第43話

薄曇りの空の下で、青嵐と黎は地べたに並んで座っていた。長期戦を覚悟して、軽食と水を用意してある。腹が減っては、戦はできない。夜中に活動するのをやめた青嵐は、朝からせっせと小豆の蒸しパンを用意していた。地竜はその包みに寝そべって、ほのかに漂う匂いを吸い取っていた。

そんな地竜をよそに、青嵐と黎は水球を手に取り、意識をそこに集中させる。弦月魚も、しっかり餌を食べさせてある。玄珠は前日に朧月を、青嵐の弦月魚は朝に干してあった空桃の花びらを、水が汚れない程度に食べた。今日の状態も良さそうだ。玄珠が、ちらちらと光を纏い始める。

『地竜様、食糧庫で盗み食いしてたわ』

『見たわ』

地霊のささやくような声が、黎の意識に滑り込んでくる。何を盗み食いしたのか。黎はもっと深く聞こうとする。しかし、その先には容易に潜り込めない。一度気持ちを切ると、黎は冷たい視線を地竜に向けた。

「何だ?」

「何盗み食いしたの?」

 地竜は小さな体をびくりと震わせる。ほんの出来心ですと小さくなった。黎は地竜を放っておいて、青嵐の方を見る。青嵐もまた、同調しようと水球を手にして目をつむっていた。しかし、こちらもうまくいかないようで、ため息とともに目が開けられた。

「それにしても、紫雲山でも聞こえづらくなってない? 僕ら自分で言うのもなんだけど、初めの頃よりは慣れてきたはずでしょ」

「そうだな」

 青嵐は難しい顔をする。この調子では、下界ではもっと難しい。心が、焦っていくばかりだ。

「……巻き込んですまない」

「何言ってるのさ。仲間でしょ! お父様、早く会えるといいね」

 眉間に皺寄ってるよ、と明るく言って、黎は大きく伸びをした。

「もしお父様が琥にいらっしゃったら、ついていっちゃう? そしたら寂しいな。でも、仕方ないよね。ああ、でも青嵐が琥に行って、僕が瓏で、もう争いはやめようって言えるようになったら、それはそれでいいことかも」

「お前、一人で話を進めるなよ」

 青嵐は呆れる。が、同時に少し救われたような心持ちになった。突拍子もないことをするが、黎は基本的に前向きにものをとらえる。繊細そうな見た目からはわからないほど、時に発想が大胆だ。

「ごめんごめん」

 黎は頭を掻く。場を明るくしようとしてくれているのがわかるから、青嵐もそれ以上は言わない。

「決めるときは、ちゃんと言うから」

「うん」

 全てをつまびらかにする必要はない。けれど、最低限の伝達はしなければ、通じ合えない。

黎は足も投げ出す。冷たい水を竹の水筒から一口飲んだ。

「信じるって、すごく難しいよね。盲目的でもいけないしさ。でも、信じてるものが間違ったことしてるわけじゃないなら、信じる方も肚据えて信じなきゃね」

 何か思うところがあったのか、黎は言う。まるで自分に言い聞かせるかのように。

「お前、強いよな」

 青嵐は感心する。黎は照れた。

「全然!」

 既に空桃の花は落ち、緑の葉が青々と茂っている。巻き上げる風は暖かく、頬を撫でていく。もう、花の咲き乱れる時期は過ぎた。花は落ち、散り、土となろうとしている。こんなに目まぐるしく季節が去ったのは久しぶりだと青嵐は思った。落花を厭う間もなく――。

 ふと、故郷の春が頭に浮かぶ。都から遠く離れた山の中の小さな村だ。雪が解けて春になれば、家々は花に埋もれる。深い雪の中で閉ざされていた村は、開放感に溢れ、祭りの準備を始める。その中には歌垣もあった。生命の萌えいづる中、恋もまた燃え上がる。

「彼の西山に登れば

桃花谷に満ちる

未だ君子来たらず

ただ落花を数えるのみ――」

 頭の中にこびりついて離れないその歌を、消え入りそうな小さな声で、青嵐は歌う。

「それ……」

 黎はじっと青嵐を見つめる。前回は、青嵐がその先を言わせなかった。しかし今度は、自ら口を開く。

「お袋が、親父と歌垣で交わした歌らしい」

「そうなのか? あれって逢引きだろ? 悲しい歌に聞こえるけどな」

 地竜が青嵐の側で体を起こして会話に参加する。

「細かいことはよくわからないんだ。俺が聞いたのは、親父が御龍氏の見習いとして行ってからだったからかな。都の方を見ながら、来る日も来る日もこっそり歌ってた。だから、そう聞こえるのかもしれない」 

 窓の外で、小さな小さな声で歌う母を、青嵐は思い起こす。花の落ち始める前から、幾度となく聞こえてきた。掠れたような声で、他の誰にも聞こえないように。けれどどこかで、風に乗って届いてほしいと願っているかのように。その切実な願いが、青嵐の耳にその歌を縫いとめている。

