第5話 霧雨の鈴ケ森

 徳川幕府264年の間に、江戸では100回以上の大火があったと記録されている。ひとたび火の手が上がれば、江戸は壊滅状態になりかねず、火付けは厳罰に処せられるようになった。江戸幕府の開府以来、市街地は古い木造の建物で密集していた。江戸城を守るためには、武家屋敷や寺院に至る全ての建物を江戸城外堀に移動し、内堀に広大な空地を生まなければならない。幕府は大掛かりな都市改造計画を予定していた。大火に備え、「大名火消し」「定火消し」「町火消」からなる三組織を結成し、火災が発生したら臥煙と呼ばれる火消し人足が半鐘を鳴らし、火元までの距離を一刻を争って江戸市民に知らせていた。

その訓練は厳しいものだったにちがいない。


 臥煙の頭が寝ている人足たちの枕になっている一本の丸太の端を大きな木槌で叩いた。


「起きろ! 火事だ!」

「頭! 火元はどちらです!」

「これから半鐘の訓練を行う!」

「えッ? 訓練ですか?」

「ばか者! これから覚えなければならない事が五万とあるんだ! 常日頃から訓練をしておかないと、いざという時には何もできない! そうならねえように日頃から訓練が必要なんだ! いいか、火事が起こったら一刻も早く市民に火元の位置を報せなければならない! その距離を半鐘の叩き方で伝えるわけだが、それをこれから訓練する! 火が消えると、ジャーン・・・ジャンジャーン、ジャーン・・・ジャンジャーン!と叩くんだが、その時にはもう何もかもが焼けてなくなっちまう “おじゃんになる ”というのは、そこから来てんだ…よく覚えとけ!」

「へえ~ッ」

「へえ~ッ…じゃねえよ! 一度しか言わねえから、耳の穴かっぽじって、しっかり覚えろ!」

「へいッ!」

「まず、“火元は遠い”というのは一打でジャーン・・・ジャーン・・・ジャーン だ。次に、“火元は近い ”というのは三連打でジャンジャンジャン・・・ジャンジャンジャン だ。火消しの出動は二連打でジャーンジャーン・・・ジャーンジャーン だ。取りあえずこの三つを覚えろ!」

「へい、覚えやした!」

「よし、じゃおめえから答えろ!」

「へいッ!」

「火元が遠い!」

「ジャーン・・・ジャーン・・・ジャーン!」

「火元が近い!」

「ジャンジャンジャン・・・ジャンジャンジャン!」

「火消しの出動!」

「ジャーンジャーン・・・ジャーンジャーン!」

「よし、合格!」


 そんなふうだったかどうかは定かでない。


 明暦3年(1657年)正月18日の昼過ぎ、老中・安部忠秋の邸の風下に隣接した本郷(文京区南東)の本妙寺から火の手が上がった。後に “振袖火事 ”と呼ばれる江戸の大火である。火は北西からの季節風に煽られて、江戸の大半を焼きつくし、二日後の20日未明にやっと鎮火した。以後、幕府のお触れは次第に厳しくなっていくわけだが、この火事の火元の本妙寺には一切のお咎めなしだった。

 その数年後、本妙寺は元の場所に再建されたばかりか、大正12年の関東大震災に至るまでの役260年余の間、寺の風上に隣接した安部家から、毎年供養料が納め続けられることになった。

 この明暦の大火は、小泉八雲の脚本で “振袖火事 ”として記録された。その物語とは…


 寺男が一枚の振袖を持って和尚のもとにやってきた。


「和尚さま、この振袖でございますがね…」

「おや、その振袖は! まだ古着屋へは持って行っておらんのか?」

「持って行きましたよ。まあ、最初は新品も同然ですから結構な値で引き取ってくれましてな」

「さてはご供養の般若湯をグビッグビッと…」

「はいはい、ついつい、いつもより度を越していい気になっちまいまして…いやいや、和尚さま、そういう事ではないんでございますよ。この振袖の事でございますよ」

「その振袖がどうかしたのかい?」

「戻って来るんでございますよ」

「振袖がひとりでに、ふらふら~ッと…」

「ただ今~以前このお寺でお世話になりました振袖でございます…って、そんなわけないでしょ、和尚さま! 覚えておいでですか、この振袖が最初にこのお寺に来た時の事を?」

