第三話 人外・小鳥ちゅんとの遭遇

 あっという間に放課後だ。窓からは夕焼け色の空が見渡せる。


 教室に残っているのは、優弥一人しかいない。


 他の男子連中は、早々に帰宅しようとする黒宮を追いかけ、どこかへ行ってしまった。本来ならば、率先して自分が動くべきだろう。


 しかし優弥は、逃げ道を作った。恋戦のトップバッターを務めなくても、周りから不審に思われない。


 が、それも時間の問題だ。いつまでも教室で思い悩んでいる訳にはいかなかった。


「くそ、どうすればいい……!」


 思わず、苛立った声を上げる。その中には、不安の色が濃い。


 黒宮に――女の子に告白する。それが、どれだけハードルの高い行為か。


 ……やはり、駄目だ。自分には出来っこない。


 ただ、不可能というわけでもないのだ。


 勇気さえ出せれば、告白なんて誰にでも行える。なにも、「魔法で空を飛んでみろ」と無茶振りされているわけではない。


(勇気さえ、出せれば……!)


 教室の扉に向き直る。


 一歩を踏み出す足が、重い。まるで錘を付けられているようだ。


 ドアの前まで歩を進める。息が上がった。じわりと滲み出した汗が、頬を伝い落ちる。


 優弥はもう、その場から動くことができなかった。臆病な心がブレーキを掛けている。ただの扉が、とてつもなく巨大な壁に見えた。


 変わろうと思ったのに。自分を焚き付けるため、あえて馬鹿げた目標まで掲げたのに。


 結局は、無駄だったのか。


 変わろうと誓った自分自身に、優弥は押し潰されようとしている。


 ……こんなんじゃ、また同じだ。


 口だけだと男子に罵られ、女子からは当然のごとく無視される。周りが恋人を作っていく中、自分だけはぼっち飯。なのに、あだ名はハーレムマスター。


 最悪の未来が思い浮かぶ。痛い、あまりにも痛すぎるぞ!


 なんて、ツッコミを入れている場合ではない。その痛すぎる未来は、着実に優弥の許へと迫っている。ここで立ち止まっていたら、明日にはぼっちのハーレムマスターだ。


 そんな未来は、何としてでも阻止せねばならない。告白は……まあ、ひとまず置いとくとして、取るものもとりあえず現場に向かおう。クラスの男子たちに、自分が逃げてはいないことを証明しなければならない。


「……俺は、変わるんだ」


 自分にそう言い聞かせ、手を伸ばす。巨大な壁に見えていたドアは、当然――ただの教室の扉だった。急に馬鹿らしく思えてくる。心の奥に巣くっていた恐怖が、覚悟に押し出される。


「――本当に、それで大丈夫ですか?」


 教室を抜け出した矢先、そのような声が聞こえて、優弥は立ち止まる。


 床に足を縫われたまま、首だけで声のした方を振り返る。


「なに……!?」


 声には聞き覚えがあったから、別段、驚くほどでもない。けれども優弥は、彼女の姿を認めて弾かれるように後ずさった。後頭部が教室のドアにぶつかり、鈍い音を立てる。痛みは感じるが、目に映る少女の姿は消えていない。どうやら、夢というわけではないらしい。


「こんにちは、です。お久しぶりですね」


 優弥の正面で、面接の日に出会った少女が、にっこり微笑んでいた。ショートの髪が、黄昏色に染まっている。なのに、彼女からは影が伸びていない。


 優弥の顔が蒼白になる。こんなところで死にたくない!


