SHE CANNOT BE A GIRL
橙から深い青へと変わりゆく空のど真ん中に、剃刀みたいに鋭利な月が浮かんでいた。
鋭利な冬の風を受け、自転車で下校する僕。
星はまだ出でいないけれど、今日みたいな快晴の日の夜は、きっとたくさんの星が見られるのだろう。
自動販売機の前に自転車を停めた僕は、何の気なしに大きく息を吐く。
僕が吐き出した白い息は、寒空の中を昇っていった。それはやがてたくさんの糸みたいに細くなって、ほぐれて、だんだんと見えなくなっていった。
ナイフみたいに冷たくて鋭い真冬の寒さが制服の袖や裾から容赦なく侵入してくる。手袋を忘れてきたのが特に痛かった。
この寒さの中、しかも向かい風の中、自転車をこぐのは自殺行為に他ならない。鼻は痛いわ、耳は痛いわ、手は悴むわ、最悪だ。まあ、僕の防寒不足の面もあると思うけれど。
かじかむ手でどうにか百円一枚と十円二枚を財布から取り出して、投入する。北海道キャラメルミルクセーキ(僕の最近のお気に入りだ)のボタンを連打したけれど、反応がない。
よく見ると商品の下には百三十円と表示されていた。いつの間に値上がりしてたんだ。
十円を追加で入れて連打する。
ごとっ。
どうにか「あたたかーい」飲み物を手に入れた僕は再びチャリを走らせた。缶を手で握るとじんわりと手が温まった。手先から体全部が温まっていくようだった。手袋がないからこれがその代わりだ。
しかし、自転車を走らせたとたん、またバカみたいに強い北風をもろに受ける。今日は特に風が強かった。力いっぱいにペダルを踏んでもわずかしか進まないから、ギアを三から一に切り替えて、どうにか進んでゆく。学校から僕の家は、言われてみれば気づく、といった程度の上り坂なのだが、これまたきつかった。
のろのろと五分くらい運転しただろうか、僕はまた自動販売機を見つけた。北海道ミルクセーキ(おいしかった)は飲み終わっていたので、このごみ箱に捨ててしまおうか。
そこの自動販売機はさっきのと同じメーカーで、見たらさっき僕の買ったやつが百二十円で売っていてすこし悲しくなった。
まだは家までは距離があった。さっさと缶を、ゴミ箱に入れてっと――
ごすっ。
――鈍い音がした。
ゴミ箱の底に当たった音や、ほかの缶に当たった音ではなかった、と思う。
「もひゃん!」
ん? 続けて何か声が聞こえた。かん高い声。そもそも人の声?
――そして、声のした謎のゴミ箱は前後にぐわんぐわんと揺れはじめた。
もうなにがなんだかよくわからない。僕は逃げるでもなく見入るでもなくただそこにいた。恐怖心でも好奇心でもない。その時僕は、その非日常の始まりを不思議と受け入れていたのだった。
ぐわん、ぐわん。ごとっ、ごとっ。
ぐわん、ぐわん。ごとっ、ごとっ。
ゴミ箱の揺れはだんだんと大きくなっている。
その揺れは僕のいる道路側でピークに達して、ゴミ箱はコンクリートに思いっきり打ち付けられた。やっぱり、ごすっ、という鈍い音がした。
「うぐっ」
さっきと同じ声がした。でもそれはカエルの断末魔みたいでもあった。
ゴミ箱のふたが激突の衝撃で外れて、ペットボトルとか缶とかがころころと出てくる。
ろくに掃除されていないせいか、ふたが外れると、甘ったるいような、発酵したようなにおいがした。
僕はほとんど吸い寄せられるようにゴミ箱に駆け寄った。
――人の、頭部が、見えた。
大きさからして子どもみたいだ。黒いフードのようなものをかぶっていたけれど、それは人の頭に違いなかった。
なんで、こんなところに?
僕はかがんでその子の腋をつかみ、ゴミ箱から引っ張り出す。
命一杯の力でその子を引き抜くとき、僕はびっくりした。
その子は恐ろしく軽かったのだ。
たぶん、小学校低学年くらいの女の子だと思う。
その子は無地の黒い七分くらいのズボンと、これまた真っ黒なパーカーを着ていた。よく見るとパーカーのフードには、猫の耳みたいなものがちょこんとついていて、黒いてらてらと輝く前髪がのぞいている。
肌は真っ白で、そしてよく見なくてもわかるくらいきめが細かかった。こう言っていいのかわからないけれど、その女の子は作り物みたいに美しかった。まるでどこかの物語から飛び出してきたみたいで、現実味のない美しさだった。
女の子は僕に引きずり出されてから長いこと「ううっ」みたいなうめき声を出していたけれど、何の前触れもなく女の子はすくっと立ち上がった。
するといきなりあたりをきょろきょろと見回し始めた。
そのときちょうど電柱の街灯がぱっとついた。いつの間にか空はほとんど深い青が支配していて、星もちらちら出始めていた。
——この子は一体誰なんだ? 自動販売機のごみ箱に捨てられていたこの女の子は、一体。
そんなことを考えてから僕は少し反省する。
非日常なことが起きたせいか冷静な判断ができていなかった。そんなことを考える前にやるべきことがあるじゃないか。
「あ、そうだ」と前ふりを入れてから僕はできるだけ優しい顔と声で女の子に尋ねる。
「ねえ君、お家の電話番号ってわかる?」
「おうちの、でんわ、ばんごう?」
鈴のなるような声で女の子は答えた。
そして僕はスマホを出しながら思う。
やっぱり普通の女の子なんだ、きっとゴミ箱には何かの拍子で違えて入っちゃったに違いない、と。
女の子はまだ首を傾げたままだった。
————。
――次の瞬間女の子は黒いズボンのポケットから折りたたみの
そして、それを素早く展開すると、身をのべるようにして僕の喉元に突き付ける。
――そして僕がそれを折りたたみ式のナイフだとわかるまでに、たっぷりと三秒ほどかかった。
「それでどこかに連絡したら、殺す……よ?」
――その女の子の言葉の意味とその異常性、今自分が置かれている状況に気づくのには、もっとかかった。
視界が白黒に点滅し、汗がだらだらと滝のように出てくるのがわかる。
声を出そうにもひゅうひゅうと変な息が漏れるだけだ。
どうなってんだ。どうなってんだ。
「そこんとこわかってる?」
少女がナイフを喉元に近づける。
ナイフがさらに喉元に近づく。
少女がナイフを喉元に近づける。
ナイフがさらに喉元に近づく。
首に触れるまであと————。
二センチ、
一センチ、
五ミリ、
一ミリ、
〇ミリ。
首に冷たい感覚が突き抜けて、次の瞬間には熱を感じた。
喉仏のすぐ下の皮が切れて、たらぁあと血が出てきたのがわかった。
「わ、わ、わ、わかりました。わかってます。わかります」
「——なら、いいよ」
少女の声は妙に甘ったるくて、僕はますますわけがわからなくなった。
首に感じる熱とともに、僕と少女の不思議な関係は、始まった。
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