星も見えない街だから

例えば狂人の夢。






 古いビルの屋上に毛布を一枚持ち込んだ。


 街は、明るい光に満ち満ちていた。そこに居ると、私は星の塊の上からどこかにあるはずの地球を探している気分になれる。


 電飾で彩られた夜景がこんなにも美しいのは、きっと空に星が無いからでしょう。


 事実、見上げた夜空は灰色の布で覆われたようだった。


 私は再び街に視線を落とす。古いながらもこのビルの背はこの辺りでは二番目高い。一番高いビルは目の前に建つもので、一番光に包まれて、所々出っ張ったテラスは床までガラスのように透き通った洒落たものだ。


 クリスタルの塔のよう――――。


 事実、そのビルの一階の小物屋ではそんな置き物が売られていたが。


 私はこの街にあって電飾のひとつも無く、窓の明かりですらまばらなビルの暗闇から街を見上げていた。電飾の惑星にあってここはどこから見ても深く固まった海の底ようで、きっと私の姿は誰にもわからない。明るすぎるから、なにも見えない。


 私は幸せだった。


 明るい光が眠気を誘う。寒さは感じなかったがうすい毛布を体に巻き付けた。


 こんなまばゆい光の中で眠っていると、なにが現実でなにが夢なのかだんだんわからなくなってゆく。光の消えた昼間はまるで耐えるだけのなまぬるい夢のようで、夢が灯る夜の方がシニカルな現実のようで。


 寝返りをうち、息を漏らす。鼻の下の湿ったコンクリートの臭いが私を安心させた。


 この夢が永遠に続きますよう、終わる時も終わることにきづかぬまま終わりますよう。


 このなまあたたかい水温でずっと生きていたい。


 そう、願った。


 そこに涙はなかったけれど。



 星が消えても、こんな街でも、月だけは見ることができた。


 いつかは、月も消えてしまうのだろうか。


 その時、この街は月の代わりにどれだけ輝くことになるのだろう。


 私は――――星を見た記憶を探した。


 そうだ、あのオリオンならみつけたことがあった気がする。わかりやすい、冬の星座。


 いつもオリオンを見つけたあの場所は道端で蛙が鳴いてなかったか。


 ひとり、夜闇の中をうきうきとした心で歩いてなかったか。


 今はもう、そんなことはない。夜の闇は危険なものになってしまった。電飾の光がまばゆくなるほど、闇は濃さを増し、ゆえに光になれた目ではそこは危険が許される場所だという錯角が生まれる。そして、夜闇は汚された。人の手によって人には危険なものへと。


 あからさまな光の中で、すべてさらけ出していられるほど人は強く無いのに、怖くて明かりばかりねだった結果がここにある。明るい太陽と月と星の夜があればよかったのに。


 寝返りをもうひとつ。



 どうして今晩はこんなにも切なく胸がうずくのだろう。


 もしかしたら、今夜に限ってこの夜空のどこかで小さな星が私に姿を見つけてもらうのを待っているのかもしれない。


 ポツンと空に光る針の先ほどの光を探して、私はまぶたを押し上げた。



 人工の光は、時に卑猥さを与え、時に無表情なほど無垢を模して光る。


 しかし、その卑猥ささえ底が浅く――――めくれかかった古い看板のように、裏側の灯した人の憧憬と背伸びを含んだ人造のもの悲しさを垣間見せるところが私は好きだった。


 クリスタルの塔は一見、美しい象牙の塔のようだった。


 ただ、疲れた心が時折、夢を見るのを忘れた時だけそれはただの明るいビルになる。


 その時の私の目に、それがどんな風に映っていたのかわからない。



 高い所、見上げた先に夜空に浮かんだようなテラスが見えた。はさみを持った人たちが颯爽と動き回る、サロンのようだった。


 テラスの端で誰かの髪をすきながら何かを話す、かつて同じ屋根の下で暮らし同じ血の通っているはずの人。



 急にクリスタルの光が降り注いで来たような圧迫感を感じ、私は首を掻きむしった。


 見上げる先に小さな点のように見える光の中の人。点であるはずなのに、その細かい仕種や声の調子までわかる気がした。


 二、三滴の涙と喘ぐ声が静かに固まった海の底を揺らした。



 煙草を吸い過ぎた時、酒を飲み続けた時、慣れてしまって実は体がだるいのだということがわからなくなる。


 辛い思い出の中にいる時、それが今でないことがわからなくなる。



 その場所の中にいて、幸せだと思い込んでいたのに、離れて振り返ると堰を切ったように辛い涙が込み上げてくる時、自分は弱くなってしまったのかもしれないと思う。


 その場所を離れて、かつてを思い起こす時、そこで起こった辛かった出来事を「なんでもないこと」だったと思える時、強くなったというよりも、その時こみあげた人の気持ちを忘れてしまったのかと少し寂しく感じる。



 たぶん、それらは心の悪戯だ。


 そのままでいたら壊れてしまう心のバランスを保とうとする必然の作用だ。


 動く力を奪われて、なお動いているように錯角しながらまどろむ夢に似ている。



 今も、なにかを思い出そうとする私の頭を冷たい手が包み込んだ。脳を冷えた細い指で包まれたような錯角を感じながら、私はそのまま夢へ引き戻された。夢の中で、私はまた星を探し始めた。



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