摩天楼の翳

御剣ひかる

プロローグ 初仕事

生きてこそ

 ひとつの闘いを終わらせようとするこの時に、彼の胸に浮かぶのは初めての仕事の情景だった。




 一九九一年。

 大阪の深夜の繁華街にゆうは緊張した面持ちで立っていた。五月の末にふさわしく湿り気が混じりはじめた風が、ゆるりと彼の頬をなでる。


 彼が睨みつけるのはビルの一角。今から任務でそこへ乗り込もうとしている。

 繁華街とはいえ時刻は午前零時を回り、深夜営業の許可を持たない店は消灯している。そんな中で、結が凝視する事務所の、ブラインドを下ろされた窓からは細々と蛍光灯の光が漏れてきている。


「難しい顔してんなぁ、青井。ま、初めての現場だし、無理もないか」


 不意に男の声が結の耳に入ってくる。これから大捕り物が始まろうかという場にそぐわない、のんきな声だった。


 緊張の糸を乱暴にぐいと引かれてから手放された気分で、結は声の主を見た。

 諜報の世界に入ってから二カ月間、自分を教育してくれている先輩、藤村だ。悪戯っぽく笑う顔は、人の――特に女性の警戒心をするりと解いてしまう魅力にあふれている。同性である結でも、思わず表情を緩めてしまうほどだ。


「そうそう、それくらいの余裕はないと、な」

 満足そうにうなずく藤村に、しかし結はまた不安そうな顔になる。

「余裕なんてないですよ」

「何にビビってんだよ。別に、失敗したら死ぬとか、クビとか、そんなんじゃないし。ちょっと相手を挑発して、ちょっと外に誘い出せばいいだけのことだ」


 結が向かおうとしているのは暴力団の事務所だ。会社役員を脅して売上を奪い取っている脅迫罪で警察が捜査しているが、なかなか表立った証拠をつかめないので、騒ぎを起こさせて「別件逮捕」から家宅捜索という流れだ。結はその騒動の発端を作る、という役回りだ。


「けれど失敗するよりはうまく行った方がいいですよね。きちんと相手を外に誘いだせるかどうか……」

「そこで、相手は武器を持ってるかもしれないから下手をしたら死にますよ、って言わないところが、さすが『きわめし者』だな」


 藤村が笑うのにつられて、結も思わず笑みをこぼす。


「心配するな。そこは臨機応変にやる。誘い出しに失敗したら、大きな音を立てて騒げ。夜中だから外まで騒動が聞こえてきたとかで『たまたまそばを通りかかった深夜巡回中の警官』が踏み込める」

「はい」

「それとな、こっちの方が大事だが――」


 藤村が、それまで浮かべていた笑顔を消したので、結は驚いて先輩諜報員を見つめる。


「もしも失敗したって生きていれば取り戻すチャンスはある。生きてこそなせることはたくさんあるが、死んだら終わりだ。それを忘れるな」


 仕事をうまく成し遂げることができるかどうかだけを心配していた結は、はっとなった。


「こちら準備完了。よろしく頼む」

 警察側の配備が整ったという声に、結と藤村はうなずいた。


「それじゃ、行ってこい」

 藤村にぽんと背中を叩かれて、結は力強くうなずいた。




 生きてこそなせることはたくさんある。

 藤村の言葉を心の中で復唱して、結は、銃を持つ手を挙げて銃口を相手の胸にぴたりと向けた。

 今度は、ためらいは生まれてこなかった。

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