【転載】たにんアレルギー
渡辺志乃
転載分
「耳せん取って、ちょうだい」
しわがれたお母さんの声が開いたドアの外から聞こえてきて、あたしは急いでまわりに目を走らせる。
あった。テレビの上、透明なプラスチックのケースに収まった黄色い耳せんが二つ。
手に取って玄関の方に行こうとして、少し考えてそれをフローリングの床の上に置く。
その場にしゃがんで、ケースをつかむと勢いをつけてすぅーっとケースをすべらせる。耳せんのケースはろうかの外、ちょうど玄関の上がり口のマットのところで止まった。
しばらくして「ありがとう」という声がして、手袋をはめたお母さんの手がケースをつかんだ。玄関のドアが開いて、お母さんがパートに出かける音。あたしはお母さんを見送らなかった。
「見ないための」サングラスと「聞かないための」耳せんと「吸わないための」マスク、それから長袖の服と手袋――「たにんアレルギー」で出たひどいぶつぶつを隠すための――がないと、お母さんは外に出られない。
**********
あたしのとなりの席ふたつは、ここ半年ずうっと空いたままだ。もちろん「たにんアレルギー」のせい。
となりに座っていた同級生二人とも、仲はそんなに良くも悪くもなかったけれど、ずっと席が空いたままだとなんだかさびしいというか、変なプレッシャーみたいなものを感じる。
出席してる同級生にも、「たにんアレルギー」の子はとっても多い。あたしのお兄ちゃんぐらいの軽い子もいるけど、お母さんぐらいのひどい子も何人かいて、そういう子は授業中に気分が悪くなって保健室に行くことが週に一度はある。もっとひどい子だと、あたしのとなりの席の子のように、学校にも行けない。
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テレビをつけて、チャンネルを9にまわす。文字だけのニュースを一日中流しているチャンネルだ。
リモコンのボタンをいくつか押してしばらく待って、テレビに「今月の定期検診」をうつす。3つぐらいの日にちを暗記した。
ボタンを押して他のチャンネルを見る。アニメのキャラクターが、有名な温泉に入ってにこにこしていたり、漫才をしたり、料理をしたりしている。
「たにんアレルギー」がある程度ひどくなると、ふつうの人の写真や映像を見ただけで症状が出てしまうらしい。うちのお母さんはそうだ。お父さんもときどきなる。
そのせいで、あたしが生まれるちょっと前の年に、テレビの番組は文字やアニメばっかりを映すようになったって。だから、あたしがテレビでふつうの人がふつうに映ってるのを見るときは、いつもそれは大昔の番組を特別に映しているチャンネルでだった。
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「こっち見んな」
お兄ちゃんがスプーンを口にくわえて、首筋をかきながら言った。お兄ちゃんの目はテレビを見たまま。
「だって」
「うっせ!」
乱暴に大きな声で言うと、お兄ちゃんはあたしの方にスプーンを投げて、ぼりぼりとわざとらしいぐらい首筋をかく。
テーブルの上からスプーンが床に落ちる音。お兄ちゃんが服の上から体をかく音。声のない、音楽だけのテレビの音。
ごちそうさまも言わないで、あたしはお弁当のケースとわりばし、飲み終わったマグカップを流し台に持って行って、ケースとわりばしをゴミ箱に入れて、食器洗い機に入れてスイッチを入れた。
あたしが自分で洗ってもいいんだけど、最近はずうっとめんどうくさい。だからといってお母さんはアレルギーがひどくなるので洗えない。お父さんも忙しいしお兄ちゃんはやるわけない。スポンジも洗剤も、ここ何ヶ月も使われてない。
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うとうとしてると枕の隣でぶーぶー、ケータイのバイブがふるえた。メールが届いている。お母さんから家族全員にメール。いろいろと細かい事が書いてある。
お医者さんからもらったお薬の事とか、ごはんの事、お母さんが病院に泊まりに行く日やその日にみんなにして欲しい事、それからどうでもいい事――本当だったら本当にどうでもいい事、それこそ「みんなでごはんを食べてる時」とか「みんなでテレビを見ている時」にしゃべるような――ことが書いてある。
