第29話
と、北の雲が一瞬切れる。切れては埋まり、切れては埋まりを繰り返し、小さな影を吐き出した。吐き出されたのは、薄紫色の夔龍。その背には菫と、妭がいた。妭の周りは風雨が和らいでいて、何かに守られているように見えた。夔龍は風をかわして降りてくる。地表近くで菫は衣を大きく翻して飛び降りると、祭壇の桑にかけ寄った。
「このままでは結界が持ちません。周囲にも被害が出ています。妭様にご助力いただきますので、その隙に歌を」
「わかった」
桑は強く頷く。後ろから妭がやってくるのを認めると、丁寧に頭を下げた。妭は祭壇の前に立つ。
乞われてこの力を使うのは、何百年ぶりだろう。いや、何千年ぶりか。天は当時に比べて遥かに遠く、妭の名は神話に刻まれている。こんなふうにこの場に立つようになるなんて、思いもよらなかった。が、今はそんな感慨に耽っている場合ではない。体の奥の力を呼び起こすように呼吸を巡らせる。
「我、天下の安寧の為、風雨の害を除かん。黄帝の血よ、我が力を示せ」
長く美しい髪が風になびく。妭の足元から風と雨が吸い上げられるように消えていく。桑と菫は祭壇の前で鈴を鳴らし、歌い始めた。菫の夔龍が、光を纏って龍へと向かう。熱波を越え、猛る風雨の合間を縫って、龍の元へ。しかしその姿は、黒雲に埋もれ、見えなくなった。
「届いたのか……?」
青嵐の問いに、柳は「わからない」と首を振った。
妭の力と風雨は、押しつ押されつ拮抗しているように見える。しかし、ずるずると風雨の力が妭を押し始めた。
「力が完全じゃないんだ、きっと」
妭は歯を食いしばり、懸命に力を込めている。しかし抵抗むなしく、じりじりと後ろへ後退していく。
「歌が届いていない」
黎は祭壇に近づく。
「何て、歌っているんですか。僕らも歌えるなら……」
柳は首を振った。
「御龍氏の歌は、龍の言葉。御龍氏にのみ伝えられる。我々見習いには教えてはもらえない」
「でも、何とかしないと……」
黎は玄珠を見る。すると、玄珠もまた、黎を見ていた。目が、ばちりと合う。黎は玄珠の水球を、両手で抱えた。
「玄珠、きみが龍の眷属なら、どうか伝えて」
黎は目を閉じる。大きく息を吸い込んで、歌い始めた。
「何の歌……?」
腹を押さえながら、楓が近寄ってくる。柳は首を振った。それには答えずに、青嵐は龍を見つめる。雲に体を叩きつけるように怒りを表す龍。
(聞いてくれ……)
必死に祈る。このままでは、旱魃どころではない被害になる。雨を待つ子供たちの顔が浮かんだ。このような形で、雨を届けたくはない。玄珠は黎の手の中で黒い体をきらきらと輝かせている。龍の方を向き、黎の思いを伝えるように。しかし、それ以上の動きはない。そこから先は、まだ知らないかのように。それでもなお、黎は歌い続ける。唸り声をあげる風雨に、ひるむこともなく。立ち向かっている。青嵐は自分の弦月魚を見た。青い体を縮こまらせて、底の方でじっとしている。青嵐は唇を噛んで、龍を見上げる。分厚い黒雲から時折見える顔は、目や牙を剥いて咆哮をあげている。
けれど、昔見たことがある。光を纏い、慈しむような眼差しの龍を。
――聞こえたか。
固まっている青嵐の肩を、大きな手が優しく包む。
――父さんには微かだが聞こえた。龍の声をよく聞く者よ、と。御龍氏に必要な資質らしい。この国と龍をつなぎ、恵みをいきわたらせる架け橋となるんだ。
その顔には、少しばかりの憂いがあったが、それを振り払うように誇らしげに胸を張っていた。
それが、俺の役目――
(俺の)
窓の向こうに見えたのは何だったか。呪いのようにこの胸を締め付ける苦しさは何なのか。
(俺が、動かないと。守れない)
目を閉じて耳を澄ます。黎の声がすぐ近くで聞こえた。
声は音の螺旋。注意深く聞いていくと、言葉が形をなしていった。
……爆ぜ……を焦が……
「魚の……海となる」
ぽつり、ぽつりと声にしていく。すると、音の渦が自分の中に入り込むような感覚に襲われた。自分もその中に、引きこまれていく。人の体の枠を超えて、弦月魚と、更にその先へと一つになるような、そんな感覚。自分のものでなくなった唇が、自然と動く。
「風は止み 雲は千切れて
空へ昇る術はない」
青嵐の弦月魚は、じっと青嵐を見つめている。ぶるぶると体を震わせたかと思うと、ひれというひれを大きく広げた。体が、朝日を映す波間のようにきらめきだす。そうして、受け取った意思を伝えるように、龍の方を向く。小さな瞬きは広がり、祭壇とその周囲を包んだかと思うと、妭の熱波を越え龍の嵐を貫き、龍に届いた。
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