第50話


 月の光がまばゆく辺りを照らし、陽の光に変わる。窓から漏れる光を浮かべ、並べられた水槽は美しくきらめいている。その奥では、群青の衣を纏った老人が、丹から報告を受けていた。

「よく龍の声を聞く者が現れた?」

「はい。槐様、これは瑞兆でございます。早速紫雲山に上げ、瓏を盛り立てるよう指導したいと思います」

 丹は、後ろの緑雨を示す。礼をする緑雨を見て、槐は二度、三度と満足そうにうなずいた。

「それはめでたい。龍を、民を頼みますぞ」

 はい、と短く返事をして、緑雨は再び礼をする。槐は長い袖を翻した。

「わしは共に陛下に報告しよう。桂は緑雨の昇山する支度を手伝いなさい」

 村から丹の後ろに控えていた青年は、返事をすると緑雨を逆方向に案内する。その背を見送って、槐と丹は謁見の間に向かった。しかし、丹の報告に王の表情はみるみる険しくなっていった。

「わし以外に、特別に龍の声を聞く者があってはならぬ!」

 目を見開き、身を震わせて怒鳴る。

「このところ、瓏内でも白猫がうろついているというではないか。日照り続きで、作物も育たぬ。御龍氏は雨乞いにかかりきりではないか。凶兆ばかりだ!」

 丹の前で頭を垂れていた槐は、声を上げる。

「陛下、恐れながら申し上げます。身を正せば龍の加護は強まります。その手助けの為、彼のような者が遣わされるのです」

 落ち着いた槐の声音に、王は杖で床を叩きながらも、がなりたてるのをやめる。槐はここぞとばかりに畳みかけた。

「瑞兆ではありませぬか。龍は、王の治世をより強固なものとするきっかけをくださったのです」

 王は、ふんと鼻で笑いつつも

「……わかった。瓏の為、身を尽くさせよ」

と言って、手を払って下がるよう促した。扉が閉まるのを見て、王は控えていた桑を呼び寄せる。

「ああは言ったが、やはり心配だ。此度の龍の言葉を、どう考える」

「開祖は、龍と話すことができたと言われています。その力を借りて、水を治め、瓏を建てました。今でこそ龍の声を聞けるのは、修業を積んで心を通わせた御龍氏のみとなっていますが」

「わしは、龍の力を御し、使役して国を再興したい。よく御す者が欲しいのだ。が、うまくゆかぬ。かつて龍は賢人も見出したが、龍の祝福を聞き謀反を起こした者もいる。あやつはわしを排すための謀反人ではないのか」

 桑は、王を見た。王はかなり狼狽している。無理もない。場合によっては自分の治世、果ては命まで危うくなるのだ。日は傾き始め、人払いされた室内は、段々と冷たくなってくる。

「お前は、あの者がこれまでにも怪しげなことをしていると申しておったな。市井の医者やらミミズやらを仲間に引き入れているとか。此度もそうではないのか。龍の声をよく聞く者とやらが本物であるなら、お前の席もいずれなくなる。丹の時助けてやったのは誰だと思っている! 何か妙案はないのか!」

