第37話


 温かな湯気を立てて、椀に茶が注がれていく。菫は片付けられていく食器を見送った。

「きみたちが来てから、食事が格段に良くなったね」

 青嵐は食器を下げながら、呆れた顔をした。出会った頃、目の前の師はあまり顔色が良くなかった。食事も、呼ばないとやってこない。無頓着な人なのだろう。その割には、出された鶏肉と生姜の粥と、漬物、干し葡萄の蒸しケーキを二人分ぺろりと平らげた。疲れた体でも受け付けるよう、さらりとした食事だったが、これからに備えて食べておかねばと思ったのであろう。食べてくれるのはよいことなので、青嵐は毎回多めに用意する。黎も、初めの頃よりは苦手な野菜も食べるようになっていた。

「老師は何を食べてたんですか」

「あんまり覚えてないな」

 菫はさらりと言って椀を手に取る。茶をゆっくりとすすると、爽やかな甘みが広がった。黎は立ち上がって青嵐の席にも椀を置いた。

「二人とも今日は疲れただろう。明日はまた村の様子を見て回るから、早く休みなさい」

「御龍氏は薬の処方もできないといけないんですね」

黎は感心した様子で言った。広場で祭祀を終えた菫は、一人一人丁寧に診察すると、薬を用意し、配って回った。体を蝕まれ、沈んでいた村の人々が、希望の光が灯ったかのような顔をし始めたのを思い出す。

「全員ができるわけではないよ。私はかつて、医者をしていたんだ。きみのような、名家の出ではないし、都にいたわけでもない。医者としての力量を認められて、昇山することになったんだ」

「薬があるなら、龍を呼ばなくてもよかったんじゃないですか」

 青嵐はふと聞いてみる。菫は笑んだ。

「もちろん、紫雲山の薬草は地上に比べて効能が良い。龍の加護を加えれば、よりその能力は高められる。しかし、龍の加護をいただく意味はそれだけではない。私が医者をしていた時、私の腕を知っている人は、私を信じて薬を飲んでくれた。病は時に治るまで時間がかかる。しっかり薬を飲んで、栄養を取って養生しなければ。しかし、知らない人は、胡散臭いからと受け取らなかったり、飲み続けてはくれなかった。効き目も弱くなる。病は気からというが、逆もある。薬を信じる心がなければ、薬は効かない。信じる力は、時に奇跡も起こす。龍は心を安んじ、薬は体を安んじる。龍の力を借りなければ、なし得ないことだ。だから私は、御龍氏になる道を選んだ。より多くの人を助けるために」

「龍の力か……」

 黎は嬉しそうに笑んだ。しかし、青嵐の顔は暗くなる。それを悟られないように、食器を水につけると、包みを手に取った。

「見張りの人に、おにぎり渡してきます」

 声をかけると、黎の、僕も行くよという声が飛ぶ。しかしそれを背中で流して、青嵐は外に出た。村は静まり返っている。ところどころ、見回りの兵が持つ灯りが見えるが、龍を呼び終わった今、その数はまばらだ。もう役目は終わったと、気が抜けているのだろう。青嵐は息を吐いた。門までは数メートルだ。焚かれた火が揺れている。それが大きく歪んだ。何か嫌な予感がして、青嵐は身構えた。灯りの近くにいるはずの兵の姿が見えない。次の瞬間、強い力で腕が引かれた。しかし青嵐はその掴んできたものを蹴って、間合いを取る。ひらと白い衣が暗闇の中を鮮やかに翻った。青嵐は短刀を構える。

「青!」

 後からやってきた黎と菫が、その光景に目をむいた。

「青嵐、こっちへ!」

 菫が呼ぶ。青嵐はじりじりと二人の方に後退った。それを見て、白衣の男は声を上げる。

「青嵐。俺と一緒に来い」

 青嵐は眉を顰めた。白衣の男は、顔を覆っていた布を下げ、顔を見せる。精悍な顔つきの男だ。そしてどことなく品がある。目の力は強く、意思の強さがうかがえる。

 青嵐は、体の中で鼓動が大きく鳴るのを感じた。短刀をつかむ手が、震える。

「あんたは、あの時の御龍氏……!」

「老師!」

 青嵐と菫は、ほぼ同時に声を発した。

「……どういうこと?」

 黎は二人と白衣の男を順繰りに見る。二人とも、驚きに満ちた顔をしている。対して、静かに怒りをたたえているかのような白衣の男。しかし、その間を裂くように、光の線が走った。線は白衣の男を囲むと、結界の中に閉じ込めた。男は突然現れた結界に驚きつつも、確かめるようにその面に触れる。その向こうの闇が、動いた。

「やはり、お前だったか、丹」

 暗闇を割るように、桑が現れる。険しい表情で、丹と呼んだ白衣の男を睨んでいた。

「死んだのではなかったのか」

 丹は、嗤う。

「瓏王を正すため、死の淵から舞い戻ったんだ!」

 言うが早いか、以前に龍の結界を割った鈴を取り出し、叩きつけるように鳴らす。すると、結界は跡形もなく吹き飛んだ。

「これもダメか!」

 桑は新たな結界を張ろうと符を取り出す。そこへ貔貅が風を起こして現れた。その背には嵩が意気揚々と乗っている。突風に、皆が顔を腕で覆った。その隙に、丹は青嵐の腕を引く。

「きみはここにいるべきじゃない」

「どういうことだ」

「緑雨からきみを頼まれた」

 青嵐は目を見開く。

 ――いいか。青嵐、頼んだぞ。

 頭の中で、あの日の出来事がぐるぐると回り始めた。頭の中にわんわんと響く歌。自分の肩を掴む、大きな手。

体は強ばるが、抵抗もしない。それを感じ取って、丹は強く腕を引いた。足が、一歩二歩と丹の方へ進む。

「何をする気ですか! 彼は私の弟子です! 勝手な真似はさせません!」

 菫が声を荒げ、風の抵抗を受けながらも近寄ろうとする。かつての弟子の姿を捉えて、丹の眼差しに優しさが滲んだ。

「悪いな、菫。これだけは譲れない」

 菫の弦月魚の片方が、赤くろうそくの炎のように光る。丹は目を細めた。

「久しぶりだな、丹曦たんぎ

目と目が合う。しかしそこまでだ。回路を通すように意識を繋ごうとして、はねのけられた。丹は一瞬哀しそうな顔をする。もうかつての彼らの関係ではないのだ。それがわかると、邂逅もそこそこに貔貅に飛び乗ろうとする。

 が、そうはさせまいとする桑の結界に阻まれた。丹はすぐさま割る。その足元に、何か丸い物が投げつけられた。鈍い音を立てて割れると、ぶしゅっという音とともに勢いよく煙をまき散らす。

「何だ? 目が……!」

 煙の直撃を受け、丹と青嵐は腕で顔を庇う。が、煙は防げず、目に刺激を感じたかと思うとぼろぼろと涙があふれだした。喉からも吸い込んだ煙のせいで、咳きこみ始める。煙はすぐに風に流れたが、涙と咳は止まらない。

「今だ、かかれ!」

 桑が兵に命じると、わっと兵が現れた。混乱に乗じて、菫と黎が青嵐を引っ張り出す。が、貔貅が大きく風を立て、兵を蹴散らした。嵩が丹を引き上げる。

「一旦引きましょう」

 なおも視力を奪われたままの丹を乗せて、貔貅は素早く風に乗った。

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