泡雪の華

第56話

バクバクと耳に鼓動が響く。口の中に土の味が広がったが、一瞬でそれは忘れた。声を上げることもできなくなった口を、荒い息だけが行き来する。最後の抵抗なのか、わずかばかり後退する手、足。しかしそんな僅かな抗いも、敷き詰められた落ち葉を潰して近づいてくる足音の前に凍った。自分のものではない激しい息遣い。上を見上げると、自分を追ってきた大男が、大きな剣をだらりと片手で持ってじりじり近づいてくるのがわかった。本当に命の危険が迫った時、人は祈ることすらできないのだ。ただただその大剣がゆっくりと持ち上げられるのを見つめている。剣は頭の頂へと掲げられ――次の瞬間、視界から大男ごと蹴りだされた。代わりに、淡い青の服を纏った少年がそこに収まる。少年は軽やかに着地すると、間髪入れず、体勢を崩してよろめいた男の膝を払った。大男はとうとうその場に倒れこむ。

「何だ、この禍々しい気は?」

 少年は呻きながら体を起こそうとする男を見回した。額に、妙な模様があるのに気づく。が、男が体を起こしたのを見て、土を掴み、顔めがけて投げた。大男は顔を覆う。即座に顎めがけて強い蹴りが飛んだ。頭が揺れて、大男は再び膝を折る。

少年はちらと後ろを見た。そこには、動けずに座り込んでいる少女が一人。

「走れるか?」

 少年の問いに、少女は小さく首を振る。すると少年は何も言わずに、少女を担いで走り出した。少女はただそれに従う。

(何が起きているの――)

 少女はようやくそれだけ考えた。少年は速度は速くないものの、迷いなく走って行く。しばらく走ると、息を切らして足を止めた。人ひとり抱えて走っていたのだ。当然だろう。それでも少女をゆっくりと下ろす。少女は改めて少年をまじまじと見た。眼光がやや鋭い。武人のようだと、射貫かれそうな目にどきりとした。しかし、武器の類を持っている様子はない。背に軽く荷物を背負っているだけだ。少年は竹筒を取り出して少女に差し出す。ごつごつとした手だ。少女は礼を言って水を口に含んだ。冷たさが喉を通り抜けていく。少年もぐいと飲むと、まじまじと少女の顔を見てきた。

「何か?」

「いや、知り合いに似てるなって」

 少年は恥ずかしそうに頬をかく。青色の衣は、ある階層の者しか身に着けることを許されない。それが淡い色であったとしても。王族か、あるいはこの瓏の国を導く神、龍に仕える御龍氏。しかし御龍氏が纏うのは濃い青だ。となれば、彼はその御龍氏の見習い。そこまで考えが至ると、自然と口元が緩む。

「それは、黎のことでは?」

 え、と少年の動きが止まる。どうやら図星だったらしい。

「申し遅れました。私は夔蓮。黎の姉です」

「驚いた。そういや、兄貴と姉貴がいるって言ってたな」

 蓮は一層、この弟と同じ年頃の少年に目尻を下げた。

「まあ、話してくれていたのですね。嬉しい」

 少年も少しだけだが、柔らかく笑んだ。

「俺は青嵐という」

「嵐様?」

「いや、青嵐で一つの名だ。こっちのほうでは珍しいらしいな」

 青嵐様、と蓮は反芻する。大事に胸にしまうように。しかしその余韻も溶けぬうちに、青嵐の顔は引き締まった。

「とりあえず、戻ろう。かち合わないように、少し遠回りしていくぞ。足はどうだ?」

「少し擦りむいただけです」

「見せてみろ」

家の者以外に、素足など見せたことがない。蓮は頬を染めてためらった。しかし青嵐は意に介さず、膝くらいまで裾を持ち上げる。蓮は声にならない声を上げた。しかし青嵐にそれは届かない。背負っていた袋から小さな薬壺を出すと、これまたためらいもなく膝付近の傷に塗った。そして、壺をしまうと、蓮を抱き上げた。

暴漢から命を救われ、素足を見られ、抱き上げられた。この数十分で起こった出来事だ。

(これはもう、このまま結婚するしかありませんでしょうか)

 あまりにも非日常的なことの連続に、蓮の思考がおかしな方へ飛んでいく。蓮は自分を戒めた。

(落ち着くのです、私。御龍氏は龍に仕える者。おかしなことはなさいません!)