「覚えてますよ…丁度去年の今頃でしたかね…いや、おととしだったかねえ…」

「そうなんでございますよ! 去年もおととしも戻って来たんでございますよ!」

「それはけったいな話ですね。この振袖は元々、上野の大増屋十右衛門さんの娘のおきくさんが十七の若さで亡くなった時に、棺桶に掛けてお弔いをした時のものですね。実にきれいな死顔でしたから、よ~く覚えてますよ」

「なんでも…恋患いで病気になって亡くなったと聞きました。花見の時分に若い寺小姓に一目惚れしたのが運の尽きでね。わざわざ、その小姓の着ていた着物の色模様に似せた振袖まであつらえて、それを毎日眺めながら想い続けたそうな。一年越しで恋焦がれて、年が明ける時分には虫の息。松の内が明けて間もない1月18日に、とうとう亡くなったんだそうでございます」

「なるほどね。それで新品同然の結構な値が付いて…」

「そうでございますよ! あっしは嬉しくなっちまって、勢いご供養の般若湯をグビッグビッと…いやいや、和尚さま…それはもう忘れて下さいましな」

「それがどうしてまたこの寺に舞い戻って来たのかね」

「それなんでございますよ。あっしが振袖を持っていった古着屋が、売りに出した途端に売れたんでございますよ。何かいい振袖はないものかと、たまたま古着屋の前を通りかかった娘さん! その振袖に一目ぼれで買ったんでございます。本郷の麹屋吉兵衛さんの娘・お花さんでございます」

「ああ、昨年来ましたね。覚えてますよ。あの時が2度目…」

「お花さんは振袖を着てから病に伏しがちになり、何故かおきくさんが亡くなった丁度一年後の1月18日に、やっぱり十七歳で亡くなったんでございますよ!」

「すると、この振袖は…先日の葬儀でこの寺に舞い戻ったのは、3度目という事になりますね」

「そうでございますよ!」

「確か、麻布の質屋・伊勢屋五兵衛さんの娘・おたつさんでしたね」

「そうなんでございます。お花さんが亡くなって丁度一年後。それもやっぱり十七歳でございますよ!」

「・・・・・」

「・・・・・」

「困りましたね」

「実はおととし亡くなった “おきく ”さんの両親と、昨年亡くなった “お花 ”さんの両親が、このたびの “おたつ ”さんの葬儀に来ておりまして、振袖の話になったんでございます」

「さぞ、盛り上がったでしょうね」

「和尚さま! 何を罰当たりな事を! ご供養でございますよ!」

「懲りもせずに、また古着屋に持っていってグビグビッと…」

「よして下さいまし、和尚さま! 三家が相談して、この因縁の振袖を本妙寺で焼いて供養してもらいたいと申しております」

「なるほど、そういう事でしたか…そうじゃな、それでは、そうさせて頂こう」


 明暦3年1月18日、この振袖が本妙寺で供養される事になった。和尚の読経の中、振袖が火に投じられた。一瞬の黒煙の後、見る見る振袖は燃え上がった。そこに突然の旋風であっという間に炎の振袖が本堂の天井に舞い上がり、燃え広がった炎は江戸を焼き尽くす大火に至ったという。


 この明暦の大火が後に “振袖火事 ”として江戸三大大火のひとつに数えられる事になった。世に “世俗 丙午歳ひのえうまの女は男を殺し、丙午の男は女を殺すとて専ら忌めり ”といわれて久しい。江戸は何度かの火の海に包まれ、そのたびに町が焼き尽くされていた。


 振袖火事から25年後の天和2年(1682年)12月28日、午前八時過ぎ、江戸の街は土ぼこりに包まれ、屋根瓦が飛び、木が倒れる程の烈風に襲われた。風が治まらぬまま、午前十一時過ぎ、駒込大円寺の庵から出火した。江戸・山の手の井戸は深く水に乏しい上、折悪しく、辻々の用水は凍って使いものにならない時期だった。火は烈風に煽られ瞬く間に江戸の街を焼き尽くしていった。振袖家事の犠牲者のために建立された回向院をも焼き尽くしてしまった。

