第3話 姥の腰掛石

 静岡と神奈川県境を流れる鮎沢川沿いの駿東郡すんとうぐん小山町おやまちょう生土いきど地区に、誰もが掛けてはならないとされている石がある。それは「うば腰掛石こしかけいし」と呼ばれている。姥とは金太郎の母・八重桐やえぎりのことである。八重桐は金太郎の帰りを待って来る日も来る日も、その石に腰掛けていたとされる。


 この世をば 我が世とぞ思う望月の

            かけたる事も 無しと思へば


 時の権勢を誇る摂政・藤原道長の時代、酒田家は代々、足柄山の神奈川県側の麓で都の貴族の荘園などの官吏を司っていた。きらびやかな文化を誇った平安朝の最盛期に、一歩宮廷の外の庶民の生活はというと、どうにもならないほどの貧しさが存在していた。神奈川県を含む関東地方は、当時の日本にとって辺境の地であり、貧困などがもたらす私有地や財産を守るためには武力を必要とした。これが武士の発生であり、彼らは次第に実力を付けて「相模武士」と呼ばれるようになった。


 箱根火山の外輪山である足柄山中、現在は金時山と呼ばれ、観光地になっているが、その山懐に囲まれた地蔵堂地区に四万長者といわれた足柄平太夫という富豪が住んでいた。

 平太夫には美しい八重桐という一人娘がいた。八重桐には縁談が持ち上がっており、その相手というのが、その足柄一の有力な郷士・酒田一族の後継者である酒田時景という青年。現在でもその名残として足柄上郡開成町酒田という地名が残っている。その青年・時景が足柄山中に狩りに出た時、木々の間から射す一筋の光と、生き物の気配のする水の音に誘われて近付いて行った。するとそこに、滝の水で体を清めている美しい娘の姿が見えた。


「…美しい」


 うっとりと見つめていると、その娘は気配に気付き、滝つぼに鋭く響く口笛を吹いた。気付かれたと、時景が歩を引き振り返ると、いつの間にかじりっじりっと迫っていた狼たちに囲まれていた。時景はとっさに刀に手をかけた! すると、既にすぐ後ろに立った娘の声がした。


「その刀を抜く前にあなたの命はありませんよ」


 凛とした娘の声と、殺気立っている狼たちに、時景の動きは止まった。一触即発の中、時景は静かに身分を名乗った。


「私は足柄の麓に住む、酒田時景と申す者。狩りに出たのだが、そなたの美しさに見惚れて、つい…」


 すると狼たちは一斉にウーッと殺気立った。


「麓のお方にはこの山は危険です。早々に立ち去られるが宜しいかと存じます。途中迄お送り致します」


 ゆっくりと振り向いた時景は、きりりとした涼やかな娘に改めて見とれてしまった。


「着替えるのもご欄になりますか?」


 間髪入れず狼たちが一斉にウーッと殺気立った。


「あ、いや、すまぬ!」


 我に返ったか、時景は慌てて娘から目を背けた。娘は速やかに着替えて狼たちを従えて歩き出した。


「麓までお送り致します」

「かたじけない」


 無言の八重桐は麓に辿り着くなり、足早に踵を返した。


「では、これにて」

「お待ち下さい!」


 狼たちが一斉にウーッと唸ったが、時景は引かなかった。


「宜しければ、そなたのお名前を…」


 狼たちは殺気立ってウーッと唸ったが娘はそれを制した。


「八重桐と申します」


 そう言って帰ろうとする八重桐の背中に時景は叫んだ。


「また会おうぞ!」


 その言葉にウーッと唸る狼たちに、時景も負けじとウーッ!と唸ると、八重桐は初めて笑った。


「ご縁があれば!」


 そう答えて八重桐は振り向く事なく足早に山に消えて行った。


「…八重桐か」


 八重桐に人目惚れをした酒田時景の心は、日に日に恋焦がれていった。そんなある日、時景が都に就く事になり、時景の心に急速に浮上してきたのが八重桐との結婚。「八重桐殿とともに都へ参りたい」…そう思った時景は、思い切って父上に心のうちを話してみると…「これはめでたい事」と、早速、八重桐の父の方にこの話を持って行ったところ、とんとん拍子に話が進み、時景はめでたく八重桐を娶る事となった。ところが当時、酒田一族の勢力は急速に広がり、それに連れて同族間での所領争いが始まっており、時景の敵である実の叔父・酒田某には不穏な動きがあった。


 いよいよ京へ旅立たなければならないという段になり、時景は故郷の見納めにと新妻の八重桐と二人だけで出掛けた。不用意に家来も連れずに外出したところを、この機とばかりに狙っていた叔父配下の郎党らに囲まれてしまった。


