第33話
魂は……抱えられ
天の……
何の歌だろう。
心地よい声が体を包んでいる。声は少し遠い。それがよりいっそうまどろみを深くさせた。このままこのまどろみの中で眠り続けていられたら……。そこまで考えて、青嵐ははっと目を覚ました。途端に心地よさは消え、生ぬるい額の感触と頭痛が頭角を現した。ゆっくりと手を動かすと、視界を半分遮っていた額の布をはぎ取る。重い体を起こすと、地竜が甲高い声を上げた。
「おい、起きるな! 寝てろ!」
寝台から足を下ろすと、地竜がなおもきいきい叫んだ。
「お前、二日も寝てたんだぞ! 無理すんな」
「二日?」
頭がついてこない。
「そう。龍が帰ってからぶっ倒れて、そのままずっと寝てたんだぞ!」
そうだったけか、と青嵐は重い頭を働かせる。一心不乱に龍が鎮まるよう祈った。頭に入り込んでくる音を頼りに、必死に形にした。そこから先は、あまり覚えていない。
声を聞きつけて、黎が部屋の外からかけてくる。
「青、起きたんだ!」
ああ、と青嵐は気のない返事をする。しかし、鼻をかすめた匂いにぎょっとして黎を見た。黎はにこにこしながら小さな椀を持っている。蓋がされているが、間違いなく匂いの元はそこだ。
「きみが眠っている間、僕が料理担当だったんだ。だいぶうまくなったんだよ。地竜も泣いて喜んでくれたんだ。食べて早く元気になってね」
黎は満面の笑みで蓋を開ける。地竜のいる方から、うめき声が聞こえた。椀の中には、黒々としたどろどろのものが見える。
「……それは?」
「濃密薬草粥~森の癒し~だよ。よく効くように、しっかり煮詰めてあるからね!」
煮詰めてある、の一言に、青嵐の背筋が寒くなる。どこが癒しなのか。冗談は題名だけにしろ、という言葉を青嵐は飲み込む。
「老師には食べてもらったのか?」
恐る恐る聞いてみる。
「老師は忙しいって、ずっといらっしゃらないんだよね。あ、地竜の分もあるよ」
「お、俺は元気だからいいかな」
そっと這いながら逃げようとする地竜を、青嵐はむんずと捕まえた。低い声で、脅すように言う。
「今食べないなら、供えるぞ」
「罰当たりめ!」
びちびちと跳ねる地竜を無視し、黎の前に座らせた。
「しかし、大変だったな」
観念した地竜は、何事もなかったかのように話題をそらそうとする。黎はそれにかかった。
「うん。妭様が来てくださったからよかったけど、今度来られたら……」
顔を曇らせるが、すぐにぱっと明るくなる。
「あ、でも悪いことばかりじゃなかったよ。歌、どうしてかわからないけど、意味が分かったんだ」
あの時。無我夢中で黎は音を声に乗せていた。歌詞はわからない。ただただ旋律を奏でていただけだ。すると、意識が引っ張られるようにして、何か別のものたちと一体になったようなぼんやりとした感覚にとらわれた。そして、頭の中に響き渡るようにしてその言葉が現れただしたのだ。最初は小さく、徐々にはっきりと。意識が何かに引っ張られていて、確かめてはいないが、それは青嵐の声であるような気がした。きっとそうだ、と黎は思った。短い間の付き合いだが、青嵐が必ず力を貸してくれようとする人であるのがわかっていたから。
「へえ」
地竜は目を丸くする。
「龍の歌なんだろ? すげえな。俺もわからねえよ」
嬉しそうに、黎は笑む。そして、青嵐の方に向き直った。
「ありがとう、青嵐。一緒に歌ってくれて。きみがいなければ、届かなかったよ」
「俺は何にもしてない。黎の思いが、届いたんだろ」
青嵐はそっけなく言う。改まって言われると、こそばゆい。それに、口火を切ったのはきっと、黎の思い。青嵐はそう感じた。龍を、まっすぐに思っている。瓏の人は皆龍の恩恵を受けている。龍を信じている。それが当たり前のことのように。その理想的な姿を体現しているようだ。それを思うと、心が暗くなる。黎はその背中をばしばし叩いた。
「そんなことないよ。あれは青嵐の思いが届いたんだ。きみのおかげだよ。水かさは増したし、木も倒壊したけど、離れたところだったから人的被害はなかったみたい。後のことは桑様たちが引き継いでくださったんだ」
そうか、と青嵐は返す。しばし逡巡すると、ぽつりとこぼした。
「龍を、恨むだろうか」
「龍が悪いわけじゃないよ。守れなかった僕らの責任だ。僕らがしっかりしなきゃね。さ、早く調子を戻して水球作れるようにならないと!」
青嵐は弾かれたように左右を見回す。頭の少し後ろに、ぷかりぷかりと青の弦月魚が浮いていた。
「弦月魚も、きっと心配してたよ。きみが眠ってる間、ご飯を食べなかったんだから」
「まさか」
青嵐は弦月魚を見る。あの一瞬は何だったのかというくらい、そっぽを向いている。すっかり忘れられていたのを、拗ねているかのようだ。
「水球は、老師が作り直してくれたよ。ゆっくり養生してからでいいって」
「黎もか?」
黎ははにかんだ。
「僕はできるようになったんだ」
そうか、と乾いた声で青嵐は言う。本当は、もっと気の利いたことを言うべきなんだと頭の端では思う。青嵐が他のことにかまけている間、黎はひたすら同調の練習に精を出してきた。その賜物なのだ。けれど、その先が浮かばない。黎は努めて明るく言った。
「青嵐ならできるよ。あんなに素敵な歌を歌えたんだもの」
「心を一つに! だぞ」
地竜も跳ねる。青嵐はそれに頷くが、心も体も重い。布団から出ると、体の感触を確かめるように立ち上がった。
「……ちょっと、汗流してくる」
「うん」
黎はその背を見送る。青嵐の弦月魚は、その後に静かについていく。慕うでもなく、拒むでもなく。ただじっと青嵐を見つめている。見守っていると言ってもいいかもしれない。着替えを持った青嵐の姿が完全に部屋から姿が消えると、ぽつりと言った。
「ねえ地竜、僕は青嵐がわからない。何を考えてるのか、何がしたいのか」
地竜は、黎を見上げる。
「わかるわけねーさ。他人だからな。自分のことだって、よくわかんねーよ」
「……うん、そうだね」
外はうららかな日差しが緑を暖めている。自分のこと、と黎は心の中で反芻した。
空桃の花は散りゆき、緑の葉が若々しくきらめいている。そうしてただ静かに生命を営み、見守っている。
「地竜はすごいな」
「なあに、お前の料理の方がすげえよ」
地竜は器の行方を気にしながら、静かに後退りを始めた。
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