 二十九日早朝・5時ごろになって、やっと火は衰えた。人災が人災を生み、江戸が累々と死骸の山で埋め尽くされた。罹災した大名屋敷七十三、旗本屋敷百六十六、寺院四十八、神社四十七、土蔵の被害二千七百あまりとされる。記録では “焼死者凡そ三千五百人、其外牛馬数しらず”と伝えられる。これが世にいう “お七火事 ”である。しかし、実際はお七に拘る火事は、翌年の天和3年3月2日のボヤ騒ぎだけである。


 実際のお七火事は、駒込大円寺の火事の翌年の天和3年3月2日に江戸のボヤ騒ぎから始まった。駿河国富士郡出身の市左衛門は、本郷の森川宿で手広く八百屋を営んでいた。その娘が自宅に放火しようとしてボヤが起こった。娘の名はお七。火事騒ぎの中、お七はその場に呆然と立っていたという。

 お七は、なぜ自分の家に放火しなければならなかったのか…


 その日の朝方、お七は家の裏で佐兵衛と会っていた。この佐兵衛とは、前年の駒込大円寺の火災の折、お七の八百屋も貰い火被害に遭い、避難先となった円乗寺のお小姓として、和尚の身の回りの世話をしていた男だ。偶然に寺の境内で掃除をしてる佐兵衛の姿を見て一目惚れしたお七は、避難生活の間に親しくなり、あろうことか寺の本堂でなさぬ仲になってしまったのだ。


「お父つぁんが反対してるんだ。また火事でもない限り会えやしないだろ」

「めったな事を言うもんじゃないよ。火付けは市中引き回しの上、火罪だ。おめえはもう十七…裁かれる年じゃねえか」

「あたし達はバチあたりなところで結ばれたんだ…どうせ幸せになんかなれやしない。あたしと一緒に地獄に落ちとくれ、佐兵衛!」

「この世でおめえと幸せになれねえのなら…それも仕方がないかもしれねえ…」

「このところ、ユキを寺に使いにやっても、おまえはいつも居ないそうじゃないか。いったい、どうしたんだい?」

「・・・・・」

「あたしが嫌になったんじゃあるまいね、佐兵衛」

「お七…オレが今、どんな目に遭っているか知っているかい?」

「・・・?」

「おめえとの事が知れてから、寺を追われて故郷にも帰れず、宿無しなんだよ」

「なんだって!」

「今のご時世、宿無しというだけで番屋にしょっ引かれてしまう。挙句の果てには、島送りにされかねねえご時世なんだよ。毎日、生きた心地がしないんだ。おまえは帰るところがあるからいいじゃないか」

「佐兵衛と逢えないんなら、帰るところなんかなくったていい」

「思ってもねえ事をいうもんじゃないよ。暗くなると町方がうるさくなる。とにかく今日のところはこれで帰る」

「佐兵衛!」


 お七は佐兵衛の背中に叫んだ。


「佐兵衛、待っておくれよ! 今日は聞いてもらいたい話があるんだよ! 佐兵衛!」


走り去る佐兵衛の姿は見えなくなった。お七は納屋に行き積んである藁を引き抜いた。そして火を点けようとしているお七を下働きのユキが見つけた。


「お嬢さん!」

「ユキ、止めないでおくれ! あたしの好きなようにさせておくれ!」

「めったな事をなさるもんじゃありません!」

「ユキ、止めないでおくれってば!」

「どうか、こんな事をなさらないで下さいまし!」

「あたしがどれだけ佐兵衛の事を想っているか…わからないの! こんな家なんか燃えてしまえばいいのよ! あたしが帰るところは、佐兵衛のところしかないんだから…」

「お嬢さん、いけません!」


 ユキはやっとのことでお七から藁を取り上げた。


「…どうしたらいいの…ユキ…」

「どうしても火を付けたいのなら…お嬢さんに代わって、このユキがやりますから、どうか、お嬢さんはくれぐれも早まった事はなさらないで下さいましな!」

「ユキ…」


 なんとかその場は収まったものの、佐兵衛に会えないお七の心は日を追って荒んでいった。お七処刑の一年前の年のことである。この年に江戸で火炙りになった者は50人程。何れも、各地で火付の咎で告発された者ばかりであった。