「何の用だ」

「お前の命を貰いに来たのよ」

「誰の差し金だ」


 酒田某の郎党らは皆殺気立ち、抜刀して時景に斬りかかってきた。八重桐をかばった一太刀が時景を襲った。


「ウウッ! おのれ! 見覚えがあるぞ! おまえらは叔父上の手の者だな!」


 八重桐をかばいながら応戦するも出血がひどく、次第に意識が薄れていく時景に致命的な一刀が振り下ろされた。時景の叔父・酒田某本人である。


「叔父上! 何ゆえ…」


 その問いに容赦ないとどめの一太刀が浴びせられた。時景はカッと叔父を睨み据えたまま一命を落とした。


「悪く思うな…お前の父親が所領を独り占めにするから悪いんじゃ。黙って俺に継がせればいいものを! 女の息の根も止めろ!」


 時景の無残な死を嘆く間もなく、郎党の刀は、ひとり八重桐に向けられた。


「このままあの世に送るのは勿体ねえが、おめえも早く時景の後を追いたかろう…死ね!」


 郎党頭が刀を振り上げたその時、その喉元に狼がガブリと噛み付き地面に噛み伏せて、そのまま鋭い眼光で酒田某を睨みすえた。気が付けば一団は八方から狼たちに囲まれていた。喉を噛み伏せられた郎党は痙攣が始まり、動かなくなった。狼たちは郎党らに身動きさせぬまま、八重桐を足柄山中に導いた。郎党らは狼を追おうとしたが、酒田某は引き止めた。


「待て! あの女は実家の平太夫のもとに逃げたに違いない。兵を立て直して今夜、平太夫の屋敷を襲う。平太夫諸共片付けてしまえ」


 夜になり、郎党らの黒い影が地蔵堂地区に近づくが、獣がやたらに多く、うろつくたびに郎党らは次々に噛み殺されて行った。日を変えては酒田某の執拗な潜入にも、熊や狼たちの守りは固く、獣らによる犠牲者が増えるばかりだった。


 酒田某が執拗に八重桐の命を狙うわけは、懐妊していたからだ。自分の甥・時景の子を産まれたのでは、いつの日か仇と狙われかねないと恐れ、平太夫の屋敷ばかりではなく、追っ手を出して八方探しはしていたものの、その先々で屍骸の山が築かれ、いつしか追手も死の恐怖に怯えて滞るようになっていった。やがて臨月も近付き、追手から逃れていた八重桐は、密かに実家に戻って出産の準備を始めた。


 九五五年(天暦九年)のある日、養生のため湯船温泉(現在の富士スピードウェイの近く、静岡県駿東郡小山町湯船)に湯治に行った帰り道、野沢川のほとりで急に産気付いた八重桐は、近くの獣道に逸れて酒田某の探索から身を隠せる「ちょろり七滝」に辿りつき、その水を産湯に使い、お供の狼たちが見守る中、自力で男児・金太郎を出産した。


 後々、周辺の人々は、丈夫に育って立派な武将になった金太郎にあやかろうと、この「ちょろり七滝」の水を産湯の水として使うようになったという。今も残る長者屋敷の庭石である「かぶと石」や「たいこ石」、金時山など足柄山の険しい山々、そこに棲息する野生動物は金太郎にとって遊び相手であり、観光地として現在に至って多くの伝説の足跡を残している。

 昭和九年に金時屋敷跡に金時神社が建立され、金時公園となったが、地震などの歴史を刻んで神社境内には今尚「第六天社」などがその面影を残している。金太郎が母を見よう見まねで、沼子の池からメダカを捕まえてきては、生きたまま器に入れて社前に捧げたという第六天社は、現在も子供の病気全快祈願のお礼に生魚を供えるという風習が残っている。熊と相撲をとって踏み割ったといわれる石には「踏み割り石」という名が付いているが、金太郎が大自然の中で足腰を鍛えていった過程が、その後の伝説の中で「荒熊の片足を掴んでくるくる回し、ニ三間投げ飛ばし、ああ、くたびれた、乳が飲みたいと、母が膝にぞもたれける」とある。


 八重桐は、金太郎に立派な人に成ってほしいと、学問をさせるためにお寺に通わせるようになり、やがて青年になった金太郎は、当時では職人のエリートともいえる鍛冶職人として働くようになっていた。日々、製鉄作業でふりかかる火の粉を防ぐ「腹掛け」をして、顔は火焼けで真っ赤になりながら技術の習得に励んだ。製鉄作業に欠く事のできない燃料の木を伐るのも欠かせない作業のため、金太郎は鉞を担いで幼き頃からの「友」のいる山に入るのが楽しみでもあった。


 金太郎母子がそんな日々を送っている頃、奥州の蝦夷征伐(現在の北関東から東北・北海道にかけて居住し、朝廷の支配に抵抗し、服従しなかった人々の征伐)を終えて、都に帰る源頼光一行が足柄峠にさしかかった。その家来(後の四天王の一人)の渡辺綱が、宿営地を求めて足柄山に入ったところ、全身真っ赤な大男が三跋羅髪に腹掛けをして熊に跨り、鉞を肩に担いで山を降りて来る姿に出会い、息を呑んだ。間違いない…あの者が里で噂の怪童と確信し声を掛けた。


「もし、そのほうは金太郎殿か!」

「あなたはどなたです?」

「私は源頼光様に仕える渡辺綱と申す。このたび勅命を果たし都に帰る途中で、今宵の宿を探しておる。そのほう、どこぞ心当りはござらぬか」

「…ついて来なされ」

「しかしながら、われら一千の軍勢でござる。容易に宿は…」

「冬とは言え今夜は天気もいい。獣達と寝ると暖かいぞ。さあ来なされ」


 さっさと去って行く金太郎の後を、やっとの思いで付いて行くと、生い茂った木々の間から広大な砦が現われて来た。飼い慣らされた狼や熊などの獰猛な獣たちが、金太郎に伸び伸びと群って来るのには、渡辺綱の足も動かなくなった。砦の奥から八重桐が出てきて、わが子の帰りを笑顔で出迎えた。