「どうでもいい事」を読むたびにあたしは、なんだか頭がごちゃごちゃしてきて、泣きたくなるので、あんまりじっくりと読まない。
ケータイを元にもどして、何も考えないようにして、寝た。
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ずっと前にとなりのお姉さんと撮った写メを、久しぶりに待ち受けにした。
あたしと一緒に映ってるお姉さんは、もう一年以上も会ってない。会えないんだ。
いっつも明るくてにこにこしてて友達が多い、ふつうの大学生だったとなりのお姉さんは、あたしが小六になった年に「たにんアレルギー」にかかった。最初はふつうに家から学校に通って、一緒に電車に乗ったりしていたのに、お姉さんは少しずつどんどんひどくなっていって、学校に行かなくなって家から出なくなって、あたしに電話もメールも出来なくなった。
お姉さんの部屋には夜電気も付かない。もしかしたらもう、とっくの昔に家にはいないのかもしれない。
なにせテレビのニュースで、とっても怖い事件を見たりするからだ……アレルギーがひどくなりすぎて、山のずっと奥で裸で死んでしまった人がいたとか、家の中で暴れて家族を死なせて自分も死んだ人がいたとか、……。
お姉さんが発作のようになって暴れる音は、少し前まで何回も聞いてた。まさか……と、考えるのも、怖い。そんな事を考えてしまう自分が嫌になるけれど、でも、やっぱり……。
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ポチの散歩はお母さん。お医者さんに「ペットを可愛がるとアレルギーがよくなる」と言われて、ずっとやっている。お兄ちゃんは「気のせいだよ、プラシーボだよ」って言うけれど、気のせいでも良くなればいいじゃんとあたしは思う。それにときどきポチの散歩から帰ってきたお母さんは、家族の前でサングラスを外してふつうに喋ったり出来るもん。だから気のせいでいいの。
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自分が「たにんアレルギー」にかかったらどうしようっていうのは、何度も何度も考えた事がある。大人になればなるほどかかりやすくなるって、学校の先生が言ってたりテレビで言ってたりしてた。「こんなもん早くなくなっちゃえ」と思うのは、何より自分がかかるのが一番怖いからだ。
それに、みんなうちのお兄ちゃんのように、アレルギーになっただけで一日中自分の部屋の中にいるわけにはいかない。お父さんはお仕事がある。お母さんもパートがあったり、買い物にいったり、家の中の事をしなくちゃいけない。どんなにひどくても。好きで毎日、一人でごはんを食べたりしてるわけじゃない。好きで毎日、メールで話してるわけじゃない。
でもお兄ちゃんは「これでいい」って言う。「お前にはわからない」って言う。あたしはこんなの嫌だ。あたしにはお兄ちゃんのことがわからない。お兄ちゃんはあたしと毎日顔を合わせてるのに、あたしとほとんどなにも話さない。まだ――顔を見ないおしゃべりはたくさんする――お父さんや、――しょっちゅうメールを送ってくる――お母さんの方が、よく話してくれる。
お兄ちゃんはきっと話さないだろうし、あたしも聞きたくない。あたしにはお兄ちゃんの気持ちはわからない。まだ顔を合わせないお母さんの方が、気持ちがわかる。
**********
メールの返信。
『でもあたし、兄さんの気持ちわかるよ。家族うざいとかあるもん。うちあたしだけだけど、具合悪いふりしてずる休みしたほうが気持ちラクだもん。塾もそれでむりやりやめた。うちパパもママもまじうざい!あたしのこと毎日きくな!みたいな』
うちとはほんと逆なんだ。
『べつにバカにしたいんじゃなくて、ムカついたらゴメンだけど、アレの人はアレの人にしか本当家族とかうざい気持ちわかんないよ』
ということはつまり、お兄ちゃんの気持ち、あたしにはわかんないかあ。
『ごめん、あたしがうざいのはうちの家族とかだけだから、友達は平気だから。怒んないで、謝る』
怒らないけど、でもちょっと、なんか、気分フクザツ。
【転載】たにんアレルギー 渡辺志乃 @fortunathefate
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