第45話

 何者かが霧に入ったという知らせを受けて、紫雲山は慌ただしくなる。菫はあらかじめ用意していた結界を起動させようと、二人を探した。青嵐は一人で熱心に水球を作る練習をしていた。水甕を奥の部屋から持ち出し、その水面と水球とを手にして呼吸を整えている。菫は驚かせないように正面から近づいた。青嵐はゆっくり目を開けると、菫を見上げた。

「侵入者だ。この辺一帯に結界を張る。黎は?」

 単刀直入に言うと、青嵐は辺りを見回して顔を曇らせた。

「いや、朝会ったきりです」

 そういえば、地竜もいない。妙に静かだ。

(いつもなら、声をかけていくのに)

そう思うと、嫌な予感がした。

「探してこよう。青嵐はここにいなさい。結界を一つ張っていくから」

「俺も一緒に行かせてください!」

 菫の言葉を遮るように、青嵐は言う。菫は首を振った。

「ダメだ、きみは結界の中にいるんだ」

「お願いします」

 青嵐は頭を下げる。青嵐の弦月魚が、じっと菫を見た。胸鰭が静かにひとかきする。雄弁ではないが、何かをそのまなざしで訴えているかのようだ。

「……わかった」

 菫は懐の符や催涙弾の入った辺りを握った。

 その頃、黎と地竜は、山の淵近くに既に身を潜めていた。露でしっとりと濡れた葉が、身体をじわじわと冷やす。

「本当に大丈夫か?」

「うん。悪いけど地竜、協力してね。何か来たら教えて」

 地竜は黎の肩に乗って心配そうにしている。黎は懐から棗のケーキを取り出すと、半分は自分の口に放り込み、残りを小さくちぎって地竜の口に入れた。

「本当に行くのか?」

「うん。確実に丹様に会えるように」

「だって、お前……どうするんだよ。青嵐みたいに武術ができるわけでもなし、符術ができるわけでもなし」

 黎は地竜を安心させるように、これ内緒にして欲しいんだけど、といたずらっぽく笑んだ。

「僕、御龍氏になる前、友達っていなかったんだ。同僚はたくさんいたけどね。ここに来て、何でもないことを一緒にできて、しかも龍のことを真剣に話せる仲間ができて、そして歌を認めてくれた。嬉しかったんだ。だから力になりたいんだよ。たとえ、これから進む道が違ったとしても」

明けたばかりの空は、その遥か先までは見せない。遠い向こうの、まだ明けぬ夜の下を。それでもその夜が明けるというのなら、晴れ渡る空を望みたい。

「丹様はたぶん、一人では来ない。向こうの重要な手札だからね。その人達がもし、事を荒立てるようなら足止めする」

自分には自分の、できることを。

 声に、力がこもる。胸元から、紐にかけられた小さな青い丸い石を取り出して、ぎゅっと握った。

 地竜は口を閉じる。体の中の気の流れを確かめるように大きく息をする。

(もしものことがあれば、俺が――)

 腹を決めると、山中に気を張り巡らせた。時間がふつふつと過ぎていく。びくりと地竜は体を震わせた。

「西だ! 来るぞ!」

 霧を抜けて、山の淵の方から白い影がこちらへ向かってくる。影は、一つ。

「一人?」

「いや」

 耳元で、地竜が言う。地霊たちは、はっと気づいたように騒ぎ出した。

『後ろ、丹様よ』

『本当だわ』

『本物よ』

『丹様よ』

「二人だけ?」

 小声で黎が問う。

『二人と一匹!』

 回答に、黎は頷く。おもむろに立ち上がった。足が、自分のものでないような感覚で歩いている。黎はぎゅっと手を握った。

「おい、待て!」

 地竜も後を追おうと飛び跳ねるが、いかんせん遅い。思い切り息を吸うと、むくむくと本来の姿に戻った。

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