「せめて命だけは勘弁してくれ!」


「……? わたしは別に、あなたに危害を加えるつもりはありませんが」


「い、いや……だって影が」


「影って……もう、どこ見ているのですか。エッチです」


「エッチ……なのか?」


「影フェチさんにとっては」


「そんな性癖を持つ奴が!? どちらかと言えば、それはニッチだろう!」


「ふふ、寒いので通報しておきます。寒がらせて制服を脱がせる魂胆ですね?」


「どんな変態なんだよ。というかお前、本当に何者なんだ」


 人間……ではないよな。影ないし。


 少女を注意深く観察しつつ、優弥はその場から離れていく。一歩一歩、慎重に。人外なんて、あまり関わりたくない手合いだ。何をされるか分かったもんじゃない。


「あまり驚かないのですね。確かに、わたしは人間ではありませんが」


 言われて気付いた。確かに自分は、それほど驚いていない。


 それは目の前の少女が、あまりに人間臭かったから。


「何を隠そう、わたしは精霊です。あえて言うなら、恋の精、的な」


「ずいぶんと曖昧だな」


 とりあえず、害はないと判断して足を止める。敵意があるのなら、とっくに攻撃されているはずだ。


「自分の存在なんて、総じて曖昧なものです。あなたは自分について説明できますか?」


「説明って……俺はどう見ても人間だが」


「人間にも種類はあります。あなたが他者と比較してどのような差異があり、どう異なるのか。十全に説明することは出来ますか?」


「それは……難しいな。名前とか、身長や体重、容姿とかか」


「今挙げたものの全てが、あなたを形作っているのですか?」


「いや、そうとは限らないが。もっと沢山、感情とかもあるし……」


「曖昧ですね。だったらあなたにとって恋の精であるわたしが曖昧でも、とりわけおかしな点はないのです」


「むう……」


 そう言われれば、返す言葉がない。言い包められたようで癪だが、仕方ない。議論したとして答えが出るわけでもないし。


「それで、お前はどういう目的で……いや、その前に名前を訊いておこう」


「名前ですか」


「そうだ。精霊にも名前くらいあるだろ。シルフとか、サラマンダーとか」


「小鳥居透子です」


「ずいぶん日本的な名前だな!?」


「日本にも精霊はあります。八百万神なのです」


「確かにこの国ではそういうのが多いけどな……」


「私のことは透子か、お気軽に小鳥ちゅんとお呼びください」


「なあ透子」


「…………」


「……おい。透子?」


「…………」


「小鳥ちゅん」

「はい何ですか」


「そっちで呼ばれたかったのか!?」


「……わたし、あだ名で呼ばれてみたかったのです。一度も、呼ばれたことないから……」


「そ、そうか」


 悲しい事情があった。


 精霊界には友達とかいないのだろうか……。


「あなたのことはハーレムマスターと呼べばいいですか?」


「それは止めてくれ!」


「では、優弥さんと」


「ああ。それで、透子」


「…………はい」


 渋々といった感じで答える。とても残念そうな顔だった。


「お前は、何の目的で俺に近づいてきた? 面接の日も、何やら意味深なことを言っていたよな。あなたの願いは叶うとか、何とか」


「憶えていてくれたのですか。嬉しいです。願いが叶うというあの言葉は、そのままの意味ですが」


「そのままの……?」


 俺の願い。それは、お人好しな自分を変えること。そのためには――


「ハーレムですよね」


「まあ、ハーレムを目指しているのも事実だが」


「ですよね。わたしには、あなたの願いを叶える力があります。こう見えて、色恋沙汰には強いのです」


 まな板のように薄い胸を、ドンと叩く。


「ですが、万能な力ではないですよ。使いよう次第です」


「なるほど……」


 一応は納得した素振りを見せる。まだ、腑に落ちていない点があった。


「なぜ、俺なんだ? 他にも恋とかで悩んでいる奴はいるだろう?」


 そう訊くと、柔和な笑顔を引き締めて、透子は言った。


「あなたが一番、想いが大きかったからです」


「…………」


 それほど俺は、望んでいたのか。変わりたいと。


