第11話 姉の仇

 高橋お伝という女がいた。


 母親の“はる”は、奉公先の沼田藩家老・広瀬半右衛門の落し胤を身籠り、奉公先を出されてしまった。正妻の絹は不機嫌な顔をしている夫に問うた。


「あなた様に思い当たる節はお有りでございますか?」

「…ない」

「では、“キヨ”同様、お暇を出して宜しゅうございますね」

「好きにせい」


 “キヨ”とは、昨年に半右衛門の子を宿し、暇を言い渡した奉公人だった。


「随分と身持ちの軽い奉公人ばかりで、あなた様も御苦労が絶えませんね。どこの馬の骨か分からぬ子を宿した奉公人をこのままにしておきますと世間体が良くありませぬ。あなた様のお名前に汚名を着せられるようなことがあっては一大事でございますゆえ、早めに対処しませんとね。今後、くれぐれも身持ちの固いおなごを奉公人になさいますよう使用人にはしかと聞かせねばなりませんね」


 そう言って妻の絹は半右衛門を無表情で正視した。半右衛門は目を閉じたまま身動き一つしなかった。広瀬家ではこうして奉公人がお暇を言い渡されることは珍しいことではなかったが、絹は夫の行状と知りつつ身重となった奉公人には只管容赦なく暇を出していた。何のことはない。半右衛門が奉公人に手を出さなければ済むことだった。彼の女癖の悪さは藩でも評判であった。


 お腹にお伝を身籠ったままお暇を出された“はる”は、藩下の親元に戻った。親元とはいえ、“はる”は養女だった。実父は櫛渕長兵衛といい、わけあって渋谷小左衛門の養女となり、広瀬家の奉公人として仕えていた。主君のご乱行とはいえ、児を孕んで帰った“はる”の心中は穏やかではなかったろう。暫くして“はる”に縁談が舞い込んで来た。妊娠を伏せて同郷の高橋勘五右衛門と結婚。しかし、7か月目でお伝が生まれたことに勘五右衛門の兄・九右衛門が不審に思った。“はる”は頑として勘五右衛門の子であると主張したが、離縁され渋谷家に帰されてしまった。更に兄の九右衛門はお伝との養女縁組をしたことにより、実母“はる”との親子の縁を絶ち切られてしまった。

 心労が祟った“はる”は2年後に他界。時が経ち、14歳になったお伝は九右衛門の薦めで最初の結婚をしたものの、安穏な日々は続かず、そこから次第に波乱万丈の人生に翻弄され、最後に斬首刑となってしまう。


 彼女の話に登場する男達ちの下種っぷりなどが脚本家や作家の創作意欲を大いに刺激したらしく、後の小説や映画などでは、相当に酷い、お伝として脚色がなされているらしい。“最初の夫は助からないとわかったので毒殺した”とか、“男を次々に誑し込んでは殺していった”などの噂が立ち、お伝は稀代の毒婦と呼ばれるに至った。


 しかし実際はどうだったのだろう。


 お伝を身籠って故郷である藩下の上野国(群馬県)利根郡に帰った“はる”は、養女先に戻るのが憚られ、自然とその足は生家に向かった。しかし、家は既に朽ちていた。途方に暮れて佇んでいると、声を掛けて来たものが居た。


「“はる”ちゃんじゃないかい?」


 “はる”は振り向いた。そこには、昨年同じ奉公先を追われた“キヨ”が居た。乳呑児の“かね”を抱えて懐かしそうに駆け寄って来た。“キヨ”はお腹の大きい“はる”を見てすぐに全てを悟った。


「大変だったね“はる”ちゃん」


 “はる”は堪えていたものが溢れて来た。


「大丈夫だよ“はる”ちゃん! あたしが何とかするから。暫くあたしんちにおいでよ。年寄り二人居るけど知らない仲じゃないだろ。先のことはゆっくり考えようよ」


 “はる”は“キヨ”の言葉に甘えるしかなかった。それから数日経って、“キヨ”の遠縁筋にあたる高橋甚五右衛門が猟で獲った猪肉のお裾分けを持って来た。“はる”を見た甚五右衛門は一目で彼女を見初めた。甚五右衛門はそれから度々、何かと用を作っては“はる”のもとを訪れた。結婚を望む甚五右衛門に、“はる”は事情を放した。甚五右衛門はそれを受け入れ、二人は恋仲になった。甚五右衛門は家長の兄・九右衛門に相談すると、結婚に猛反対されたが押し切った。


