第51話
月の灯りだけが小さな窓から差し込む牢で、丹はぼんやりと寝転がり、天井を見つめていた。格子の影が、足を捉えるように細く伸びている。隣では、桂が膝を抱えていた。二匹の弦月魚は、それぞれの主人の脇でじっとしていた。
「俺は確かに聞いた」
涸れるような声で、丹は言う。桂は、ちらと丹の方を見た。
「確かに、緑雨さんの出てきた方に向かって歌ってましたね……。僕には歌はわかりませんでしたから、龍が人語で歌ったわけではないでしょう。龍の言葉も、この呪がある限り外へは漏れません」
「緑雨の祭祀が執り行われて、もう何日も経つ。なぜ祟りがないんだ! 龍はもう、我々を見放したのか? 何でもない時は、歯痛だの悪夢だのあるくせに!」
丹は拳で床を叩いた。砂が舞う。桂がたしなめた。
「祟りなんて願っちゃダメでしょうよ、御龍氏が」
頭を掻きながら格子の影を見る。すると、別の影が重なっていた。桂は窓の方を見る。ぶるりと体が震えた。
「ろ、老師、猫です」
丹の服を引っ張ると、丹は寝ころんだまま目だけ窓の方に向けた。月明かりを背に、しなやかな猫のシルエットが窓の中央に映る。銀色の目が二つ、ぴかりと光った。きらきらと月の光を返すその体は、白。
「ああ、やっぱりもうこの国に加護はなくなってきているんだ。緑雨が、最後に遣わされた希望だったんだ」
丹は手で顔を覆う。桂は呆れた顔を向けた。
「老師らしくもない。菫さんに毒盛られますよ」
丹は呻いた。顔を覆ったまま、駄々っ子のようにごろごろ転がる。
「あいつ、大丈夫かな。あいつなら、絶対いい御龍氏になる。でも、壊滅的に歌が下手だから……せめて、抑揚のつけ方だけでもなんとかなれば」
愛弟子の壊滅的な歌を思い出すだけで涙が出そうになる。この世のものとは思えない、耳を覆いたくなるような歌だった。本人も自覚しているのか、それ以来一度も歌ったことがない。しかし御龍氏に歌は必須だ。丹は彼のことで、それだけが気にかかってきた。けれどもう、その心配もできないかもしれない。ひとしきり転がると、丹は大の字になる。息をつくと、猫の影を見た。
「お前の国は、どうだ?」
すると猫の向こうから、「来ればいいじゃないか」と低い男の声が話しかけた。二人は動きを止め、窓の方を見る。猫が後ろを振り返って優雅に場所を譲ると、今度は人影が窓の端に映った。逆光で、顔はよく見えない。が、薄く笑っているように感じた。
「あなたたちも、生贄の方向で話がまとまっているぞ」
「えっ、僕らもですか?」
驚く桂とは逆に、丹は落ち着いている。
「そうだろうな。いよいよめちゃくちゃだ」
「御龍氏は、陛下だけでは罰せません!」
「もう何でもありなんだろ。王は、ずっと龍を御したがっていた」
諦めたように言う丹を、桂は悲しそうな顔で見つめる。黙ってしまった二人に、男は投げかけた。
「琥に来い。ここにいても、死ぬだけだぞ」
「術がある。無理だ」
丹はきっぱりと言い切る。しかし男は余裕を崩さない。「解こう。見せろ」というと、格子の隙間から猫がするりと華奢な体を滑らせて入ってきた。白く美しい毛並みに、首元の金の装飾品。まぎれもなく鉤月猫だ。桂が声にならない悲鳴を上げる。弦月魚は何の反応もせずに浮いていた。丹はゆっくりと体を起こすと、襟元をまくって見せる。鉤月猫はひょいと肩に乗り、襟元を見た。その目が、体が、うっすらと光り出す。しばし沈黙が流れた。
「龍の術ではないな。人のものだ」
鉤月猫を通じて見ているのだろう。男は唸りながら言う。
「当たり前だ。人に危害を与える術を、龍が授けるはずがない」
「そうだろうな。ただ、かなり強い呪だ。我らの神の加護を受けてくれるのでなければ、解除はできない。どうする?」
男は息を吐く。鉤月猫の光が段々と弱まり、軽やかに床に降り立った。丹は重い口を開く。
「俺が逃げれば、巻き込まれる人が出る。それはできない」
男は頭を振った。
「ただ逃がすのではない。お前にはここで死んでもらう。私の得意とする幻術でね。本物は逃げる。ここには地霊を避ける結界を張らせてもらった。あなたたちの本音を聞きたい」
にわかには信じがたい提案に、二人は黙る。無理もない。男は話を変えた。
「――琥を見たことは?」
「いや。見てみたいとは思っていたが」
「視野を広げるべきだ。我らがなぜ瓏に来るかわかるか?」
「豊富な水資源と、それを可能にする龍の力を求めて、か?」
丹の答えに、男は頷く。
「正解だ。我々の土地は、元来水が少ない。神にも、得手不得手があるからな。水の恵みがあれば、より民の暮らしは楽になる。そのために、我々は龍と話がしたい。龍が地上に来た時に結界を破り、我々の意図を伝えたいのだ。あなたたちには、橋渡し役になってほしい。そしてゆくゆくは、琥と瓏とで一つになり、傘下の神として恵みをいきわたらせてほしい。龍にも瓏の民にも危害は加えぬ」
狭い舞台で、男は熱弁をふるう。
「あなたたちの王は、過ぎた力を御そうとしている。そのような者の、国の末路を、知っていよう。このままでよいのか?」
丹は、傍らの丹曦を見た。桂を見た。そして、心の中で、遥か遠く紫雲山を、果ては龍を見た。それが、緑雨を最後に見た姿で潰れていく。
「わかった。行こう」
ついに、丹は応じた。男は笑む。
「私は
「よろしく頼む。お前はどうする?」
言われて桂は息をついた。選択肢など、残されていない。
「俺は老師についていきます。残ればどうなるかわかりませんしね」
丹は丹曦に向き直る。そっと水球を手に取った。額を近づけると、意識を繋げる。
(お別れだ、丹曦。長い間世話になったな。俺の代わりに、菫に力を貸してやってくれ。それから、緑雨の家族のこと、よろしく頼むと伝えてくれ。でも、くれぐれも俺達が琥に行くことは内緒にな。頼んだぞ)
燃えるように赤い弦月魚は、その時ばかりはひれをしょげさせていた。
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