「母上! 只今帰りました!」

「お帰りなさい、金太郎…おや、今日は珍しい事にお侍様もご一緒かえ?」

「このお方は千人の宿を探しておられるというので、ここへご案内しました」

「金太郎の母、八重桐でございます」

「渡辺綱と申します。この度はまた難儀なお願いを…おや、土俵が!」

「いつも暇つぶしにこの熊とじゃれております」

「熊と!」


 土俵のそばで金太郎を待っていた熊は、渡辺綱を睨んで涎を垂らした。


「これ、あの御方は金太郎の大切なお客様ですぞ」


 八重桐のいうことが分かったか分からずか、熊はおとなしく奥に消えて行った。


「か、活気がござるな…」

「はい、このものたちの世話で日々退屈いたしませぬ。渡辺綱様と申しますと、かの源頼光様にお仕えなされておられるお方!」

「これは意外な! 私をご存知とは!」

「私の夫は酒田時景と申します。酒田家は代々、都のご貴族の荘園の官吏を司っておりました関係で、渡辺様のお噂は予予…」

「そうであったか…して主の酒田時景殿はご在宅か?」

「その事にて、お願いの議がございます」

「…何か深い訳がおありのようだな。心得た。その議は我らが親方様に直接に願い出られるよう取りはからいましょうぞ」

「ほんに! それはまた勿体ないお言葉でございます!」


 一千の軍勢を難なく迎え入れた八重桐・金太郎母子は、渡辺綱の執り成しで源頼光への目通りが叶った。主君を上座に、ト部季武、碓井貞光ら頼光四天王の側近が控える中、渡辺綱に促され、屋敷の主・平太夫の付き添いで八重桐の願いの議となった。


「平太夫殿、今宵は世話になる」

「勿体ないお言葉でございます。満足なお役にも立てず恐縮至極にございます」

「その礼といってはなんだが、そなたの娘御、八重桐殿の願いとやらを遠慮なく申してみよ」

「有難きお言葉にございます。不躾ながら仰せのとおり、遠慮なく申し上げさせて戴きます」

「んっ!」

「八重桐…」

「はい。恐れながら…我が子・金太郎をお召抱え願いとう存じます」

「母上! 何を申す! 私は生涯、母上の元を離れるつもりはない!」

「それはなりませぬ!」

「母上…せめて父上の仇を取るまでは…」

「お黙りなさい。何がためにそなたを厳しく育てて来たとお思いですか! このまま足柄に留まって、どれ程の人間になれるというのです。あの土俵を御覧なされ! あの狭い土俵が今のあなたの精一杯の世界ではありませぬか。このままでは、父の仇すら取れぬ腑抜けになるだけです。そなたのその腑抜け面を見たら父上もさぞお嘆きになりましょうぞ!」

「金太郎殿がお強いとの噂は里で聞いてたが、母上はもっとお強いようでござるな…あっはっはっはっは! 親方様…」


 渡辺綱が一言挟んで母子の会話を治めた。


「んっ! 母の愛はかくも熱く深いものじゃな。八重桐殿、そなたの願いは、しかと承ったぞ。して、金太郎…其の方は母の願いにどう応えるつもりじゃ」

「はい! 母上の意に従いまする。私を親方様の家来にして戴きとうございます」

「主従の関係は絶対ぞ、金太郎!」

「はいっ!」

「八重桐殿…」

「はい!」

「そのほうの倅・金太郎の命、確かに預かった!」

「有難き幸せにございます」

「金太郎、そのほうに名前を授く。本日より “公時” と名のるがよい」

「公時…」

「これより其の方は、この足柄の地を離れ、“公 ” に仕える “時 ” を得るのだ。よって、今より酒田公時と名のるべし」

「謹んで頂戴致します」

「ところで主・平太夫…」

「はい」

「この足柄を見守る山は何と申す」

「はい、猪の鼻の如き岩場の多い山にて、土地の者は猪鼻嶽いのばなたけと呼んでおります」

「さようか…ではこの足柄の山は今日より、この頼光の家来となる金太郎…いや、公時の誕生の山にて、足柄公時山と名付け、争いごとの無きよう、この頼光から主・平太夫、そのほうに改めて後を頼みましたぞ」

「ははーっ!」


 足柄山から金太郎が巣立ちの時を迎えたのは、九七六年(天延四年)、金太郎二十一歳の春遠い夕暮時だった。


 親子の別れを惜しむ間もなく、一行は夜明けと共に足柄山を発った。長蛇の列の中に金太郎の姿を追い求める八重桐の目に初めての涙が伝っていた。


「…金太郎」

「取り乱すでないぞ、八重桐…」


 と、娘を支える平太夫の目にこそ止めどない涙が流れていた。


 源頼光に仕えて間もなく、金太郎は渡辺綱と肩を並べて “頼光の四天王 ”と呼ばれるまでになった。頼光の武勲は伝説としても数多く残っている。葛城山に棲む土蜘蛛退治の伝説。市原野での鬼同丸退治の伝説。京都羅生門に棲む鬼女退治の伝説。京都愛宕山に棲む鬼女を一条戻橋で退治した伝説。