 1848年8月(嘉永元年7月…諸説あり)、“はる”は嫁ぎ先の下牧村(現・みなかみ町)で、お伝を産んだ。出生から2カ月が経った頃、兄・九右衛門が7カ月しか経たないのに“はる”に子が生まれたと不審を持った。甚五右衛門と“はる”は、自分たちの子であると主張したが受け入れられず離縁に至った。そして、お伝は高橋家の養女となり、“はる”との親子の縁は断ち切られた。


 お伝とは腹違いとなる“キヨ”の子である“かね”が年頃になると、たまたま江戸で古物商を営んでいる後藤吉蔵という男が買い付けに回って来た。そして初々しい“かね”が目に止まった。老いた両親を看ながら貧しさのどん底にあった“キヨ”は、吉蔵に乞われるまま“かね”を身売りするしかなかった。お伝にとって、たったひとりの血の繋がった姉との別れはつらかった。なぜならば、お伝は何かといえば“かね”のもとを訪れ、毎日姉妹同然に過ごしていたからだ。


 “かね”が去ると、お伝は行き場を失った。そんなある日、“かね”の祖父が他界した。悪いことは続くもので、お伝の実母“はる”も他界した。“キヨ”はお伝に掛ける言葉が思い浮かばなかったが、せめてもと粗末ではあるが石積みの墓を作ってくれた。お伝は毎日のように通った。しかし、心の中では実母より、異母姉の“かね”への思いが強かった。


「“かね”ちゃん、さびしいよ…」


 何度か通ううち、幼馴染の高橋浪之助もちょくちょく墓に来るようになった。


「誰の墓だい?」

「お母ちゃんの」

「そうか…なら、おれも拝んでやるよ」

「いいよ、あたしのお母ちゃんだから」

「おれは大きくなったら、お伝と結婚するから、おれのお母ちゃんでもあるだろ」

「あたしと結婚するの?」

「いやか?」

「…いいよ」


 ふたりは幼い頃から馬が合った。その後、大切に育てられたお伝も14歳になり、義理の伯父である高橋九右衛門の強引な薦めで宮下要次郎という男と結婚することになった。しかし、心の奥底に浪之助が居たことと元来の勝ち気な性格が災いして、結局、要次郎との反りが合わず、すぐに離縁となってしまった。

 お伝が一番落ち着く場所、それは実母“はる”の墓前だった。そこで身売りさせられて離れ離れになった姉の“はる”に語り掛けるのがお伝の心を癒した。そして19歳になったある日、お伝の前に浪之助が現れた。


「おれと一緒になろうよ」

「何よ、急に…あたし、出戻りだよ。浪之助とは結婚できるわけないよ」

「そんなの…」

「それに、育ててくれたキヨおばちゃんを一人ぽっちになんて、もう出来ない」

「だったら婿に入るよ。そうすれば何の問題もないだろ」

「そんなこと…許してもらえるはずないじょないの」

「家は兄が継ぐ」


 1867年1月(慶応2年1月)、お伝は高橋浪之助と結婚した。お伝が出戻り女などと揶揄するものはひとりもおらず、誰もが羨む美男美女のカップルだった。


 しかし、お伝と浪之助の幸せは一年と続かなかった。浪之助がらい病(ハンセン病)を発症したのだ。町医をあちこち訪ねたが、らい病と判るとどこの医院も門を閉ざした。器量好しだった浪之助の風貌が変わり果てたことで、らい病であることが次第に村中に知れ渡り、前世に極悪の罪を犯した因果応報で浪之助はらい病という病に罹ったと噂され、“かったい”と蔑まれて村八分のような扱いを受けるまでになった。

 症状はだんだんとひどくなっていった。浪之助の鼻に膿が溜まって苦しむようになると、お伝はその都度、口で膿を吸って出してやってる姿を、幼馴染の“くに”は目撃していた。凄いなと思った。しかし症状は更に悪化し、右目が失明し誤嚥が頻繁になり食事もままならなくなった。


