第54話
龍は、天を駆けながらゆっくりと下降し、二人を地上へと降ろす。ざくりと草に足を踏み入れると、龍の息に触れたところから、また新しく芽が吹いたように見えた。周りの木々は青々とし、龍の恵みを喜んでいる。ありがとうと二人が言うと、龍は大きく体をくねらせて天へと昇って行った。身体から霧が噴き出し、紫雲山の底を包む。二人が呆けたように見上げていると、菫や丹、嵩が下りてきた。二人を見つけると、それぞれ夔龍や貔貅から飛び降りる。丹曦はふわふわと浮いて、菫の元へ戻った。
青嵐の腫れた目を見て、菫と丹は複雑そうな顔をした。
「親父は死んだんですね」
掠れた声だ。丹は視線を落とした。
「すまない。約束を、守れなかった」
「そんな気はしてました。でも、どこかで生きていて欲しかった。先延ばしにしてたんです」
青嵐は拳を握りしめる。父の覚悟を決めた顔を見た時から、こうなる気はしていたのだ。それでなければ、誇り高い御龍氏になるのに、そんな顔はするまい。
「一つ、聞いていいか?」
丹の問いに、青嵐は顔を上げる。
「俺が臨に行った時、龍の声を聞いたのは、緑雨だけだったのか?」
「俺が聞きました。親父はよく聞こえなかったようでした」
すみません、と青嵐は丹を見て言った。巻き込まれたのは、丹の方だ。御龍氏としての立場も、龍への熱意も捨てなければならなくなった。しかし、丹はそうではないというふうに首を振った。
「いや、俺は詰めが甘いな。辛い思いをさせた。御龍氏は、きみのような力がなくても、修業次第でなれる。俺だってそうだ。きみが気に病むことはない」
丹は青嵐の肩を叩く。その横から、まさに横槍のように声が入った。
「きみが龍の声をよく聞く者だったのか」
英と兵を従え、桑が現れた。嵩があからさまに嫌そうな顔をする。桑が、一人で数歩先に進み出た。
「後顧の憂いは、絶つに限る。この地に生きるのは我々だ。我々が龍を制御するのだ。文命王は、龍と話し、力を得て瓏を建てた。王以外に龍と深く繋がる者があってはならない」
高らかにそう言うと、懐から符を取り出す。菫はすかさず結界を張った。
「無駄だ。符術は今や御龍氏で私の右に出るものはいまい!」
桑は符を結界に叩きつける。勢いよく結界は割れ、その衝撃で菫はよろめいた。黎と丹がその背を支える。
青嵐は腰の短刀を抜くと、今にも飛び出そうとする。しかしそれを丹が遮った。青嵐は驚いたように丹を見る。
「手を出さないでくれ。嵩もだ。これは、俺の因縁だ」
ほう、と桑は興味深そうに目を細める。丹は真正面から桑と向き合った。
「あんた、剣舞も得意だったな。剣を取れ」
嵩が、頭を掻いて剣を投げる。丹はそれを受け取ると、鞘を払った。
「英将軍、貸してくれ」
桑も英の剣を借りると、剣を抜き、構えた。互いに間合いを計るようにじりじりと歩を詰める。ほぼ同時に、地を蹴った。刃のぶつかり合う音が鋭く響く。青嵐は息をのんだ。鋭い剣捌きを、桑は見せる。争い事はご法度の御龍氏とは思えないほどの、また丹よりも一回り上の年齢を感じさせないほどの腕前だ。丹は軽い身のこなしでそれに応戦した。激しい応酬に、互いに息が上がっていく。がちりと剣がぶつかり合い、拮抗したまま動かなくなった。
「なぜ、王に加担した! 我々は誰であろうと道を教え、導く使命があったはず!」
腕に力を込め、丹は投げかける。
「あんたは誰よりも努力して、龍に近づこうとしてたんじゃないのか」
「したとも。下級貴族から御龍氏に取りたてられるのは、この上ない名誉。身を粉にして務めたさ。止まらない災異を食い止めようともした。だが、なせなかった。自分にはその資格がないのかと、何度も失望しては思い直した。そんな私を認めてくださったのは陛下だ。私こそが、信ずるに足るものだと!」