 折も折、大江山の鬼が人をさらって貪り喰うという噂に京の人々が怯えきる中、土佐の国司・一条家の姻戚にして随臣・池田中納言薫友の娘が行方不明になるという事件が起きた。そこで一条天皇は陰陽師・安部晴明に占いを請うた。


「見える…鬼の姿が見える。都を乱す不届きな輩が。どす黒い鉄の築地を越えて、鉄の門をくぐり、鉄の御所が…その中に、鬼が見える。首領は…首領は酒呑童子なる者ーッ! 副将は…茨木いばらき童子どうじなる者ーッ! さらに鬼の四天王、熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子の一味。大江山の山深き岩屋・くろがねの御所が見えまするーッ!」


 早速、源頼光に、事態を憂えた一条天皇から酒呑童子討伐の勅命が下された。源頼光一行は魔性の者と戦うべく、陰陽師・安部晴明の神事に従い、手分けして源氏の氏神である三神社に加護を求め走った。住吉明神には渡辺綱と酒田公時が、熊野権現には碓井貞光と卜部季武が加護を求めに出向き、石清水八幡宮には源頼光自らが(藤原)平井保昌を従えて出向いた。(藤原)平井保昌は和泉式部の二番目の夫で酒田家との親交があったと伝えられる。


 九九二年(正暦三年)、公時三六歳。源頼光の四天王の一人として、運命の酒呑童子退治に出立した。標高八三三メートルの仙丈ヶ嶽を主峰とする大江山連峰。鍋塚山や鳩ケ峰を含む深い山々。途中、千騎以上の武者が加わって来たのを見てすかさず源頼光は断を下した。


「皆の衆! 敵は魔性の者! 大勢で攻め入っても気付かれて後手になっては、元も子もなし! まずは我ら六名で敵陣を探って参る! もし三日経っても我らの戻らぬその時こそ、皆の衆にお任せ致す!」


 逸る武者たちには麓で待機させ、源頼光・渡辺綱・ト部季武・碓井貞光・平井保昌、そして酒田公時の六名で山伏に変装し、山に分け入った。鬼の岩屋のあるという千丈が岳…谷を渡り、峰を伝って進むうち、満開の桜に魅せられ、ふと足を止めた一同の前に、何処からともなく三人の老爺が現れ一同に警戒が走った。一人目の老人が尋ねた。


「あなた方は酒呑童子を討つためのご一行でございますね」


 卜部季武が答えた。


「酒呑童子とやらが如何なる者かは存ぜぬ。ご老人、我らは道に迷った山伏でごさる。麓への道を教えて下さらぬか」


 すると二人目の老人が尋ねた。


「まあ、まあ、まあ…ここに神変鬼毒酒じんべんきどくしゅをお持ち致しました。鬼どもは酒が大好物です。これは人間には妙薬、鬼には猛毒となる酒ですよって…」


 三人目の老人が割って入り、金太郎を指した。


「これ、そこの鉞を担いで、やけに赤い顔の太ってるお方! あなたにこの酒を託そう。鬼どもに呑ませるのじゃ」


 そう言うと三老人は「ご武運を」と鬼の岩屋への道を教えると、消えるようにいなくなった。頼光は呟いた。


「あの三老人は、おそらく石清水八幡、住吉明神、熊野権現の神の化身であろう」


 一行はさらに奥へと進むと沢に出た。沢伝いに進むと痩せこけたガリガリの老婆が洗濯をしているのに遭遇した。


「おめえさんら、何処へ行きなさる」

「われら道に迷って難渋しております。この近くに宿を貸してもらえるようなところはありますまいか」

「これ以上奥へ入るのはやめたほうがええな。来た道を戻りなされ」

「何故でござる」

「鬼に喰われるからよ」

「おまえ様は何故喰われぬ」

「見りゃ分かるじゃろ。あたしを見て食欲が湧くかえ?」

「・・・・・」

「湧くかえ?」

「なるほど」

「なるほどとは不躾じゃの、ケッケッケッ」

「おまえ様はここの者か?」

「あたしゃこの山神様に仕えて二百年になる。赤子の時にこの山に捨てられたのを、山神様に拾われて、今じゃ童子様の世話になっておるのよ」

「するとおまえ様は童子様の館を知っておるのか」

「このすぐ先じゃが、やめといたほうがええ。館に入った者で誰一人帰って来た者を見た事がねえでな…ケッケッケッ…」

「さようか。では、帰る時にまた会おう」

「生きてたらな…ケッケッケッ…」


 老婆と別れて、六人はさらに奥に進み、急にひんやりとしたかと思うと、鬱蒼とした木々の奥から、敵の攻撃も頑として受付けぬような巨大な “くろがねの築地 ”が現れ、一同圧倒されるのも束の間、ついに手下を従えた首領・酒呑童子が現れた。


「お主ら何者だ。この大江山に何の用だ」

「我々は出羽の国(山形県)、羽黒山の山伏でございます。この度、大蜂山に籠り、修行にて諸国を巡っておりましたところ、山陰道辺りで道に迷い、こちらに至ってしまいました」

「そうか、それは難儀であった…ただ、都ではこの私の命を狙う刺客が放たれたという噂があると聞く。お主らが本当の山伏なのか、偽の山伏なのか確かめたい。私の質問に答えてもらいたい。なに本当の山伏であれば造作もない事よ。だが…もし答えられないその時はお主らの命を貰い受けるが、それで宜しいかな」

