第40話

 春の夕日が、屋根や木々を染めていく。ねぐらへの道を急ぐ鳥の声が時折聞こえるだけの静かな道を、青嵐は注意深く歩いていた。少し横になって、体は落ち着いた。しかし、心が落ち着かない。青嵐は素早く菫の弦月魚のいる部屋へと向かった。所狭しと並ぶ水槽の中から、赤い弦月魚を探す。年季が入ったでっぷりと大きな体は、すぐにそれとわかった。ひれは隅から隅まで真っ赤で、何ものにも染まらない強さがあるようだった。丹曦と呼ばれていた赤い弦月魚は、水の中でぷかりぷかりと、何か物思いにでもふけるように浮いている。青嵐は、その水槽に触れた。赤い体にぽつりと黒く浮かぶ目を、覗き込む。

「丹曦、俺をお前の元の主人のところに連れて行ってほしい」

 丹曦は青嵐と目を合わせようともしない。ひらりとかわすとまたじっと浮かんでいる。

「頼む、乗せてくれ」

 何とか目を合わせようとする。しかし、うまくはいかない。

「それは無理だよ」

 後ろから声がかかる。青嵐はびくりとして振り返った。黎が、扉の所に静かに立っていた。黎は一歩、また一歩と青嵐の方に近づく。

「きみは、弦月魚を見てない。だからきみの弦月魚も、きみを見ない。丹曦ならなおさらだよ」

「たとえそうだとしても、聞かせてみせる。俺は――」

龍の歌が歌えたのがなぜかなんて、最初からわかっていた。わかっていて、目をそらし続けてきた。それが、身勝手なことだとも。

 黎はゆっくりと近づき、横に立った。責めるでもなく、深い森の中の湖のように静かに、青嵐が自分の心をきちんと映すのを待っている。そっと、青嵐の青い弦月魚の水球を手に取って差し出す。弦月魚は、底の方でじっとしていた。

「きみたち、謹慎中じゃなかったのか」

 扉の方から、別の声がかかる。柳と楓が、扉の向こうから中を覗き込んでいた。楓が、つかつかと青嵐の方へやってきて、黎を押しのける。その表情は強ばっていた。

「首元を見せてくれないか」

 青嵐は変な顔をするが、後ろを向く。楓はその襟元を引っ張ってうなじのあたりを見た。そして、驚いたような声を上げた。

「ない」

「首に、何かなきゃいけないのか?」

楓は黎に後ろを向かせて、同じように襟を引く。髪を持ち上げると、その白い首の付け根に、文字のようなしるしが描かれていた。朱で描かれたそれは、龍を蔦がからめとるような形をしている。そのはっきりとした発色は、どこか禍々しい印象を受けた。

「我々が、龍のことを外部に漏らすと記憶を消される呪だ。もしかして、疑いたくはないけど、きみが内通者なのか?」

 黎は息をのむ。都でもまことしやかに噂されていた。それは黎も知っている。楓は畳みかけた。

「きみ、以前他の御龍氏の山をうろついていただろう。何をしていた。内通者なら、容赦はしない!」

御龍氏に争いごとはご法度。それを知っていてなお、楓は青嵐の襟元を掴んだ。当然の反応だ。謹慎中に、師の弦月魚を盗んで勝手に紫雲山を抜け出そうとした。あるはずの、機密保持の術もない。しかも過去に不自然な行動をとっていたとあれば、疑うのも無理はない。青嵐は、その手をはねのけることも、反論することもしない。楓は更に苛立ち、

「何とか言ったらどうだ!」

と声を荒げた。

「待ってください!」

 一触即発の二人の間に、黎が割って入る。楓は思わず手を離した。その隙に、黎は背に青嵐を庇う。

「琥の人や貔貅から守ってくれたのは、青嵐です! 何か……何かわけがあるはずです!」

「黎……」

 青嵐は、黎の背中を見つめる。しかし、その向こうの楓の表情は硬いまま。黎は両手を広げて、どちらからも手出しはさせまいと仁王立ちして動かない。

「その辺にしておけ、楓」

 静観していた柳が、楓の肩を叩く。

「しかし!」

「一つ疑えば、また一つ、二つと増えて、すべてが黒く見えてしまう。逆もまた然り。黎の言う通り、恩人を疑うのは不義理だ。我々は道に則り、民を導く立場にある。それなのに、人を信じなくてどうするんだ。呪がないのは確かに不自然だが、本来ならそれもなくしてしかるべきだろう。すまなかった、青嵐」

 呪があるのは、信じていない証拠。信じられていない証拠。柳は青嵐の方を向いて頭を下げる。青嵐もつられて、小さく頭を下げた。

「今日は、先日きみに助けてもらった礼がしたくて来たんだ。謹慎中は気が滅入るだろう。干菓子を作ったから、二人で食べてくれ」

 柳はつるりとした紙の包みを黎に渡す。思ったより重かったようで、黎の両腕が沈んだ。

「ありがとうございます」

 楓は心残りがあるようで、ちらちらと何か言いたげに見ていたが、柳に引っ張られるようにして帰っていった。

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