 彼女の言葉は正しいように思えた。曖昧な部分も多いが、嘘をついているようには見えない。


 優弥は考える。ここで、彼女の提案を呑んでいいのか。


 ……いくぶん、早計すぎる気がした。何かが起こってからでは遅い。


 少なくとも、相手は自分と同じ人間ではないのだ。いや、たとえ人間だとしても、怪しすぎる話だった。自分へのメリットしかない。


「お前はなぜ、俺に協力する? それで、お前はどう得をする? よもや、お人好しだからじゃないよな。困っている奴を見過ごせない性質か」


 きつく睨んで質問をぶつけると、透子の唇が微かに震えた。そっと開かれた口は、しかし沈黙を選んで閉ざされる。


 少しの間を置いたあと、透子は微笑みながら口にした。


「それは、わたしが恋の精だからです。あなたを、応援したいのです」


「そうか……」


 相変わらず、嘘をついている顔には見えない。ただその答えは、信用を得るには足らなかった。


 しばし黙り込んだのち、優弥は返答を決める。


「その能力とやらは、今でなければ得られないのか?」


「いいえ。でも、なるべく早い方がいいですね」


「その理由は?」


「簡単です。あなたが、取り返しのつかない事態に陥ってからでは不利ですから。先ほどだって、現状に思い悩んでいましたよね」


「……なるほど」


 確かに、このままでは不味いな。女子だけでなく、男子からも信用を失いそうだ。


「しかしまだ、決断はできない。保留にすることは出来るか?」


「はい、大丈夫なのです」


 不服そうな様子もなく、にこやかに頷かれた。


「なら、この話はひとまず保留だ。それよりも今は、急がねばならない用事がある」


 長話に付き合ってしまった。黒宮が帰宅している可能性もある。


「黒宮凛花、ですね」


「ん、知っているのか」


「優弥さんのこと、ずっと見ていましたから」


「そ、そうか……」


「自室で変なポーズを決めて薄笑いしていたところも」


「そこまで見ていたのか!? あと、あのポージングはカッコいいからな!」


「『……くくくっ、闇の波動を感じるぞ』」


「や、止めろ! それ以上言うな!」


「『あぁぁ、可愛いんじゃぁぁ~~! 課金しちゃうよぉぉ~!』」


「止めてくださいお願いします!」


 俺のイメージが崩れるではないか! この口調だって、一生懸命練習したのに……。


「まあ、いいです。それで、黒宮さんを探しているんですよね。わたし、居場所を知っていますよ」


「教えてくれるのか?」


「もちろん、です。わたしは、優弥さんの恋をお手伝いしたいので」


「……そうか。なら、さっそく道案内を頼む」


「了解なのです。ただ、戦闘は激化の一途を辿っていますが……ともかく、急ぎますよ」


「ん? それは一体……」


 意味を訊き返す前に、透子が走り出してしまったので、そのあとに続く。廊下の端まで移動し、三階へ上がる。上級生の教室が等間隔に並ぶ、見慣れない道を駆けた。その途中で、男子生徒がフジツボの如く床にへばり付いていた。中には廊下のど真ん中で気を失っている奴もいる。この学園はどうなっているんだ。


 そんな疑問を抱えたまま、優弥たちは別棟へと繋がる渡り廊下に着いた。その光景に目を疑う。


「なんだ……これは」


 敗北を喫した兵が野ざらしにされている……そのようなイメージが思い浮かんだ。床のあちこちに男子生徒が転がっている。力尽きたというより、誰かにやられたのだろう。身体の向きが乱雑だ。意識を失っている者もいれば、短く呻いている者もいる。外傷は見当たらないにしろ、これは一大事だ。


「ともかく先生を呼んで……」


 その時、野太い悲鳴が上がった。見ると、男子生徒が宙を舞っている。何人か生き残り(死んではいないけど)がいるらしい。彼らは前方に向けてダッシュしている。


「え……」


 彼らが突っ込んでいく先を辿り、優弥は唖然とした。


 茜色に染まる渡り廊下。


 その奥に佇むのは、優弥が捜し求めていた人物――黒宮凛花だった。

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