「何なりとお尋ね下さい」

「それでは聞こう。山伏の行というが、その行とは一体何だ」

「はい。山伏の行とは、神変人智を超えた神秘的な変化菩薩の教えに習いまして、久修錬行を以って無相三密、十界一如の妙理を習得し、即身成仏を欲する修行でございます」

「成る程…ではお主のその手に持っている物は何だ」

「はい。こちら(右手)は、錫杖と申しまして、地に打ち振い諸仏の加護を受ける事によって、六道輪廻の眠りを覚まし、罪障を除くものにてございます。そしてこちら(左手)の数珠は最多角念珠と申しまして、珠の数は百八つにして煩悩を意味し、珠の形は知剣を表しております。そのお力を頂き、一心に念じて煩悩を菩提とするものにてございます」

「成る程…ではその頭に頂くものは何だ」

「はい。これは頭兜と申しまして、五智の宝冠にして十二因縁のひだを据え、黒い色は無明を意味し、頭に頂く事によって煩悩を打ち消すものにてございます」

「それでは、あの行者が手に持っているものは何だ」

「あれは…」

「待て…あの者に答えさせろ」


 金太郎は鉞について直接問われた。


「ではお答え致します。これは鉞と申しまして、道無き所に道をつけ、橋無き所に橋を架け、果ては修験の道を開くものにてございます」

「では、お主ら全員に聞こう。お主ら山伏が刀を所持しているのはどういうわけだ。山伏に刀はいるまい」


 卜部季武が答えた。


「これは刀ではございません」


 卜部季武に続けて渡辺綱が答えた。


「これなるは降魔の利劍と申しまして、仏法に害をなす悪魔・仏敵を打ち払うためのものにてございます」

「成る程な…」


 酒呑童子は不吉な笑いを浮かべた。


「降魔の利劍か…では最後にもう一つ聞く。先程お主は、十二の因縁と申したが、その十二の因縁とは何だ」

「十二の因縁…」

「そうだ。確かに申したぞ」

「確かに申し上げました」

「では、答えてみろ」

「その十二の因縁とは…」


 今まで流暢に答えてきた頼光の言葉が詰まった。


「どうした…答えられんようだな。それが答えられなければ、偽の山伏という事になる。約束どおり、お主らの命は貰い受ける。覚悟を致せ」

「いや暫くお待ち下さい。答えられぬのではありません。良くぞそのご質問をなされたと感服致しておりました。どこぞにて確かなる修行を積まれたお方と拝察致し、修行浅き己を恥じ入る次第でございます」

「…修行など積んで何になろう…そのような事より、うぬらは質問に答えればよいのだ」

「あなた様こそ修験の鏡でございます。謹んでお答え申し上げます。十二の因縁とは、三界に於ける互いの因果を、無明・行・識・名色・六処・触・受・取・有・生・老死の如く十二に分けまして解きしるしたる因縁、即ち尼陀那の事にございます」

「・・・・・付いて参れ」


 源頼光はすべての質問に答え、盛大な酒盛りに歓待された。そして宴もたけなわの頃…


「これほどまでに馳走になっては申し訳が立ちませぬ。せめて我らも何か土産の一つも差し上げねばと思うのだが…」

「丁度宜しきものがございます。旅の途中にご老人から戴いた不老不死の酒でございます」

「そうか! ではそれを共に味わいましょうぞ」


 ついに神の化神の怪しげな三老人から戴いた神変鬼毒酒を酒呑童子らに呑ませる事になった。これは格別の酒と、酒呑童子たちは大喜びであっという間に飲み尽くし、喰い尽しての大宴会の末、夜も更けて鬼たちは毒酒の力で前後不覚に眠り込んでいった。頼光は頃良しと見て、配下を従えて、酒呑童子の寝所に忍び入り、刀を抜いた。その刀、平安時代の名工・安綱の最高傑作と謂われている刀身八十センチの刀。波紋は直刃(直線的な刃文)で切先は小切先。その名も知る人ぞ知る、かの名刀「童子切安綱」。室町将軍家に渡り、豊臣秀吉、徳川家康、家忠と受け継がれ、現在は国宝として東京国立博物館に収蔵されているという一品。その童子切安綱の抜刀音の殺気にさすがの酒呑童子は目を覚ました。


「おのれ頼光、謀ったなーッ!」

「何! 私を頼光とな!」

「お主となら話も出来ようと思うたこの私が愚かであった! 毒酒を盛ってまで敵を倒さんとは卑怯な! 我らとて、ただの一度たりとも人を騙した事はないものを! それほどまでにこの首が欲しければ、くれてやるわ! 持って行け!」


 身の丈3メートル、真赤な頭髪から伸びた2本の角。鬼の本性剥き出した酒呑童子は、毒酒の効き目で思うように動かない体を頼光の前に大の字に差し出した。今まさに頼光が童子をしとめようとしたその時、公時が止めに入った。


「今しばらく! 親方様、今暫くのご猶予を!」

「公時、何故止めだて致す!」

「恐れながら、この者が三途の川を渡る前に、何故悪事を働くようになったのか問うてもらいとうごさいます!」

「何故に悪事をとな」

「はい…私は、母の手ひとつで育てられました。父の愛は知りませぬ。しかしながら、母の優しさがあったればこそ万物に愛を傾ける事もでき、父を肌で感じる事も出来ました。この者の悪行の源を辿る事こそ真の成敗ではなかろうかと…」