 火付けは極刑に値する時代だ。お七の場合、大事に至らなかったボヤ騒ぎとは言え、町触に従って名主に連絡され、お七は一旦、自宅監禁の身となった。そこに、お七の手習いの師匠である藤田佐助が心配して面会にやって来てくれた。


「藤田先生! 会いに来て下さったんですか!」

「いったいどうしたというんだい、お七さん? 付け火しようとしたって本当かい?」

「あたしには心当たりがないのです、先生!」

「とにかくお奉行様には “命ばかりはお助け下さい ”と、一心にお願いするしかありませんよ」

「あたしはどうなってしまうんでしょう…」

「・・・・・」

「先生も噂を信じてるのね」

「そんな事はありませんよ。私はお七さんという人を知っています。手習いのお稽古だって欠かさずにかよっていたじゃありませんか。そういうまじめなお七さんが付け火するなんて考えられませんよ」

「先生、あたしはこのまま火炙りの刑になってしまうのかしら?」

「気をしっかり持ちなさいね、お七さん!」

「ありがとう、先生…」

「幕府は、これまでの火事続きで火にはピリピリしている。時期が悪かったな、お七さん」

「あたしはやっぱり不孝な星の下に生まれたんだわ。丙午年生まれなの。丙午年生まれの女は男を殺し、丙午年生まれの男は女を殺すといわれているでしょ。佐兵衛さんもあたしと同じ丙午年生まれなの」

「佐兵衛さんとは?」

「…好きになってしまったの」

「そうですか、お七さんは恋をしてるんですね」

「あたしたちのこと、お父つぁんは反対してるんです。あたし達に幸せなんてやって来ない…」

「お七さんが丙午ということは、寛文6年(1666年)の生まれですね。若いということは、何よりの宝だ」

「いいえ、あたしは寛文7年生まれです」

「え? ということは…お七さん、あなたは丙午年生まれなんかじゃないですよ。丙午は、お七さんが生まれた前の年の寛文6年です。お七さんが生まれたのが寛文7年だったら、丁未年ひのとひつじどしですよ」

「そうだったんですか! それじゃあたしは、火炙りにならなくて済むかもしれないわね!」

「運成帳を持ってますから確認しましょう」


 藤田は懐から小さな台帳を出した。


「丁未年生まれのあなたの今日の運勢は…今日のあなたのラッキーカラーは…赤」

「嫌な色だわ」

「江戸の空に向かって次の言葉を三遍唱えると、降りかかる不幸の火の粉を追い払う事ができます」

「火の粉を振り払いたいわ! なんて唱えればいいの?」

「風よ吹け! 風よ吹け! 風よ吹け!」

「危険じゃないかしら? 絶対に無理!」

「その結果、あなたは将来、きっと有名人になれるでしょう」

「悪い意味で有名になるのは嫌よ」

「おや! もうすぐ寺子屋に子供たちが来るころだ! お七さん、気をしっかり持って!」


 藤田は早々に去って行った。


 その翌日、お七は町奉行所に引き渡され、お白洲での詮議が始まった。お七を詮議する吟味役は、先手頭さきてがしら中山勘解由直守なかやまかげゆなおもりと、傍に部下の左近が控えた。先手頭とは、戦の時に将軍の先鋒を勤める兵の中の兵が選ばれた。後に「火付盗賊改」と称されたが、この時代は先手頭の役割であった。幕府老中からの任で赴いた中山は、怪しいと思える者を片っ端から検挙させた。逮捕された者のほとんどが、中山が編み出したといわれる “海老責め ”などの拷問で自白させられ、容赦なく処刑台に送られた。


