約束の日 2
五年前、私は大学受験を控えていた高校生だった。彼は、そんな私の家庭教師をしてくれていた。
当時大学二年生だった彼には、同じ年の彼女がいた。
初めの頃は、彼女とのことを茶化して笑っていたけれど、気がつけば私は彼に惹かれていた。おかげで彼女との話が話題に登ると苦しくて切なくて、集中できない日々が続いた。
成績が下がり始めたある日、彼が一つの提案をしてくれた。
希望の大学に合格した時には、一緒に食事をしよう。とても美味しいパスタとティラミスを出す店があるんだ。
そう言って、彼はクシャリと笑った。
現金なもので、彼女の存在が気になりながらも、合格すれば彼と食事へ行けると言うご褒美に釣られ、私の成績はみるみる元に戻り。そして上がっていった。
彼の提案に乗せられた私は見事大学受験に合格し、彼と念願の食事へ行くという約束を手に入れたのだ。
コトリと丁寧にカップが目の前に置かれて、現実へと思考が戻された。
「どうぞ」
笑顔で促され、素敵なカップに手を添えて口元へと運ぶ。香り立つ中にある芳ばしさと苦味。口にすると、酸味が少なくて飲みやすい。
「美味しい」
カップから顔を上げると目の前に立つ時子さんが得意げに、だろう。とでもいうような笑みを浮かべていた。
その笑みは少しも嫌味な感じがしなくて、寧ろ、はい。とっても美味しいです。と張り切って応えてしまいたくなるほどだった。
普段チェーン店のコーヒーばかりを飲んでいて、丁寧にドリップされたものや、こんな素敵なカップで飲むなんてことがないせいか、余計に美味しさが引き立っているのかもしれない。
「今日は、何か約束はないのかい?」
さりげなくかけられた言葉に眉尻が下がる。
「約束は……あります。多分……」
「多分?」
当然のように訊き返されて、私はカップの中のコーヒーへ視線を落とした。
彼とした約束のご褒美は、あの日果たされていた。
カジュアルなイタリアンレストランのお店で向かい合って座り、手作りの生パスタに絡むラグーソースはとても美味しかった。彼はグラスにワインを、私はアップルサイダーを。話も弾み、目の前の彼に夢中になりながら食事をした。
大好きな人の前でパスタを食べるのは、とても難しくて、とても恥ずかしくて。ソースを飛ばしてしまわないように、口の周りを汚さないように、カチャカチャと食器を鳴らさないように。いろんなことに気を使って、彼に好かれたらいいなって、必死に自分をよく見せようと努力した。
彼女がいるのに好かれたいなって、本気で思っていた。
食事が終わると、ざっくりと四角く切り取られたようなティラミスが、真っ白なプレートに彩られて現れた。
真っ白な粉雪のような砂糖が降りかけられたティラミスのプレートには、チョコレートのソースで「おめでとう」と書かれていて、本当に嬉しくてたまらなかった。
彼がお店の人に頼んで用意してくれた気持ちが嬉しくて、私の顔はさっきよりももっと笑顔になった。
できたら抱きついてしまいたいほどに嬉しい気持ちになったけれど、テーブルが邪魔をしてそれは叶わなかった。
ううん、彼女がいる人に抱きつくなんて、そもそもダメだよね。
嬉しさの後に訪れた現実に、心はアップダウンを繰り返す。
それでも目の前にいる彼は今私と二人っきりで。私のためにこのティラミスを用意してくれたんだって考えれば、気持ちはやっぱり上がっていった。
だからかな。調子に乗ってしまったんだ。
「ねぇ、先生。私が大学を卒業したら、またここで会おうよ」
嬉々として提案する私へ、彼は目を大きくして驚いている。
本当は卒業なんて待てないって思った。けど、私が卒業する頃には、彼女と別れているかもしれないなんて計算をしてしまったんだ。
なんて浅はかで、小狡いのだろう。
私が卒業する頃に、彼は就職をして働いているだろう。きっと忙しくしているに違いない。
大学を卒業して働き始めた今の自分なら、そういうことも考えられる。
けれど、あの時の私はなんとか彼との約束を取り付けたい、それだけでいっぱいだった。
私の提案に、彼は困った顔をしていたかもしれない。
僅かな空白が胸を苦しくさせていく。
断られるだろうか。
多分、断られるだろう。
彼女がいるのにこんな約束、できるわけがない……。
気持ちが落ちていくように顔が俯き始めたころ、彼が口を開いた。
「わかった。じゃあ、五年後のクリスマスなんて、どうかな? ちょっとロマンチックだろ?」
からかうような口調で、彼は私の大好きなクシャリとしたあの笑顔を向けてくれた。
飛び上がりたいほどに嬉しくて、その日食べたティラミスは、今まで食べたどんなケーキよりも特別で美味しかった。
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