「よくぞ申した、公時。なれば童子を、暫くお前に預けようぞ」

「有難きお言葉! …酒呑童子殿…察するに、貴殿の今日あるは、余程やむにやまれぬ訳があっての因果と、この公時、拝察致すが…宜しければ話してはくれぬか」


 金時の熱い言葉に、ジロリと睨んだ酒呑童子だったが、すぐさまその表情は緩んだ。


「金時とやら…風体に釣合わぬ言葉を吐くものよ。気に入ったぞ」


 見る見る童子から鬼の様が消えていった。


「私は越後生まれの山寺の稚児(下働き)だった。越後の弥彦山の南、国上山という山に国上寺という寺がある。全ては人の嫉妬と情念に振り回されての生涯…」


 酒呑童子は毒酒のしびれに耐えながら語り始めた。それによると、酒呑童子は、立派な僧侶になろうと父の元を離れ、越後の国上山の国上寺に修行に入ったという。幼名・外道丸は、本山の弥彦神社に書簡を届けに行くのが日課となっていた。その道すがら、近所の娘たちは外道丸を待ち伏せて、彼の袂に恋文を入れるようになった。外道丸は、これも有難い修行のうちと、それらの恋文を読む事無く、そのまま全て住職に渡していた。ところが恋焦がれた娘のひとりが、全く振り向いてくれない外道丸の素振りに人生を悲観し、命を絶ってしまった。それからというもの、二人、三人と命を絶つ者が続き、村人たちは外道丸を罵るようになっていった。

 ある日、思い余った外道丸は、崇拝する住職に相談をすると、思いもよらぬ「妬み」の言葉が返って来た。そして住職ばかりか共に修行を積んできた仲間までが、ありとあらゆる悪口雑言を吐き疎外するようになっていった。法師たちに対する外道丸の絶望は、日を追って憎しみに変わり、ついにその法師たちを殺す悲劇が起こってしまった。その事があってから、人々は、外道丸を鬼と恐れ、そのうち外道丸自身も「自分は鬼である」と思うようになっていった。間もなく越後を追われ、比叡山に辿り着いた外道丸であったが、越後の噂が一段と残虐さを増して追いかけてきてしまった。


 比叡山は伝道大師・最澄がおり、その法力の名に於いて外道丸は追放され、やっとの思いで大江山に辿り着いたところ、すでに噂が待ち構え、たちどころに弘法大師・空海によって封じ込められてしまった。しかし、空海が入寂した事で外道丸の封印が解け、心機一転、酒呑童子と名乗り、そこを拠点に次第に頭角を現し、噂が噂を呼び、似たような境遇を持つ者たちが集まってきて、大江山は鬼が住む山と呼ばれるようになった。そして人望の厚い酒呑童子は、次第に鬼の王として君臨するようになったという事だ。


「我らは農耕とタタラと申す製鉄の技で自給自足せる民。都で悪事を働くなどという輩とは我らは無縁だ。この佇まいは、そのような山賊どもから身を守るために築き上げたもの。御どもらに首を刎ねられる覚えはない!」

「酒呑童子殿、よくぞ話してくれた。親方様、かくなる上は何卒寛大なるご裁定を!」

「そのほうの申し立ては相分かった。しかし如何なる訳があろうと、越後での罪は免れん! その罪を成敗致す!」


 源頼光の童子切安綱が一閃、童子の首の寸前でピタリと止まり、そして童子切安綱は静かに鞘に収められた。


「酒呑童子一味は成敗致した。この先、童子は神となり、都に悪事を働く輩を一匹残らず退治するであろう。皆の者、引き上げじゃ!」


 以来、大江山の鬼の噂はピタリと収まった。頼光一向は帰りがけ川に差し掛かると、また老婆が洗濯をしていた。


「ご老婆よ、約束どおり、鬼に喰われないで帰ってきたぞ」


 話し掛けた卜部季武の目前で、老婆は見る見る骨になっていった。


「これは大変だ。鬼の神通力が消えたか、ご老婆が!」


 公時は骨になった老婆を手厚く葬った。


「公時…そのほう、母上が心配であろう。そちの母上は今頃どうしておろうのう」

「はい…」

「綱よ」

「はっ!」

「聞けば、公時の郷里の酒田郷では近頃、山賊が荒らし回っておるそうな。そろそろ成敗せねばなるまいが、そちはどう思う」

「土地に明るい者を頭に、早急に成敗すべきと考えます」

「そちもそう思うか。では酒呑童子退治も落着したばかりではあるが、土地に明るい公時を頭に、そちも酒田郷に飛んではくれぬか」

「御意! 公時殿、宜しいかな」

「この上ない有難きお言葉、急ぎ成敗致して参ります!」


 酒田郷の山賊とは、公時の父・時景の叔父・酒田某の一族。九九四年(正暦五年)、公時三八歳にして、頼光の計らいでやっと念願の父の敵討ちの段と相成った。二百騎の軍を酒田郷の入口に待機させ、母の暮らす地蔵堂への道に差し掛かった公時と渡辺綱は、そこで老婆が数人の郎党に足蹴にされているのに出会った。


