第42話

 赤く染まる夕日を背に、菫は村を歩いて回る。あれほど静まり返っていた村が、夕食の準備をする音や声で満たされている。道行く人々はあいさつを交わし、菫に声をかけてくる。菫はその一つ一つに足を止め、挨拶や返事を返した。龍の言葉を聞く。それは御龍氏の大切な職務だ。しかし、届けるための人々の声を聞くのもまた、大切な役目だ。そうしてずっとやってきた。小さな女の子が、花を持って向こうからやってきた。恥ずかしそうに、菫に差し出す。

「ありがとうございます。でも、これは廟に供えてください。豪勢な供物は必要ありません。感謝の気持ちと、祈りを捧げてください」

 しゃがんで女の子と同じ目の高さになると、女の子は夕日よりも真っ赤になった。

「はい」

 頭をなでると、菫は村長の家を訪ねた。

「お加減はいかがですか」

 声をかけると、村長は礼をして出迎えた。

「ありがとうございます。もうすっかりよくなってきました」

「それはよかった」

 菫は目を細める。重症だった者も、軒並み回復に向かっている。そろそろ引き上げ時だ。放置するのはまずいが、過保護もよくはない。 

「明朝発ちます。見送りはいりません」

「承知いたしました」

そういいつつも、村長は丁寧に丁寧に礼をする。菫はそれを丁重に辞して、借りている家に足を向けた。家に着くと、一息つこうと湯を沸かし始める。茶葉を一人分だけ椀にいれて、湯が沸くのを待った。今はただ、時が早く過ぎてくれればいい。

 窓の向こうに、自分についている警護の兵が見える。村の風景になじまないそれを、菫は早く取り除きたかった。そして何より。

(青嵐と黎は、大丈夫だろうか……)

 他に自分の代わりになるものがいればいい。けれど、それはいない。青嵐は薄くはった氷のように不安定だ。黎や地竜がいることで、少しは気が紛れるかもしれない。本人も平静を装うのが上手だ。しかし先日の出来事が、その薄氷にひびを入れた。

(紫雲山にいれば、ひとまずは安心だが……)

湯を椀に注ぎ入れると、緑の水面に見慣れた顔が映った。ずいぶんと疲れたような顔をしている。紫雲山に戻ったら、まず皆で食事をしたい、と菫は思った。食事を誰かと共にするのは、久しぶりのことだった。それこそ、六年ぶりの。こんな形で、誰かと食事をとるようになるなんて、六年前には思いもしなかった。御龍氏になった自分も、弟子をとった自分も、想像だにしなかった。自分には強烈な個性も、指導者としての力量もない。菫にはそれが痛いほどわかっていた。二人を引っ張って道を示せる人間ではないと。ならば、どうしたらいいか。ずっと考えていた。

 ごとり、と部屋の外で重い音がする。それ以上何もない。が、異様な気配を察して声を上げた。

「何かご用ですか」

 戸が開き、ゆっくりと入ってくる人物に、菫は振り返った。警護の兵ではない。村のものでもない。白い衣を纏った男が、そこには立っていた。男はそっと顔を覆っていた布を取る。菫はその顔を睨んだ。

「兵はどうしたのです」

「幻覚の中だ。危害は加えてない」

 丹はそう言って布を頭の後ろへとやった。変わらない、と菫はついまじまじとその顔を見る。菫より幾つか年は上だ。しかし、疲れた風貌の菫とは対照的に、こざっぱりとした髪や輝く目から若々しさを感じる。琥へ行こうと、それは変わらない。が、気を引き締める。

「御存命だったとは。……もう一人も?」

「ああ。琥にいる」

「人質ですか」

 鋭く菫は問う。

「まさか。別行動してるだけだ。……あまり驚かないな」

「驚いてますよ。しかしその恰好では感慨がわきませんね。龍を捨てるのですか、あなたが。民を苦しめるやり方に、加担するのですか」

 丹は菫の脇で浮いている紫苑をみやる。かつて菫が紫雲山に昇山した時に、授けたものだ。紫の体を波打たせ、こちらを見つめている。しかし、あまり歓迎されていないように、丹は感じた。

「耳が痛いな。丹曦から俺の最期は聞いたんだろう?」

「ええ」

丹が任務中命を落とした。そう告げられ、弦月魚だけが菫の元に戻ってきた。勿論、同調して何があったのか聞いた。どのような経緯で、そうなったのか。

「けれど、途中から拒否されました。私以外には、任務に出てからのことは一切教えないようですね。丹曦は、本当にあなたを大切に思っていた。誰にも心を開かずに、守っていた。あなたを」

言葉にはしない。けれど、その頑なな扉が、丹曦の精一杯の表現だ。それを思うと胸が痛む。

「地霊も教えてはくれない。何をしたのです」

「日頃の行いってやつだよ」

菫は納得がいかない顔をした。

「あながち間違いでもないぞ。青嵐を渡してもらおう」

丹の顔つきが、急に鋭くなる。

「なぜですか」

「瓏にいては、あの子の命が危うい。この国は、あの王ではもはや持たない。王は龍を、龍の力を操ろうとしている。それがどれほど危険なことか……お前もわかっているだろう。俺にはもう、中から治す方法はとれないんだ」

