第2話:リーダーズスキル
東京都千代田区星が岡町1-2。
都心のど真ん中。
日本最大級の超巨大企業、ユキハラグループの母体であるユキハラコーポレーションの本社ビル「スターヒルズタワー」がそびえ立つ。
グローバル経済の中、一瞬の油断も出来ないビジネス世界。日本経済を背負って立つユキハラの社員たちは、今日も脇目もふらず頑張っている。
……一部の例外を除いて。
派遣社員の伊是名悠平が、なんの因果か働くことになった、ユキハラコーポレーション。
彼が配属されたのは、情報本部。
情報の収集や、調査、分析、整理などを行い、各事業部・組織と連携する部署だ。
もともとは、各部署にあった情報収集・調査担当を、一つの組織に集めて設立したものである。元あった部署との連携はもちろん、組織の枠を超えた情報共有を図るのが、この部署の大きな役割である。
本部制が採用されている社内でも有力な部署である。
この本部制というのは、通常の部署より一つ大きな組織にして、傘下に複数の部署を置いて統括する。重要部署にだけ導入されているシステムだ。
だが、伊是名悠平が所属している情報本部第7部第3課は、専門部署ではない。第7部は情報本部の総務担当で、中でも第3課はサポート係だった。
すなわち、PCが故障したり、複合機が故障したりした時に対応するもので、その他にも、新しい機器やシステムの導入から、リース品の取り扱いなどで動く。システムやソフトの使い方のヘルプ業務をすることもある。
情報本部のエキスパートたちを縁の下から支える大事な役目……。
と思ってくれている人も中にはいるが、大方は、第3課を雑用部署だと思っている。課長だけが正社員で、他の3人は派遣社員というのも、軽い扱いなのがわかる。
そもそも、PCなんて滅多に故障しないし、複合機だって滅多に交換しない。ヘルプだって、使い慣れていない最初のうちだけで、すぐに使い方を覚えるから、ほとんどない。
だから、普段は、結構暇なのである。
その日も、悠平が第3課で待機という名の暇を持て余していた。
正直、いいのだろうか、こんなに暇で。
これでも給料をもらっているのだ。大した額ではないが。
過去、あちこちの会社に派遣されたが、いずれも単純労働でびっしりスケジュールは埋まっていた。とにかく作業しやがれ的に働かされたものだ。
それがここに来たら、たまに呼び出しを受けて作業に行くくらいで、普段は何もすることがない。ないので、ネットを見たり、スマホを触ったりするしか無いが、怒られることもない。
なんか申し訳ない気持ちになって、ネットを見るのもやめてしまう。
3課の才野木課長は、何やらパソコンをカチャカチャやってることが多いが、こんな暇なのに何をタイピングしているのだろうか。
「実はこっそり小説とか書いてたりして……」
悠平は、無性に覗きたくなった。それほど暇なのである。
ただし、いつ連絡が来るかもしれないので、3課の部屋で待機しておかなければならないのだ。これはこれで、結構苦痛なのである。
そんないつもと変わらぬ時間を過ごしていたら、電話がかかってきた。今は課長と自分しかいないので、悠平が受話器を取る。
「はい、情報本部第7部第3課です」
ここで働き始めてほぼ2ヶ月、だいぶ職場にも慣れてきた。仕事にはあまり慣れていないが。
電話は、情報本部第6部第1課に常駐している派遣社員の富丸令子からだった。
「すみません、至急来てもらえないでしょうか」
何やら緊急事態のようである。
課長に一言断って、悠平は第6部へ行ってみた。
第6部は法制度及び政治情報の収集・調査を担当している。1課が法制度部門で、2課が政治部門だ。他の部署と比べるとそれほど人数は多くない。現在は1課が7人、2課は8人しかいない。部屋はひとつで、真ん中辺りに胸くらいの高さのキャビネットを並べて、2つの課を分けている。どちらもまあまあの広さが、人数が少ないので広々と感じる。
法律の専門家だらけの1課の部屋に行くと、なんか雰囲気が違う。部屋の空気からして引き締まった感じがするのである。
富丸令子が待っていた。彼女はお茶を出したり、コピーを取ったり、事務手続きの案内をしたり、複合機の紙詰まり程度の簡単なトラブル対応といった仕事をしている。
「どうしました」
悠平は小声で尋ねた。少しでも大きな声を出すと怒られそうな気がしたのだ。
「よかった。ちょっと困ったことがあって。こっちに来てもらえますか」
「なんでしょう」
6課のようなところで発生する緊急トラブルに、自分が対応できるのだろうか、と内心不安になりつつも、富丸の後について部屋の窓側に行く。
窓際の窓の手前には、腰掛けられる程度の幅の出っ張りがある。
そこに小さな観葉植物がいくつか置かれていた。硝子の器に、なにか透き通った色玉みたいなのが敷き詰められて、水で満たされている。そこに植物を差し込んであるのだ。
「これなんです」
「……これ?」
「ポトスです」
「ポトス……。これが?」
悠平が顔を上げて聞くと、富丸は、
「今朝見たら、なんか元気なくなってて」
再度見る。確かに、ポトスってもっとわさわさ葉っぱが生い茂っているような気がするが、このポトス、いずれもひょろひょろとした茎から、色落ちしたような葉っぱがポツポツと伸びている。
なんか全体的に弱々しい。ただ、急にしおれてきた、というより、もともとそんなに元気ではなさそうな様子だ。
「3つともなんです」
「た、たしかに」
で、これを……?
悠平が視線で問うと、富丸はうなずいた。
「なんとか元気にしてもらえないでしょうか」
「はい? いや、あの、至急の用事って、これですか?」
「そうです。お願いします!」
「元気にしろと……?」
「はい。お時間のある時でいいんです。お手入れしてもらえないかと」
「いやいや、あの……僕らのところで、ですか」
「はい。持って行ってもらって構わないので。お時間のある時でいいんです!」
もちろん、お時間はありますよね、たっぷりと、と言わんばかりのニュアンスであった。
「は、はあ……」
「それね、本部長がくれたんだよ」
といきなり後ろから声がかかって、悠平は驚いて振り返った。
いつのまにか、4人も後ろにいる。
第6部第1課の専門家たちだ。多分、弁護士の資格とか持っている人もいるだろう。が、肩書はともかく、今何やら微妙なことを言った。
本部長からもらったとかなんとか。
「本部長って、友則情報本部長ですか?」
「そう。本部長がある時突然やって来て、3つとも置いていったんだよ」
「えーと、本部長のご趣味、ですか?」
「多分、違う」
「違うのに、持ってこられたのですか?」
「まあ、そこはそれ、本部長にも色々あるんだろう」
と苦笑を浮かべる。
「色々……とは?」
「色々は、ま、いろいろさ。なあ」
「ですね。色々ありますからね、本部長も」
「そうそう」
社員たちはいずれも、なんだかわけありな、気になる言い方をする。
「はあ……それで、その」
富丸がうなずいて、
「つまりですね、本部長がわざわざ置いていったものを枯らすのも、まずいかなあ、ということなんです」
「いや、まあ、たしかにそうですけど」
それを、押し付けるって、どういうことだ。
枯れちゃっても、うちの責任じゃなくなるしー、っていう風に解釈できるのだけど。
「というわけで、よろしくお願いしまーす」
富丸令子は明るく言い、
「よろしくねー」
と4人の社員も異口同音に明るく言った。
悠平が第7部第3課に元気の無いポトス3鉢分を抱えて持って帰ってくると、才野木課長が不審な顔をした。
「どしたの、それ」
悠平が事情を説明した。
「ああ、本部長のね。そういうことか」
「ご存知なんですか」
「本部長は、あちこちに観葉植物だの何だのを置いていくんだよ。ほらあれも」
と窓際の大きな観葉植物を指差す。
「あれもですか」
「そう、ドラセナ。すっかり大きくなっちゃって」
「あの、本部長のご趣味なんですか?」
と改めて聞いてみる。
才野木課長は首を横に振った。
「ちがうよ」
「ではなぜ」
「まあ、色々あるんだよ、本部長も」
「それ……、第6部の人達も言ってたんですけど、その色々、って具体的には何なんでしょうか」
「あー、色々は、まあ、色々だね」
言葉を濁す。
「めちゃくちゃ、気になるんですけど。観葉植物を持ってくるのに、どんな色々があるんでしょうか」
「んー、人には事情ってもんがあるからね。うん、気にしないことだ」
「そこまで言われて、それは無理です」
「ま、なんにせよ、枯らしちゃうと本部長が悲しむから、頑張って復活させてね」
「えー……、そんなことおっしゃられても……。大体、これも第7部第3課の仕事なんですか」
「おまけ、ということでね」
「いや、おまけ、って本部長のなんでしょ」
「がんばりたまえ」
「専門家じゃないんですけど……」
「何事も、スキルアップだよ」
「いやいや」
