第55話

「呪が発動した? 一体誰が……」

 菫は青ざめている。青嵐と黎も桑の周りに集まった。

「早く解呪を! 菫、知ってるか?」

「いいえ……」

「嵩、わかるか?」

 丹が振り返って呼ぶ。かつて丹の術を解除したのも、琥の術だ。

「まったく……白錦!」

 嵩は鉤月猫を桑の側に向かわせた。しかし、桑はそれを手で制する。

「構うな!」

 肩で息をし、体を蝕む激痛に必死で耐える。痛みは体の奥深くまで広がっており、今にも意識を手放してしまいそうだ。それをありったけの気力でこらえる。すっと、視界に赤紫の弦月魚が入ってきた。桑が昇山した時からずっと、付き従ってきた。桑は目を合わせる。

「これが報いだ。すべての記憶を失い、野に放たれる。人を陥れ、龍の言葉を曲げて伝え、あまつさえ龍を試した、私にふさわしい最期だ」

 吐き出すように言う桑の胸倉を、青嵐は掴んだ。

「逃げるなよ……生きて、償え!」

 桑はそれには答えない。ただ、小さな小さな声で、すまなかった、と告げた。

「ほら、離れて」

 嵩が青嵐を引きはがし、首元を見る。意識を集中させ、鉤月猫を通じて呪に力を送り込む。しかし、すぐに険しい顔つきになった。

「進行が早い……!」

 赤い筋はびっしりと張った根のように、桑の顔から胸元までを覆っている。鉤月猫の力で一瞬薄らいだが、すぐに盛り返した。それほど強い呪なのかと、丹はぞっとする。桑は叫び声を上げてのたうち回る。英と丹が必死に押さえ込んだ。二人がかりでも、危ういくらいだ。と、ひときわ大きな叫び声を上げたかと思うと、桑は白目を剥いて倒れこんだ。嵩は弾かれたように尻餅をつく。頭を振って、舌打ちした。鉤月猫も、体をぶるぶるっと震わせる。

「すみません。失敗です」

 菫が桑の呼吸を確かめた。荒いが、消えていく様子はない。その様子を、ひれを動かすことなく赤紫の弦月魚が見守っている。丹は息をついた。

「記憶を失っただけだ。いずれ気が付くだろう。英将軍、悪いがあとはよろしく頼む」

 英は姿勢を正した。

「わかりました。丹様は?」

 ためらうように、問う。丹は苦笑した。

「俺はもう、御龍氏じゃない。このまま、琥に留まる。琥の王は度量がある。龍の力を傘下に収めるのにやり方は強引だが、瓏がこの状態なら時間の問題だろう。桑が去っても、王の意思は変わらない。青嵐、来ないか」

 丹は手を差し出す。

 その手を取って、父は御龍氏になりに行った。自分や家族を守るために。

 瓏に残り、自分に向けられた龍の言葉が王に知れれば、その二の舞になるかもしれない。ついていくのが、最良の策なのか――

黎や菫は、何も言わずに見守っている。どちらを選んでも、尊重してくれるつもりなのだ。

――凶兆は変えられぬ未来のしるしではありません。

菫の言葉を思い出す。自分に向けられた言葉を、青嵐はすべての元凶だと憎んだ。しかし黎は、龍の言葉を瑞祥だと言った。そうできるかどうかは、自分次第。龍の言葉ではない。自分自身の道だ。

「俺はもう一度やり直します。この国と。俺には、俺のことを思ってくれる人も、弦月魚もいる。そして龍も。俺はあの龍の言葉を、瑞兆にしたい」

そうか、と眩しそうに微笑む丹。

 青嵐は傍らの穹を見た。故郷の空のような体をしている。それはずっと、青嵐の中に留まり続けるだろう。胸がつんとするような思いと共に。けれど、それはけして哀しいだけの風景ではない。黎や地竜と見た情景が重なる。そして、これからも増え続けるだろう。青嵐はようやく、穹が自分に最もふさわしい弦月魚であることを理解した。

 黎と菫が歩み寄る。

「帰ろう」

 黎は柔らかく笑んだ。

「――ああ」

 青嵐は頷いた。

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