第15話

日は暮れていき、足元は見えなくなっていく。地竜が声をかけると、光を発する昆虫たちが寄ってきて足元をほのかに照らした。

「さ、ここだ」

 地竜の示す方へ進むと、ざっと視界が開けた。小さな湖が月を映して中央に佇み、辺りを薄桃色の花をたわわに咲かせた木々が囲んでいる。青嵐は背の低い草むらを均して、酒盛り道具を下ろした。

「綺麗だね。桃?」

 地竜は頷いた。

「空桃の木だ。地上にはないだろう。実は他とは比べ物にならないくらいうまいぞ。紫雲山の酒も、空桃からできてる」

 青嵐は慣れた手つきで酒器を並べていく。黎は感心したように見入っていて、青嵐に睨まれた。厳重に封のされた酒甕を開けると、芳醇な香りが辺りに広がった。酒とは思えない果物の甘い香りだ。二人は思わず唾を飲み込む。持っていた干菓子を急いで出すと、それぞれ盃に酒を注いだ。

「乾杯!」

 三人で声を合わせると、一気に飲み干す。どろりとした液体を飲み下すと、あっという間に、頭の中が空桃の香りでいっぱいになった。

「こんなに酒がうまいのは久しぶりだぜ。誰かと酒を飲むのもな」

 感慨深げに地竜が言う。小さな体は、盃の淵で今にも落ちてしまいそうだ。黎が下ろそうとするが、地竜は止めた。

「うまい酒に月が映ってんだ。いいもんだよなあ」

「溺れるなよ、酔っ払い」

 青嵐は呆れ顔。昼間も飲んでいたのに、まだ足りないらしい。その小さな体のどこに消えるのか、不思議で仕方がない。

「あ、ここにも映ってる」

 黎の声に、青嵐はそちらを見た。黎の視線の先では、弦月魚が水球の中を泳いでいた。その水面に、小さく月が映っている。黎は寝転がる。

「そうだ、きみを呼ぶのに、名前が必要だよね」

 地竜は笑った。

化け物と呼ばれた自分は化け物になる。自分にとっても、他人にとっても。しかし。

(地竜というのはどうだ?)

その瞬間、自分の存在は全く別のものに変わる。

「いいねえ。名前ってのは、そいつの根幹になる。どんな名前にすんだ。責任重大だぞ」

「何がいいかな。何がいいと思う?」

「名前……」

 青嵐は言いよどむ。

「黒くて綺麗な体だよね……。そうだ、玄珠げんしゅにしよう」

 玄珠、と黎は弦月魚に声をかける。知ってか知らずか、弦月魚は水球の中をくるりと回った。漆黒のその体は、夜の空より黒い。他にも多くの弦月魚がいた。その中で何故それを、黎に授けたのか。そして、何故自分は青い弦月魚なのか。青嵐はふと不思議に思った。目に映る世界を、きらきらした心でとらえる黎と、そうではない自分。まるで正反対だ。

(うまくやっていけるだろうか)

 ――青って呼んでいい?

黎はそう言った。新たに青として、自分も歩いていくのだろうか。進む先は深い霧の中のようだ。それでも。

「いい眺めだよ」

 月の光を受けて、万華鏡のように水球はきらめく。水面には月が映りこみ、側面に木々が映る。青嵐も隣に寝転がった。酒はいい具合に脳を蕩けさせ、夜の風は幻想の世界へといざなう。

「こんなに月が綺麗だなんて、思わなかったな」

「……そうだな」

 ちらりちらりと、薄桃色の花びらが風に乗り、頬に落ちる。ぽつりと、弦月魚の水面にも。水面の花びらは、ゆらゆらと揺れる。それを、弦月魚と同じように眺めていた。何だか眠りにつくときのように意識がぼんやりとして、目を細める。

青。弦月魚の色と同じ名前。

薄く開いた眼の向こうに、青い空が思い起こされる。鮮やかな桃の花が紅を差したように山を彩り、犬や鶏が行きかう。

「彼の西山に登れば――」

 思わず、口ずさむ。

「何? その歌」

黎の声に、はっと酔いが醒める。黎はそれを察したらしく、しまったという顔をした。

「何でもない」

 ごろりと横を向いてしまった青嵐に、黎は下を向いた。

「おい、食ってるぞ!」

 地竜が声を上げる。

「え?」

 黎が跳ね起きる。見ると、青嵐の弦月魚は飛び上がって空桃の花びらを食べていた。

「すごい! 花びらを食べるんだね!」

 黎は嬉しそうにはしゃいだ。

「僕のも早く教えてくれるといいなあ」

そう言って、懐から笛を取り出す。息を整えて奏で始めた。低く、慰撫するようなゆったりとした音に、青嵐は聴き入る。聴いたことはない。が、心に響く。

「それ、何の曲だ?」

 今度は青嵐が聞いた。

「龍の歌」

「龍の?」

 黎は頷く。

「楽師は王の地方巡行についていくんだけどね、たまたま休息に立ち寄った村で、親を亡くして泣いている子供がいたんだ。同じ村の人が慰めていたんだけど、全然らしくて。僕はどうしたらいいかわからなかった。そんな時ね、歌が聞こえてきたんだ」

遠い記憶に思いを馳せる。柔らかな青い空。綿を散らしたような雲。遥か彼方から拡がるような、旋律。

「何て言ってるのかはわからない。でもね、その子をみたら、口をぽかんと開けてて、そのうちだんだんぼろぼろ泣き出したんだ。そうして、歌が終わったら憑き物でも落ちたみたいな、すっとした顔をしてた。その子のための歌だったんだなって、なんとなくだけど思ったんだ。それで、空から降ってくるみたいに聞こえたから上を見たら、龍がいたんだ」

 ざわわと風が花を揺り動かす。

「龍」

その名に、青嵐の心も波が立つように揺れる。この国の要。人々の心の支柱。

「この間見たような、光に包まれてとかじゃなくて、ほんとに自然に、何の変哲もない鳥が空を飛んでるみたいに空を泳いでた」

「確かに、綺麗な曲だったな」

 平静を保とうとして、低い声になる。できるだけ、遠くに遠くに、意識を逸らす。それしかし、この国を見守る神からは、どこへ行こうとも逃れることはできない。

「綺麗なだけじゃないんだ、本物は。もっと心に沁みてくるような、そんな歌」

 髪を、風が梳いていく。月の光がその間を縫う。

太陽のような、強烈な輝きはない。けれど、月のように優しく照らす輝きを持っている。青嵐は胸の奥が痛んだ。自分と彼は違う。相入れやしない。

「だから僕は、御龍氏になりたいと思ったんだ」

 黎の表情は月あかりを浴びてきらきらと輝く。こんな目を、自分はできない。どうしてこんなにも綺麗な人間が、隣にいるのか。こんなにも、苛立つのか。青嵐はそれを目の端だけで見た。その視界に、口をパクパクさせる玄珠が映りこむ。

「食ったぞ」

「えっ」

一人と一匹は水球を見上げる。玄珠は水面に映る月を食んでいた。三人は静かに感嘆の声を上げる。

「やったね!」

 黎の嬉しそうな顔に、青嵐はまあいいかとぼんやり弦月魚を眺めた。ちらと青い尾びれが翻る。こちらを見た顔が、睨んでいたような気がして、青嵐は睨み返した。

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