その後、悠平がネットでポトスの育て方を調べていると、第3課の他のメンバー、左近田と車坂の二人が戻ってきた。左近田はベテラン派遣社員である。派遣社員のベテラン、と言うとなんだか変だが、彼の場合は、ハイスペックなスキルの持ち主で、そういう人ばかりを抱えて派遣する珍しい会社の社員なのだ。同じ派遣社員でもだいぶ違う。一方、車坂は悠平と同じような、一般的な派遣社員である。
「あれ、悠平くんなにしてんの?」
左近田は悠平がポトス3鉢に囲まれて途方に暮れているのに気づいた。
「情報第6部からお呼びがかかったんで、行ってみたら、これを渡されました」
「なんで?」
「このポトス、本部長が置いていったものらしくて、なんだか元気が無いんで、なんとかしてくれ、って」
「ああ、そういうこと」
「ハァ? いやっ、つーか、それ、俺らの仕事じゃないっしょ」
と車坂が口をとがらせる。
彼は今日、左近田と一緒に、道路を挟んで向かいにある溜池国際ビルに行っていた。そこにユキハラコーポレーションのサーバーセンターがある。そのうちの情報本部のデータを置いているサーバーの管理業務のことで、子会社のユキハラデータ社の社員と打ち合わせをしていたのだ。
サーバー管理の本社側の担当はこれまで左近田がしていたが、新しく悠平が入ってきたので、車坂はワンランクアップして、サーバーの仕事を左近田から受け継ぐことになったのである。
それでちょっとはいい気分で本社に戻ってきたら、悠平がポトスの世話係になっていたのだ。
「俺らの仕事は技術系。そんな植物の面倒見るなんて、雑用じゃないっすか。……第6部の派遣さんって、だれだっけ」
「富丸さんです」
「あー、とみまる子ちゃんか」
「とみまる子ちゃん?」
「彼女のあだ名だよ」
と左近田。
「こんなこと、とみまる子ちゃんがすればいいじゃんよ」
「それが、あそこの人たちからも、頼まれまして……」
「ったく、雑用はみんな俺達に押し付けるんだからな、ここの連中」
「でもさ、考えようによっては、そうとも言えないよ」
と、左近田は腕を組んで厳かに言った。
「なにがですよ」
「我々の本業である技術系はさ、早い話、覚えればいいだけの話だけど、植物を復活させるほうは、生命を扱うんだから、ずっとハイレベルじゃないかな」
車坂はムスッとした顔で、
「そりゃまあ……、そうっすけど」
悠平は笑って、
「てことは、僕の仕事のほうがレベル高いんですね。少しやる気出てきました」
「ちぇ、なんだよ。せっかく、ただのヘルプ係から、ヘルプ兼鯖管に出世したのによ」
そうすねて、車坂はそっぽを向いた。
「なに話してんのー?」
と言いつつ、隣との壁の隙間から、第2課の祖父江由美子課長が入ってきた。
「お疲れ様です」
「乙さまー」
そう言って近づいてきた彼女は御年28歳。
情報本部第7部第2課は、データベースへの入力と、社内イントラサイトの更新を担当している部署だ。その課長である。
ユキハラ社内で課長といえば、管理職で最も下に当たる。
下と言っても、管理職は管理職だ。
ユキハラコーポレーションは、事業ごとに部が置かれる。重要な部署では、本部制を導入している。そこでは本部長がトップであり、その下に各部があり、部長を置き、その下に各課があり、課長が置かれる。一方、本部のない通常部署では、部長がトップで、その下に各課がある。同じ役職名でも、本部制の部署のほうが格は上だ。ちなみに課の下には係はなく、係長はいない。その代わりに主査が置かれ、主査は管理職ではなく、現場平社員のチームリーダーのような役割を担う。
いずれも正社員のみの肩書で、非正規社員は該当しないが、現場リーダーとして主査の位置にいる非正規社員もいる。
祖父江由美子は、本部制の情報本部内で、課長をしているわけだが、28歳の女性で課長というのは非常に珍しい。小さな会社では若い役員や管理職もいるが、この超巨大企業ではそうそうはなれない。情報本部第7部だと、1課長の合羽は41歳、3課長の才野木は45歳である。他の各部でも課長は若くて35歳位。課長で定年を迎える人も多い。女性の課長もそれほど多いわけではないが、その上28歳で課長となるとエリートだ。彼女は23歳で入社し、27歳で課長に就任したので、かなり早いことになる。
社内誌でも「期待の女性社員」として紹介されたことがある。
もっとも……、そのキャラクターは課長らしくないのだが。
今も、お隣の部署にやってきて、
「缶詰がどうしたの?」
と無駄話を始めている。
「缶詰じゃなくて、鯖管ですよ」
「鯖の缶詰でしょ」
「サーバー管理のことです。略して鯖管」
「ああ、そういうこと。ランチの話かと思った」
「いやいや、ランチで鯖の缶詰は食べないっしょ」
ほぼ同年齢の車坂は、祖父江課長にため口をきくことが多い。祖父江も特に気にする様子はない。
才野木課長がその様子を見て、
「きみたち、祖父江課長は古風な人だから、ランチも鯖とかを食べるのだよ」
「味噌煮とかですか?」
「そうだね」
「なんか昭和的な感じですね」
「そういうことだね」
「才野木課長、私は平成生まれです」
祖父江はじろっと才野木を睨み、
「で、サバの缶詰がどうしたの?」
「わざと言ってません?」
車坂が不機嫌な口調で説明する。
「悠平くんがさ、6課からそれを預かってきたんだよ」
「あら、観葉植物?」
「ポトスです。元気ないんで、復活させてほしい、って」
「ふーん、いいじゃないの。楽しそう」
「俺らの仕事は技術サポート。園芸係じゃないんスよ」
「車坂君はね、今度、向かいの溜池国際ビルのサーバーも担当することになったんだ。左近田君からの引き継ぎでね」
「あれ、左近田さん会社やめるの?」
「いえ、悠平くんも徐々に慣れてきたから、細かい作業は彼に任せて、車坂くんにはスキルアップをしてもらおうと思ってね、引き継ぐことにしたんです」
「左近田くんは、YRPの方とかもやってるから、負担を減らしたいというのもある」
YRPというのは、神奈川県の横須賀リサーチパークにあるユキハラYRP技術研究所のことだ。そこにある情報本部出張室の機材なども左近田は担当している。東京の本社からだと、移動だけでも結構時間がかかるので、負担が大きい。
「で、張り切っていた車坂くんが戻ってきたら、悠平くんはより重要な生命を扱う任務を引き受けていたので、ご立腹なのさ」
「あーそっかそっか、自分がやりたかったのね」
「ちゃうわ!」
「しかも、このポトス、本部長が置いていったものだそうです」
「え、ていうと、例のアレ」
祖父江が目を丸くして言った。
「そうです……。例のアレです」
左近田もうなずいた。
「あのー、本部長の、その話、何の話なんです? 誰もおしえてくれないんですけど」
と、全員が無言で悠平を見た。
「悠平くん、世の中には知らないほうがいいってこともあるんだよ」
「そーそー。特に本部長の件はね」
「まあ、しゃーねーよな」
左近田、祖父江、車坂が続けて言った。締めに才野木課長が、
「ということだね」
「やめてください、そういう言い回し、余計気になるじゃないですか」
悠平は文句を言ったが、車坂はそれを完全スルーして、
「てゆーか、祖父江課長、お仕事さぼってていいんスか」
「部下に任せてるからいいの」
「課長って、そういう仕事でしたっけ」
「部下を信頼するというのも、上司の大事な役目だぞ、君たち」
「ほら、アナタの上司もそう言ってるわよ」
「イヤイヤ、おふたりとも、仕事をしたくないだけなんじゃ」
とそこへ、
「課長~、なにさぼってんですかー?」
と後ろから声がして、祖父江は振り返った。
祖父江の部下で、2人いるチームリーダーの一人、榎本栄美が腰に手を当てて立っていた。もう一人の田之倉涼子とともに祖父江を支えている。二人とも派遣社員なので肩書はないが、事実上、主査と同じ地位にある。
「やだなー、栄美ちゃん。さぼってなんかいないぞー」
「いやいや、さぼってるし」
「さぼってると言うほうがより正確かと」
「さぼってるように見えます」
車坂、左近田、悠平が続けて言った。
「だと皆さんおっしゃってますが」
「う……」
この裏切り者、という目で3課の面々を見る。
「さ、仕事しましょう」
「……はーい」
しぶしぶ祖父江は隣へ戻っていった。
祖父江の姿が消えるのを見ながら、車坂が鼻を鳴らす。
「ったく、課長なんだからさー、もちょっと仕事してますって見せとかないと、部下に対して示しつかねーだろ」
「でもまあ、祖父江課長は、いい部下を持っているよね」
と左近田。才野木課長もうなずいて、
「ま、あの年であの役職につくだけの成果は出しているからな。適材適所ではあろう」
「彼女を課長に推薦した人も偉いと思うよ」
「誰なんですか?」
「多分、前の部署の上司だろうね。たしか、広報部だったはず」
「へえ、祖父江課長って前は広報部にいたんですか」
「わが社を代表する美人広報として有名だったんだよ」