 その証拠に、青嵐は何でもないような顔をして歩き始めている。

「あの、歩きます、からっ」

 蓮は顔を真っ赤にして、ようやくそれだけ言う。青嵐は眉を寄せた。

「遅くなるだろ。この方が効率がいい。それに、話も聞きたいからな」

話、と蓮は反芻する。

「あの男は、何者だ?」

 青嵐の声が、ぐっと低くなる。蓮の顔から、さっと朱が引いた。男個人が何者なのかはわからない。けれど、彼らであれば何度も見聞きしていた。ぎらぎらと恨みを込めて、こちらをねめつける目。あちこち破れた服から見える、強靭な肉体。数々の戦いをくぐってきたであろう大きな剣。

「あれは、剣奴です」

「剣奴?」

「はい。もとは琥の捕虜でした。彼らの剣舞が大変美しいのをお聞きになった陛下が、捕虜同士で戦わせたのが始まりで……いまやその勝敗を連夜競うほど大変ご執心なのです」

 蓮は目を伏せる。現場を見たことはない。だが、襲われる側となったあの恐怖を思い出すと、それがあっていいものなのかと思わずにはいられない。

「わざわざここまで連れてきたのか」

「はい。今日はこちらで祭祀も一通り行うようですから、その後の娯楽に連れてこられたのでしょう」

 本来は猟をし、その獲物を神に捧げ、恵みを感謝する行事だ。自らの領地の視察も兼ねて。その後の饗宴は自然な流れだが、それに剣奴は必要ない。龍は争いを好まないのだから。

「なんでそんな奴があんたを?」

 蓮は首を振った。

「わかりません。でも私も貴族の端くれです。権力闘争に巻き込まれる可能性が、ないわけではありませんから」

「めんどくせえんだな」

 青嵐は、ちらと蓮を見る。朱の冷めた蓮は、すっかり貴族の娘の顔をしている。美しく着飾って、そつなく振る舞う。焚き染めた甘い香で、その身を守るように。都にいたのは少しの間だけだったが、青嵐には少し近寄りがたかったのを覚えている。近寄る用もなかったのだが。

「黎みたいなほやほやしたのだったら、やってられねえだろうな。昇山して正解だったな、あいつ」

 蓮は口元に袖を当てて、くすくすと笑った。思い当たる節があるのだろう。

そして今度は、恥ずかしがることなく青嵐の顔を見た。

「青嵐様、黎のこと、よろしくお願いいたしますね。もしわたくしにお役に立てることがございましたら、何なりとお申し付けください」

「何だよ、何かあるのか?」

「いえ、あなたは命の恩人ですから申し上げたまでです。何もないに越したことはございません」

 蓮は、奏上するようにすらすらと言う。何だか含みがありそうだと、青嵐は眉根を寄せた。が、聞いても答えてはくれないだろう。仕方なく、そうか、とだけ返した。

 遠回りをして元いた場所まで近づくと、人の声が耳に入った。名を呼ぶ声だ。青嵐は辺りに注意を払いながらも近づく。その声がはっきりと聞き取れるようになると、蓮は破顔した。

「ああ、家宰と友人の声です」

 歩けるな、の問いに、蓮は頷く。青嵐はゆっくりと蓮を下ろした。

「ありがとうございます」

 蓮は少しだけ名残惜しそうに青嵐から離れる。がさがさと落ち葉を掻きわけてくる音に目をやると、美しく着飾った少女が、裾を葉や土で汚しながら現れた。

「蓮! よかった、無事で……!」

「雪……」

 蓮は、抱き着いてきた友人の背に手を回す。きちんと留められていたはずの髪飾りも緩んでしまっている。その姿に蓮は心が熱くなった。

「探してくれたのね。ありがとう」

息をすれば、雪のつけている今流行りの香の匂いが広がる。宮殿の中へ戻れば、むせ返るほどにそれは増幅する。それが自分を取り巻く現実。ちらと肩口からあたりを見る。もうそこには青嵐の姿はなかった。

(夢のよう)

 けれど、足に残る痛みは、それが現実にあったことだと蓮に教える。

蓮は青嵐の腕の温もりを思い出した。

(どうか黎を、お願いします)

 蓮は心の中で頭を下げた。

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