第3話

 絵を前にしてどれくらい経ったか。


 遂に 邸の新当主・ノワイユが叫んだ。

「……なぁんだ、そりゃあ!? フェル? フェルメ? そんな画家の名は知らない。ルノアールやセザンヌやミュシャ、クリムトならともかく、こんなくすんで色のない古ぼけた絵――」

 ここで肘がグッと掴まれる。吃驚して振り返るノワイユ。

「え? どうしました? ムシュウ・コオロギ? 旅のお疲れが出たかな? 顔色が蒼白ですよ?」

「すみません。よろしければ……もう少し近づいて拝見してもよろしいでしょうか?」

 ノワイユは脇へ退いて場所を譲りながら、

「な、なんなんです? 日本人には人気なんですか? このフエルなんとかが?」

「フェルメール……確かに。一般的にはラトゥール同様長い間、闇の中に忘れられていた画家の一人です。寡作で作品数も40に満たない。しかも、そのほとんどが個人蔵なので表に出てこないし。正直、僕も作品は美術書などに掲載された写真を2、3、見ただけだ――」

 息も絶え絶えに、

「ああ! これがフェルメール……?」

「フフ、興梠こおろぎさんはね、しがない探偵だけど元々は帝大で美学を学んだ美術マニアなんです。変わってるでしょ? あ、あくまで、日本人が変わってるんじゃなくて、この人が変わってるんだから、そこんとこ、ご理解くださいっ」

 志儀しぎのこの言葉に、新当主と絵画発掘人はほぼ同時に身じろぎした。

「探偵?」

「探偵だって――」

 一方、その、しがない探偵の興梠響こおろぎひびき。歓喜で体を震わせる。

「なんてことだ……これがフェルメール……!」

 ヨハネス・フェルメール(1632~1675)はオランダの画家。

 21世紀の現在、《光の魔術師》と絶賛され、その名を冠した展覧会を催せば満員御礼間違いなしの世界的人気画家だ。しかし、この当時は一部愛好家以外無名に等しかった。1663年、オランダを訪れたイギリス人が『パン屋に飾ってあったフェルメールの絵は600ギルダーだというが60ギルダーでも高い』などと日記に書き残している――

「あ、はい」

 気を取り直して自称絵画発掘人は頷いた。興梠の横に立つと一緒に絵を見下ろしながら、

「どうです? 素晴らしいでしょう? 今までフェルメールの作品リストに記されながら所在が定かではなかった《天文学者》。これがそうです」

 絵画発掘人は断言した。

「入手場所やその経緯は詳しくは明かせませんが、間違いなくフェルメールの真作。埋もれていた世紀の名作です。ご覧ください、ここにサインがちゃんとあるでしょう? モデルは画家の友人で、画家の死後、遺産管財人を務めることになる科学者のA・ファン・レーウェンフック」

 思い出したというように、

「ロザンタール氏はフェルメールなら10万フランは出すと僕に約束してくださいましたよ」

「10万フラン!?」

 ちなみにこの頃、モディリアーニの回顧展で高評価された肖像画の売却値段が3万5千フランだった。

 白目を剥く新当主にルカ・メロンはキッと顔を向けた。

「それで、今、ロザンタール氏はどちらに?」

「ロザンタール氏なら――亡くなったよ。半月ほど前に」

「え」

 今度目を瞠ったのは青年の方だ。

「亡くなった?」

「君が欧州の何処にいたか知らんが、新聞を読んだりラジオを聞いたりはしなかったのかね? ジョルジョ・ロザンタールの死は一斉に報じられたはずだが。埋もれた美術品の鳴き声は耳に入ってもニュースは耳に届かないようだな?」