「源五郎丸部長、美人に目がないからな、それで抜擢したんじゃねーの?」
第7部部長のことだ。総務省からの天下りの調子のいいおっさんである。
「源五郎丸部長はそうだけど、友則本部長はそこら辺厳格だからね。美人だけで選ばれたわけじゃなかろう」
才野木課長はそう評する。要するに、美人という点では一致しているわけだ。
「祖父江課長は、まーいいとして、俺が不思議なのは」
と車坂は上長を見た。
左近田と悠平も上長を見る。
「なにか言いたげな視線を感じるね」
才野木課長は言った。
3人は声を潜めて、
「ここだけの話、俺は才野木課長が課長になれたことのほうが不思議なんだけど」
「こんな部署とはいえ、管理職は管理職だしね」
「人事って誰に決定権があるんですか」
「そりゃ、エライさんだろ」
「推薦や考課表を元に役員が検討して人事部に命じているんだろうね」
「課長の前の部署ってどこだったんだろーな」
「そこまでは知らないけど」
「左近田さんもご存じないんですか」
「うん。よっぽど気に入られていたのかな。評価をつけた人に」
「君たち、少しは遠慮したまえ」
才野木課長が冷静な口調で言った。
「冗談ッスよ課長、いい課長っス」
「ちょっと度が過ぎましたか、失礼しました。素晴らしい課長だと思います」
「すごく働きやすい上長だと僕は思います」
「……一応、誉められたと受け止めておこう」
才野木は笑いもせずに言ったあと、
「ところで君たち、ちょっと前から気になってるんだが」
と視線を前方、入口の方に向け、顎を動かした。
「アレはなんだね」
3人がそっちを見て、ぎょっとなった。
入り口のガラス戸の向こうに顔が浮かんでいたからだ。
よく見ると、誰か覗き込んでいる。
男だ。
「だ、だれだよ」
車坂がつぶやく。
悠平が立ち上がってドアに近づくと、男は慌てたように、ペコっと頭を下げて去っていった。廊下に出てみると、もういない。悠平は振り返って、
「ここに用事だったんでしょうか」
「さあ」
「ま、ここに用事があるんなら、大したことではあるまい」
「課長、ご自身でおっしゃらないでください」
左近田がたしなめた。
その3日後。
お昼休みの終わり近く。
40階に、エレベーターが、ぽーん、と音を立てて到着した。
ドアが開くと、女性が3人出てきた。
情報本部第7部第2課の、祖父江由美子課長と、部下の派遣の女の子二人だ。
ランチに出ていたらしい。
どこに行っていたかというと、
「ねー、課長、意外でしょ」
「うん。思った以上に美味しかったかも。鯖の照焼定食」
「でしょー。社食も馬鹿にできないんですよ」
どうやら14階にある大食堂に行っていたようだ。
大食堂はこのビルを所有するユキハラグループの一つユキハラ・フード・システム社が運営しており、ユキハラ社員だけでなく、このビルに入っている他の企業の社員も利用できる。14階には大食堂しかない。調理室や食料庫を除いても、かなり広い食堂だ。
「それに結構リーズナブルだったわねー」
「そこです、課長」
二人の派遣さんは、同時にぴっ、と指をさした。祖父江はややのけぞる。
「この辺りは、お店がみな高いんですよ。このビルに入っているのも、この近所も」
「そう。それに比べると、ここの社食、大衆食堂レベルなんです」
「そうみたいね。うん。でも美味しかった。今度から、ちょくちょく来ようかな」
「そもそも、課長、いつもランチは外ですよね」
「そうね。ここらへん、結構食べるところ多いし」
「課長はお給与もいいからなー」
「えー、そんなことないよ~」
「はっきり言います。私たち派遣よりはずっといいです!」
派遣の二人は、同時にビシッ、と言った。
「そ、そお?」
「そーです! だから」
「だから……?」
「たまにはおごってくださいよー」
「そーですよー」
甘えた声を出す。
「うーん、しょーがないなー、今日は美味しい情報もらえたし、お礼におごってあげよっか」
「まじですか! やったっ」
「言ってみるもんだねー」
「ねー」
「じゃー、みんなに声をかけて、ランチ行く人募りましょー」
「おー」
祖父江は慌てて、
「こらこら、そんなには無理だってば。あなた達だけよー」
「あー、それはみんな残念だー、へっへっへ」
「じゃあ、私たちだけで、独占ですね、ふっふっふ」
「でー、何おごってくれるんですかー」
「そうね、なにがいいかな」
祖父江は顎に指を当てると、ちょっと首を傾げた。
「ランチもいいけど、スイーツとかどうかな」
「マジデ!?」
「アリですっ!!」
二人は目をキラキラさせて即答した。
「赤坂のショコラティエ・キタムラとかどお。フルーツのチョココーティングとかおいしいよー」
「イイ!!それイイ!!」
「異議ナシ!」
「それとも、赤坂見附のマムマムマムールにしようかな。あそこのいちごムースケーキも捨てがたいわね」
「わわわ、ど真ん中来ました!」
「わたしも! ハートわしづかみです!」
「和菓子も美味しいぞー。甘味天野赤坂本店の黒蜜大福」
「うおおお、そー来たかー」
「課長、めっちゃ詳しくないですか!?」
「ちょっと距離あるけど、ホテル・ザ・メインのラ・フィー・デ・ローゼも人気よ」
「そんな名店まで! いーんですか? 本気にしちゃいますよ? もう訂正なしですよ?」
「究極です、課長。もうよだれ全開です」
「だめよー。乙女なんだから、お口のバルブは締めなきゃ」
「無理です。もう無理です」
「課長、頭いっぱいで仕事できません」
「こらこら、仕事はしろ」
3人は笑いながら、情報本部第7部の方へと歩き去っていった。
と、廊下の角のところから、そっと顔を出して、その後姿をじっと見る怪しげな人影が……。
「祖父江由美子……」
人影の男は暗い視線を投げつつ、小さくつぶやいた。
「なにやってんだ、おめー」
突然後ろから声をかけられて、男は驚いて振り返った。
車坂が、ジトーっとした目で男を見ている。
「あ、い、いや、なんでも。ははは。失礼」
男はそそくさと反対方向へ歩き去っていった。
「あ、おい」
あっという間に男はいなくなった。
「あいつ、こないだ廊下にいたやつじゃね? なに見てたんだよ」
首を傾げつつ車坂が廊下を曲がると、前方で楽しそうにしゃべりながら、祖父江課長と部下の2人が第7部第2課の部屋へ入っていくところだった。
「……」
車坂は男が去っていった方を振り返ってみた。
「いや、まさかな……」
更に数日後。
「すっかり夏だなー。ヒートアイランド真っ盛りじゃねーか」
ブツブツ言いながら車坂がサーバーセンターのある向かいの溜池国際ビルから戻ってくると……、
「うん?」
情報本部第7部第2課の部屋の前に誰かいる。
男だ。
車坂は足音を立てずに忍び寄った。
男は、壁際から、ガラスドアの方へそっと顔を出して、第2課の部屋の中を覗き込んでいる。先日、廊下で祖父江らの後ろ姿を見ていた男である。
まただ、こないだのやつ……。
車坂は眉をひそめた。
「……」
車坂は息を殺し、そーっと、その後ろから、男が何を見ているのか窺った。
部屋の中では、第2課の派遣さんたちが並んで仕事をしている。その席の向こう、祖父江課長がこっちを向いた席に座り、パソコンで何か作業をしていた。
男は明らかに祖父江の方を見ている。
男はすぐ後ろに車坂がいることにも気づかないほど、熱心に見ていた。
「つーか、毎回毎回何やってんだよ!」
うわっ、と男は叫んで、壁にぶつかった。
「いたた……」
「お前さ、こないだから、覗きこんだり、なんか変だけどさ、うちの部署に用事でもあるわけ?」
「あ、い、いや、そういうわけじゃ」
「じゃあ、なんの用でウロウロしてんだよ」
「いえ、ほんと大したことじゃないので。そ、それじゃこれで」
「おい、待てって!」
男はそそくさという感じでまたも去っていった。
「なんなんだよ、あいつはっ!!」
呆れるのを通り越して、なんだか腹が立ってきた。
それにしてもだ。ここまでの3回、男の不審な様子を見た車坂は、確信に近いものを感じた。
あいつ、あきらかに祖父江課長を見ている。
もうこれは間違いない。
見ている理由は想像がつく。というより他に思いつかない。
祖父江由美子に気があるってわけか……。
まるでストーカーじゃねーかよ。
「こえーこえー、暑くなると変なのが出てくるぜ」
そうつぶやいて、第2課の部屋を見る。
祖父江が仕事をしているのが見える。今の騒ぎには気づいていない様子だ。
「……」
しかし、こうしてあらためて見ると……、
車坂は微妙に表情を変化させた。
まー確かに、祖父江由美子は、美人である。
「うん。ほんと美人だよな。それは認める。うん」
美人なだけでなく、明るいし、仕事もできる。
あんなのが現れるのも、無理もないか。
車坂はため息を付いた。また変なトラブルとかにならなけりゃいいが。
と、
「祖父江課長がそんなに気になるのかい」
「うわあ」
突然、後ろから言われ、車坂は驚いた。よろけて壁にぶつかる。
「いたた……」
