第47話
嵩の前まで歩いてくると、嵩と目があった。思えば、正面からしっかりとこの少年を捉えるのは初めてだ。青嵐よりも少しばかり年は上のように見える。芯の強そうな少年だ。もうその若さで、貔貅と通じ合っている。
「乗れ」
崇は貔貅を目で示す。青嵐は軽く飛び乗った。崇もそれに続く。いかつい見た目と違い、毛は極上の毛布のようにふわふわで、絹糸のように滑らかだ。
「かけた術を解いてくれ」
青嵐が言うと、崇は貔貅の首筋を撫でて促した。するすると霞が引いていく。黎は糸の切れた人形のように、がくりと力が抜けた。丹が急いでそれを支える。が、黎はすぐに意識を取り戻し、何かを振り払うかのように頭を振った。
「黎! 大丈夫か!」
青嵐は注意を引く。黎がよろめきながらもそれに答えようと立ち上がった瞬間、天鳴球を力の限り投げた。天鳴球は弧を描いて飛んでいく。黎は丹を突き飛ばし、走った。
「貴様っ!」
嵩は歯噛みした。貔貅はそれを察して風を起こし、阻もうとする。
「黎!」
青嵐は貔貅を飛び降り、駆けた。弦月魚を傷つけぬよう柔らかく、それでも目的を阻止せんと強く吹き付けた風が、天鳴球を、黎を、青嵐を浮き上がらせ、飛ばす。それでも、黎はもがいて天鳴球を掴んだ。
「やった!」
しかし、体は紫雲山の淵を囲む岩や川を越え、空へと投げ出される。青嵐は必死で腕を伸ばした。黎も天鳴球を掴む手とは逆の手を、高く上げる。青嵐はそれを掴んだ。が、青嵐の逆の手は空を切る。
「くそっ!」
抵抗虚しく、二人の体は厚い雲の中へ吸い込まれていった。
雲の湿り気が、体を包み込む。不思議と、落ちていくことに対する恐怖はなかった。黎が、掴んでいた手を握り返す。
「青、来ちゃったの?」
黎は拍子抜けするような声で言う。ようやく正気に返ったような気がして、青嵐はほっとした。が、問題は解決していない。
「バカ、お前どうするつもりだったんだよ」
「それはお互い様だよ」
「俺は、別に……」
その先を、青嵐は口ごもった。
「きみも、生きなきゃ。僕は生きてほしいと思ってる」
黎は、青嵐を見透かすかのように言う。その言葉に、嘘はないのだろう。
死んでもいいと思っていた。
死ねればいいと思っていた。
だから、戦場について行って、出させてもらった。でも、死ねなかった。死は、自分を避けて通っているように思えた。
生きて、生きて、何を?
ずっと迷っていた。使命だとか大義だとか、そういったものがあるのか。そんな標は、今もわからない。
ただ一つ。もう、失いたくはない。
傍らを見れば、置いてきたはずの弦月魚が、そこにいた。青い青い、青嵐の弦月魚だ。確かに、置いてきたはずだ。けれど、当たり前のように傍らに水球はあり、その中で浮いている。
すっぽりと雲を抜けると、急に視界が開けた。緑にあふれ、輝かんばかりの大地が広がる。その眩しさに、青嵐は目を細めた。
「綺麗だね」
黎がため息交じりに言う。
「……ああ」
青嵐は心の底から、そう思った。自分の腕の中には、青い空が広がっている。その青は、まるで自分の弦月魚のようだった。青嵐はまだ名もつけていない弦月魚を見る。
「
するりと、言葉が口から出る。すると、ぴたりと弦月魚と目が合った。頭の奥で、龍と目が合った時のことが鮮明に蘇る。
あの日、龍の声が聞こえた。
うっすらじゃない。はっきりと。
龍は確かに自分を見ていた。そして、歌ったのだ。龍の声をよく聞く者、と。
守れない自分が嫌だった。叶わなかったから、龍に押し付けた。龍さえいなければと。
それは違う。
生きるのだ。
助けるのだ。
今度こそは。
「頼む、穹! 水球を、できるだけ大きくて分厚いのを! 頼む!」
何度も練習してきたように、意識を滑り込ませる。青嵐と、穹と、それから自分を取り巻く大空が渦を巻いて混ざり合うような感覚が起こる。穹は光の粒を纏ったかと思うと、急速に輝きだした。ひれというひれが大きく開き、弦月魚の名にふさわしく、尾びれは美しい半月となる。
「玄珠、僕らも!」
黎も青嵐に続く。穹と玄珠を中心に、光の粒が溶け合い、大気中の水分が形を成す。そして、くるくると二人を取り囲むように球を描き始めた。やがてその壁は厚みを増し、二人と弦月魚を完全に閉じ込めた。大きな水球は、ぷかりぷかりとその場で漂う。二人は水球の底に重なるように落ちた。呻き声が同時に上がる。しかし、手に触れた冷たい感触に状況を理解すると、ぱっと顔を上げた。
「やった!」
黎は歓喜の声を上げる。青嵐の手を放し、玄珠の水球を抱きしめた。
「ありがとう!」
青嵐は穹の水球を手に取る。穹は、これまでにないほど尾びれを揺らしていた。
「……ありがとう」
照れくさそうに言うと、穹は一回転した。青嵐は一息ついて辺りを見渡す。水球は、紫雲山の少し下で浮いている。地上からはまだまだ遠い。
「で、どうやって動くんだ、これ」
落下は食い止めた。しかし、まだ完全に解決はしていない。
「……さあ」
黎も首をひねる。
「ねえ、青も突飛なところがあるよね」
「うるさいな」
二人は押したり飛び跳ねたり水球を動かそうと頑張ってみる。しかし、水球は移動する様子を見せない。
「かくなる上は、老師たちが気づいてくれるのを待つしかないか?」
青嵐は上空を見上げた。紫雲山の底は、自分たちの通ってきた厚い雲に覆われていて見えない。その雲が、突如大きく動いた。
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