮浪者の一人となっていた。そんなある日、浮浪者となったお吉が道端に伏していると、山高帽に蝶ネクタイ、マントにステッキの男が現れた。


「お吉じゃないか?」


 伊佐新次郎は言葉をかけても動きもしないお吉をもう一度確認した。


「なんだ…お吉じゃないか!」

「なんだ、お吉じゃないか…だと?」


 上目遣いのお吉の変わりように、新次郎は改めて驚いた。。


「こんな乞食ババアにどこのどなたさんがご用ですかね」

「やはり、お吉さんでしたか。私です」

「分ってるよ! …忘れるもんか。どの面下げて現れたんだい」

「お吉さん…」

「こんどは “さん ”付けか…そうやって狡賢く出世なさったか、おい、伊佐!」

「・・・・・」

「あたしがこうして恥を忍んで生きてきたのは、何故だか分るか」

「・・・・・」

「おまえに会いたかったからだよ」

「もずっと探していたんだ」

「殺すためにかい? お上の謀がバレる前に、あたしの口を封じるためにかい」

「詫びるためにだ」

「何を今更…」

「そのとおりだ。今更、詫びたところでもう遅過ぎる。おまえは、江戸、京都、横浜、三島と流れ歩いて、結局故郷の下田に戻ったそうだな。今さっき、おまえが9年前に開いた小料理屋の “安直楼 ”に寄って来たところだ。おまえにはつらい思いをさせてしまった」

「安直楼のお調子女将にあたしの何を聞きなすった? 流れ流れて、下田に恥晒しに戻った事かい? それとも…あれほど愛しい鶴松にまで、ラシャメンだと罵られ捨てられて、三島に逃げて三度目の芸妓になった事かい? それとも…性懲りもなく、また下田にのこのこ出戻って髪結始めた事かい? 村八分で客なんか来なくなったよ。それとも…男を騙して料亭開いた事かい? コレラが流って店じまいだよ。コレラまで下田の連中の味方だとは思わなかったよ。ご丁寧にお天道様にも見放されたってわけだ」

「それだけの目に遭っても、おまえは私との約束を守った。いかにお上のご聖断とはいえ、秘密を守り通す事は並大抵の事ではなかったろう。私は、おまえと鶴松を引き離すために、鶴松に仕官の道を設けて江戸に追いやった。何事もお国のためという言葉でおまえをハリスの侍妾にし、おまえはハリスの元で見事にあの外交の難局を打開してくれた。明治の新政府が樹立されるや、私は外務省の要職に就いた…おまえの功績でな」

「三十年…三十年よ…その間におまえさんは一度だって下田の町の盆暗どもに、どうしてコン四郎の元に通ったか説明してはくれなかったんだよ。やむを得なかったという事を一言だって町の連中に話してなんかくれなかったじゃないか! 怨んだよ…憎んだよ…だけど、約束した事だ。あたしは芸者だよ! お客との約束を守るためなら命を掛けるんだよ。“領事館の事は町民に一言たりとも洩らしてはならぬ ”。お吉はこの三十年、おまえさんとの約束を守り徹して生き恥を晒して来たんだよ!」


 新次郎は地面に座して手を着き、お吉に深々と頭を下げた。


「おまえを不幸にした責任は全てこの私にある。いかにお上のご聖断であったとはいえ、ひとりの町民を不幸にする事が許されるべきではなかった」

「おまえさんも気の毒な男だね。とんだ買い被りだよ。人が歴史を動かしてると思ったら大間違いだよ。歴史が人を動かしてるのさ。どっち道、あたしはこうなったのさ…」

「これから私に少しでも償う時間を貰いたい。すぐに住いの手配も…」

「やめておくれ! あたしはこう見えても新内明烏のお吉だよ。誰のせいでもない…自分でこうしているんだ! どれだけ罵られたって、腸まで腐っちゃいないよ!」

「そのとおりだ。ご時世がどうあろうと、お吉さんの腸は腐らなかった。幕府が危うくなると、下級武士も町人も我が身の出世のためなら主君への反逆。名字帯刀に憧れておまえを捨てた鶴松にしたって…」

「おまえさん…他人の事が言えた義理か…」

「・・・・・」

「おい、伊佐…おまえさん、こうなる事が分っていたね」

「・・・!」

「あの夜…コン四郎が攘夷論者の侍に斬られればよかったと思っていたね。あたしはおまえさんにとって余計な事をしたわけだ」

「・・・・・」

「・・・・・」

「ハリス殿が亡くなった事をご存知か…」

「いつ!」

「もう十年程になる。

「十年も…」

「明治11年に…74歳の生涯を閉じられた。ずっと独り身であったそうだ」

「もう、帰っておくれ! 外務省のお役人さんなんかに知り合いはいないよ! 金輪際、あたしに関わらないでおくれ…その腐った目で見ないでおくれよ!」


 新次郎は平伏して去っていった。


「コン四郎…おまえさんも気の毒な男だね…」


 お吉は次第に哀しい高笑いになっていった。お吉がつらい時、無意識に辿り着くのはいつも鶴松の墓前だった。お吉は鶴松の好きな山桃を墓前に供えた。


「あたしの一番可哀相な男…鶴さん…」


 お吉は襟を破り、縫い込んであったハリスの名詞を取り出した。


「ありがとう、コン四郎…こんな事になるなら、もっともっとお前さんに優しくしてやれば良かったね。でも、あたしはやっぱり鶴松が好きなんだ…恋しいんだ…普通に所帯を持ちたかったんだよ。ごめんよ、コン四郎…もう、あたしを…鶴松のところへ帰しておくれよ…」


 お吉は名詞を丁寧に細かく千切って川に放った。名詞は吹雪いて散った。


 明治24年(1891年)3月25日、お吉51歳の豪雨の夜、稲生沢川(現・下田川)の上流・門栗ケ淵でご詠歌を唱えていた。ふと…


「鶴さん…鶴さんじゃないか! やっぱり迎えに来てくれたのかい! 嬉しい!」


 お吉は門栗ケ淵の上流で発見されたが、身寄りのないラシャメンの遺体の引取手に、お吉の父母の菩提所までが拒んだという。それを気の毒に思った宝福寺の第十五代ご住職は、寺院仲間の反感をよそに、檀家の手を借りてお吉の遺体を大八車に乗せて墓地の一隅に葬った。大正14年(1925)になって、お吉は日米親善に功ありと認められ、「宝福院釈妙満大姉ほうふくいんしゃくみょうまんだいし」という戒名が与えられ、立派な墓所が作られた。


〈  おわり  〉

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