第58話


同じ星空の下、紫雲山では、黎と楓がある一室を訪ねていた。

「今頃二人とも休んでるかな」

「宴会に巻き込まれてないといいけどな」

 黎は遠くの空の下に思いを馳せる。王の祭祀に関わるなど、初めてのことだ。そして、黎にとっても青嵐がいない夜は、昇山してから初めてだ。何となく落ち着かないのは、日常とは違う環境にいるからなのか。折角なので、同じく相棒のいない楓を誘ってみた。すると、それならある人を訪ねてみないかと誘われた。

楓が先に立って扉を叩くと、しばらくしてからどうぞと声がかかる。黎は緊張した面持ちで背を正した。楓が扉を開ける。中はほのかな灯りがところどころに灯されているだけだった。しかし部屋の中まで進み、あたりを見渡すと、黎は小さく歓声を上げた。部屋には整然と棚が均等に並べてあり、半分には書物が、残り半分には弦月魚の水槽が並んでいた。埃一つなくきれいにされている。

水も濁ることなく綺麗で、中もごみひとつ、藻ひとつない。ひれもみな美しく、欠けることなく揺れている。

「愛だねえ」

「愛ねえ……それはともかく、すごいだろ」

 楓は苦笑した。ここまできっちりと管理されているところはないらしい。

 部屋の奥から一人の男が姿を現す。菫よりも少し年上だろうか。三十代後半くらいに見える。しかし菫と違い、御龍氏見習いの薄い青の服をきっちりと着て、長めの髪は後ろで綺麗にまとめられていた。見るからに几帳面そうな男だ。楓からは、見習いだけれども、忙しい御龍氏たちに代わって弦月魚の世話を一手に引き受ける、弦月魚に目がない男だと聞いていた。一匹一匹、毎日細かに記録をつけている。そのせいもあってか、なかなか御龍氏になれずにいるのだと。確かに書物を見ると、背表紙に名前らしきものが書かれている。

「遅くに来てもらって悪かったね」

「いえ、こちらこそ突然すみません。こちらが榴様だ。榴様、こちらが春に昇山した黎です。弦月魚のこと、いろいろ教えていただきたいそうです」

「はじめまして」

 黎は深々とお辞儀をする。榴は黎を頭からつま先まで、観察するようにじろじろと眺めた。

「す、すごい数の弦月魚ですね」

 なんとなくその視線が居心地が悪くて、黎は話を振る。榴はそれを察したらしく、ばつの悪そうな顔をした。

「すまない。悪い癖でね……いつも弦月魚を観察しているせいで、他の人に対してもやってしまうんだ」

 そうなんですか、と黎はわずかに緊張を解く。榴は部屋の奥へと二人をいざなった。百二十一いるという弦月魚の水槽は圧巻で、すべてが均一に立方体の塵ひとつない水槽に入れられていた。互いが見えないように仕切ってある板を除けば、すべてが透明で、明かりをつければその姿が美しく浮かび上がる。敷き詰められた宝石のようなその姿に、二人はため息をついた。

 部屋の奥につくと、榴は研究机の横から椅子を持ってきて、二人に勧める。その目は既に黎の弦月魚を捉えていた。

「来てもらって早々で悪いが、きみの弦月魚を見せてくれないか。初めての個体は観察せずにいられないんだ」

「は、はい」

 食い入るように見つめる榴に、黎は若干ひきながらも水球を渡す。榴はそれを上から下から斜めからと、お宝を見る鑑定士のように角度を変えて見ていった。玄珠は全身が星や月明かりのない夜のように真っ黒だ。まだまだ若く小柄で、今のところ、ひれはどこも欠けておらず、病にかかっている節もない。ひとしきり眺めて、ようやく口を開いた。

「きみの弦月魚は、初めからこの色か?」

 黎は面食らいながらも、はいと頷く。

「弦月魚の平均寿命は十年。だから見習いはまず一匹目が死ぬまでに御龍氏になれるよう精進する。また新たな弦月魚と関係を築くのは、容易いことではないからな。しかし、漆黒の弦月魚は寿命が短い」

 説明文を読み上げるような淡々とした声だ。黎は目を見開く。

「どのくらいなんですか」

「半分くらいだな。模様が付いたり、他の色が入れば別だ」

 楓は黎の表情を覗き込んだ。普段は柔和な顔が、明らかに強ばっている。楓は場の空気を変えようと口を開いた。

「あの、御龍氏になれば、つまりは弦月魚が夔龍になれば、神獣と同じように長寿になるって聞きました」

 榴は楓の言に頷いた。

「もちろん。黒い弦月魚の例は少ないが、その可能性は高い。夔龍と化した弦月魚は、記録にある限りすべて同調する御龍氏よりも長く生きているからね」

「御龍氏になれば……」

 黎は口の中で反芻する。

「それができれば苦労はしないのだけどね。どうしたら夔龍と化すのか、その仕組みは未だにわかっていない」

 榴は付け加えた。

「模様はどうしたら」

 ならばせめてと、黎は問う。しかし榴は小さく首を振った。

「不明だ。どちらも強い同調状態にあると聞いているが、同調してもならないことの方が多い。かといって他に共通点もない」

 そうですか、という黎の声は、尻すぼみに小さくなっていった。榴はすまなさそうにお茶を勧める。

「何か私で力になれることがあればいつでも言ってくれ」

黎はありがとうございますと、何でもなかったかのように笑む。話題が次に移ると、普段と変わらないような顔をして、それについていった。

その後、病気の対処法やえさの量の解説を聞き、一通り室内を見せてもらうと、二人は帰路に就いた。星は鮮やかに天上にきらめいている。空気が澄めば、より一層輝きは増すはずだ。楓はずっと気になっていたのだろう。榴の居室から完全に遠ざかると、声をかけた。

「大丈夫か、その……寿命のこと」

 黎は微笑む。

「ありがとう。びっくりしちゃったけど、でも玄珠の寿命に限りがあるんだってわかって、よかった。知らずにいたら、そのままお別れなんてことになりかねないもの」

苦しくても、何か手を尽くすことができれば。

「どうしたら御龍氏になれるんだろう」

空席があろうとも、夔龍とならなければその席が埋まることはない。それは人間の思惑が介在できない、公平なやりかたなのかもしれない。

「桑老師は、弦月魚と心が一つになった時って言ってたな。同調して、少しでも弦月魚に近づけるようにしたって。……でもそんな簡単じゃないな。俺のは最初からこういう模様だったし。そうだ、青嵐は模様ついただろ? どんな時についたんだ?」

 黎はどきりとする。青嵐の弦月魚に花の舞う模様が付いたのは、青嵐が過去を昇華した時だ。そんなこと、言えるはずもない。

「あんまり詳しくはわからないんだ」

 黎は笑ってごまかした。自分が何かを昇華するとしたら。黎は空を仰いだ。星は見えなかった。

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