桑は渾身の力を込めて剣をはじき返す。丹はよろめいた。桑の切っ先は、それを仕留めようと迫る。丹は土にまみれながらも何とかかわした。
「その王が、災異の元凶だったのではないのか? あんただって気づいてるはずだ。自分だけで、それを食い止められると思っていたのか? 王が龍を御せるようになるまで」
丹は剣を構え、桑に向かっていく。桑はそれをいなした。一瞬の隙をついて、桑の剣が丹を捉えようとする。すんでのところで丹はかわし、木の幹を蹴ると桑の後ろに回った。桑も負けじと振り返る。その剣を、丹は根元から大きく払って飛ばした。桑の手を離れた剣は、鈍い音を立てて届かないところに落ちた。取りに向かおうとする桑の喉元に、剣先が突きつけられる。桑は動きを止めた。
「勝負あったな」
肩で息をしながら、丹が言う。桑は歯噛みした。
「丹を捕らえよ!」
荒い息で兵に命じる。しかし、兵は動かない。ちらと様子をうかがうと、英が手で兵を制しているのが見えた。
「英将軍!」
咎める声に、英は首を振った。その表情は厳しい。
「私の主は確かに王です。しかし、自分の志を見ているのは龍です」
英の言葉に、桑はがくりと膝をついた。身体に敗北がのしかかるように感じる。慣れぬ動きの反動が起きているのだ。しかしそれ以上に、心は重く感じる。
自分の主は。
王だと信じてやってきた。いや、心のどこかで、そう信じ込ませていたのかもしれない。御龍氏となってなお一人の臣下としての立場から、結局は抜けきれなかった。そして、御龍氏の筆頭であると自負しながら、私心を捨て、己を制することも、できていなかったのだ。丹に、それを暴き立てられるのを恥じていた。
やがて呼吸が整うと、桑は青嵐の方を向いた。自虐に満ちた表情だ。
「青嵐、私が憎いだろう。徳ではお前の恨みは晴れぬ。その刃を突き立てるなと言うだけだ。包み込めるか?」
最後の抵抗のように、桑は言う。
もし、王が素直に龍の瑞祥を受け入れていたら。もし、桑が丹を敵視せずにいれば。
もし、は尽きない。そして、巡り巡って自分を、相手を責め続けてきた。
青嵐は視線を落として短刀を見つめた。英から授かった短刀だ。
――守るために使え。
そう言われて。
青嵐は短刀に手をかける。ぐっと力を入れて引き抜くと、刀身はちらと光った。刃の向こうに、桑がいる。今なら、この身に宿る憎しみすべて、刺すことができる。
「俺は、あんたが憎い。王が憎い。俺は、あんたたちを許せそうにない。たぶん、ずっと。でも、憎しみばかり念じていても、何にもならない。ならなかった。時が止まるだけで、何も……」
青嵐は、短刀の向きを変え、鞘に納める。そして、土を踏みしめて英の元へ歩み寄ると、短刀を差し出した。
「ありがとうございました。俺にはもう、必要ありません」
英はしっかりとそれを受け取る。青嵐の顔は、すっきりしたような迷いのない顔をしていた。今までで一番いい顔をしている。英は嬉しくなった。力強く何度も頷くと、ばしばしと肩を叩いた。その様子を、桑は目を細めて見守る。
(きみはいい御龍氏になる)
心の中で、そう青嵐の背に投げかけた。自分が、そうあるべきだった。けれどもう、遅い。
首筋に熱を感じて、手で押さえた。熱はみるみるうちに痛みを伴い、桑は体を折る。桑の様子がおかしいことに気付いた丹は顔を覗き込んだ。桑の体からは脂汗が噴き出し、呻き声を上げている。丹は首元の手を無理やりはがした。菫も駆け寄ってくる。桑の首元を見て、二人は息をのんだ。龍のような模様が真っ赤に腫れあがっている。模様からは細かい根が張るように筋がいくつも生えていた。
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