第12話 ヨコハマの緑ちゃん

 「ハマのメリーさん」と呼ばれた娼婦がいた。敗戦後、兵庫で進駐軍の米兵将校の愛人になり、彼の転勤で一緒に上京した。しかしその将校は朝鮮戦争の戦地に向かうことになった。独り身になったメリーさんは横浜に流れ、伊勢佐木町や馬車道などに街娼となって立つしかなかった。彼の帰りを待つメリーさんの期待とは裏腹に、その将校は戦地からそのまま母国に帰ってしまった。老いて雑居ビルのエレベーターホールや廊下で寝泊まりするホームレス生活になり、好奇の目に晒され、街の名物となり、「ハマのメリーさん」と呼ばれるようになった女だ。


 愛称“よりちゃん”こと土井どい緑恵よりえは1921年(大正10年)3月11日に、岡山県の農家に女4人、男4人の8人兄弟姉妹の長女として生まれた。地元の小学校高等科を卒業。貧しかったために岡山県久世青年学校(戦前の尋常小学校に於ける尋常科を卒業した者の進路)に進んで卒業。15歳の時、父が他界。

 地元の青年学校を卒業後に国鉄職員と結婚。その後、戦争が始まり勤労奉仕で軍需工場に働きに出なければならなくなった。しかし集団生活で器量の良い彼女は同僚の嫉妬を買い、それを苦に海で自殺未遂を図った。そのことが原因で結婚からわずか2年で離婚。彼女の運命はそこから呻き出した。


 出戻ってしばらく親元にいたが、自殺未遂を侵したことが故郷の人々の蔑みの“目”となって彼女を苦しめ続けた。娘のつらさが痛いほど分かっていた両親は、どうしていいか分からず、口を閉ざしたままだった。そのことが余計に緑恵の負担になっていた。堪らず、その気持ちをぶつけた。


「あたしは厄介者だね。ここで暮らすのは針の筵のようだわ」


 緑恵の言葉に、父は意外な返事をした。


「おまえはオレの大事な娘だ。誰の世話になってるわけでもあるまい。堂々としてればいいんだ」


 嬉しかった。父も一緒に耐えていたんだ。緑恵は急に甘えたくなった。


「あたしが出掛けた先々で人がサーッといなくなるのよ。これって村八分よね」


 もちろん父にも分かっていたことだ。同じように腹を立てていた。


「そんなやつらは放っとけ」


 しかし、その憤りに捌け口はどうにもしようがなかった。母は涙を流して悔しがるばかりだった。その後も父は緑恵の苦しみを何とか受け止めようと努力していた。父はその都度、緑恵の言ってほしいことを言ってくれた。

 しかし、叱咤激励し続けてくれた父が他界した。緑恵は心の支えを失ってしまった。兄も弟も妹も何も言える年齢ではないし、母は泣いてるばかりだった。一人ぽっちになってしまった。


 夫婦生活で子供がいなかったこともあって、単身兵庫へと旅立つ決心をした。伝があったわけではない。ただ“その目”から逃れたかった。求人の門を叩いたのが兵庫の芦屋にある料亭だった。そこで仲居見習いとして入った。米兵将校専用の慰安所だった。そこでの仲居には慰安婦となる選択肢もあった。


 緑恵が旅立った6年程前の敗戦時、国策で「性の防波堤」と位置付けられて設置された公娼制度のRAA(特殊慰安施設協会)は、8月に設立して、翌1946年3月、半年ほどの期間で廃止された。そのため、全国の公娼たちは一斉に解雇された。芦屋の料亭にもそうした時代の波が押し寄せており、RAA廃止後の慰安婦らが各地に流れ流れて行った。敗戦後の日本は、各地で暗黒の裏社会が繁栄の途にあった。


 慣れない下働き見習いをする緑恵を一目見て気に行った将校がいた。彼には、当時の日本人女性らしからぬ色白で薄化粧の気品ある女性と映った。故郷を弾き出されて心に開いた穴を埋めるように、殊の外自分を贔屓にしてくれるその将校の優しさに魅かれ、彼女は求められるまま専属(オンリーさん)となった。専属というのは、娼婦ではあるが特定の男性のいわゆる愛人的要素の強い存在である。梅毒の蔓延していた時代である。ある程度の経済力のある将校であれば不特定多数の女性との交渉を意味から当然のことと言えよう。