 1969年(明治2年)、思い余ったお伝は藁をも縋る思いで江戸で暮らす異母姉の“かね”を頼った。“かね”は後藤吉蔵の妾となって暮らしていた。吉蔵に打つ手はないか懇願すると、吉蔵は横浜にヘボンという名医の療養所があるという情報を得て来た。お伝は早速訪ねて行ったが費用の厳しさにたじろいだ。しかし、お伝は“かね”の世話で神田仲町の秋元幸吉の安長屋に身を寄せて、必死で当座の入院の費用を工面して、どうにか浪之助を入院させるまでに漕ぎ付けたのは、2年後の1971年10月だった。体の不自由な浪之助とやっとのことで横浜の療養所に辿り着き、入院させることができた。お伝は入院費や治療費を稼ぐ日々を続けながら、江戸から遠い横浜の病院に足繁く訪れた。


「お伝さんは頑張るね。その器量なら、お客相手の商売のほうが人気も出るし、今より数段いい稼ぎになるだろ」

「あたしはお客さんの扱いが苦手なもんで、これが精一杯です」


 妾の話もいくつかあったが、お伝は浪之助を裏切るようなことは絶対に出来なかった。“かね”の陰ながらの援助もあって、お伝は堅い仕事で必死に稼ぎ続けていた。次第にやつれていくお伝に、横浜から報せが届いた。明日の面会を待たずに来た報せに、お伝は不吉な予感がした。

 案の定、浪之助の他界の報せだった。明日は遺体を引取る用意をしてきてくれとの事。そんな筈はないと、取るものも取り敢えず、お伝は横浜の療養所に急いだ。病室に入ると、ベッドには白布の浪之助が横たわっていた。1872年(明治5年)9月17日の事だった。


 横浜からどうやって帰って来たのか覚えていない。お伝の目の前には浪之助のお骨と線香が焚かれていた。

 お伝の後には“かね”と吉蔵が居た。


「お伝ちゃん、大丈夫かい?」

「あ…お姉ちゃん」

「しっかりおしよ!」

「迷惑掛けちゃったね」

「何を他人行儀なことを言ってるんだい? これからどうするんだい? 故郷に帰るのかい?」


 お伝は暫く考え、大きな溜息を吐いた。


「浪之助の看病に明け暮れている間に、あたしを育ててくれた母さんも婆ちゃんも亡くなったわ」

「そうね…」

「村に帰ったって…」

「・・・・・」

「追われるように出て来たんだ。今更帰れるもんか。行くとこなんてなくなっちまったよ」


 浪之助がらい病に罹ったことが村人の誰もが知るところとなってからの、夫婦に対する風当たりが村を出る契機になった。お伝にとって下牧村は最早故郷ではなかった。


「あたしんとこ来るかい?」

「お姉ちゃんにはもう迷惑を掛けられない。掛けたくない」

「そんなこと言ったって、どうするんだい?」


 お伝は浪之助のお骨に振り返った。


「お墓を作ってやらないと…あたしは浪之助のお墓を作る。どうするかはそれから考える」

「そうだね。それがいいかもしれないね。でも困った事があったら何でも言ってね」

「ありがとう、お姉ちゃん」


 それからというもの、お伝は浪之助のお墓を建てるために立ち上がり、再び必死に稼ぎ始めた。一年余りでお墓を建てたお伝は、かなりやつれていた。


 新しく建てたお墓参りをしていたある日、浪之助が目の前に現れた。


「浪之助…」

「・・・・・」

「幼い頃、お母ちゃんのお墓参り一緒にしてくれたよね。すぐにあんたのところに行くからね」


 そして、お伝はお墓に凭れ掛って気を失った。気が付くと、“かね”の家の布団の中だった。


「お姉ちゃん…」

「無理し過ぎだよ、お伝ちゃん。ゆっくり休んでな。あたしゃ、薬を貰いに行って来るから」


 お伝は朦朧と“かね”の姿を見送った。そこに浪之助が現れた。


「迎えに来てくれたのかい?」


 浪之助はスルスルとお伝の布団の中に入って来た。お伝は浪之助に身を任せ、かつての幸せに酔い知れながら深い眠りに落ちた。暫くして目を覚ますと、傍で吉蔵が肌も露わに煙管を吹かしていた。お伝は飛び起きた。