左近田が立っている。
悠平もいた。
「熱心に見てたね」
「え……?」
「それも溜息つくほどに」
「でも、なにもわざわざここから覗き込まなくても……」
悠平は苦笑していた。
「は? いや、なにを」
「とは言っても、物陰からそっと見続けたい。その気持ちはわかるよ」
左近田はうんうんとうなずいた。
「いやいや、え?」
悠平も、
「確かに美人ですよねー、祖父江課長って。最初見た時びっくりしました」
「だが、仕事中は少し遠慮したほうがいいんじゃないかな」
車坂は慌てた。
「違う違う。俺じゃないんだって」
「隠さなくてもいいさ。誰しもそういうことはあるって。青春だ」
ぽん、と肩を叩く。
「違うって、そーじゃなくて」
「大丈夫だよ、うん。誰にも言わないから」
「祖父江課長にも黙っておきますね」
「待て待て、誤解だって。ほんと俺じゃなくて」
「はいはい。とりあえず部署に戻ろうか」
「聞けよ!」
そこでドアが開いた。
祖父江由美子が顔を出し、
「ちょっとあんたたち、何やってんのよ廊下で。うるさいじゃないの」
うわ、となぜかのけぞる車坂の横で、
「いや、車坂くんがね」
左近田が嬉しそうに説明しようとしたので、車坂は慌てた。
「あーもー、ちゃうって言ってんでしょーが。ほら、行きますよ」
そう言って、車坂はふたりを第3課の方へと押しやった。
「……?」
祖父江は首を傾げた。
「ストーカーだって?」
左近田は首を傾げて、
「なんでわざわざそんなことをするんだい」
「は?」
「そーですよ、好きなら告白しちゃえばいいじゃないですか」
「当たって砕けちまおう」
「砕けるの前提じゃないっスか。ていうか、俺じゃないって言ってるでしょ。大体自分で言いますか。俺ストーカーしてますーって」
「じゃ、誰のことなんです?」
「ほら、こないだ廊下から覗き込んでいた男がいたじゃん」
「廊下? ああ、いたねそういえば」
「アイツです」
「あれがストーカー? でも、覗いていたのはこの部屋だよ」
「そのとき、祖父江課長いたでしょうが」
「ああ、まあいたけど」
「それだけじゃないっスよ。他にも2回、1回は何日前だったかな、昼飯から帰って来たら、廊下を歩いている祖父江課長を、あいつ、後ろからそっと見てたんスよ」
「へえ」
「もう1回は、さっきです。俺が戻ってきたら、あいつ、2課の前で部屋を覗き込んでいて、それで声をかけたら、逃げたんス。そのあと、お二人が俺に声をかけたんスよ」
「ふーん」
と左近田と悠平は同時に言って、
「まー、そういうことにしておいてもいいけどね」
「ですね」
「信じろよ!」
と、突っ込みつつも、
「でも、やばくないスか」
「なにが?」
「あんな物陰からこっそり窺って、フツーじゃないっしょ。もし何かあったりしたら」
「フツーじゃないって、自分で認めちゃったね」
「それもまたフツーじゃないですね」
「だから、俺じゃねーって!」
左近田はとうとう笑い出して、
「わかったよ。で、その男、祖父江課長のことが気になる様子なわけだ」
「惚れちゃったってことですかね」
「な、そう思うだろ?」
「聞いた感じじゃ、まだ悪質なストーカーって段階じゃなさそうだけどね」
「そうですか?」
「いやいや、悪質じゃねーストーカーっているんスか」
「確かに。ただ、少なくとも、祖父江課長には気持ちを伝えてなさそうなんだろう?」
「みたいスね。祖父江課長の様子を見る限りでは。多分見られてるのも全く気づいていなさそーだ」
「でも、会社内でそこまでするってことは、結構のめり込んでません?」
「だな」
左近田は腕を組んで、頷きながら、
「惚れた腫れたは人間の基本的感情だけど、どうしても自己中心的になりやすくなるからね。周りが見えなくなる。さらに相手が断ってきたあと、諦めるか、あるいは正攻法で口説こうとするならまだしも、つきまとったり、相手の気持を考えずに行動するようになったらダメだよね」
「そうなる一歩手前というわけか、やっぱやべーっすよ」
「いやまだそうなると決まったわけじゃ」
「なるね、なるなる、ぜってーなる」
「わかんないよ。案外告白したら、祖父江課長、OKするかも」
左近田がなぜか嬉しそうに言うと、
「ハァ? いやいやっ、それはないっしょ、ウン、無いっすね」
「あれ? やっぱり、車坂くんは、祖父江課長がお気に入りなのかな」
「みたいですね」
「なんでそーなるんだよ!」
「今の態度を見ているとね」
「ですね」
「あのなー」
悠平は少し首を傾げ、
「ふと思ったんですけど、その人、別の理由で様子を窺っているってことはないですか」
「たとえば?」
「何か仕事を頼もうとしてるんだけど、どうやって頼んでいいかわからなくて、とか」
「いや、それだったら、上司とかに頼んで連絡してもらったり出来るじゃん」
「ああ、そっか」
「そもそも彼はどこの部署なんだろうな。僕は1回ドア越しに見ただけなんで、よくわからなかったけど、記憶に無いな」
「俺もないっすよ。情報本部じゃないのかも」
「祖父江課長は顔が広いからね」
「そうなんですか?」
「お隣は、情報本部の各部署のデータをまとめてるだろう。自然と、各部署が連携する他の部ともつながりが出てくるから、祖父江課長はあちこちの部に顔を出してるんだよ。前は広報部だったし、社内じゃ有名人だからね」
「じゃあ、どこかで彼女を見初めた男が……」
「げー、まじうぜーなー、どこの誰か確認するの大変じゃんよ」
うん? という顔を左近田はした。
「調べるの? なんで?」
「え? だって……」
「祖父江課長が困ってるのならまだしも、その男は、単に祖父江課長に見とれているだけじゃない。別に誰か調べる必要なんてないじゃない」
「いや、しかし……」
「左近田さん、車坂さんのお気持ちもわかってあげましょうよ」
「ああ、そっか、悠平くんのいうとおりだね。これは僕としたことが、失敬失敬」
「おまえら、わざとやってるだろ」
そして数日後。
かねてスケジュールされていたPC交換の作業のため、車坂と悠平は情報第2部にやって来た。
作業自体は大したことなく、設置と設定も無事終わり、やれやれと一段落して顔を上げた車坂は、ふと一点を見つめて、表情を変えた。
悠平の袖を引っ張る。
「どうかしましたか?」
車坂は小声で、
「あいつ見ろよ、ほら、あそこの課長席の男」
「どの人です」
「右から3番めの、青いネクタイの。あいつだよ、祖父江課長をストーキングしてる奴」
「えっ、あのひとですか? ……うーん、確かに似てるような気もしますけど……」
1回しか見てないからなー、と悠平は首を傾げた。
「俺は間近で見てるからな。間違いない、あいつだ」
「ていうか、課長さんじゃないですか」
「なあ、俺もそんなそこそこ偉いやつだとは思わなかったが」
「そこそこって……」
しかも、比較的若そうだ。30代に見える。
「だけど、あんな課長いたかな。記憶に無いな」
「最近なったんじゃないですかね」
「うーん……」
二人は第3課に戻ると、PCから社内の統合基幹業務システム「ユメマフ」の人事通達を見てみた。話を聞いた左近田も一緒になって覗きこむ。
「あ、ありましたよ。今年の4月の人事で課長になってます。この人ですね」
人事通達にはこう書かれていた。
辞令
情報本部第2部第3課主査 二子義正
情報本部第2部第3課課長に任ずる
発令日 4月1日
「同じ課の中で昇進したんですね」
「たぶん前の課長が異動になったかで、第2部の茂倉部長が抜擢したんだろう。同じ部署なら慣れている人のほうがいいだろうし」
「けどよ、課長になる前からしらねーぞ、こいつ」
「僕もあまり記憶に無いな。考えてみると2部のあの辺りのチームには関わったこと無いね」
「へー、優秀なんですね」
「いや、優秀っていうか、たまたまパソコントラブルとかがないだけだろ」
「でも課長さんだったとはね。こういうのも変だけど、コソコソ覗き見なんて、課長さんらしくないね。役職関係ないけどさ」
「まじっスよ。ほんと、こうやって物陰からジーっと見てるんですよ、気味悪いというか、何だこいつ、ってマジ思いましたもん」
車坂は形態模写しつつ説明した。
「ほんとだね。もっとも、僕はまだ、君の作り話説を疑ってるんだけどね」
「あのね」
「仮に作り話じゃないにしても、君の恋路は、君の問題だからね。ライバル登場でも手助けはしないよ」
左近田は、キリッとした表情で言った。
「えー、左近田さん、そこは応援してあげましょうよ」
「悠平くんは優しいなー」
「あんたら、どーしても、話をそっちに持って行きたいわけだ」
「だって、そのほうが面白いから」
「あのな」
そこへ電話がかかってきた。左近田が電話を取る。
「はい、情報第7部第3課です」
横で車坂が不満気にブツブツ言っている。
はいはい、なるほど、などと答えたあと、では、そちらへ伺います、と左近田は電話を切った。
「ご指名だよ。第4部から。パソコン動かなくなったって。しかも2台同時に」