 一方、孤独だった緑恵の心は潤い、彼女から見る世界が一変した。将校の愛人となり幸せに包まれた緑恵は、勢い故郷の地を踏んだ。帰郷するには葛藤があった。父のいない故郷の“あの目”が怖かった。何かのきっかけがなければ一歩踏み出せなかった。


 晩秋の或る日、緑恵は夢を見た。勤労奉仕時代の夢だった。芦屋に旅立つ緑恵を仲間たちが見送ってくれていた。誰にも知られないように旅立つつもりだったのにみんなが集まっていた。先頭になって経っいたのは緑恵に一番つらく当たった文代だった。


「よりちゃん、本当に行っちゃうの?」


 そこに居る文代は、あの意地の悪い文代とは別人のようだった。緑恵は文代の変わりように狼狽えた。


「これ少ないけど、みんなで集めたの。受け取ってね」


 勤労奉仕の仲間たちが、皆、目を潤わせて緑恵を見詰めていた・・・みんな本当は優しいんだ。自分がカラに閉じ籠って距離を取っていただけなんだ。


「私たち、よりちゃんが羨ましかったの。だってよりちゃんは自分で使えるお金があるでしょ。あたしたち、勤労奉仕でお金貰えるわけじゃないし、よりちゃんみたいにお洒落できなくて羨ましかったの。つらく当たってごめんね」


 …そうだったんだ。私のことが憎かったんじゃなかったんだ。緑恵は目が覚めた。夢だった。嬉しさで涙が溢れた。やっぱり今年は田舎へ帰ろうと思った。


 帰郷するには、まず岡山で下車し津山駅を経由しなければならない。緑恵の故郷は津山駅から1時間ほどのところにある。津山駅のホームで目撃した人間らが垢抜けし過ぎた女性の目撃談を2チャンネルに書き込んでいる。

『12~3年前、岡山県の津山駅のホームで似たような人に会った。周りの人は思い切り引いていたが…。途中まで同じ電車で言ったが、化粧の臭いがすごかった。とにかくびっくらこいたので忘れられないですじゃ。もう一度みたい』

『以前に岡山の津山駅で見かけたとレスした者ですが、その時も大きな高島屋の紙袋2つもっておられました。そして白のロングドレス。田舎の駅でそんな格好だから、もう目立つ目立つ。狭いホームの上で目のやり場に困った位だった。丁度年末の帰省の時でしたが、一体どんな人なのかと不思議だったけど、皆さんの色々なお話から、横浜の有名人と知りました。まだお元気なのなら同県人としてうれすいだす』

 こういった書き込みは、どう弁解しようと“蔑視”である。そうした見方は悪気はないにせよ、その人の未来に大きな影響を与える。故郷の“あの目”と何ら変わりはない。


 実家に近付くと、道端で文代が近所の主婦らと何やら楽しそうに話している姿が見えた。緑恵は夢の続きを見ようと急ぎ足で近付いて行くと、気付いた文代たちがサーッとそれぞれの家に散って行った。そして玄関の硝子戸から汚い物でも見るような“あの目”が突き刺さって来た。緑恵は完全に現実に戻され、帰郷を後悔したが遅かった。

 実家に帰って将校の話にある戦勝国アメリカの素晴らしさを誇らしげに話したりもしたが、緑恵の沸き立つ心とは裏腹に、故郷の目は旅立った時のまま、いやそれ以上に冷たくなっていた。戦争の勝ち組に与した者への当然の空気であろう。全てが空回りの悪足掻きだった。


 その後も何度か望郷の念で一大決意をして帰郷はしたものの、やはり故郷の“その目”は変わることはなかった。自然、彼女の足は遠のいた。緑恵の実家の斜め向かいにある一族の本家の者は、彼女が娼婦ではないかということを感付いていたようだが、弟は知らなかった。知ろうともしなかった。そうした親戚の囁きに耳を傾けることもなかった。本家は土地の有力者だったが、その恩恵に与ることもなく、“わけ有りの姉”一家というだけで、地元との交流も薄くなり、姉の話題も土地のタブーとなって久しかった。