 最後の方はもはや恫喝だ。透けていた本音が、包み隠さず現れてくる。

 緊張した面持ちで桑はしばし考えていたが、意を決したように口を開いた。

「試してみればよいではありませんか」

「試す?」

 王は鈍いまなざしを桑に向ける。

「龍に伺いをたてるのです。あの者を生贄として捧げるのが吉か、凶か。今後生かしておくべきであれば、凶と出るでしょう」

「結果は吉だ」

 王は言い切る。桑は心得ているように頷く。

「吉と出れば、生贄としても適任とされるほど、徳の高い者だったということでしょう」

 王の目に光が戻る。杖をもてあそんでいた手は、動きを止めた。

「そうだな。それは名案だ。急ぎ取りかかれ」

 王は身を乗り出す。その表情はぎらぎらと鋭さを増していく。

「わしは龍を御す王。このところの災厄を取り除くために、龍の声を聞くほど徳の高い者を捧げれば、龍もお喜びになるであろう。わしはますます瓏の為に尽くそう」

「御龍氏も、お力になりましょう」

 桑の表情は硬く、何も映してはいなかった。ただ、差し込む陽光が、彼の顔を照らしていた。

 落ちかかる陽を背に、槐と丹は御龍氏の使用する部屋へと戻ってきた。

「まだ、二人は戻っていないな」

 二人を探す丹に、槐は眉間にうっすら皺を寄せて言った。

「あまり陛下の気色はよくない。早めに紫雲山に上がり、しばらくは下山するな。緑雨の昇山はわしが許可しよう」

「わかりました。探してそのまま上がります」

 丹は手にしていた報告書を置き、足早に出ようとする。そこへ近衛兵がどやどやとやってきた。先頭の一人が声を張る。

「緑雨という者がこちらにいますか」

「いないぞ」

 丹は訝しむ。槐が奥からゆっくりと歩み寄った。あくまでも穏やかに問う。

「何があった。緑雨は御龍氏預かりの者。仮に陛下の命であったとしても捕らえられぬ」

「陛下より、占卜の結果が出るまで、緑雨の昇山は待つようにとの御命令です」

 丹と槐は顔を見合わせた。

「占卜? 何の?」

「我々には……」

 近衛兵は、わからないという顔をする。その後ろで、「おい、向こうで捕らえたぞ」という声が飛んだ。

「待て!」

 近衛兵を押しのけて、丹が走る。御龍氏の群青の衣が風を切った。弦月魚も浮き従う。一呼吸遅れて近衛兵も、それを追う。息を切らしてたどり着くと、武装した近衛兵の隙間から、二人がかりで腕を捕らえられた桂と、静かにたたずむ緑雨の姿が見えた。丹は駆け寄り、割って入る。

「老師! この者たちが、緑雨を連行すると!」

 桂が抵抗しながら言う。何とか緑雨を守ろうとしたのだろう。衣服が乱れている。

「捕らえることは許されない。ここを通してもらおう」

 丹は近衛兵の腕を外す。丹の剣幕に、近衛兵は互いに顔を見合わせながらさざ波のように一歩、また一歩と輪を緩める。丹は二人に目配せし、歩き始めた。しかし。

「その者は生贄となることが決まった」

 よく通る声だ。丹は声のする方を見た。

「桑」

 弦月魚を従え、桑はゆっくりと廊下を歩いてくる。丹は桑を睨んだ。

「どういうことだ」

 桑はゆっくりと近づくと、近衛兵を手招きした。輪が再び縮まる。

「あの者を、生贄として捧げるのが吉か凶か、占った」

 場に、緊張が走る。

「吉と出た」

「そんな!」

 丹は目を見開く。桂は恐る恐る緑雨を見る。緑雨の表情も、白く固まっていた。

「しかし、龍はそう示した。連れていけ」

「待て!」

 淡々と命じる桑に、丹は食らいついた。

「今、生贄とすれば、現状で食い止められる。瓏を建て直せるのだ。その者が御龍氏として大成するのはいつだ。それまでに瓏がなくなっては、元も子もない」

「ダメだ! あいつがどれだけ重要か、あんただってわかるはずだ! 話を聞け!」

 丹は緑雨の前に立って、大きな身振り手振りで抗議する。抗議というよりはいちゃもんに近くなってきたそれに、近衛兵は呆気にとられたように見入る。その間に、桂がこっそり緑雨の袖を引いた。

「行きましょう」

 しかし、緑雨は首を振った。そして、桂の手を振り切り、丹に歩み寄る。そして、静かに口を開いた。

「丹様。私は覚悟のうえでここに参りました。私がここで逃げれば、あなたがたや家族、村に害が及びます。私はここに残ります。家族を、どうか頼みます」

「そうはいかない。俺はお前を守ると約束した。陛下にお目通りを!」

 丹はなおも食い下がろうとする。その背に、緑雨は言葉をかけた。

「龍の言葉を聞くのは人です。龍を責められますな。ご自分も責められますな。さあ、参りましょう」

 丹の動きが止まる。拳に力が入り、ぶるぶると震えていた。

「――俺は、甘かったのか」

 いいえ、と緑雨は言い切った。

「御龍氏が徳を信じられなくなれば、この国は龍に見放されましょう。これが、私の役目だったのかもしれません」

 桑は近衛兵に促す。丹は先頭の一人を羽交い絞めにした。わらわらと丹に近衛兵が群がる。

「何やってるんですか、もう!」

文句を言いながらも、桂が参戦する。しかし、抵抗虚しく二人はもみくちゃにされ、後ろの方にいた近衛兵たちが、緑雨を囲んだ。

 丹も桂も牢へ連れていかれた報を受け、槐は王に猛抗議した。しかし、王はうるさそうに右から左へ流す。だんだんと聞き飽きてきたのか、その顔は歪み始め、ついに大きく杖を鳴らした。

「三代に亘り瓏に仕えたお前の顔を立てて、あの者の家族は免じてやる。その龍の声を聞いたという御龍氏、在野の医者やら妖怪をやたらに昇山させている胡散臭いやつだそうじゃないか。お前も謀られたのであろう。弟子だからと甘やかしてはならぬ。本当に龍の祝福があるのなら、あの男が死ぬはずがないだろう。それとも何か、念のために村一つ潰した方がいいか?」

 歪んだ顔を、薄暗い灯りと月が照らす。その顔を、槐は思わずまじまじと見た。初めて見るような顔だという思いと、そうではないという哀しさが、一度に心に流れ込んできた。槐は言葉を飲むより他なかった。

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