Boric Acid (三題噺)

いましん

煙の街(繋ぐ、夜空、橋)

街から煙突が生えている。緑がかった灰色の煙を吐き出し、空気と水と人の心を汚していた。男達は煙突のある工場へわざわざ働きに行き、女達は我が子にマスクとうがい薬を与える。


元々は自然が豊かで、沢山の田畑と川がひろがっていた土地だった。しかし今は、畑という畑はコンクリートに埋め立てられ、川という川には大きな橋が架けられ、車や電車がその上を通った。


この街は美しくなかった。工場は夜景が綺麗になるものだが、絶え間なく排出され続けるガスはその美しさを曇らせた。

また、この街にいる限り美しい物は決して見られなかった。工業都市に美術館や博物館や図書館は無いし、仮にあったとしても煙に含まれる化学物質が作品を傷めてしまうのだ。同じ理由で、自分で美術品を買うことは無かったし、ペットを飼うことも無かった。夜空に広がる、無数の星々を見ることさえ叶わなかったのである。


美しくないのだ、この街は。




そんな街に、1人の少年が居た。この街で生まれ、この街で育った少年。美しさを言葉でしか知らない少年だった。


彼が曾祖父の遺品を見つけたのがきっかけだった。なんてことはない、掃除をしている時に偶然物置から見つかったのだ。軽い喘息を持った彼が、埃に咳き込みながら引っ張り出したのは、大昔の家庭用プラネタリウム。部屋を暗くしてスイッチを入れれば、夜空が天井に映し出される、古典的なものである。


少し古めかしい言葉で書かれた説明書を読んで、少年の心は踊った。なんせ、彼にとっての空とは一様に緑がかった灰色が広がる、何の楽しみもない空なのだ。


彼は母親の所まですっ飛んで行き、やってみたいとせがんだ。許可は取れ、後は電気を通すだけだったのだが、ここで問題が生じた。消費電力が大きすぎるのだ。科学技術の発展のお陰でほとんどの電化製品は従来の数千分の電力で動くようになっていた。更に工場が街に来る電気の大半を使うのも相まって、家に通っている程度の電力ではこの古い小型天象儀は動かせないのだった。


少年は落ち込んだが、直ぐに良い解決策を思い付いた。沢山の家から電気を引いて来れば良いのだ。そう決めてからの彼の行動は早かった。近所の人に1軒1軒訪ねていって協力してくれるように頼み込み、また友達の家に行っては頼み込んだ。彼の話を聞いた友達は、皆快く手伝ってくれて、更にその友達が、その友達の友達が、最終的には街全体を巻き込んで、電気を集めてくれることになった。


少年は当初、1人で見るつもりだったのだが、これだけの人が協力してくれるということで、何処かに集まってみたいと考え、そして思い付いた。この街に流れる川全ての上に架かる橋。1番大きな橋の下なら、かなりの人数が集まれるのではないか、と。




計画当日になって、街の人々はみんな各自の延長コードを繋げていった。工場都市に蜘蛛の巣が張り巡らされるように電気の通り道ができ、その全てが集まる所、街で1番大きな川の、1番大きな橋の下。気が付くと、街の住民全員が集まっていた。


少年が古びた家庭用プラネタリウムを持って現れると、歓声が起きた。誰も彼もが、ほとんど見た事の無い、もしくは全く見た事の無い星空を楽しみにしていたのだ。


少年は右の人差し指を口元に当て、皆を静まらせた。流れる静寂。少年は、久しぶりに街の人々が一つに繋がるのを感じた。


スイッチを、入れる。

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Boric Acid (三題噺) いましん @zunomashi

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