第2話

 ティメオ・ノアイユ氏の強い希望通り、ホテルで慌しくチェック・インを済ませ荷物を預けると興梠こおろぎ志儀しぎは一路ノアイユ邸へ向かった。

 専属運転手シェフォーの運転するプジョ―402は快適で、オペラ座を掠めて、9月4日通り……レオミュール通り……風のように疾走する。目指すは4区。パリ市内でも最も古く趣があると言われるマレ地区だ。セーヌ川沿いの一角はサン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会の麗しき姿が遠望できた。

 見るからに金満家の香りをまとっているノアイユだったが――

 その自邸が、また凄かった!

 日本では元大医院の御曹司である探偵、大会社令息の助手、その二人でさえ息を飲む大豪邸。宛ら〈城〉と言った方が相応しい建物だ。中央母屋から5つの塔が天を指して伸び、両端にも小さな塔がある。屋根に並んだ天窓は綺羅星のごとく冬の陽射しにキラキラ輝き、その下をひのきの欄干がぐるっと巡って――

 中世の伝統を色濃く残すフランボワイヤン様式だ。この様式の特徴でもある優美な植物模様を彫刻した門を潜って車は前庭へ入った。15世紀の井戸と思われる縁石、アーチ型の柱を繋げた一階のアーケード、幾何学模様に整えられたフランス式庭園 ……全てが très bien!《すばらしい》

 そんな風雅な邸宅の玄関前で何やら揉めている。執事と押し問答をしている人影が前庭のロータリーをゆっくりと旋回する車中から見えた。

「おや? なんだろう? せっかくご客人をお連れしたというのに?」

 運転手がドアを開けるのを待たずノアイユは飛び降りた。

「これは――何事だね? セロー!」

 執事の名を呼んで問い質す。

「一体、何を騒いでいる?」 

「あ、旦那様、お帰りなさいませ……」

「旦那様だって?」

 執事と言い合っていた人物――まだ年若い男だった――が駆け寄って来た。手に四角い荷物を抱えている。

「では、貴方がこの邸の〝新しい〟主人ですね?」

「なんだね、君は? 無礼だぞ。客人を伴っているというのに」

 執事が割り込んで謝罪した。

「申し訳ありません、旦那様。こちらの御方が旦那様にぜひ会わせろと――ご不在だと何度申し上げてもお聞き入れにならず――」

「?」

 ノアイユはまじまじと男の顔を見た。

「君など知らないぞ。用があるならきちんとアポイントメントを取って出直して来たまえ。私は、今日は先客がある。お見苦しいところをお見せしました。さあ、どうぞ、ムシュウ・コオロギ」

「待ってください!」

 青年は食い下がった。

「順番を言うなら僕だ。元々、僕こそ、この邸の先客だったんだから!」

 紋章が煌めく高い天窓を目をすがめて見上げながら、

「そもそも――この邸の元の主人は何処に行ったんだ? 一体いつの間に入れ替わっちゃったんだよ!?」

「さあ、旦那様もああおっしゃっておいでです。お引き取り願います」

 今度こそ追い払おうとした執事の手を振り払って青年は絶叫した。

「放せったら! 僕は漸く依頼の品を見つけ出して、こうして届けに来たというのに! めったに出ない逸品ですよ! 当主は、持ち込み次第、即、買い取ると約束してくれたんだ!」

「何やら事情がありそうですね?」

 興梠は静かな口調でノワイユに提案した。

「僕らはかまいません。どうでしょう、先にこちらの御仁のお話をお聞きになっては?」

「むぅ……」

 興梠の言葉に、改めてノアイユは眼前の青年に視線を投げた。

 金髪碧眼。華奢で小柄だがひ弱な感じはしない。むしろ敏捷で活動的だ。奇矯な言動にもかかわらず、よく見ると端正で気品のある顔立ちをしていた。服装もそこそこ、悪くない。