「じゃあ、みんなで行かないとですね」
「なんだよ、こっちはそれどころじゃないのにさ」
「恋路はとりあえず後回し、仕事しようか」
「あーもー、まじでっ、どっちも!」
「行こう。それにしてもここんとこパソコン故障が多いね」
「ユメマフめ、わざとPC故障させて俺らの邪魔をしてるな」
統合基幹業務システムを動かしているスーパーコンピューターのユメマフには、実は自律コンピュータだという噂がある。すでにこっそり知性化しちゃってるというのだ。
「心配ないよ、うちはそこまで重要視されてないから」
「左近田さん」
「なに?」
「AIにまで馬鹿にされる部署って、すごく切ないっスよ」
「そう? 逆にテクノ失業しなくて済むんじゃない?」
「テクノ失業ってなんですか?」
悠平が聞くと、車坂が振り向いた。
「コンピュータが知性化したら、人間様は仕事を奪われて失業するっていうやつだよ」
「……つまり、そうならないということは」
「コンピュータに、その程度の仕事は君らでやってね、って言われることだろ」
「えー……」
「切ないだろ」
「切ないです」
3人は第4部の部屋へ向かった。
件のパソコンは、2台ともモニターが真っ暗で、スイッチを入れても、起動する様子がない。ただ一方は、微妙にウーンという音がする。
両方共カバーを開けてみると、1台からは微妙な臭いがしてきた。
「これは珍しいかも。電源ユニットが壊れてる。焼き切れてるかな」
「じゃあ、もうアウトだな。そっちはどうッスか」
僅かに音がする方だ。
「こっちはハードディスクじゃないかな。モーターは動こうとしてるがヘッドがダメになってるような感じがするな」
それぞれのユーザーである第4部の社員が、「なおりそうですか」と異口同音に聞いてきた。
「どっちも交換だと思うけど……、電源の方は、データは無事じゃないかな。急に電源が落ちても、今のディスクはスムースに停止するし。まあ、破損の原因にもよるけど。でも、こっちは」
とハードディスクの壊れてるっぽい方を指して、
「わかんないな。ハード的に壊れてるとしたら、データサルベージできるかどうか」
「なんとかなりませんか。大事なデータが入ってるんです」
「サーバーにバックアップコピーしておかなかったわけ?」
「後でしようと思ってたんだけど……」
困ったようにつぶやく。
「第7部第3課に空きパソコンが一台あるので、ハードディスクを接続して探ってみましょう」
「ぜひお願いします」
そう丁寧に言われると無碍にも出来ない。
「変換ケーブルとかもあるんで、やるだけやってみます。ただ、無事だったとしても、セキュリティ上、システムロックがかかってると思うので、その解除手続きにちょっと時間がかかると思います」
「だめだったら、おしまいですか?」
「もしダメでも、専門業者に頼む手段があります。これも外部にデータを晒すことになるので、別途あなたの方から手続きが必要になります。その時はお願いします」
4課の社員はうなずいた。
「では、どちらも新しいパソコンを用意しますので、セッティングの準備を進めておきましょう」
交換の準備や手続きをして、3人が1時間ほどして第7部第3課に帰ってくると、先頭を歩いていた左近田がドアのところで足を止めた。
「どしたんスか」
「先客がいる」
「へ?」
左近田が黙って指をさすと、ガラスドアを覗き込んだ車坂は顔をしかめた。
「まじかよ。ここまでするか?」
狭い第3課の部屋の奥。
第3課と第2課を仕切っている可動壁の端の隙間から、そっと隣の第2課を覗こうとして、何やら躊躇している男がいる。
「なるほどね、つくり話じゃなかったんだ」
左近田が感心したように言いながらドアを開けた。
男は驚いて振り返った。
車坂が詰め寄る。
「またあんたかよ。あんたのせいで、俺が良からぬ噂を立てられかけてるんだぞ」
「す、すみません。黙って入ってきてしまって」
「そこじゃねーだろ、謝るところは」
「は? はあ……」
左近田が後ろから、
「二子課長さんですね、第2部第3課の」
「私のことをご存知で」
「ご存知ではなかったですけど調べました」
「え、それはまたどうして」
「あんたの行動がめっちゃ怪しいからだろ」
車坂が睨んだ。
「あ、いや、それは」
車坂はやや声を落として、
「隣の祖父江課長のことを付け回して。どういうつもりだよ」
お、いよいよ恋のライバル直接対決だね、と左近田が小声で悠平に言ったので、悠平は苦笑した。
「あ、いえ、付け回してたわけでは」
「付け回してただろうが。ストーカーしてるって警察呼んでもいいんだぜ」
「ストーカー……?」
一瞬、きょとんとした二子は、急に顔を赤くして、
「ち、違います、誤解です」
「何が誤解なんだよ」
「そういうことじゃないんです。私が、その、祖父江課長を見てたのは」
「そういうことってなんだよ」
「だから、その、お、想いを寄せてるとか、そういうことじゃなくて」
「はァ?」
二子が何やら言い訳をしている。言い訳をするのも変だ。車坂は眉をひそめ、
「じゃあ、なんでこっそり後をつけたり、覗きこんだりしてたんだよ」
「い、いや、それは……」
「言えよ、言わねーと、マジで警察呼ぶぞ」
「それは、その……」
二子は困った顔をしたが、
「わかりました……。お話します」
「じゃあさ、立ってて話もなんだし、席に座ろうか」
左近田が言うと、車坂がフン、と鼻を鳴らし、不機嫌なまま席に座った。左近田と悠平も席に腰掛け、二子は遠慮がちに空き席に座る。
「あの、こちらの課長さんは?」
「出張だよ。なんの出張かしらないけど」
と左近田は笑った。車坂は笑わず、
「で、どういうことだよ」
「はい……実は、祖父江課長のお仕事の様子を拝見したいと思いまして」
「仕事の様子?」
「はい、そうです」
「はッ、よく言うわ」
車坂がわざとらしく言う。左近田は、
「仕事の様子って、彼女の仕事っぷりを参考にしたい、ということ?」
「といいますか、リーダーとしてのあり方を……」
「リーダー?」
3人は顔を見合わせた。
そして同時に二子を見る。
「どういうこと?」
「はい……実は……」
二子は話し始めた。
二子は今年の3月までは、情報本部第2部第3課の主査だった。
この会社では、主査は管理職ではなく、現場リーダーのようなものだ。
第2部第3課6人のまとめ役のようなものである。
彼を主査に任命したのは、それまで課長をしていた小里甲介という人物だったが、それから2年ほどして、今年の春、小里課長は知的財産部へと異動になった。知的財産部が本部制を導入して管理業務を増やすことになり、人材を増員することになったのだ。情報本部第2部は知的財産に関する調査を担当しているので、元々密接に関係のある部署へと移ったわけである。その際、小里は後任の課長に二子を推薦しておいた。今後とも仕事で関わってくるだけに、気心の知れた部下を推したわけである。課長の人事は部長クラスの一存では決められないが、第2部の茂倉部長が小里の推薦案を良しとしたことで、上層部もそれを是とし、人事は決定した。
二子は課長になった。
正直、こんなに早く話が来るとは思っていなかったので、やや動揺した。
しかし、将来はそういうことも考えなければならない。会社のため、自分のため、いい機会がもらえた、そう思うようにした。
課長になると管理職である。
管理職になってはじめて、色々知ることも多い。
何より大きいのは、立場が変わることだろう。
主査は仕事をする上でのまとめ役、調整役的な職務だったが、課長は命令する立場にある。時には部下を叱ったり、部下の嫌がるようなことも命じなければならない。上からの立場だ。当然、業績や会社の経営などにも関心を持つようになる。
わかっているつもりだったが、実際になってみると、これが思った以上に重い事に気づいた。
もし彼が、全く違う部署からやって来たのであれば、さほど重荷に感じなかったかもしれない。初めての部下なら、割りきって対応できるし、課長という肩書が逆に有効に働くだろう。部下に新しい仕事を教えてもらうこともできる。
だが、二子は同じ部署から出ている。部下も皆、それまで一緒に仕事をしてきた同僚、仲間だった。
すでに主査だったから、横並びの中から一人抜擢されたわけじゃないとはいえ、それまでの仲間に対し、命令を出す、というのは、意外にやりづらいものだった。
さらに嫌なこと、あるいは面倒なことを頼む時も、そうであることがわかるだけに、彼としては命令しづらいものだ。
「悪いね、こんなこと頼んで、一応仕事だから」
そんな言葉を添えて部下に命令した。部下も最初のうちは、「いいっすよ課長、やりますから」などと言って了解していた。だがいつまでもそういう訳にはいかない。
二子にとって一番やりづらいのは、部下がミスした時だ。