「そこで何をしているんだい? あたしに何をしたんだい!」


 吉蔵はお伝に振り返ってニヤ付き、身形を整えるとさっさと出て行った。お伝は泣き崩れた。自分の油断で浪之助を裏切ってしまった。後悔してもし切れない。“かね”に合わせる顔がない。


 お伝は、身を寄せていた秋元幸吉の長屋を引き払い、急いで家を出た。行く当てもなく町をさ迷っていると、バッタリ小川市太郎に会った。


「お伝さんじゃないか!」

「あ…市さん」

「あ、市さんじゃないよ。随分とやつれてしまってどうしちまったんだい?」

「亭主が亡くなっちまってね」

「亡くなった? いつ!」

「…昨年」

「そうだったのかい…その荷物、どうしたんだい?」

「・・・・・」

「町を出てるつもりなのかい?」

「ここにはもう居る理由がないんでね」

「そんな寂しいこと言わないでくれよ。お伝さんが居なくなったら寂しくなるじゃないか」

「・・・・・」

「故郷にでも帰るつもりなのかい?」

「故郷に…帰る場所なんて…」

「良かったら、暫くうち来てくれないか? うち来て砂糖屋手伝ってくれよ。おれひとりじゃ大変なんだ。それにあんたはそんなやつれた姿なんか似合わねえ。うちでしっかり養生してさ。元気になったら、それから先のことを考えればいいじゃないか」


 市太郎は真剣だった。お伝はその優しさが身に浸みたが、吉蔵のことを思い出すと一概に信用する気にはなれなかった。


「そんな疑り深え目で見ないでくれよ。お伝さんに手なんか出しゃしねえよ。信じてくれよ。ほんとに店の手が足りねえんだよ」


 どこ行く当てもなかったお伝は、数日のつもりで渋々と市太郎の後に続いた。


 意外にも市太郎はお伝に甲斐甲斐しく接した。仕事にも真面目な市太郎の姿はお伝の心を開き、次第に居心地も良くなり、お伝はそのまま市太郎のもとに身を寄せることにした。吉蔵との穢れた闇を祓おうと市太郎の優しさに縋るしかなかったこともある。浪之助の闘病生活でそれまで抑えていたお伝の“女”が、奥底から次第に蘇ってきた。


 市太郎とは秋元幸吉の長屋で知り合った。どことなく垢抜けて羽振りも良さそうな男だったが、お伝はその軽さに背を向けていた。市太郎は、お伝が横浜で入院している亭主のために身を粉にして稼いでいることを知って、たまに米や食料を持って来てくれたりもしていたが、それ以上の関わりはなかった。市太郎もお伝に冗談を二言三言言っては帰るだけの付き合いだった。

 麹町で稼業の砂糖屋を営んでいたが、店はそれほど繁盛している様子でもなかった。お伝が手伝うようになって少し持ち直し、茶葉も売るようになると、店は一気に繁盛するようになった。いつの間にか市太郎とお伝は夫婦同然の生活を送るようになっていた。

 店が繁盛すると、市太郎の元来の遊び癖が頭を擡げてきた。酒と博打のために店の売り上げをちょろまかすようになっていたが、お伝はそんな市太郎を咎めるようなことはしなかった。しかし、店は次第に傾き出した。


 愈々店の運営が立ち行かなくなって、お伝は市太郎に内緒で茶葉の仕入れで世話になっている房州(千葉県)館山の船頭・田中勘三郎を訪ねた。一年の返済期限を切って金十円を借りることが出来たが、勘三郎は市太郎に内緒の訳を聞いて来た。お伝はどん底だった自分を市太郎に救ってもらった仔細を正直に話した。勘三郎は気の毒に思い、旅の足代を工面してくれたが、お伝は受け取らずに深々とその場を辞した。


 お伝が店の運営で悪戦苦闘しているにも拘らず、市太郎の遊びは留まるところを知らなかった。当然、借金の返済期限が来ても返せる目途も立たず、とうとう返済期限が過ぎてしまった。少しすると田中勘三郎から催促の連絡があった。一回、二回とお伝は言い訳をして引き延ばしていたが、ついに勘三郎にも我慢の限界がやってきた。


