第19話

支度をして外に出ると、黎は既に、甕に水を入れて戻ってきたところだった。

「青、遅いよ」

 黎はひらひらと手を振る。青嵐はのそりと後に従って甕を手に取った。黎は弦月魚の部屋の横の大甕に、ざぶりと水を入れる。菫の弦月魚は数が多く、水替え用の汲み置き水もかなりの量が必要となる。体力のいる仕事だが、まだほんのとっかかりに過ぎないのだ。それなのに、濃密な今までとは違う世界は、もう何週間も過ぎているかのように時間の感覚を狂わせる。青嵐もまだ薄暗い道を甕を抱えて歩いた。

 黎は、歌を歌いながら先へ進む。例の龍の歌だ。後に続く玄珠も、それに合わせてゆらりゆらりと揺れている。ゆらりゆらりと、光を帯びていく。ふわりと、声が頭を包みこむ。心を優しく撫でていくように。


……が……

……まで……続け……


ぽつりぽつりと、音は意味を成す。美しい音色だ。龍の声でもないのに。どうしてこんなにも美しい音が出せるのか、青嵐は不思議に思った。歌そのものに、力があるのか。それとも。

「おう、お前ら早いな!」

 はっと青嵐は我に返る。地竜が腰くらいまでの大きさの姿で二人の前に現れた。しかし、まだ力が足りないのか、すぐにミミズサイズに姿を変えた。

「地竜! おはよう」

 黎が手のひらに乗せる。

「どうした青嵐、具合でも悪いのか?」

 地竜の問いに、青嵐は首を振った。

「いや、まだ眠いだけだ」

「そうか? ちゃんと食ってちゃんと寝るんだぞ」

 青嵐は頭の中のものを振り払うように頭を振る。

「こんな早くから何だ」

「供物が来るのが遅いから、取りに来てやったんだぜ。感謝しろよ」

「厚かましいと、また祠が荒れるぞ」

「何だと」

一人と一匹は喧嘩を始める。

「君らやめなよ。弦月魚に悪影響だよ。地竜も喧嘩するなら降ろすよ!」

黎が言うと、降ろされてはかなわないと、地竜は引き下がった。しかし、絡むのはやめない。

「おう、青嵐は名前つけたのかよ」

「は?」

「弦月魚に」

「いや」

にべもなく青嵐は言う。黎は青嵐の弦月魚を見た。じっと水球の中で彼方を見つめている。こっちを見てくれないかな、と視線を送るが、反応はない。魚によって、随分違うものだ。

「つけた方がいいぞお」

「どうして」

「女の子だって、名前で呼ぶと親近感がわくって言うだろ」

地竜はどこだかわからない胸を張った。黎が目を輝かせる。

「え、そうなの? 地竜って恋愛の神様だっけ?」

「まあ、そんなところかな」

「アホか。黎も本気にするなよ」

青嵐は呆れ顔。地竜はかまわない。

「おうおう、お前も歌垣とかあったんだろ? 可愛い子と逢引きとかしたんだろ?」

「歌垣って、男女が恋の歌を歌いあうっていう?」

「そうそう」

歌垣。その言葉が出たことに、青嵐はどきりとする。

――彼の西山を登れば

「くだらねーな」

「えー、聞きたいー! どんな歌?」

一人と一匹は盛り上がる。故郷に置いてきた切ない恋の話なんかを、勝手に捏造し始めた。妙な裏声で、地竜はその子になりきる。青嵐は構わず足を早めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る