この部署では、やらかしてしまうと痛いミスというのはなかなか起きないが、それだけに、調査のし忘れ、連絡ミス、手続きミスなどはしょっちゅう起こる。ミスに対する危機感があまりないからだろう。
それを叱る時が辛かった。
主査の時はまだ、同僚のミスは「気をつけような、課長もうるさいしさ」などと言って済ませられたし、対策を自分でも考えることが出来た。だが、課長になるとそうは言ってられない。茂倉部長から、部下のミスを指摘され、対策を求められるのだ。
だからつい、
「君はさ、前からそうだけど、こういうミスを何度もするよね。もう少し心構えを見なおしたほうが良くないか」
部下を自分のデスクの前に立たせてそう叱ったり、
「これじゃ対策にならないでしょう。以後十分注意します、なんて、当たり前のことじゃないか。そうじゃなく、もっと具体的に出来る対策がないか、考えなおして」
そう言って始末書を書きなおさせたり、
部下は不満気な表情を見せつつ黙って聞いているが、
言う方も心が痛む。
部下のことを思ってのことだと自分に言い聞かせつつも、自分も上司から言われているのである。だから、主査の時代にはさほど気にもならなかったミスが、立場が変わると腹が立ってくる。
そうこうするうちに、部下の自分に対する態度が微妙に変わっていることに気づいた。
それまでは主査と平社員とは言っても、同じチームの仲間という意識がお互いにあった。
彼は課長になっても、それまでと同じような感覚でいようと思っていた。部下は皆、同じチームの仲間だと。
ところがある日、彼はトイレに入ろうとして、中から聞こえてきた声に思わず足を止めた。
「ていうかさ、二子課長だよ、まじで」
「ああ、昨日のアレ?」
「そうよ、始末書出したら、何度も書きなおしさせられてさ」
「大変だったな」
「大変だよ。こんなのただの反省文だ、とか、誰でも言えるようなことを書いている、とかさ、だけどどうしろって話だよな」
「確かに、具体的な対策と言われてもね。ミスって、大体はさ、技術的なトラブルじゃなくて、注意不足とかで起きるもんだからね」
「そう! そうだろ? そりゃ、ミスしたのは俺が悪いけどさ。具体的な対策を考えろって言われてもさ、注意散漫にならないよう気をつけるくらいしかねーじゃんか」
「そうだよね。でも、それ書いても駄目だなんだよね」
「訳が分かんねーよな。じゃあなにか? 早寝早起きします、とか書けばいいのかよ」
笑い声が聞こえた。
「いいんじゃない? それ書いてみたら」
「冗談じゃないぞ。まじでキレられるだろう」
「模範解答例教えてほしいよね」
「そうそう。ていうか、課長も知らないんじゃないか」
「だろうね。にしても、課長も変わっちゃったよね」
「なー。前はああじゃなかったもんな。もっと仲間って感じだったけどな」
「偉くはなりたくないよねー」
声が近づいてきたので、二子は慌てて、近くの給湯室に隠れた。
部下は給湯室の前を横切って廊下を歩き去った。
「……」
二子は自分でも血の気が引いているのがわかった。
そんな風に見られていたとは。
この件以降、彼は部下に命じるのも、叱るのも、前以上にぎこちなくなった。
さらに、つい先日、軽い飲み会があったので出席した際に、彼は部下の中で唯一の女性社員、神原三紗子と話をしていて、つい熱くなってしまった。
「これからは、知的財産がさらに重要になってくる。今まで日本はこの種の分野の権利意識が弱かった。だから違法ダウンロードとか、パクリとかが横行しても誰もそれくらい大したことないって感じで問題にしなかった。でもこれからは、そういう権利が重要になってくるんだ。ビジネスとしても大きい分野だ。海外への進出にも関わってくる。うちでは、知財の管理業務や申請手続きは知的財産部がやっているけど、調査とか情報収集は我々の仕事だ。僕は、君たちがいずれはこの分野のエキスパートになって、会社を引っ張っていけるようになることを願ってるんだ」
そしたら、神原はひとことこう言った。
「なんか課長、偉くなっちゃいましたね」
意見にもなってないし、話にも乗ってくれなかった。
しかも、その言い方は、情感のこもっていない、ひどく覚めた口調だったために、二子も一気に冷めてしまった。別に彼女の気を引こうと言うつもりで熱弁したわけでもないが、やはり女子の前で格好をつけたところはある。それを突かれたような気がした。
その場に微妙な空気が流れた。
彼女がどういうつもりで言ったのか、彼は戸惑った。
彼女は普段から、さほどみんなと一緒にワイワイ騒ぐような性格ではないが、それにしても、この言い方はないんじゃないか。それとも、自分が課長になったことを彼女も不快に思っているのだろうか。前はこんな言い方する人じゃなかったはずだが。
こういう時、なんと言えばいいのだ。
二子が黙っていると、ちょっと失礼します、と言って、神原は席を立ち、化粧室へと行ってしまった。
彼は一人ぽつんと残された気持ちになった。
他にも、小さいが気になる出来事が何度かあった。
まだ課長になって3ヶ月弱である。
だが、すっかりリーダーとしての自信がなくなっていた。
どうしたら、部下とうまくやっていけるのだろうか。
態度をもっと親しげにすればいいのか、それとも逆に威厳を見せたほうが付いて来るようになるのだろうか。前はどうしていただろう。
こまめに部下に声をかけてみたりもしたが、逆に部下からは不審げな目で見られ、「何か御用ですか」と言われたりする。
面倒な残務処理とかも、部下に命令せず、自分で取り組んでみて模範を示そうとしたが、今度は「じゃ、よろしくお願いします」といって部下が先に帰ったりする。
ギクシャクした関係が、ますますひどくなってきた。
上司に相談しようかとも思ったが、
「君には期待しているからな。どんどん頑張り給え」
と先に言われてしまい、何も言えなくなってしまった。
もはやノイローゼになりかかっていた時、彼はふと休憩室のラックに置いてあった社内誌に目が止まった。3月末頃に配布された新年度特集号。その表紙に書かれていた文字が目に入ったのだ。
『我が社の未来を担う! 期待の女性社員特集』
手にとってページをめくってみる。
タイトル通り、活躍している女性社員たちの特集である。
社長室筆頭秘書の興梠理美が最初に載っていた。まだ30代前半だが、切れ者と評判で、創業者で社長の柚木原才一郎ですら頭が上がらないという噂もある。
サポートセンターの赤瀬川聡子主査が2番めに紹介されていた。地位は主査だが、あらゆる業務のサポート・アドバイスを担当しているので、多くの社員が彼女と内線で話した経験があるはずだ。サポート業種を転々としてきた人で、その種の資格も持っている。まさに縁の下を支えるベテランである。
警備部の女性警備員、小松伊奈も載っていた。二子は彼女のことを初めて知ったが、フルコンタクト空手の有段者とはおもえない可愛い顔をしている。
二子の知っている人もいた。
知的財産本部の初代本部長、大堂津マイコ。仕事でよく顔を合わせる。40歳で本部長なので、おそらく女性社員では社内で最も出世している女性の一人だろう。役員の有力候補だ。若いころファッションモデルをしていたとかで、背が高く、ハンサムと言ってもいいキリッとした顔立ちの美人であるが、仕事もなかなか厳格な人だ。
そして彼が、最も目を惹きつけられたのが、情報本部から選ばれた、祖父江由美子であった。
ちょっとポーズをつけた写真が掲載されていた。が、何故か嫌味な感じはしない。他にも部下と談笑しているところなどが載っている。彼女のことは、ちらっと見かける程度の認識でしかなかった。しかし年齢を見て驚いた。28歳である。入社後広報部で働いていたが、そこでの成果が認められて、去年、情報本部に異動して課長になったという。
二子にとって、身近にいるよき参考例ともいうべき存在に思えた。
他の偉い人達はもちろん、まわりにいる課長らも、みな歳上であり、指標には出来ても、参考にはできなかった。だが、祖父江は自分より年下である。その仕事っぷりを見れば、自分に欠けているもの、自分がすべきことがわかるかもしれない。
藁にもすがる思い、というのはこういうことだろうか。
彼女がどうやって部下を統率しているのか、どうやって信頼を得ているのか、その辺りを確かめてみたくなった。
それで二子は、ストーカー……ならぬ様子を窺っていたのである。
要するに、ストーカーではなく、リーダーシップの取り方がわからなくなった二子が、祖父江の様子を観察していたというわけだ。
「それでウロウロしてたのかよ」
「はい、そうなんです……」
3人ともなんとも微妙な視線を無言で交わした。
いや、確かに祖父江課長は出世早いけどさ……
部下にも人気ありますしね……
仕事もできるからね……
でもなー……
参考になるかというとね……
ですよね……
そういう心の声が、まるでテレパシーのようにお互い手に取るようにわかった。
「祖父江課長は、どうやって部下の方の心をつかんでいるのでしょう」