「やめろ、年寄りではないか!」

「おめえらどこの者だ!」


 郎党は、老婆の近くで血まみれで息絶えている一匹の狼を指した。


「おめえらもこうなりてえか。なりたくなくば、よそ者は黙ってろ!」

「よそ者ではない。オレを忘れたか」

「…? あっ! …も、もしやお前は!」

「叔父上はまだご健在か。金太郎が首を貰いに来たと伝えろ」

「な、なにっ! 首だと!」


 たじろぐ郎党たちに、金太郎は息絶えた狼を指して更に凄んだ。


「おまえらも今すぐにこうなる」


 郎党たちを冷徹に睨み据えながら鋭い口笛を吹くと、機を待っていたように狼たちが何処からともなく現われて郎党たちを取り囲んだ。恐怖に引き攣り、逃げ散る郎党たちに狼たちは喰らい付き、荒々しい唸り声を上げながら凄惨な修羅場を繰り広げていった。


「綱殿…見ないほうが良かろうかと…」

「…そ、そうでござるな」


 公時は老婆に駆け寄って抱き起こした。


「母上…ただ今帰りました。金太郎です」

「何! こなたはそのほうの母上なのか…何があったのじゃ、この変わりようは…」

「目が見えぬのか、母上…」

「なんと!」


 渡辺綱は信じ難い情景に思わず目を潤ませた。


「どうしたというのだ…何があったのだ、八重桐殿!」


 八重桐は寂しさのあまり乱心。金太郎を探し続け、泣き明かすうちに目がつぶれてしまったのだ。


「母上…金太郎が帰って参りました…母上…母上…」

「…金太郎…金太郎…」


 八重桐は、力なく金太郎の名前を繰り返すばかりだったが、僅かに生気を取り戻した。


「そうです、金太郎です。金太郎が父上の仇を討ちに帰って参りました」

「…父上の仇…金太郎…父上の仇…金太郎…」

「母上…」

「…金太郎?」


 ふと八重桐の手が金太郎の顔に伸び…指先にいとおしい我が子の体温が伝わった時…


「あ…! 金太郎! 金太郎! 金太郎ーッ!」


 やっと正気を取り戻した八重桐は、痩せ細った両の手で、しっかりと我が子を抱きしめた。


「金太郎―ッ!」

「母上!」

「金太郎…帰って来たんだね…」

「はい、只今帰って参りました、母上!」

「金太郎…折角帰って来たというのに、おまえの顔を見れないのが口惜しい…」

「なあに、母上…この金太郎が、箱根の山の湯まで根気よう湯治に通って、母上の目を治してやりましょう。だがその前に、やらねばならぬ事がある…母上にその薄汚いものを見せたくはありませぬ。見せなければならないのは、ただひとつだけ…ですからそれまで、そのまま眼をつぶって…待っていて下さいね」


 ゆっくりと八重桐を抱き上げ、金太郎は立ち上がった。


「軽くなったのう、母上…」


 めらめらと燃える大叔父への怒りを抑え、酒田郷の入口で待機している騎馬隊に向かい、金太郎の采配が下った。


「これより酒田郷に蔓延る山賊を成敗致す! 皆の者、出陣!」


 騎馬隊が一斉に酒田某の砦に攻撃を開始した。なんと、ものの半時で酒田某の砦は全滅。捕われの身となった酒田某は、金太郎の前に平伏させられた。


「この大叔父を殺す気か」

「母上の目が癒えるまで、その首は繋げておいてやる」


 金太郎は、酒田郷の立て直しをする一方で、渡辺綱の計らいで母・八重桐の目の治療にも専念する事ができるようになった。


「母上、長湯は体に毒です。今日もこのぐらいであがりましょう」

「そなたがお腹の中にいる頃は、ひとりでよく湯治に出たものです」

「このごろ、母上もやっとお顔の色が良うなって参りましたな」

「ほんに…今日はおまえ様の顔がはっきりと見えまする」

「…母上…今、なんと?」

「おまえ様の顔が見えまする…見えまする…金太郎!」

「母上!」

「ほんに立派になられましたなあ…」

「母上、良うございました! ほんに良うございました!」

「おやおや、金太郎の顔がゆらゆら揺れて来ましたよ…」


 金太郎の思いは通じ、ついに八重桐の目は見えるようになっていた。


 この箱根の山の湯で湯治した八重桐の眼が治って以来、大涌谷と桃源台のほぼ真ん中に位置するこの辺りの湯治場は姥子温泉と呼ばれるようになった。


 母の眼病も治り、いよいよ酒田某の首を刎ねる時がやってきた。八重桐の夫・酒田時景の仇。約束どおり目の癒えた母の眼前に、家来達が酒田某を引っ立て、土俵の中央にひざまづがせた。