 1876年8月20日、勘三郎は返済を引き延ばそうとするお伝を気の毒とは思いつつ、宣告せざるを得なくなった。


「すぐに返済しなければ市太郎さんに直接掛け合うしかない。あんたの苦労は分かるが、こういうことは時が来たらはっきりしないと世間からあらぬ疑いを掛けられるものだ」


 現に勘三郎は女房のみならず、世間からお伝との深い関係を詮索されるまでになっていた。仕事にも支障を来し始めて相当な迷惑を蒙っていたのだ。勘三郎の最後通牒の催促でお伝は追い詰められた。


「後生だからもう一回だけ待っておくれよ、勘三郎さん」

「何度も聞き飽きた言葉じゃないか、お伝さん。市さんにちゃんと話したほうがいい。この先待ったって、返済の当てなどないんだろ」

「いえ、あります! 大丈夫です! 一週間、一週間後に必ずお返しに上がりますから!」


 勘三郎はお伝を信用したわけではなかったが、これが最後と釘を刺し、市太郎に会わずに渋々帰って行った。


 後藤吉蔵から借りるしかなかった。嫌で嫌で堪らない男だ。吉蔵だけは頼りたくなかったが、勘三郎に一週間後と言ってしまった。金十円はどうしても用立てなければならなかった。

 お伝は勘三郎と別れた足で吉蔵の店に向かった。店に入るのを憚り、しばらく遠くから様子を見ていた。運よく吉蔵が店から出掛けたので少し後を付け、人気がなくなったところを見計らって声を掛けた。


「折り入ってお話があるんだけれど、そこのうどん屋まで来てもらえないかい? 時間は取らせないからさ」


 吉蔵はお伝に言われるままにうどん屋まで付いて来た。


「“かね”抜きでおれに話があるなんて、どうした風の吹き回しだい?」

「お姉ちゃんには会わせる顔がないじゃないか」


 そう言うお伝に、ニヤ付いて睨み返す吉蔵に鳥肌が立った。吉蔵は、お伝の病気の床での情事を思い出し、ムラムラとした欲が再燃していた。


「仕入れるお金がないんだよ」

「あんな店なんか閉めちまえばいいだろ」

「十円ばかり貸してもらいたいんだ」

「そんな大金を急に揃えろったって…」


 お伝は商売のこれまでのことなど話して、何とか頼み込むしかなかった。吉蔵は大きな溜息を吐いて考え込んだ。その目は終始お伝の体を舐め回していた。お伝はまるでその目で裸にされる感覚に悪寒を走らせながら耐えていた。


「少し待ってくれ。こっちから連絡する」

「少しって、どのくらいだよ」

「2~3日だよ。こっちにだって事情があるんだ」


 そう言って吉蔵は店を出て行った。注文したうどんがふたつ運ばれて来た。


「あれ? ご一緒さんは?」

「急用ができてね。いいから置いてっておくれ」


 仕方なく器を持ったお伝だったが、吉蔵の残して行った体臭に吐きそうになって食べずに支払いだけ済まして店を出た。


 1876年8月26日、やっと吉蔵から連絡があった。


「どこか部屋を借りてじっくり話そうじゃないか」


 お伝は吉蔵が喰い付いてくれたと思ったが、体を許すつもりは毛頭なかった。万が一の時に自分を守るもの…お伝は毎日市太郎の髭をあたっていた剃刀をお守り代わりに懐に仕舞った。


 吉蔵に会いに出掛ける時間になっても市太郎は帰らなかった。どうせ今日もどこかで遊び呆けて朝帰りだろう。それまでに帰っていればいい。こんな時には幸いなことだ。そう思ってお伝は決死の覚悟で約束の宿、浅草蔵前片町にある旅籠屋『丸竹』に向かった。


 吉蔵はもう来ていた。そわそわと煙管をふかしている。いい気なものだと思いながら吉蔵に空々しい愛想を投げて真っ直ぐ帳場に向い、『武州大里郡熊谷新宿 内山仙之助、同妻マツ』と記した。旅籠の女将だってどうせ信じちゃいないだろうと、目も合わせず親しげに吉蔵を“おまえさん”と呼んで、女中に案内されるまま部屋に向かった。

