サクラと口笛


 吹き込んだ土が微かに積もる乾いたタイルの上でぼくはひとり、うなだれていた。


 住宅地に設けられた小さなあるだけの公園。手入れされずに、いつの間にか鬱々とした雰囲気を持ってしまった。その片隅でさらに湿った暗い雰囲気でうずくまっている四角形のコンクリートの塊がある。昔からあるこの公園の公共トイレで、数年前に公園の隣に、トイレも貸してくれるぴかぴかのコンビニが出来てからほとんど使われなくなった。元々、でかい木立の陰になってしまって暗く人目がない危険な所だったから、もう女性がここへ入ることはまったくないだろう。


 ぼくはその使われない女性トイレの奥で壁にもたれていた。


 もちろん、ぼくは痴漢じゃない。


 だんだん、腹の底から胸へ突き上げてくるような、ずんずんとしたにぶい痛みが起きてきた。額にはどんどん脂汗がにじむし、気分だってますます悪くなるし、本当は体中どこだってずきずき痛い。それでも、ジッとそのまま壁にもたれて頭を垂れていれば少しは痛みがましになるような気がして、ぼくはかなり長い間、そのままの体勢でそこに居た。もう時間なんてわかんないけど、ずっとそこに居て、誰もぼくを迎えに来てくれないことだけはハッキリとわかっていた。


 吐きたい……………。


 にぶい痛みは拷問みたいだった。ついにぼくはガマンできなくなって、体勢を変えようと体を動かしてしまった。まず、右手がそっと床を這った。すると、指先が何かに当たった。細く目を開ける、少しにじんだ視界に壊れた眼鏡が飛び込んで来た。


 それをキッカケに、僕はのそのそと動きだした。まず、ずっと向こうに飛ばされた鞄を拾う。中を開ける。ちょっと形の歪んでしまったセロハンテープを取り出して、折れた眼鏡の軸に巻き付けた。


 テープを、軸に。ゆっくりと、何重も何重も、必要以上に巻き付けた。最初は力が入らなくてキッチリ負けなくて次に捲く分に緩い部分が押しつぶされてデコボコになっていたけど、だんだん力が入ってギッチリ強くつよく巻き付けられた。


「……………」


 不意に僕の口がなにごとかを毒づいて、頬が熱くなった。


 急に、今さらどうしようもなく自分がみじめで、どうしようもなく怒りが込み上げて来ていた。


 どうして、こうなったのかは、ぼくにはわからなかった。最初はぼくが先生に気に入られていたからだろうか、と思っていた。でも、それは間違いで、学校の先生連中はぼくよりも成績の悪く気軽に授業をさぼるような生徒の方と楽しそうに話す。


 じゃあ、なんで?


 ぼくにはわからなかった。


 ぼろぼろと涙が目から落ちてることに気づいた。まるで、ドラマなんかで落ちる涙のようだ、なんて思ってみた。嗚咽が漏れて、思わず口に腕を押し込んだ。それでも、発作みたいに細かく体を震わせる涙は止まらなくて、ぼくはずっと泣いている間、誰もここへ来ないよう、そればかりを祈っていた。


 ほんとうに、こんな所に何時間くらい居るんだろう?


 しばらく、ダダをこねる子供みたいに腕を噛んで思いっきり泣いた。発作のようなそれの波がおさまったのは、結構時間が経ってからだった。すると、カッと熱くなっていた頭が少しだけクリアになって、ちょっと息を吸ったり吐いたりする余裕が出て来た。涙は心を冷静にするために必要な発作なんだろう。


 しばらく座って泣いていたせいか、さっきよりも少し動けるようになった。


 ぼくはそっと顔をあげ、コンクリートの壁に四角形に開いただけの窓からのぞく景色がただ墨のようにまっくろな空だけだということに気付いた。


 今は考えるのはやめよう、考えても浮かんでくるのはつまんない愚痴と自己弁護の言葉だけだよ。


 左手の壁には入り口までずっと五つくらい鏡と洗面台が並んでいる。ぼくは少し這って、一番近くの洗面台の縁をつかんでよろよろと立ち上がった。惰性でそのまま蛇口をひねる。無心に数回キイキイ鳴るコックをひねっていると、必要以上の勢いで水が出て来た。急にさっきまで手をついて這っていたのがトイレの床だったことを意識して、丁寧に指の一本一本、爪の間まで洗い始めた。しばらく洗っていると、水が溢れだし、タタタンッと床に飛び出していった。


「あーあ…………」


 力のない声が他人の声のようにぼくの耳に届いた。まるで高い所へ登った時ように耳の具合がおかしい。


 洗面台と蛇口の間はそんなにない。洗面台一杯に水が溢れれば、自然、ぼくの手は洗面台にたまった水の中に突っ込むことになる。ゆっくりと避けるように手を引く。すると、視界いっぱいに、蛇口から飛び出す勢いのある流れがかすかな渦を描いて台の上の埃を溢れた水と一緒に外へ押し出す様子が、続いて、ぼくの頭のようにすこしクリアになった水面が見えた。


 そして、排水溝にたくさんの少し汚れたピンクの花びらが詰まっていることにきづいた。


 サクラだ。


 ぼくの目はさっきの四角形のガラスさえはめ込まれてない窓に向いていた。


 そこには窓の下から見上げた時には気付かなかった、公園の桜が並んでいる。もう葉桜だったけど、それでも残った花が白い雲みたいにフワフワと闇の中に浮かんでいた。


 そういえば、この公園の樹はサクラだった。だから、めきめきと枝を伸びて鬱陶しくなっても、誰も枝を切らなかったんだった。なんにもない公園でも、春になると枝が広がったサクラでそれなりに綺麗に見えるから。


 だけど。


 真っ暗な空に少し残った桜の花、ゆがんだ視界と胸の奥からの苦い味。


 まったく同じ光景をずっと昔に見た気がする。


 デ・ジャヴュ、一瞬そう思ったけど、ぼこぼこに揺さぶられてちょっと反応がよくなってたらしいぼくの頭が、すぐに昔の記憶を放り出してくれた。


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