 菫は丹と真正面から向かい合った。

「私は医者です。治らない病を抱えるからと言って、見捨てることなどできません」

「いい面してるな。だからこそ御龍氏に推挙したんだけど」

 丹は破顔する。龍の瑞祥があったわけではない。自分の目で見て、話して、推挙を決めた。異例中の異例で、反発もあった。自分と同じように、名家の者がなるのが当たり前だったから。しかし、丹は全員を説き伏せた。今は、疫病が起きれば必ず呼ばれるほど、他の御龍氏からも信任されている。それは、琥の作戦行動の中、各地で龍の降臨の現場に赴いて見てきた。できればそれを、もっと近くで見ていたかったが、もうそれはかなわない。

「あの子もきっと来たがるぞ。お前だってわかってるんだろう。だから呪をかけなかった」

「彼が選ぶなら、私は止めません」

 丹は少し考えるような顔をする。迷うように言った。

「この前の一件を見て考えたんだ。龍の言葉をよく聞く者は、緑雨じゃなくてあの子だったんじゃないかって。俺が甘かった……」

荒れ狂う龍に歌を届け、静めたあの一件。歌を知っていたのではなく、黎の歌を聞き取って、言葉に変えたのだろう。また、黎は歌の内容がわかったと言っていた。深く同調することで、近くにいる者にその龍の言葉を届けることができるようだ。おそらく、緑雨の時もそうだったのだろう。

 菫は唇を噛む。丹の気持ちは、想像するに難くない。

「無理もありません。私も、同じようにしていたでしょう」

「他の奴らにはバレてないだろうな」

「時間の問題でしょう。ですが、守ります。私の命にかえても」

「俺だって、そう思ってた。でも、叶わなかったんだ! 思っている以上に、王の病みは深い。お前は俺のようになるな」

 丹の瞳は、まっすぐ菫を見ている。何もかもが、六年前と、いやそれよりも前と、変わらないように見えた。かつて師と仰いだ者。自分を導いてくれた者。その眩しさが変わらなく見えて、菫はいっそ幻覚であったらと思う。そうであったら、楽だったのに。

「鳥を閉じ込めていた結界、あれはあなたが作り直したんですよね。私は符術は不得手。琥の幻覚に結界では、私には解けません。琥の計画では、もっと長引かせるつもりだったのでは? そのような国に残るのですか?」

 瓏に、丹の居場所はない。わかっていてもなお、問わずにはいられない。菫の言わんとすることを察したのか、丹は表情を曇らせる。

「龍の加護が弱まってる。帰りに見て帰れよ。そのうち紫雲山を守る霧も晴れる。晴れきって、琥が動く前に行く。お前だって、いつか話さなきゃならないと思ってただろ」

 六年前、あの時。すべてが大きく変わった。菫にも、丹にも、青嵐にも。

 逃げることはできない。もう、覚悟は決めたのだから。

 丹は踵を返す。ふと、思い出したように足を止めた。

「お前、歌うまくなったぞ。あんなに嫌そうだったのにな」

 菫は表情を変えない。自らの立場をわきまえている。

「悪かったな、全部押し付けていって」

 背中で丹は言う。返事を聞かずに、戸を静かに引いて出ていった。夕日が闇にかき消されるように、静かに気配は遠ざかっていく。

その後を、追う気はない。引き留める気も。感傷に押し潰されてしまうほど、幼くも情熱的でもない。それならばとっくに、この青い衣を引き裂いていたはずだ。菫は椀を見つめる。いつしか熱かったはずのお茶は冷め、開いた茶葉がゆらゆらと揺れていた。頭を冷やすように一気に冷めたお茶を飲み干す。自分のすべきことは何か、ずっと考えていた。それは変わらない。横では紫苑が、菫の顔を、心を、覗き込んでいた。どんな時も、傍らで寄り添い、応えてくれていた。彼がいたからこそ、御龍氏にもなれた。ふと、遠く離れた丹曦の事を思う。彼は、ついて行きたかっただろうか。声にならない声に、出さなかっただけで。六年の時を越えて。菫は茶碗を片付けると、荷造りに取り掛かった。

「交渉は決裂ですか?」

 単身で村を離れてきた丹に、嵩は声をかける。

「ああ。当然だろうな」

 鉤月猫を肩に乗せて、嵩は撫ぜた。日は暮れ、辺りに気にするような人目もない。白い体が闇に浮かぶ。しゃらしゃらと首元の金細工が触れ合って鳴った。

「彼も連れて行けばいいじゃないですか。あなたのように解呪して。そのために近づいたのではないのですか?」

「あいつには、御龍氏としてやるべきことが見えてる。その辺のボンボンとは違うからな。だから来ないよ」

 少し嬉しそうに、丹は言う。嵩はこの読めない元御龍氏にため息をついた。

翌朝、朝焼けの中を菫は駆けた。文字通り紫の雲をたなびかせた紫雲山は、都から少し離れた場所で中空に浮いている。ひときわ高い山を、九つの山がぐるりと囲んでおり、山から流れる川が空へ注いでいる。水はある一定のところまで落ちていくと散って、虹を作っていた。美しい山だ。それを守るのは、根元にかかる深い霧。

菫は夔龍の首筋を撫でて止まらせる。霧は丹の言うように少し、薄らいでいるように見えた。外からの侵入を阻み、龍とその秘密を守る霧。菫は再び夔龍の首を撫でると、進路を都にとらせて駆けた。

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