第8話
片付けを終えて董の部屋に入ると、董は中央の古びた椅子に深々と腰掛けていた。気怠そうに背中を預ける背もたれは、ぎいと軋む。窓が閉じられて薄暗い部屋には、お世辞にも心地良いとは言えない薬のような香りが漂っていた。部屋を満たしているのは香りだけではない。所狭しと書物やら壺が並べられ、今にも雪崩を起こしそうだった。二人の姿を見ると、菫はゆっくりと立ち上がる。
「君たちはこれから、ここで暮らす基礎を学んでもらう。隣に書物庫があるから、好きに使ってくれ。あとは周りに薬草の畑があるから、そこの世話を頼む。それから最後に、ついてきなさい」
菫は部屋の奥へと物をかきわけるように入っていく。二人もそれに続いた。古い紙のにおいの染み付いた廊下を抜けると、ぽっかりと大きな部屋に出た。
「うわ……」
黎は思わず声を上げる。壁にびっちりと球体の水槽がはりつき、ひとつひとつが灯りに照らされている。あるものは赤、あるものは緑とその灯りは様々で、透明な水をきらめかせている。そして水槽には一匹ずつ、握った拳にも満たないほどの小さな魚が泳いでいた。自分の体と同じくらいの絹の衣のような大きな尾を広げ、灯りに負けず劣らず色とりどりの体をしている。魚たちは水槽の中で静かに、時折舞い踊るように泳いだ。水面に浮かぶ無数の泡は、虹色に輝いている。まるで、この世のものとも思えない。都で見た魚たちも美しくはあったが、それとはまた別の神々しさがあると、青嵐は思った。
「こんなに美しい魚がいるなんて……」
黎はうっとりと見渡している。
「彼らは
菫は部屋の外の甕を指さす。ずっしりとした深緑の甕がいくつも並んでいた。
「水は、なるべく常温のものを使う。それ以外は自身で調整しなければならないから、難しいんだ。だから、あそこに汲み置いている。きみたちには水汲みを頼みたい。それからもう一つ」
菫は水槽の脇からきらりと光るものを取り出す。二人の方を向けると、顔が映る。菫はそれを、弦月魚の方に向ける。すると、自分の姿を見て、ひれを隅々までぴんと伸ばした。特に尾鰭は扇のように大きく開き、その模様の全貌を明らかにする。そこには後宮の妃の衣装のように、鮮やかな色が何色も織り込まれていた。
「ひれは広げないと癒着してしまう。一日一回、十分くらいひれを広げさせること。これもきみたちに頼むよ。さて」
菫は水槽の一角に近づくと、丸い二つを手に向き直った。そして、青い弦月魚を青嵐に、黒い弦月魚を黎に、放るように渡した。二人は慌ててしっかと抱えようとする。しかし弦月魚の入った水槽は、風船のように軽く、二人は面食らった。
「触らなくたって浮いてるよ」
菫の言葉に手を離すと、水槽はふわふわと宙に浮いた。
「どうなってるんだ?」
青嵐は上から下からその透明な球体を見る。弦月魚は球体の中をきままに泳いでいた。
「口も開いてないぞ」
「彼らの泡だよ。我々は水球と呼んでいる。でも、せいぜい二週間ほどしかもたない。また彼ら自身で作り直さないとね。でも彼らは繊細だし、まだ研究も進んでない。君らはまずさっき話した日課をこなしつつまずは自分の弦月魚の世話をできるようにすること。二週間以内に水球を作れるまでにならないと、彼らは死んでしまうよ」
二人は息を飲んだ。責任重大だ。
「弦月魚は、何を食べるんですか」
「彼らはみんな好みが違うんだ。きみたちのはまだ生まれたてで、何を食べたいのかわからない。色々試してみることだね」
弦月魚の方を見ると、顔を上げてじっと黎を見返してくる。無垢な黒い瞳は、吸い込まれてしまいそうだ。思わず水球を引き寄せる。
「さ、行った行った。時間は少ないぞ」
菫は二人の背をぺしぺし叩いて部屋から追い立てた。
「老師の弦月魚は、何を食べるんですか」
最後の抵抗とばかりに、青嵐は聞く。菫は背を押す手を一旦止めた。
「若草の芽だよ。裏の山にはたくさん植物があるから、試してみるといい」
黎はまだ聞きたそうにしていたが、菫は応じない。二人は諦めて従った。
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