 皮肉たっぷりに嗤った後でノワイユは吐き捨てた。

「それにしても、こんな風俗画に10万フランだなどと、だから破産するんだな」

 再度驚いて顔を強張らせるメロン。

「破産? 嘘だ! まさか……あの大富豪が?」

「事実だよ。経済的に立ち行かなくなった。そもそも、それが原因で心労から心臓麻痺を起こし、急死したのだ」  

 ノワイユは両手を大きく広げた。

「だからこそ、私が残された家族の強い要望で至急、この邸宅を買い取ってやったんだ」

 薄くなった毛髪を跳ね上げてふっと含み笑いをする。

「現在、即金で買い取れるのはパリ広しといえど私くらいのものだからな! しかも、向こうの〈言い値〉で買ってやったんだぞ」

 世間に認識されている以上にロザンタール家は金銭的問題を抱えていたのかも知れない、とノワイユは言う。

「残された家族はこの本宅も含めて欧州に所有する不動産全てを処分して逃げるように去ったよ。噂では新大陸アメリカへ移住したとか」

「新大陸……」

「そう。あちらで一からやり直すつもりらしい」

 青年から返答がないのを確認してから、当主は話を締め括った。

「そう言うわけだから、現在のロザンタール家の正確な住所を私は知らない。まぁ、間に入って実務を取り仕切った弁護士なら知っているかもしれんが。もはや私にはロザンタール家なんぞ、これっぽっちも興味がないからね」

「――」

「さて、話は聞いた。では、お引き取り願おうか、メロン君とやら」

 ノワイユはそそくさと立ち上がった。

「ムシュウコオロギ。私たちは書斎へ! 我がコレクションはそちらにあるんですよ」

「待ってください」

 落胆のあまり呆然と佇んでいたルカ・メロンだったが。弱弱しく微笑むと、

「……これ、買っていただけませんか? ロゼンタール氏の代わりに?」

「冗談も休み休み言いたまえ!」

 ノワイユはピシリと言い切った。

「こんな薄汚れた絵に1フランたりともはらうものか! 私は前当主みたいに甘くはないのだよ」

「――」

「さあ、ムシュウ! 行きましょう」

 立ち去りがたくテーブルの上の絵を見つめている興梠の肩に手を置いてノワイユは促した。

「私のコレクションは素晴らしいですよ! 肉筆浮世絵なんです! お国の言葉でニシキエと言うんですか? そりゃあもう鮮やかな色彩で――」




「どれも素晴らしいです」

「いやあ! 日本人の貴方にそういわれて満足です」

 実際、悪くなかった。書斎でノワイユが誇らしげに見せてくれた収集品の数々……

 江戸中期の浮世絵師で喜多川歌麿きたがわうたまろの師でもある北尾重政きたおしげまさを中心にしたものだった。

「よもや《青楼美人合姿鏡》をこのパリで見ることができるとは! あれは勝川春草かつかわしゅんそうとの合作で稀有の傑作です」

「そうでしょう、そうでしょう!」

「僕は北斎ほくさいの天狗の絵が良かったな! 舞い落ちる紅葉をキャッチしてるとこなんか野球の名選手みたいだった! 天狗が持ってるのが扇じゃなくてグラブだったらもっと完璧だったと思うな。ほんと、惜しいよ」

「ゴホン、フシギ君、君、北尾重政は先日、ベルリン国立東洋美術館でもみたろう?《屏風前の二美人》、あれだよ、素晴らしかったねぇ!」

「さあ、そんなのあった? 忘れちゃった」

 ――と、まあこんな風にノワイユ自慢のコレクションを堪能した後で、執事が置いて行ったコーヒーを飲みながらくつろいでいるところだ。

 ふいにカップから顔を上げてノワイユは言った。

「ねえ、ムシュウ・コオロギ。私は今日ほど運命的なものを感じたことはありません。駅で〝日本人〟の貴方にお会いしたことを幸運と言わず何と言おう!」

「ええ。僕も幸運を噛みしめています。こうして、貴方の素晴らしいコレクションを拝見し、おまけに、フエルメールまでこの目で見ることができた……! 夢のようです」

「いえ、私の言う意味はもう少し違うのですよ」

「?」

 コーヒーをテーブルに戻す。

「貴方が探偵だというのは本当ですか? ほら、先刻、そちらの弟さんがおっしゃっていたでしょう?」

「弟じゃないよ!」

 即座に志儀は抗議した。 

「僕はれっきとした探偵助手、相棒です」

「これは失敬」

 ノワイユの顔はますます喜びに照り輝いた。

「BRAVO! やはり、貴方は天が私にお遣わしになったんだ!」

 グッと身を乗り出すティメオ・ノワイユ。熱い息がかかるほど顔を寄せて囁いた。

「解いてほしい謎があるんですよ! この邸に纏わる古い古い謎が!

 私が、邸ごと買い取ったんです!」



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