第38話
昨夜の喧騒が嘘のように、紫雲山の朝は静まり返っている。うっすらとした靄が、まだ冷たい。靄を潜り抜けて夔龍で一足先に送り届けられた二人を、地竜は出迎えた。疫病の対応であれば、これまで数日かかるのが常だった。しかも、二人の表情は暗い。地竜は努めて優しく声をかけた。
「早かったな。菫は?」
「まだ残ってるよ。僕らだけ、先に返された。当面、紫雲山で謹慎だ」
黎が答える。黎に支えられるようにして歩いてきた青嵐は、俯いて目元を布で覆ったまま、地竜を見ようともしない。
「何だ。お役御免か?」
謹慎とはただ事ではない。重い雰囲気を、地竜は笑い飛ばそうとする。が、青嵐はそれを遮った。
「教えてくれ、俺以外に外部から弟子を取ったのはいつだ?」
目元を覆っていた布を取ると、泣きはらしたかのように真っ赤になった目が姿を現す。それはぎらぎらと涙ではないもので光っていた。それが、地竜に迫ってくる。
「菫の時だ。お前とあいつ以外にはいない。おい、何だよ急に!」
地竜には答えずに、矢継ぎ早に青嵐は問いを繰り出す。心の奥の靄をぶつけるような様子に、地竜は戸惑いつつも従った。
「緑雨という名に、聞き覚えは?」
「いや」
「では、丹は?」
「丹? 知ってるけど……」
「親しかったのか?」
「恩人だよ。俺をここに連れてきたやつだ」
「任務中に死んだって、御龍氏の記録に書かれてた。同行した弟子も。でもそれしか書かれてない。経緯を詳しく知ってる人を知らないか?」
声が一段と鋭くなるのに、地竜は体が引ける。黎も、ただただ見守るしかできない。
「わ、わからねえよ。菫もその時はここに残ってたし……もしかしたら、弦月魚から聞いてるかもしれねえけど」
「弦月魚から?」
地竜は頷く。
「あいつは丹の弦月魚を継いだんだ。二匹連れてるうちの、赤いほう」
確かに、丹の呼び掛けに反応するように光っていたのを、黎は思い出す。自分たちを乗せて帰ってきたのも、その弦月魚だ。自分たちと――いや、青嵐と同じく、接触される可能性が高いが故に紫雲山に返したのであろう。
「でも、老師も丹様が生きてて驚いてたよ?」
黎はようやく口を挟む。地竜は目を瞬かせた。
「生きて……たのか?」
「うん。でも、貔貅を連れてた」
黎の表情が曇る。地竜は首を微かに振った。
「琥に降ったってのか? そんなバカな……。あいつほど、瓏を良くしようとしてた御龍氏はいなかったのに……。なあ、偽物なんじゃねえのか? 琥は幻術を使うって聞いたことがあるぞ」
「そうなの?」
黎は、青嵐がすっかり黙ってしまったのに気づいて、顔を覗き込む。
「青嵐、大丈夫?」
「……ああ」
布で表情は見えない。が、かなりショックを受けているのは明白だ。黎はその背中を優しく叩いた。
「先に横になってなよ」
「そうする」
ようやく布を取って、ふらつくように青嵐は歩いて行った。支えようとする黎の手も払う。靄の中に消え入りそうなその背中を、黎と地竜は心配そうに見送った。
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