第32話
――あの黒雲を乗りこなした子供がいるらしい。
そんな騒ぎが聞こえてきたのは、夕暮れ時のことだった。
「黒雲を乗りこなした者に賞金を出した者がいるようですね。今回は長い道のりですから、息が詰まっていたのでしょう」
「面白い。会ってみたいな」
英も正直なところ同じ気持ちだった。龍の徳で覆われているはずのこの瓏を、武力で守らねばならない時が来るとは。それに、純粋に見てみたくもあった。それが若い力であるならなおさら。
連れてこられたのは、十を超えたくらいの子供だった。肉付きもさほど良くなく、少し擦れた身なりをしていた。荷物も、一抱えほどの袋が一つあるだけだ。そして子供にしては、沈んだ目をしている。英はまずそれが気になった。
「お前が、あの荒くれ馬を乗りこなしたのか」
「はい」
年の割には落ち着いた声だ。礼をするさまも整っている。
「名は?」
「青嵐です」
「青嵐か。珍しい名だな。西方では、古い名のつけ方がまだ残っているとは聞いていたが……父は?」
「
聞き覚えのある名に、心臓を射抜かれたような心持ちになる。気取られぬよう、静かに続けた。
「出身は」
「臨です」
(ああ、やはり――)
そうか、と相槌を打つ声に、つい息が混じる。まずいなと思いつつも、頭を掻いて「確かに西の端の村だな、と先を続けた。
どうして。その思いが、頭の中を駆け巡る。
胡麻化し半分に、食事を勧める。青嵐は背を正して食べた。食べ方もきれいだ。食事の話で遠回りをして、目的の質問にたどり着く。
「どうしてここに?」
「路銀を稼ぐためです」
「路銀?」
「都で働きたいのです」
瓏の国は大きい。山をいくつも越えた先にある臨から都までは、少なくとも二ヶ月はかかった。英は今回の行軍でそれを、いやというほど思い知らされている。
「何かあてがあるのか」
「ありません。御龍氏になりたいのです」
おおよそ、御龍氏になりたいもののする目ではない。英はそう思った。瓏の軍人の最高位にいると、そんな権限はなくとも、推挙してほしいという自薦、他薦は聞く。そういった者たちは、たいてい理想に目をきらきらさせていたり、権力に目をぎらぎらさせていたりするものである。しかし、目の前の少年にはそれがない。ないどころか、暗く閉ざしているようだ。それゆえ、今はそれ以上深く聞くのは無理だろうと、聞くのをひとまずやめた。
「御龍氏は狭き門だ。そしてそれをくぐれば、もはや御龍氏として生きるしかない。その覚悟はあるのか?」
通り一遍のことを聞くと、青嵐は表情を変えずにはいと頷いた。ただそれは、他の者も同じだ。
「なれるかどうかはわからん。だがこの隊は時間はかかるが、いずれ都に戻る。それまでついてくるか? 途中で考え直してもかまわん」
考え直してほしい、と英は心の中で祈る。
「ありがとうございます」
青嵐は深々と頭を下げて隊に加わった。
何もすることがないのはまずいと、青嵐には料理番としての仕事が与えられた。覚えは早く、器用に腹をすかせた兵達を満足させる料理を作るようになった。しかし、周りは黒雲を乗りこなした噂を聞きつけ、剣を教えて戦に出そうとする。英は肉に食らいつきながらそれを見守った。切っ先に迷いがある。何かにもがいているように見えた。それをどうにかしてやりたくて、肉を食いつくした骨をぽいと投げると、いつの間にか自分も教える側に回っていた。
「そんなでは、死ぬぞ」
かわしながら言うと、切っ先がぶれた。
(自暴自棄になってるな)
剣を弾き飛ばすと、意外にも食らいついた。あれだけ、心を閉ざそうとしているというのに。
「もう一度、お願いします」
迷いはあるが、素直だった。教えれば、めきめきと上達する。
剣をふるう間は迷いも外に置けるようになってきた。
(肚を決めれば、この子は化けるぞ)
英は基礎から徹底的に教え込んだ。死なせたくない。その一心だった。
「これを使え」
英は自分の短刀を青嵐に授けた。
「力は、虐げるためにあるのではない。これは、いざというときに、守るために使え」
青嵐はじっと短刀を見つめ、礼を言った。自分の意図が伝わったかどうかはわからない。しかし、自分の身を守るのに使えれば、と使い方も教えた。
いつしか青嵐は自分も、軍に入れてくれと言って加わるようになった。戦場に出せば、功績を上げた。危うい戦いをする。死に向かうように突き進んでいくのだ。自ら先陣を切り、危険に晒された味方がいれば、飛んでいって庇う。身体中に、傷が増えた。しかし、幸運にも命に関わるものはなく、何かに守られているようにも見えた。幸い戦はただの小競り合いで、被害は少ないが長引いた。
「まずいな。思ったより長引いている」
英の周囲も同意見だった。
「瓏を守る力が弱まっています。昨日も斥候のものとみられる白猫を一匹捕獲しました」
「大事なかったか」
「はい。しかし、白猫の出現に皆動揺しています」
英は口ひげを撫でた。と、その時近くで「猫だ!」と叫び声がした。英や隊の長たちは軍議をやめ、声の方へと向かう。食料を積んだ車の方で人だかりができていた。英は人をかき分けて輪の中央に進む。中央は開けていて、その中心で青嵐が猫の首根っこを押さえていた。
「ただの猫です」
英は青嵐の手元を見る。猫の頭や尾には灰色の模様がうっすら出ていた。琥の鉤月猫は、全身真っ白だ。英は頷いた。
「まったく。呪いがあるなんて噂もあるのに、怖くないのか」
「怖いです。でも」
青嵐は、じっと猫を見つめた。
「それで人が守れるなら」
英は猫を預かる。青嵐がふっと緊張を解くように吐いた息に、英は笑んだ。
「どうだ、このまま残ってみないか」
本気で、英は聞いた。青嵐は首を振った。
「俺はやっぱり、御龍氏になります」
「どうして、御龍氏になりたいんだ」
ようやく、その問いをぶつける。一陣の風が、足元を舞った。伸びた髪を舞い上げて、その表情を明らかにする。何かを隠しているような、貼りつけた表情だ。
しばらく考えるようにして、「人と龍をつなぐ、誇り高い仕事ですから」とだけ答えた。
「お前はまだ若い。自分を大事にしろ」
心の底からの言葉だった。でも、おそらく届いていない。青嵐の目は、ずっとここではないどこかを見つめている。故郷を懐かしんでいるようではない。どこか、遠く、遠く。そんな虚しい確信があった。将軍とは名ばかりだ。少年の心一つ動かせない。英は自分の無力さを呪った。
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