「これより、昨夜、本郷森川宿・八百屋市左衛門の店から出火の一件に付き、吟味致す。一同の者、面を上げい!」


 お七は震えが止まらなかったが、藤田佐助の助言を一心に頭の中で繰り返していた。


「市左衛門の娘・お七とやら、そのほうが付け火したのに相違ないか。申し開きがあらば今のうちに申してみよ」

「どうか命ばかりはお助け下さいまし!」

「申し開きがあらば、何事も包み隠さずに正直に申してみよ」

「どうか命ばかりはお助け下さいまし! どうか、どうか…」

「申し開きがあらば申せと申しておるのだ。申さなければ申したい事が何か分らぬと申しておるのだ」

「なんか…よく分かりません…」

「無礼者! 折角お奉行様が “申し開きがあらば申せと申しておるのだ。申さなければ、申したい事が何か分らぬと申しておるのだ “と申しておるのが分らんのか!」

「少々くどいぞ、左近」

「はっ、申しわけございません…」

「これ、お七。このようなところに引っ立てられたのは初めてであろう。怖さゆえ、気の動転しておるお前の気持ちも分らぬではない。されば、私をおまえの父親と思って心を鎮め、よくよく思い出して申し開きをするがよい」

「お奉行様をあたしの父と…」

「そうじゃ」

「勿体無いお言葉でございます」

「遠慮はいらぬ。安心して心中を述べよ」

「それではお言葉に甘えまして…」

「ん!」

「お父っつぁん!」

「なんだ、お七…」

「何も聞かずにあたしを見逃しておくれ!」

「断る!」

「お父っつぁんなんかじゃない!」

「無礼者! なんだ、その言種は! 折角お奉行様がおまえの父親にまでなって “申し開きがあらば申せと申しておるのだ。申さなければ、申したい事が何か分らぬと申しておるのだ “と申しておるのが分らんのか!」

「さっきからくどいぞ、左近」

「はっ、申しわけございません…」

「お七…私も人の子だ。正直に申せば、おまえの悪いようにはせぬ」

「お奉行さまのそのお言葉を信じ、正直にお話致します」

「ん! 申してみよ」

「実は、あたしのお父つぁんに恨みがあるという数人の荒くれ男に、刃物を向けて取り囲まれまして、隣の家に火を付けろというのでございます。もし言うことを聞かなければ、このあたしのみさおを…」

「操だと! よくも抜けぬけと! 正直に申せと、言っているではないか!」

「左近、少し黙って聞いておれ。操であろうとなかろうと、操っぽければ良いではないか!」

「はッ!」

「あたしはその…操っぽさを守るために…」

「初っからそう申せば良いのだ」

「はい、すみません。あたしは操っぽさを守るために、やむを得ず言う事を聞いたので…聞いたので…ございましょうか?」

「人に聞いてどうする! おまえがやったのであろう!」

「下がっておれと申すに、左近!」

「はッ!」

「なれば、その曲者らの有り体を述べてみよ」

「それがよく覚えてはおりません」

「それだけのことをされながら、覚えていないことはなかろう」

「お言葉ではございますが、男どもは、夜になって人が寝静まる頃に、どこからともなく部屋に入って来て、この操っぽいあたしを脅し、あっという間に立ち去ってしまいましたので、姿形を見る間もなく…お奉行さま! どうか命ばかりはお助け下さいまし!」

