第48話

「おい、あれ……」

 青嵐の声に、黎も上を見上げる。

「……龍!」

 空よりも深い青の龍が、風をうねらせながら現れた。

「誰か、呼んだのかな」

 陽の光にうろこをきらめかせ、龍は二人に近づいて来る。そして、大きな爪の生えた手で、水球を掴んだ。二人の体が大きく揺れる。黎は水球の底に膝をついた。水球を掴んだ龍は、空を悠然と泳いでいく。遥かな天空を、青嵐は改めて見た。雲の層の向こうから、光が差し込む。光が照らしだす大地はどこまでも続き、地平線で大空と溶け合って一つになる。

「龍は、水と生命の息吹を司る」

 横で、見惚れながら黎が言う。

「こんな世界を、見てるんだね」

 龍の見る世界は美しい。それは、龍がそれを願っているから。そう願って、歌っているから。その旋律を聞いて、世界は美しく息づいている。

 青嵐は頷いた。

 ふと横を見ると、丹曦が夔龍と化して並走していた。龍はそれを目の横で確認すると、息をひと吐きして雲を纏った。二人の目の前が、急に真っ暗になる。

「何だ?」

 青嵐はきょろきょろと見回す。黎と弦月魚だけが、ぽっかりと視界に入る。すると、

『見るか』

と頭に響くような声が聞こえてきた。低いが、美しい声だ。声は、続ける。

『望まぬ答えやもしれぬ。それでも』

 青嵐は二本の足でしっかりと立つ。上も下も、右も左もわからない。けれど、しゃんと背を伸ばして立った。

「ずっと迷ってた。でも、これだけは決めたんだ。俺は知りたい」

 すうと顔の前に穹が寄ってくる。体は灯りのように内側から光を発していた。

『弦月魚を頼りに来い』

 青嵐は頷く。

「待ってるよ」

 後ろから黎は声をかけた。青嵐個人の問題だという線引きがあるのだろう。しかし、青嵐はゆっくりと振り向いて首を振る。

「お前がいてくれたおかげで覚悟ができた。来てくれないか」

 自分を包み込む、水球のようだった黎。しかしその奥の自分と、今度はちゃんと触れ合える。

「わかった」

 黎もまた、玄珠の水球を前にする。すると、ぼんやりとした灯りの中に、弦月魚の姿となった丹曦が見えてきた。赤い体を、目いっぱい広げ始める。青嵐と黎は、自分の弦月魚に意識を集中させた。龍と、丹曦と。流れる川の支流ひとつひとつが、本流に繋がるように、意識が繋がっていく。


あの日――

葉の触れ合う音すらも聞こえそうなほど鮮明に、情景が蘇る。青い、玉を食んだ龍の紋を背負って、歌う丹の姿が見える。そして、それに答える龍。丹の歌の後に、龍は地に響くような声で歌った。



龍の声をよく聞く者

臨の地より現れ

龍の声と人の声と

相生じ相和し

天地を交わらせん



「今の、聞こえたか?」

 小さな声が低木の影でする。小さな子供の声が答えた。

「うん」

「龍の歌だ。こんなに近くで聞いたのは初めてだな。でもやっぱりなんて言ってるのか、ほとんどわからないな」

「俺、わかったよ」

 少し興奮したように子供は言う。龍が歌った言葉を伝えると、共にいた男は顔を曇らせた。

「ホントか?」

「うん」

「そうか……。そのことは他の人には言うなよ」

 それきり声はしなくなった。後には、龍を見送る丹と夔龍、そして鈴の音だけが残る。丹が最後の鈴を鳴らし終え、一息つく。傍目に見てもわかるほどに、頬が紅潮していた。が、後ろで枝を踏む音がすると、鋭いまなざしに変わった。眦が、音の主を捉える。

「今のが龍ですか?」

 出てきたのは、一人の男だった。こざっぱりした服装に、山菜を入れた籠を手にしている。横には、隠れるようにして男の子がくっついていた。想定していた最悪の事態と異なって、丹の表情は一気に緩んだ。

「ああ。驚いたろ。大丈夫か?」

 まだ若さに溢れる丹は、軽い身のこなしで草を分け、二人に近寄る。にこやかな丹とは反対に、男の表情は硬い。その口から、歌と言うよりは文章を読み上げるように、言葉が流れた。

「龍の声をよく聞く者

臨の地より現れ

龍の声と人の声と

相生じ相和し

天地を交わらせん」

 緩んだ丹の表情が、一気に引き締まる。場に緊張が走った。無理もない。それは、龍の言葉だ。本来、御龍氏以外に知り得るはずのない。

「どういう意味ですか」

 わからずに、呆けているような顔ではない。わかっていて、なお受け入れられずに確かめるような。そんな表情をしている。

「……聞こえたのか?」

「はい」

男は頷き、男の子は小さく首を横に振った。

 片方の肯定の返事に、丹の目は輝きを増し、頰は真っ赤に上気していく。目の前の男を、食い入るように見つめた。どこにでもいるような、普通の男だ。家族と日々の暮らしを守り、生きている。神々しい神気があるわけではない。だが、そんなことは関係ない。龍の声を聞けるなら。興奮を抑えるように、大きく息を吐きだす。

「名は」

「緑雨といいます」

 男は籠を背負いなおして、言った。

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