 朝鮮戦争が始まる前年の1949年、その将校は東京へ転属となった。28歳の緑恵は彼に言われるまま一緒に東京へ出ることになり、彼の近くでホテル暮らしとなった。彼女にとって精神的にも金銭的にも最も幸せだった時期だったかもしれない。将校の愛人に好意的に挨拶する日本人など皆無だった時代、彼女は子どもに挨拶されて当時としては高額の千円をあげている。生活にも潤いと余裕が出て来た彼女にとって、その挨拶は孤独を癒すに値する価値があったのかもしれない。

 しかし、1950年6月25日早朝、北緯38度線で轟音が轟いた。朝鮮戦争が勃発し、彼は現地に旅立つことになった。


「いつまで?」

「分からない」

「…これでお別れなの?」

「いや…帰って来るよ」

「待ってていいのね」

「ああ」

「待ってる。あなたの好きな白いドレス来て待ってる」

「ああ」

「白いパラソル…白い帽子…白い手袋…」


 将校は泣き崩れそうなメリーさんを強く抱きしめた。


「大丈夫、必ず帰って迎えに来る」


 そう言い残し、彼は戦地へ赴いて行った。国境を越えた切なき愛の始まりである。但しそれは緑恵に限ってのことだ。将校は日本での疑似恋愛は完結した。

 抑々、進駐軍は反融和政策を取り、兵士が日本女性と親しくなることを禁じて久しかった。現地派遣前の兵士は「遊びは黙認するが絶対に深入りはするな」と言い聞かされていた。緑恵との疑似恋愛を完結させた将校は晴々と戦地に赴いたに違いなかった。

 一方、切なき愛の只中に居る緑恵は、30代半ばという年齢でひとり取り残され東京に留まったが、生活して行かねばならない。急激に襲って来た孤独感…その寂しさから脱するには、若手将校の宿舎となっていた新橋の第一ホテルを舞台に、米人将校相手の高級娼婦としての道を歩むしかなかった。緑恵は今まで愛人に留まっていたオンリーさんからここで初めて不特定多数の娼婦になったのである。“同業者”の中にはホテルで皿洗いをしながら米兵相手に商売していた女もいた。他にも米軍の雇用者や電話交換手などその立場はまちまちだが、彼女らのゴールは共通して将校と結婚し、渡米することだった。しかし、彼女たちの誰もが進駐軍の反融和政策の分厚い壁の存在を知らなかった。


 一年ほどすると取り締まりが厳しくなり、緑恵も留置所に3ヶ月間収監されてしまった。最早都心に居る理由もなくなり、釈放後は外国船が寄港する横浜に戻って彼の帰りを待つことにした。


 何年かが過ぎたが彼からの連絡は途絶えていた。横須賀に移り住んで彼に会えるのを一縷の望みとして男の袖を引く日々を送っていたが、その最中の1953年、故郷の母が58歳で他界したことも知らずに時は過ぎて行った。


 緑恵から話題のメリーさんにすっかり様変わりし、40歳になろうかという1960年ごろから横浜、関内、馬車道、伊勢崎町界隈にも出没し、愛する米兵将校の幻影を追って在日米軍基地で米兵相手の娼婦をしながら生活を凌ぐ日々が続いた。

 …自分は本当に彼を待っていたいのだろうか。待っている自分に満足していただけではないのか。この洋装で毎日晴れ舞台に立っている私は、“その目”など全く気にならない。寧ろ“その目”に見られたい。見られて平気な自分が誇らしい…30代の頃はまだ薄化粧で、豪奢なドレスを着て白いパラソルをさし、扇をあおいで客待ちしていた。その優雅な姿はどぶ板通りには不釣り合いで、「皇后陛下」と形容されていた時代もあった。故郷を弾き出されたとは言え、私は私であることを捨てない。この社会で別人となって一級のお洒落をし、堂々と生きてやる…そう思ったとすればその後の生き様も納得できる。


 メリーさんの愛称がまだなかった頃、彼女は福富町の旅館『一力』を定宿にしていた時期がある。この頃は羽振りが良かったのだろう。美容室や喫茶店、焼き鳥屋などの常連でもあり、週刊誌のグラビア記事にも載るようになって、初めて“マリー”という名が定着して行った。