 部屋に入った吉蔵は、早く消えろとばかりに女中におひねりを渡し、さっさと身繕いを解いて浴衣に着替え、敷かれた布団にどっかと腰を下ろした。もうその気満々だった。


「いい湯加減だろう、一緒に汗でも流すか?」


 すっかり旅気分の吉蔵の前に、お伝はあらたまって座り直した。


「吉蔵さん、お願いした件は…」

「心配するな。ここまで来ておまえさんも野暮なことは言うな。初めての仲じゃねえだろ」


 やはりあの時…吉蔵とのことは夢ではなかった。言いようのない悔しさが再び湧き上がって来たお伝だったが、それを押し殺して吉蔵に身を任せるしかなかった。全ては自分が蒔いた種だ。異母姉の“かね”には、あれだけ世話になっていながら、一度ならず二度までも裏切ってしまった。浪之助にも…市太郎にも…必死になって働いて来たことが全てこの裏切りに続いていたのか…。

 ことが済むと、吉蔵は高いびきをかいて寝てしまった。お伝は湯場に走った。この体をいくら洗い流したところで落とせる汚れではないが、吉蔵の臭いには耐えられなかった。

 お伝は身支度を整えて吉蔵の眠る部屋の隅で夜が明けるのを待った。金十円さえ手に入れば少しは報われる。船頭の田中勘三郎に借金を返済すれば、市太郎との生活を続けて行けるかもしれない。市太郎だっていつまでもヤクザな生活を続けるはずはない。きっともうすぐ改心して稼業に専念してくれるに違いない。

 まんじりともしない一夜が明けて、8月27日となった。


「早えな、もう起きてたのか…」


 吉蔵は臭い口臭でまたお伝の体を求めて来た。


「吉蔵さん、約束どおり、ご用立てくださいな」

「約束? 約束などした覚えはないが…」

「金十円、ご用立ててください」

「そんな金、あるわけないだろ」


 お伝の腹は座った。この男は許さない。


「そうですか」


 万が一のために家から持って出た“御守”の剃刀を握る後ろ手にぐっと力が入った。


「吉蔵さん、約束を守っていただけないんですね」

「何度言ったら判るんだ。おまえにそんな大金を貸せるわけねえだろ。第一、返せるのか?」

「・・・・・」

「ほら、今日のところはこれだけだ」


 と財布から小銭を投げてよこした。


「コツコツ貯めればいいだろ、コツコツな」


 吉蔵はふてぶてしく微笑んだ。


「あたしはこういうお金が欲しくて来たんじゃないんだよ。後生だから十円貸しておくれよ。頑張って返すからさ」

「しつこいんだよ。その金持ってとっとと消えろ。金目当てに男と寝るような女を娼婦っていうんだ。娼婦風情が十円だと? この身の程知らずが。早くおれの前から消え失せろ!」


 そう言ったか言い終わらないうちに、吉蔵は首を押さえて目を剥いた。お伝の剃刀が吉蔵の首の動脈を切っていた。噴き出す血を座布団で覆い、尚もその横から剃刀を入れて喉を抉った。声も出せずもがきながら布団に倒された吉蔵は、身の置き所なく悶え、間もなく動かなくなった。覆い被せた座布団をめくると目と口を開いた吉蔵があの世を見ていた。

 凶行のお伝は、無表情で座布団を戻し、其の上から掛け布団を掛けた。


「“かね”ちゃん…」


 何故かお伝は異母姉の名を呼んでいた。その表情は安堵の静寂に戻っていた。吉蔵の財布を漁ると十一円入っていた。それを懐に仕舞い、鞄の中の金目の書き付け類も風呂敷に包んだ。身なりを整えてから小机に座り、筆を執った。『此のものに五年以前、姉を殺され、其の上、私まで非道の振る舞いを受け候へども、せんかたなく候まま今日まで無念の月日を暮らし、只今、姉のかたきを討ち候なり。今一度、姉の墓参り致し、其の上、すみやかに名乗り出で候。決して逃げ隠れる卑きょうはこれなく候。その旨、御たむろへ御届け下され候』と認め、机上に置いて帳場に向かった。


「あたしは先に帰らねばならなくなりました。主人はまだ寝ていますが、短気な人なので起きるまで待ってやってください」


 そう言って、お伝は旅籠を出た。


 お伝は真っ先に房州館山に向かった。船頭の田中勘三郎に金十円を返すためだ。勘三郎は大層喜び、また足代だといって幾ばくかを気遣ってくれたが、お伝は、迷惑を掛けたからと受け取らずに館山を離れた。お伝はその足で郷里に向かった。市太郎と呆けていた間に“かね”は病に倒れこの世を去っていた。その墓に辿り着いたのは深夜になったが、村の誰にも会わずに“かね”の墓参りができたので好都合だった。