「大叔父上…覚悟は宜しいかな」

「わしは悪くない。おまえの父親が欲深いんじゃ。実の大叔父をこのような目に遭わせて、おまえもろくな死に方はしないな。ひとおもいにやるがよい」

「この後に及んで父上を愚弄するとは哀れよのう。大叔父上のような人間を斬ると、この刀が穢れる。相撲で決着をつけようぞ」

「何…相撲だ? ふっ…おまえも父親に似て生温いやつよのう」

「生温いとな。それを聞いて安心した。それでは相撲の軍配が上がるまで命があったら、助けてやろう」


 そう言って金太郎が口笛を吹くと、暗がりからのそりのそりと出て来たのは大熊だった。酒田某はうろたえた。


「は、話が違うぞ!」

「相撲で決着をつけると言ったではないか」

「こんな獣とは聞いていない」

「大叔父上、見苦しゅうござるぞ」


 土俵から逃げ出そうとするが、ザザッと狼たちが詰寄り、酒田某を土俵中央に戻した。


「腹を決められい、大叔父上」

「わしが悪かった、許してくれ! 許してくれーッ!」

「八卦よい…」


 背後で熊はよだれを流して唸った。


「グルルルルーッ」。

「ゲッ!」


 ゆっくりと振向く、酒田某の振向きざまを、脳天から一気に熊の爪が振り下ろされた。酒田某は一言発する間もなく、もんどり打ってほぼ即死であった。


「母上…」


 八重桐は天を仰ぎ、夫・時景に話し掛けた。


「見ましたか、あなた! 金太郎が仇を討ってくれました! ありがとう、金太郎…これで父上も浮かばれまする」


 金太郎は晴れて母・八重桐の前で、父・酒田時景の仇を討ち果たす事ができた。


 翌日、八重桐は夫・時景の墓前に報告をし、金太郎に向き直って改まった口調で話し始めた。


「金太郎、お願いがあります。すぐに出立なされ。これは母の最後の頼みとして聞いてたもれ。源頼光様へこの度のご恩返しをせねばなりません。もう一働きをしたら、ご先祖様に申し訳が立ちましょう。その時は、晴れて源頼光様よりお閑を戴き、この母の元へ帰って来て下され」

「母上は強いお方です。この金太郎はその母上の子です。分かりました。この度のご恩返しをし、必ず母の元へ帰ってまいります」


 そう言って、母子は再び辛い別れをする事になった。


 大江山征伐の後、公時一行が足柄に出向いてる間に、九州に凶徒が侵攻して来ていた。朝廷の勅命を受けた源頼光は、筑紫(福岡県)に向かって征討の軍を進めている最中、美作の国・勝田庄(岡山県勝田郡勝央町勝間田)糸山の麓で寒さと雪に阻まれ滞在する事になった。一足遅れて合流した公時と綱一向だったが、その時、公時は体調を崩していた。そして、この篭城中に公時はさらに重い熱病を患い、頼光はじめ四天王の手厚い看病の甲斐もなく、寛弘七年(一〇一〇年)十二月十五日…童の日に返ったような穏やかな表情で「母上…」と、ただ一言のうわごとを発し、五十五歳の生涯を閉じたのである。


 酒田郷には平和な日常が戻っていた。


「父ちゃん、疲れた。ここで休む」

「あっ、そこに座ったら罰が当たるで…この石はな。金太郎様の母様が、帰りもしねえ我が子を、毎日毎日坐って待ってた石だ。それでここは “子迎え ”という地名になっているんだよ。金太郎様がこの里の山賊を退治してくれて、源頼光様の元に帰ってったら、母様は間もなく亡くなってしまったんだよ。その石には今でも金太郎様の母様が坐っておられるかもしんねえから、誰も坐っちゃなんねえ。わかったな」

「わかんねッ!」

「なんだよ、おめえは!」

「疲れちゃった、疲れちゃったーッ!」

「分かった、分かった。父ちゃんがおんぶしてやっから…(背中を)ほれ…」

「父ちゃん、ありがと! 大きくなったら、オイラも父ちゃんをおんぶしてやっから…」

「もう寝ちまった。よっぽど疲れてたんだな…おめえもいい夢見ろよ」


 童が座ろうとして父親に止められた石こそ、「姥の腰掛石」だった。


 帰りを願う母の願いも空しく、金太郎は公僕として遠い地でその生涯を閉じた。勝田庄、現在の岡山県勝田郡勝央町の人々は、後に公時塚の上に公時を祀る社を構え、倶利伽藍権現と称え、明治元年(一八六八年)、栗柄神社と改称した。

 酒田公時のお墓は隣の兵庫県川西市満願寺町の満願寺にある。満願寺の本堂近くの丘の緩やかな坂道沿いにズラーッと十メートル間隔で立ち並ぶ小さな石仏があり、一番から番号が付けられている。その中の八十八番目の石仏の近く…そこから一段高くなっている所に、ひっそりと立っている三つの石柱が公時のお墓だそうだ。


 金太郎の伝説のモデルは平安時代の藤原道長全盛時の、攝津守源頼光の近衛兵の第一人者である下毛野公時という人だと謂われている。下毛野公時の没後、約百年後に編纂された「今昔物語」には『今は昔、攝津守源頼光の朝臣の郎党にてありける平貞道、平季武、公時という三人の兵ありけり。皆、見目もきらきらしく、手利き、魂太く、思量ありて、愚かなる事なかりけり。されば、東にても度々よき事どもをして、人に恐れられたる兵どもなれば、攝津守も、此等をやむごとなき者にして、後前に立ててぞ使いける』とある。


 足柄では、今日もいつものように同じ石に座って、金太郎の帰りを待つ八重桐の姿があった。


 そこに…


「母上、只今帰りました」

「金太郎! …お帰りなさい」

「母上…金太郎はもう母上の側を離れとうありません!」

「私もです、さあ母の元へ!」

「母上…」


 しっかりと母に甘えて抱きしめてもらう金太郎は、童の日に返ったような穏やかな表情となった。そして二人の姿はそのまま天上へと消えていった。


〈 おわり 〉

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