「どうやって……って言われも」
「あまり分け隔てない接し方をしてませんか? 上司風をふかさないというか、威張ってないというか」
「そうだね。ふだんは、部下の子たちと、ランチの話とか、婚活の話とかばかりしてるよね」
「そーそー、有名だもんなー、祖父江課長の寿退社願望」
「寿退社?」
二子は聞きとがめた。
「そう。祖父江課長って、理想が寿退社なんだよね。いい男いないかってしょっちゅう言ってるから、結構知れ渡って笑いのネタにされてる」
「会う男会う男、必ず品定めするもんな」
「僕もたぶんされました。合格したかわかんないですけど」
「俺もされたね。結構イケたんじゃねーかな」
「へー」
「おい、そのへーは、どういう意味だよ、俺は不合格だっていいたいのか、あ? 悠平さんよ」
「さー、どーでしょー」
「さーじゃねーよ」
二子は唖然とした。
彼にとってキャリアウーマンとは、恋よりも仕事、私生活よりも会社優先、というイメージがあったのだ。
そんな、自分の結婚願望を優先しているような女が、なぜ28歳で課長になれるのだ。
「あと、嫌なことは結構逃げるよね」
「逃げる?」
「面倒な仕事を部下に押し付けたり、源五郎丸部長の話をさぼって聞かなかったり」
「そんで、ここに逃げて来て俺らとバカ話とかする」
「最後に、部下の榎本さんとか田之倉さんがやって来て、連れ戻されちゃうんですよね」
「考えてみたら、すげーよな、祖父江課長って」
二子は困惑した。
聞けば聞くほど、身勝手な人に思えてくる。
「それで、部下の人たちは腹を立てないんですか」
「立ててるような様子はないね」
「どうしてでしょう。なにか部下をうまくコントロールする方法でもあるんでしょうか」
コントロールって物じゃないんだから、と3人は思ったが、
「まー、秋野原のときは失敗したけどな」
「え? なにかあったんですか?」
二子が身を乗り出した。
左近田が説明する。
祖父江課長が、部下の秋野原くんに期待をかけすぎた結果、ストレスの限界を超えた彼がサボって倉庫に閉じ込められた事件である。
「そんなことが」
やはり、ダメな上司では部下もダメになるということ、一見キャリアウーマンに見えても実態はそういうもの、と二子がなぜか少し安心しかけた時、
「でも、秋野原さん、あれからはまじめに仕事してますよね」
「なあ。むしろ俺は、あいつ辞めるかと思ってたけどな」
「あのあと、祖父江課長、秋野原くんの代わりにあちこち謝りに行ったらしいよ」
「まじっスか。あー、そういうところはちゃんと責任とってるのか」
「謝りに……」
そうなんですか……と二子は暗い表情で考えこむ。
自分にそこまで出来るだろうか。自分はミスした部下に腹を立ててないか。ダメな部下を持っていい迷惑だ、とか思ってないか。
「上司ってのは、部下を信頼する、部下の責任を背負う、この2つが大事だという話を聞いたことがあるね」
と左近田が言った。
「信頼する、責任を負う……ですか」
「って、誰がそんなこと言ったんスか?」
「うちの課長」
「いやいやいやいや」
うちの課長がそれ言う、と車坂は笑った。
「でも言ってることは正しいと思うよ。判断能力とか、厳しい態度とか、そういうのも大事だろうけど、やはり部下を信頼して仕事を任せ、部下の仕事に対しての責任は自分で取る。だからみんな付いて来るんじゃないかな」
信頼し、責任を取る。
二子はそれを繰り返しつぶやいた。
それを見ていた左近田は、さらに、
「上に立つ人とはなにか、という点では、項羽と劉邦の話がわかりやすいかもね。ご存じですか?」
「い、いや、どんな話でしょう」
「項羽と劉邦ってのは、古代中国、秦の時代の人。始皇帝の死後反乱を起こしたんだけど、項羽は若くて、戦では百戦百勝、向かうところ敵なしの猛将だった。性格も潔癖で生真面目な人物。一時は天下の殆どを握るところまで行った。一方の劉邦はすでに中年も終わりかけ。元は田舎の任侠の親分みたいなもんで、戦にはめっぽう弱く、やばくなると部下も、自分の子供まで置いて逃げてしまう。しかも女に目がなく欲深。態度も口も悪く、儒者の冠に小便をしたという話もある」
「めっちゃダメおやじじゃん」
と車坂が笑う。
「だが、最後に天下を取ったのは劉邦の方。前後400年も続いた漢帝国の初代皇帝となった人だよ」
「一方の項羽は滅んだんだよな」
「項羽と虞美人の別れのシーンは有名ですよね。高校の漢文でも習いましたし」
と悠平も言った。
二子は習った記憶がなかった。左近田が指を立てる。
「さて、ここで問題です。なぜ、真面目で強い項羽が滅んで、いい加減で弱い劉邦が天下を握ったのでしょう」
「わ、わかりません。なぜですか?」
「それはですね、劉邦には唯一、他の人がなかなか真似できない長所があったからです」
「それは?」
「部下の言うことを絶対的に信頼したという点」
「……」
「劉邦は、相手が誰であれ、軍師でも、部屋の掃除係でも、気に入らない相手でも、その人が自分に何かを進言しようとした時、きちんと話を聞いた。そしてそのとおりに実行しようとしたんです」
左近田は続ける。
「もちろん、言うことを聞いたからといって全てうまく行ったわけじゃない。くだらない進言もあるから失敗もする。他の部下が尻拭いに奔走したこともある。でも、劉邦からは離れなかった。まあ、誰だって、上の人が自分の話を聞いてくれたら嬉しいでしょう。それは言い換えれば自分のことを見てくれている、信頼してくれている、理解してくれている、ということだから」
「逆に項羽は部下を信頼しなかったっていいますよね」
悠平が言うと、左近田はうなずき、
「そう。項羽は自分が有能なこと、若かったこと、あるいは名門の出だったからかもしれないが、部下を信頼しきれなかった。劉邦側の工作に引っかかったというのもあるけど、部下を疑った。だから有能な人が離れていく。韓信や陳平のように劉邦側に付いた人もいる。最期は意外なほどあっけない終わり方だよね。自分一人頑張っても、出来る限界ってあるから、一気に転がり落ちてしまったんだろう。ただ劉邦が天下を取ったのはそれだけじゃなく、家臣の能力の高さとか、金を惜しまず気前が良かったとか、劉邦の封地が漢中という地理的な条件もあったと思うけど」
「そういう話は知りませんでした」
「結構有名だよ。悠平くんも言ったけど、史記という歴史書に載っているんで、漢文の授業で使われることも多いし、小説やマンガにもなっている」
「でもよ、見習うには、劉邦はさすがに無理があるんじゃねー?」
車坂が言うと、左近田は苦笑を浮かべた。
「うーん、そうかもね」
「参考にはなるかと思いますけど」
「そうかあ?」
「劉邦って人は、多分、自分の限界というのを知ってたんだと思う。自分には才能がない。だから才能のある人の言葉に従った方がうまくいく。うまくいけば、自分も美味しい思いができる。でも、自分より他人を偉いと思うのは、結構難しいことかもしれない」
「……」
3人は、黙ってしまった二子を見た。
二子はなにか考えている様子だった。
左近田が再び口を開いた。
「ま、劉邦はともかくとして、祖父江課長でも、似たようなところはあるよ。失敗もするけど、彼女は部下を信頼している。派遣社員の2人のチームリーダーに仕事を任せている。だからちょっとさぼっても、しょうがないなーで連れ戻される程度で済む。部下が失敗した時は自分で責任を取って頭を下げに回ったりする。だからみんな付いて来るんだと思う」
左近田はちょっと真面目な顔をして、
「それに、これは僕が思っていることだけど、祖父江課長って、なんかね、そう、人生を楽しんでるって感じがするんだよね」
「楽しんでる、ですか?」
二子はやや驚いた顔をした。
「そう。楽しいことも、嫌なことも、みんな楽しみながら日々過ごしてる感じ。例えるなら自分の人生をRPGのプレイヤーみたいな感覚で、次何が起こるんだろう、ってゲームしてる感じに見えるね」
「あーそれ、あるかもな」
「確かに、そんな所ありますね」
車坂と悠平もうなずいた。
「悲しんでるところは見たこと無いけど、怒ったりとかは時々あるよね。でも、暗さがない。とにかく人生楽しんでますって感じの人。だから周りも楽しくなるんじゃない」
「見方によっちゃ、究極不真面目かもしれないけどな。目標は寿退社だぜ。会社のためにーとか無いわけだし、キャリアアップを目指して自分から進んで何かをするってわけでもないじゃん」
「そこは彼女の器なんじゃない? たとえ受動的だったとしてもさ、器が大きければ、それだけで周りを飲み込んで動かせるわけだし」
「ま、寿退社のスタンスがブレてないってのは明らかだけどな」
そう言って車坂は笑った。
「でも、祖父江課長も、あんまり参考になんないんじゃね?」
「……いえ、そんなことはありません」
3人の話を聞いていた二子は顔を上げると、少し明るくなった感じがした。