 村が動き出す日の出前、お伝は墓を離れた。帰途、ゆっくり明けてゆく遠くの山々は、ここで暮らしていた頃に何度も見た風景だった。幼い頃、会うことも許されない産みの母が恋しくて眠れなかった夜、そっと家の裏に出て見た風景だ。そんな時、気が付くと“かね”が傍に座っていてくれた。


「“かね”ちゃん、さようなら」


 そう言い残して歩き始めたお伝は、かつて藁をも縋る思いでらい病の夫と江戸を目指し、悪路を歩き続けた日のことを思い出し、涙が込み上げた。浪之助はもうこの世に居ない。江戸で一人になったお伝は市太郎という男と恋に落ちて救われた。夫の死から立ち直って新しい生活を始めたが、必死になればなるほどお伝の望む未来はどんどん遠くなっていった。


 その頃、後藤家では27日の昼になっても帰らない主を、やっと不審に思い始めた。

 翌28日になった旅籠では、中々起きて来ない客に痺れを切らし、女中が部屋に声を掛けたが、反応がない。


「お客さん、そろそろお帰りの刻限ですが…今夜もお泊りになりますか?」


 しかし、返事がなく静まり返って寝息すら聞こえて来ない。女中は恐る恐る戸を開けると案の定、客は布団を被ってまだ寝ていた。しかし、何となくその様子がおかしいので、声を掛けながら少しづつ近付いて布団を剥がすと、目を剥いた客がこちらを睨んでいる…女中は悲鳴を上げて腰を抜かしたまま動けなくなってしまった。


 蔵前片町の旅籠で人が殺されたという噂が一気に町を駆け巡った。その噂を後藤家の家人が聞き付け、奉公人は事態の詳細を確かめに出された。旅籠「丸竹」の前は既に黒山の人集りになっていたが、奉公人は警戒中の警察官に睨まれながら行方不明の店主の話をすると、すんなり現場に連れて行ってくれた。

 奉公人はその惨状を見るなり腰を抜かし、主に間違いないことを確認した。かくして被害者の身元が判明し、同伴者の風体から“マツ”こと、お伝が手配の身となった。


 お伝が逮捕されたのはそれから2週間後のことだった。翌月の9月9日、午後から時折小雨の降る中、お伝はお縄となった。取り調べに於いて、お伝は旅籠の書置きを主張するばかりだった。しかし、お伝は警察の一言で落ちた。お伝にはどうしても捨てきれない未練があったのだ。


「正直に話せば、市太郎に会わせてやる」


 ついにお伝は警察の用意した筋書調書に同意した。お伝は厳しい取調べの後、市ヶ谷にある獄舎に収監され、2年5ヶ月と4日目に大審院で死刑判決が下されることになる。

 1879年(明治12年)1月31日、東京裁判所で死刑判決が下された。

『人を謀殺し財を取るもの 人命律謀殺条第五項に照し 斬   高橋でん』


 即日、市ヶ谷監獄で斬首が執行された。随分と手際が良いものである…というのも、処刑翌日の2月1日から錦絵新聞・東京絵入新聞が『毒婦お伝のはなし』の連載開始。更に、同日から仮名読(かなよみ)新聞も1カ月に渡って『毒婦お伝のはなし』を連載した。著者は仮名垣魯(かながきろ)文(ぶん)(当時50歳)である。そのからくりは後述するとして、斬首の場に臨んだお伝は観念した。自分が汚かった。一刻も早く消え去りたかった。ところが土壇場でお伝はその目に市太郎の姿を見た。途端にこの世への未練がぶり返してしまった。


「市さーん! 市さーん!」


 お伝は一心不乱に市太郎の名を叫び続け、抑えられていたその体をよじって暴れた。市太郎がその場に居るわけがなかった。市太郎は今日も現実から逃げて、遊びに現を抜かしていた。

 お伝の首が刎ねられた。死刑執行の斬首にあたったのは、八代目山田浅右衛門の弟・吉亮だった。お伝が暴れて二度も手元を狂わされたが、1879年1月31日、お伝の死刑執行が終了した。翌年の1880年に刑法が斬首から銃殺刑を経て絞首刑になったことで、お伝の斬首刑が日本最後といわれているが、定かではない。