 しかし、次第に老いていき、顔のしわが増え、白いお化粧も知らず知らず濃くなっていった。以後、35年間に渡り、白いドレスに白いお化粧、濃いアイシャドーのメリーさんは土地の風景となり、出没が確認された1980年代頃から1995年頃まで彼女の話題は続いた。マスコミなどに取り上げられ、ある意味の“晒し者”メリーさんが定着するまでは「ホワイトさん」「白いお化け」「きんきらさん」とも呼ばれ、都市伝説にもなった。「西岡雪子」という仮名もあった。彼女の伝説に対価を払う客も存在した。


 メリーさんが思い続けた将校は、戦争が終結するとそのまま家族の待つ故郷のアメリカ合衆国へ帰り、日本には戻らなかった。そうとは知らず、メリーさんは老いと闘っていた。殆ど客も取れなくなり、慣れ親しんだはずの土地から弾き出される仕打ちを受けるようにもなった。寝床としていたレストランやデパートの店先からも追い出されるようになり、時に、通りすがりの酔客から蹴られることもあった。危険が隣り合わせの街娼である。世間の仕打ちに覚悟はしていたが、老体には堪えるようになっていた。弾き出される理由が、その異様な容姿だけではなく、安物の香水の異臭や白粉の不潔さとは気付かなかった。白内障で視力が衰えたメリーさんは、それまでの毅然とした自己管理が立ち行かなくなっていたのだ。


 安住できる部屋が欲しい…そう望むメリーさんを社会は受け入れなかった。「住民票が必要です」と役所の窓口では法的に矛盾した断わり方をされ、完全に社会から拒絶される状態が襲い掛かっていた。


 しかし、老いたメリーさんを受け入れる人々もいた。メリーさんはよく横浜の歓楽街の一角・福富町にあるGMビルの1階エレベーター前に立って客に声を掛けていた。そこには最先端の街と暗い戦後を背負ったままの生活圏が背中合わせで存在していた。闇市、赤線地帯、不法滞在者の巣窟、韓国系の店が多く、コリアタウン化したヤクザだらけの風俗街。その裏の世界の人たち…親分衆、遊び人ら地回りの住民は、老いたメリーさんを見掛けると「ご苦労さん」と小遣いを渡すことが習わしにさえなっていた。メリーさんはそのお蔭で日々の生活が成り立った。チップを貰うとメリーさんは媚びることもなく、上品な笑顔で「センキュー」と返した。


 福富町は、大東亜(太平洋)戦争以前には商工地区だった。敗戦の焼け野原となって進駐軍に接収され、“かまぼこ兵舎”が多数造営されて1952年(昭和27年)まで発展が阻害されてしまった町である。接収解除後の1960年ごろから飲食店街、繁華街として賑わい、1966年にはトルコ風呂(現・ソープランド)の「営業禁止除外区域」に指定された。そのため関内地区にあった風俗店が福富町に流れ込み、性風俗産業等が伸長した。しかし、経営者の高齢化と後継者不在によって店舗の賃貸が増え、1988年(昭和63年)ごろには韓国系の店が増えてコリアタウン化した。どん底のメリーさんはそうした裏社会の生活圏では愛され、逞しく生きていけたのだ。


 1980年代末には運悪く、階段で転倒したことが原因で背中が曲がったままになってしまった。白内障も悪化し、化粧も街を歩くこともままならなくなっていった。悪いことは続いた。1990年、強制送還された同業者のタイ人女性がエイズに感染したことが発覚し、街娼に対する風当たりが強くなり、常連店にも通えなくなってしまった。気が付けばホームレスの身となった。

 老いてよろよろ歩くメリーさんの姿は、伊勢崎モールや尾上町の明治屋前や、馬車道、福富町など横浜繁華街でよく見かけられるようになった。晩年は住むところを持たず、家財道具一式が入っていると思われる大きな袋を下げた姿が目撃されている。そして、1995年12月18日、メリーさんは横浜の街から姿を消し、知人の援助を得て故郷に向かった。帰郷の援助をしてくれたのは、日頃ロッカーまで貸してもらっていたメリーさん贔屓のクリーニング店の女将さんだった。