「お七とやら…」

「はいッ!」

「そのほう、佐兵衛と申すものを存じておろう」

「・・・・・」

「おまえは、その男に会いたいがために、火付け騒ぎを起こしたのではないか?」

「そのような方は知りません」

「この期に及んでもしらばっくれるのか! なんだ、その操っぽい態度は! 折角お奉行様が “申し開きがあらば…」

「左近、もうよい」

「はっ!」

「お七…おまえがいつまでもシラを切ると、佐兵衛のためにもならんぞ」

「佐兵衛さんには何も関係ありません。あたしが勝手に佐兵衛さんという方に片想いしているだけで…あの方には何の関係も…」

「お七…そのように五里霧中な申し開きでは、帰すわけには参らん。沙汰あるまで奥の牢にて控えておれ。それまでに逢いたい者はおるか?」

「・・・・・」

「会わせてやるぞ。遠慮はいらん、申してみよ」

「…おりません」

「そうか…ひったてい!」


 犬公方と呼ばれた五代将軍・綱吉は、儒教ひとすじの堅物であったとされる。犬猫動物はもとより、人まで試し切りにする殺伐とした江戸の世相は、儒教の道徳を重んじる綱吉の心をおおいに憂えさせた。一切の殺生沙汰を禁じた、世にいう「生類憐み令」といわれるものは、ひとつの纏められた条文として実在するものではなく、長い年月を掛けた結果のお沙汰である。綱吉は親孝行であり、特に母・桂昌院を大切にしたとされる。


 左近が中山の下に赴いた。


「厄介な事に…」

「如何致した」

「町人の間に、瞬く間に良からぬ噂が…」

「何事か」

「綱吉公のご生母・桂昌院さまの父君は、八百屋仁左衛門さまと仰せられますが…」

「それがどうかしたのか?」

「先刻、取り調べましたるお七の父親の名が八百屋市左衛門…」

「なるほど、似ておるな…気が付かなかった」

「さらに桂昌院さまのご養父は,、二条関白家に仕える北小路太郎兵衛さまと仰せられ、お七の父親の俗称と同じでございます」

「なるほど…それはまずいな…このまま捨て置けば、桂昌院さまの父君が、お七と同じ町人階級の出であった事を興味本位に歪められて、町人どもの囁きが上様のお耳を穢す事にでもなっては一大事…」

「いかが致しましょうか!」

「誰ぞ名うての物書きはおらぬか」

「物書きでございますか?」

「芝居だ…このたびのボヤ騒ぎごときで、桂昌院さまに関わる良からぬ噂が立たぬよう、芝居の興行を打たせて、少しでも庶民の関心を桂昌院さまから逸らせるのだ」

「いかように致しましょうか」

「…されば…昨年十二月二十八日に、駒込大円寺より出火して、江戸に甚大なる被害を及ぼした大火だが…このたびのボヤ騒ぎと摩り替えたらどうなろうの。お七もさぞ、ボヤ如きで火炙りになるより、江戸を焼き尽くした大火で火炙りになったとあれば、さぞ、その名も華々しく後世に残って満足ではないか…(冷笑)」

「・・・・・」

「まだ何かあるのか?」

「いえ、ではそのようにお取計らい致します!」


 元禄 御法式みほうしきでは、“火を附ける者之類、火罪。火付道具を持候計、又は人に被頼火たのまれびを付候類に死罪、流人 ”とある。お七には、この条文より重い、例外とも思える11日間の市中引き回しの上の、火炙りの刑が執行される判決が下った。


 天和3年3月29日、霧雨の鈴ケ森に、ついにお七の刑の執行の日がやって来た。当時、江戸には二箇所の刑場があった。北の刑場である小塚原こづかっぱら刑場に対して、南の刑場として、一本松の獄門場ともいわれた鈴ケ森刑場だ。慶安4年(1651年)に設置されて以来、明治4年に廃止されるまで、処刑者の数は数万人から20万人ともいわれている。


 鈴ケ森刑場の柱に磔にされたお七の横に高札が立てられた。「このしちと 申女もうすおんな、火を付候咎に依って、町中引廻し、所々に晒し、火炙りに行ふもの也」と書かれてあった。

 綱吉の代になってから、火災や犯罪は激減した一方で、隠し目付の目が光る取締りでお咎めを恐れる町人は、例え道にモノが落ちていようと拾う者はいなくなった。


 お七の火炙りの刑から2年が経った木枯らしの江戸に、鉦を叩く悲しい音が響いている。見れば、出家して西運と名乗る佐兵衛の姿があった。首から下げた念仏鉦を叩きながら、お七の菩提を弔う往復十里の道・一万日の日参が始まっていた。

「…お七…この佐兵衛を許してくれ…」


〈  おわり  〉

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