 お伝の斬首を執行者以外に目撃した者がいた。西郷隆盛の乱に与して5年の禁固刑を受け、3年間市ヶ谷の囚人たちの部屋長である懲治監ちょうじかんを務めていた高田露という囚人である。懲治監は見せしめのために処刑の場に立たされていた。斬首場は鬱蒼とした木々の中の一角にあり、黒塀で50間程囲まれていた。その中は一畳程の広さで一尺程の深さの漆喰に斬首を落とす造りになっていた。所々に洗い切れなかった血の跡が残り、見た目にも血腥さを漂わせていた。

 斬首場に白木綿の目隠しをされて引っ立てられたお伝は、獄中生活の窶れが一層と美しさを増していたが、市太郎の名前を叫んで取り乱したため、一度二度と打ち損じ、三度目に捩(ね)じ切りにされて果てた。


 お伝の遺体解剖(腑分け)が行われた。場所は陸軍病院と思いきや、そうではなかった。千住の清亮寺せいりょうじの境内に急遽板張りの小屋が設営され、外科実習という名目のもとに秘密裏に解剖が行われたようだ。

 執刀は軍医の原桂仙と八杉俊雄他、アシスタントを含めて5名。立会人は警視庁第五病院の軍医・小山内健(たけし)(劇作家・小山内薫の父)他8名。驚くかな、お伝の性器の部分が標本として衛生試験場に保存され、後日、東京大学医学部を経由して、戦時下、東京陸軍病院に渡ったといわれるが、現在、詳細不明とされている。それにしても性器標本の必要性がどこにあり、誰が命令を下したのか、その保存と研究の意義は何だったのか実に不可解である。

 その後、解剖に立ち会った高田忠良という人物が経年の後、雑誌の中で「ついでにやった」と語っている。執刀者の誰かがお伝の性器を「ついでに」抉り取ったのだ。お伝の解剖に参加したのは総勢13名であるが、そのうちの誰もが異議を唱えなかったのである。


 行方知れずとされていたお伝の性器の標本には後日談がある。ガラスの角瓶に入ったホルマリン漬の女性器が港区某所のゴミ箱で発見され、所有者が現れた。二木(ふたき)英雄という人物だ。彼は陸軍731部隊の軍医研究者で、満州の子どもたちに人体実験を重ねた。敗戦後の証拠隠滅の際に、部下が二木の許可なく捨てたものと思われる。二木はあの悪名高い血液製剤の「ミドリ十字」の役員を務めた後、町医者となっているが、家族は氏のもとを離れ行方も分からない。


 さて、お伝の“不完全”な遺体は小塚原回向院に埋葬された。隣接して、鼠小僧次郎吉や侠客・腕の喜三郎、小悪党の片岡直次郎の墓があるという。それとは別に、お伝の故郷では実父の櫛渕長兵衛が建立したといわれる墓がある。帰らぬ娘を想う親の心が哀しい。墓石には『聞外妙伝大師』という戒名が彫られている。


 お伝は明治の毒婦などと伝えられているが、殺したのは自身の体を弄んだ後藤吉蔵ひとりである。毒婦の根拠となったのは、仮名垣魯文の新聞連載や戯作『高橋阿伝夜刃譚たかはしおでんやしゃものがたり』であろう。しかし、魯文はそれらの作品の執筆にあたり、明治政府の要請を受けている。明治政府は貞節の尊さを説くためにお伝の事件に乗じて仮名垣魯文に執筆させた政治的意図の垣間見える作品である。

 お伝の芝居は大当たりだった。お伝の墓は回向院にあるというのに、魯文の良心だろうか、谷中霊園にもお伝の墓が建っている。建立したのは仮名垣魯文。お伝の三回忌である1881年(明治14年)4月のことだった。出演した十二代目守田 勘彌かんや、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次、三遊亭圓朝、三代目三遊亭圓生らが墓地建立の寄付者に名を連ねているが、彼らはどれだけお伝の真相を把握していよう。


 現在、谷中霊園にあるお伝の墓には、大勢のお墓参りがあるという。『三味線が上達する』という都市伝説…お伝には何の関係もないことである。


(おわり)

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