「機会があったら、祖父江課長にも話を聞いてみたらいいと思うよ」
「いやいや、婚活課長の話は参考になんないっしょ」
「まーまー、車坂君の気持ちはわかるが」
「またそーゆーことを」
ここで、二子はすっくと立ち上がった。
3人が彼を見ると、二子は丁寧に頭を下げ、「いろいろ参考になりました。お話を聞かせていただき、本当にありがとうございました」と生真面目にお礼を言い、「自分でももっといろいろ考えてみたいと思います。では」と言って、そのまま部屋を出て行った。
少し沈黙が漂う。
「てか、人生相談コーナーかよここは」
「結構なことじゃないか。ポトスも二子課長も、第7部第3課によって救われたとなれば、我々の評価もうなぎのぼりだね」
「いやそれはないっしょ」
「もちろん、冗談だよ」
「あのね」
「祖父江課長には話します? このこと」
「別に言わなくてもいいだろ、カンケーねーし」
「君はなんとしても、祖父江課長に変な虫がつかないよう防御線を張っているわけなんだね」
「は?」
悠平がくすっと笑って、
「祖父江課長が二子課長の相談に乗って、そのうちロマンスに発展して」
「めでたく寿退社」
「だから、俺は別に祖父江課長のことはなんとも思っちゃいねーって。それに大体そんな話に発展するわけねーじゃん、あのふたりが」
「ほー、ほー、さすが車坂くん、男女の心情に詳しいね。ラブコメヲタクなだけあるなー」
「えっ、そーなんですか?!」
「ちゃうわ。やめんかマジで!」
それから1ヶ月ほどして。
その日も、第7部第3課は暇であった。
才野木課長は、何やら用事とかで出て行ったきり戻ってこず、左近田は何やら勉強している。車坂は何やら暇そうにネットを見ていたが、ふと窓際を見た。
「ポトス、だいぶ元気になったんじゃね?」
「なりましたよー。苦労しましたよー」
悠平は顔を上げて、よくぞ聞いてくれました的にうなずいた。
「なんか色々やってたみたいだけど」
と左近田も聞く。
「やりました。本部長のですからね。気合入れました」
「本部長も喜ぶな」
「そうだ、そろそろ本部長の秘密、教えて下さいよ」
「あー……、それはまあ、いずれ」
「えー、気になってストレスたまりますよ」
車坂がポトスの鉢を覗きこむ。
窓際に3つ並んで置いてある。ガラスの器ではなく、小さな植木鉢になっていた。
「結局、土にしたんだ」
「そうなんです。水栽培も考えたんですけどね。前はビー玉みたいなのが入ってただけだったんで、それじゃ弱っちゃうんですよ。だから、レカトン敷いて、専用の液肥とイオン交換樹脂を使って水腐れを防止して。それに、こまめに根っこの掃除をすれば、根腐れは避けられるし、多孔質珪化珪酸塩白土を使えば、栄養調整もできるみたいなんですけどね」
「……え、えーと、そーなんだ……」
さっぱりわからない。
「でも、こまめに手入れしないとダメなんです。ここは暇な部署ですが、それでも、何かあった時放ったらかしになるかもしれないので、より手間のかからない土にしようと思ったわけです」
「ま、まあ……、そのほうがいいかもな」
「でも、土だって大変なんですよ。まず土ですが、水栽培でも育てられる植物の割には、水はけがそこそこある土のほうがいいんですよ。そこで赤玉土と……」
悠平が説明を始めようとした時、突然、ドアが開いた。
そっちを見ると、二子課長が立っていた。
「二子さん」
「先日はどうも、色々アドバイスとかしていただいて」
「いやいや」
と左近田は手を振り、空き席を指し示した。二子が、失礼、とつぶやいて席に座る。悠平と車坂も席に座ると、おもむろに、
「実は、このことで皆さんには大変お世話になったんで、ひとことご報告しようかと思い、今日はここに伺ったわけです」
そんな言い回しに、車坂は一瞬顔をひきつらせた。
ご報告、とか言うと、だいたい、「このたびは私事ながら結婚することになりました」みたいな話が多い。
おいおい、まさかとは思うが、祖父江課長とできちまったとか言うオチなんじゃねーだろうな。
車坂が一人、緊張を高めていると、二子は言った。
「このたびは、私事ながら」
ペコリと頭を下げ、
「退職させていただくことになりました!」
一瞬沈黙が流れたあと、
「はい?」
「はァ?」
「今なんて…」
左近田、車坂、悠平の3人は同時に声を出した。
「まだ時間はありますが、今月いっぱいで会社をやめます」
「今月とは、また」
「いやっ、それって」
車坂は別の意味で頬を引きつらせた。
「まさか、こないだの話を聞いて決めたとか」
「はい、そのとおりです」
「いや、ちょっ」
「お三方のお話を聞いていて、自分には人の上に立つ器ではないと気づきました」
「いや、いやいやいや」
「そ、そんなことはないのでは」
と悠平もやや青くなって言った。
「いえいえ。私は別に自分を卑下して言っているわけではありません。人には向き不向きというのがあります。私は今まで、会社のため、上司のため、部下のために、与えられた役割に全力をつくすことだけを考えてきました。でも、それが結果的に自分ひとり空回りしているのだと気づいたのです」
「だからといって……」
「自分には、自分にしか出来ない何かがあると思います。また、出世することだけが正しいというわけでもないでしょう。でも、いまさら課長職を辞退しても、上司や部下にご迷惑をお掛けすることになります。だから辞職させていただくことに決めたのです」
いや、いきなりやめられるのも迷惑だと思うが、と車坂は言いそうになった。
「そうですか。ご決断、尊重します。まだお若いからやり直しはきくでしょう」
左近田があっさりそう言ったので、車坂は、えっ、と彼の方を見た。
「今後のご予定は?」
「まだ決めていませんが、貯金もあるので、少し時間を置いて、色々勉強とかもしてみようと思います。多分、そういう事のほうが向いていると思うので。そしていつか、自分なりのリーダーになれるようになった時は、相応の立場に立とうと思います」
左近田はうなずいて、
「がんばってください」
「ありがとうございます。ほんと、皆さんにはお世話になりました」
「い、いえ……」
車坂と悠平はやや引きつったまま異口同音にうなずいた。
「みなさん、そして祖父江課長さんの、今後のご活躍を応援しております」
二子はそう言うと、元気はつらつな様子で出て行った。
「まじかよ……やめるとか、ありえねーし」
車坂が青い顔でつぶやいた。
なんか自分のせいで、退職に追い込んだような気持ちになってしまったのだ。
「いいんじゃないの、自分で決めたことなら」
「ええっ」
「左近田さん、あっさりすぎません?」
「そう? そりゃまー、誰しも境遇ってのは押し付けられるものだからさ、その境遇を受け入れるために人は努力し、成長するもんだと思うけど」
「そうスよ。そうじゃないっスか。やめたら逃げでしょ」
「でも皆が皆、そううまくいくわけじゃないさ。案外、歴史上の偉人とか、ノーベル賞を取った人だって、途中逃げたことは何度かあると思うよ」
そう言ってから、かる~い感じで、
「ま、人それぞれさ」
と言った。
案外この人、人当たり良さそうに見えて、本当は他人にとてもドライなんじゃないか、と車坂と悠平は同時に思った。
そこへ、
「オッス」
明るい声がして、祖父江由美子が隣との隙間から入ってきた。
左近田が、
「お疲れ様です」
「乙乙~」
「なんかテンション高いですね」
「わかるー」
「見てたらわかりますよ。なんかいいことでもあったんですか」
「うーん、別にぃー」
へへへー、と笑う。
ついこないだまで、あんたの管理職としての態度に、一人の男が悩んでいたというのに。
と車坂は内心眉をひそめる思いだったが、知らぬが仏とはこのことだ。
左近田がそんなハイテンション課長、祖父江由美子に、
「とか言って、知ってますよ、今夜、飲みに行くんでしょう。お隣の皆さんで」
「えっ、なんで知ってんのよ」
祖父江の笑いが固まる。
「飲む相手は第一事業本部の男子たちだそうですね。イケメン揃いとか」
「いいっ!? なんでそこまで……」
「さっき、田之倉さんから聞きました」
「あいつー!」
祖父江課長は、だだだーと隣に戻り、
「ちょっと涼ちゃーん、今夜の飲み会、左近田さんに喋ったでしょー」
ええー、だめなんですかー?
そんな声が聞こえる。
だめに決まってるでしょーべらべら喋ったらー。
いーじゃないですかー。そーだ、ついでにお隣の皆さんもご一緒にーって誘ったらどうですかー。
ちょっと、余計なこと言わないのっ、聞こえちゃうでしょっ。
と全部丸聞こえなのを聞きながら、悠平が頬を引きつらせてつぶやいた。
「さすがといいますか……、祖父江課長、相変わらずですね」
車坂も、顔をこわばらせてつぶやいた。
「ほんとだよ……今日も見事に平常運転だ」
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