 一方、興梠が何より気になったのは、青年が大切そうに抱える四角い荷物である。

 厳重に梱包してあるそれは明らかにカンバス――絵画と見た。

「お言葉感謝します」

 まず興梠に会釈してから、

「僕の名はルカ・メロン。ジョルジュ・ロザンタール氏――この御屋敷の元の当主様ですよね? そのロザンタール氏に絵画探索を依頼されていた者です」

 興梠の目は正しかった! 青年、ルカ・メロンは両手で包みを高く掲げて、

「ご要望の品、欧州中を駆け巡って漸く見つけ出したというのに! 当のロザンタール氏は一体今、何処に!?」

「落着きたまえ」

 眉間に皺を寄せてノアイユは言った。

「とにかく、ここではなんだ。僕の大切な異国のご客人も了解してくれたんだから、邸の中へ入ろうじゃないか。そこでゆっくり話を聞こう」



 

 通された応接室。

 (一体この種の部屋が邸内にいくつあるのかわからないが。)

 天井も床も、壁もオーク材の重厚な内装だった。その中、ウィリアム・モリスのカーテンが新鮮で目に心地よい。青い〈苺泥棒〉とは! 誰の選択だろう?


「オホン」

 咳払いをしてノワイユは話し始めた。

「いかにも。私が当邸の〝新しい〟当主、ティメオ・ノアイユである」

 これを言う時、ノアイユは少々紅潮した。チラッと興梠たちの方を見てから、

「旧当主、ロザンタール家から……半月前に買い取ったのである」

「半月!」

 叫んだのは海府志儀かいふしぎだ。欧州にいてもその行動規範はブレることがない。遠慮なく言い放った。

「な~んだ! こんな立派なお屋敷の持ち主っていうからどんなに由緒正しき人物と思いきや……最近引っ越して来たばかりだったのか! 新参者なんだね、ノワイユさん?」

「これ、君は黙っていなさい、フシギ君」

「私はロザンタール家とは正当な取引をしたのだ。今回の売買はどちらにとっても有意義かつ有益だった――」

「ロザンタール家はごぞんじですよね? ここパリ、否、フランス、否、欧州では知らぬ者がいない名家です。古くはメジチ家の血も引いているとか。美術品――特に絵画の収集家コレクターとしても有名です」

 これは青年ルカ・メロンが日本人の二人のために解説してくれたのだ。続けて自己紹介をする。

「僕はロザンタール家お抱えの……なんて言えばいいのかな? そう、絵画発掘人なんです。欧州の歴史は古いですからね。またその闇も深い。色々な事情で、あるいは思わぬ災厄によって、紛失し逸散し埋もれてしまった絵画……忘れ去られたままの不幸な美術品を見つけ出すのが僕の仕事です」

 小声で言い添える。

「もちろん、様々な事情で新しい持ち主を希望する所有者の力にもなります。画商を通したくない人も多いですからね。連中は悪辣だから」

「へえ! 凄いや! 絵画発掘人か! 忘れ去られた可哀想な名画たち……ねえ、そういうのってどうやったら見つけられるの? 僕、全然見当もつかないけど」

 少年の率直な賞賛の言葉にメロンはウインクを返した。

「それは企業秘密さ! でも、まぁ一言で言うと……〝鼻が利く〟ってことかな。あるいは〝良い耳を持っている〟? 僕には歴史の闇を裂いて漏れ出した絵画たちの泣き声が聞こえるんだ」

 新当主は足を組み替えてせせら笑った。

「フフン? 馬鹿らしい」

「本当ですよ。その証拠に、僕はこの由緒あるロザンタール家に、今までに何点も満足していただける名画を届けてきました」

 一気呵成に言ってのける。

「そして、その中でも今回は超級中の超級! 破格の出物です。

 それで、年の暮れだというのに、クリスマスの迫る村や街を駆け抜けて、黒い森、蒼い谷を突っ切って、遙々はるばるやって来た次第――」

 元ロザンタール、現ノワイユの豪奢な応接間でルカ・メロンは落胆の息を吐いた。

 が、パッと顔を上げる。


「でも、せっかくなので、新当主の貴方にも見ていただきましょう――これです!」

 ルカは自信に満ちた手つきで包装を解き、絵をテーブルに置いた。

 バン……


「いかかです?」


   沈黙。


「もちろん、真作です。フェルメール 〈天文学者〉」


   沈黙


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