 故郷に舞い戻ったメリーさんは白内障が進行し両目が見え難く、耳もかなり遠くなっていた。駅まで迎えに来た弟は、満身創痍の姉を送る手配をしてくれたクリーニング店の女将さんに感謝の念を抱き、メリーさんを車に乗せて帰った。変わり果てた姉を哀れに思い、歯のない彼女に入れ歯をしてやったり、白内障の手術もしてやった。お陰でメリーさんは見違えるように元気になった。

しかし故郷の“あの目”がメリーさんを受け入れるわけもなく、やはり田舎での居場所は見い出せなかった。ここはやはり帰る場所ではない…改めてそう思ったに違いない。メリーさんは横浜の知人には毎年末に帰郷していたかのポーズを取って、その実、毎年帰りあぐねていた。今回もただの年末の帰郷にすればいい…そう自他に取り繕って横浜に戻るしかなかった。

 しかし、帰郷の世話をしてくれた女将さんには会わせる顔がなかった。当然その足は女将さんから避けることになる。元の街娼に戻るには老い過ぎていた。かといって生活して行かねばならない。正月早々に帰郷して間もなく、知り合いに頼み込んで、なんとか場末の店でホステスのアルバイトに付くことが出来た。

 その店で11月末まで働いていたが体を壊してしまった。住居もなく、自分の世話すらできなくなったメリーさんは、結局、また田舎に帰らざるを得なくなってしまった。実家の弟を頼るしかないメリーさんを故郷の“あの目”は拒み続けている。弟は姉の意を汲み、故郷から数十キロメートル離れた津山の老人ホームを見付けてくれた。メリーさんはそこで10年ほどの余生を送ったそうだ。老人ホームのスタッフはメリーさんが元街娼だろうと関係ない。彼女にとってやっと得た安息の場所ではなかったのか…

 

 いや、そうではなかったかもしれない。生前の彼女が入居先の老人ホームから、彼女の支援者であるシャンソン歌手の故 永登ながと元次郎がんじろう氏に送った手紙が三通発見された。“御免下さいませ”で始まり、“かしこ”で締められている品格ある文面である。

『御免下さいませ。新緑の陰から緑濃く成って参りました。其後、横浜の港町如何御発展致していますか?(元次郎氏がホームに送った菓子などに丁寧に礼を記し)お許しが有ましたならば宜しく横浜の御地に帰ってみます。その時には懐かしの御皆々様、御無事で励みに成っていて下さいませ。(望郷の念と横浜に成長させてもらった感謝の意)かしこ』とあり、癌を患った元次郎氏が死去する2ヶ月前の2004年1月に送った手紙には『どんな事が有っても御健康が一番大切ですから、良く御充分に御気を付け遊ばしませ。(金銭的な支援へのお礼)園長様はじめ職員の皆様また園生一同の皆々様から元次郎先生の御元気で御活躍遊ばします事をお祈り申し上げてゐます」とあった。メリーさんはもその一年後の1月17日、心臓発作で他界した。


 彼女の手紙はホームからの心の叫びではなかったのか…彼女は横浜に帰りたかったのではなかったのか。横浜に帰ればまたあの将校に会う希望が持てる、いや、少なくとも横浜は将校との思い出に身を包むことができる町である。ホームの人々はみんな別世界に存在している。言わば故郷の“あの目”を持っている人たちと同類の世界の存在だ。自分の身はここにあってここにない。そういう重圧から逃れようと、昔を懐かしむことに救いを求めて手紙を書くことで吐き出していたのではないのだろうか…。


 ハマのメリーさんを、時代に翻弄された人とか戦争の犠牲者と表現するのは容易い。映画化や舞台化で描かれた彼女は誰なのか…少なくとも彼女ではない。

 彼女は故郷での心無い誹謗で深く抉られた傷から逃れるために、自傷と誇りの間で自分を一所懸命奮い立たせ、唯一心許せた「彼の帰りを待つ」というポーズで生き抜いたひとりの女性であろう。

 人は誰しも、大なり小なり“あの目”と闘っている。しかし、彼女は思っていただろう…“人の目”は何もしてくれない。自分のさがを出せずに“人の目”を気にして一生を過ごすなんて不幸だ。折角生まれて来たのはなぜなのか…自分らしく生きることは天命だ。


〔 おわり 〕


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