「彼の西山に登れば

桃花谷に満ちる

未だ君子来たらず

ただ落花を数えるのみ――」

 黎は確かめるようにその歌を口にする。小さな声だ。しかし、黎が歌うとその印象は全くと言っていいほど変わる。優しく、耳を撫でていくような旋律だ。青嵐の耳に縫いとめられて離れなかった音を、そっと払っていく。そういえば、夜に黎が歌っている時には、締め付けられるような夢にはならなかった。そう、願って歌ってくれていたから。願いで、歌は変わる。

 黎の歌を聞いた。

 龍の歌を聞いた。

 菫や、桑の歌も。

 一つとして、同じ歌はなかった。そして、自分の歌も、同じではない。自分の歌は、どうあるべきだろう。青嵐は初めてそう思った。

「お前の家族は?」

「僕は、一族の栄誉だって送り出されたよ」

 黎は膝を抱える。誰もがおめでとうと祝福した。誰もが羨望の眼差しを向けた。御龍氏とは、そういう存在。

「親父の時、俺の村もそうだったな」

「でもね、寂しかったな。言わなかったけど。言えなかったけど」

「そっか」

青嵐も竹筒の水を飲む。喉に冷たさが染みた。

 場にしんみりした空気が流れる。

「さ、続き続き!」

 黎はそれを断ち切った。青嵐も再び水球に向かう。水球の中で、青い弦月魚は浮かんでいた。丸い目がちらとこちらをうかがう。

(弦月魚と、一つになるように――)

 潤んだ黒目の奥に、空桃の花びらがざあと舞うのを感じる。頭の中に、靄がかかる。

『私見たわ』

(――何を?)

 深く深く海を潜るように手繰り寄せる。ぼやけた視界に、ごりごり何かを削る菫の背中が見えた。重しをおいて開かれた本が、所狭しと並べられている。それを、心配そうに見守るのは、赤い弦月魚。揺らめく炎のような、あの赤い。

 一息ついて、菫は体を起こす。弦月魚は、すいと顔の側へ寄った。

「大丈夫ですよ、これが出来上がったら、休みますから。私は今できることをしなくては。龍と、弟子を守る」

 手元の書き付けには、この間投げた催涙弾の作成方法らしきものがあった。

「老師……」

 声と共に、繋がった意識は途切れる。体と頭が重い。

 その重さは、弦月魚と自分との距離。

 水球の中で弦月魚は、ゆるりとひれを翻す。深い空のような青が、光によってその色を変える。

(龍が来なければ、親父が行くこともなかったのに)

 そう、何度も責めた。母が涙するのは、父が帰らないのは、龍のせいだと。

 加護など、自分にはない――

 けれど、黎や御龍氏の訪れた村の人々は、龍を、龍の加護を信じた。その思いが、積みあがっていくたびに、青嵐は弦月魚との溝を強く感じていった。

 そうして自分が恨めば恨むほど、自分の時は止まった。

 けれど、自分と同じように置いて行かれたはずの菫は、自分で時を進めようとしている。

 ――どうなるかは、あなた次第です。凶兆は変えられぬ未来のしるしではありません。改めれば好転しますし、瑞兆が現れても、奢れば身を滅ぼします。

(俺次第なのか……?)

「地竜、きみお酒もすっからかんにしたの?」

 地霊にまた告げ口されたらしい黎が、地竜をつまみ上げる。青嵐は黎の方を向いた。

「黎、頼みがある」

地竜に、禁酒を迫っていた黎は、青嵐の方を向いた。

「作り方見せてくれないか」

「作り方?」

「水球の」

「いいけど……地霊の方はいいの?」

青嵐は頷く。

「水球も作れないのに、頼みごとなんて聞けるわけないかなって」

 黎は笑んで、わかったと返すと、館の方へと走って行った。足取りは軽い。しばらくすると、桶に水を入れて戻ってきた。弦月魚用に汲み置いていたものを持ってきたのだろう。その桶を、青嵐の前に置く。

「水は、なくてもできるらしいんだけど、初めはあった方がやりやすいんだって。意識を一つにして、弦月魚の周りを優しく包んであげる感じ」

そう言って、両手を桶の中に入れる。手がゆらりと歪んだ。玄珠がその真上に来ると、黎は目を閉じる。すると水球の表面が波のように揺らめき始めた。その水球に引き寄せられるようにして、桶の水が浮かび上がり、水球の周りを回り始める。中央の玄珠はじっとそれを見ていた。一回り巻き終わると水は途切れ、だんだんと波は穏やかになっていく。完全に元のようにつるりとした水球になると、黎は目を開いた。ふっと息を吐くと、額にいつの間にか滲んでいた汗を拭う。

「こんな感じかな。水はあんまり頻繁に入れ替えない方がいいみたいだから、一巻きくらいでいいんだって」

言って黎は竹筒の水で喉を潤した。青嵐も弦月魚を引き寄せ、桶に手を入れる。水は少し温かい。目をつぶって弦月魚を思った。つい、体に力が入る。しかし、水は漣が立つくらいで動きはしない。一呼吸入れて力を抜くと、再び水球作りに挑んだ。

二人の様子を、横で地竜は見守る。干からびないよう物陰に入ると、目を細めた。

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