ラビリンス
青浦 英
第1話:ラビリンス
伊是名悠平は口を開けて上を見上げていた。
「ここかあ、新しい派遣先は」
隣で、同じように上を見上げている、派遣会社ワールド・ヒューマン・スタッフの担当者佐藤が言った。
5月の連休が明けたばかり。
超高層ビルの1階。ばかでかいコンコースのど真ん中。頭の良さそうなスーツ姿の人々が足早に颯爽と行き交う中で。なんかひどく場違いで浮いたようなヨレヨレスーツのお上りさんな二人がいた。
高い吹き抜けの天井を見上げている。正確には吹き抜けではなく、天井が段々に高くなっているのだ。一番高い中央部分は20階くらいはありそうだ。コンコースのこの空間だけで雑居ビルの一つも入りそうなくらい広い。空間の中を空中回廊が何本も渡っていて人が歩いているのが見える。
東京都千代田区星ヶ岡1番地2号。都心のど真ん中に建つ超高層ビル。
スターヒルズタワー。
ここに本社機能を置く、ユキハラホールディングスの傘下企業でありグループの本体でもある、株式会社ユキハラコーポレーションが伊是名悠平の新しい職場だった。
ユキハラグループは、平成新興財閥の雄である。
元々は貿易商社であるユキハラ株式会社と、資本系列が同じ機械メーカー、ササウツ製作所の2社で構成された企業だった。平成新興財閥と言っても、前身の小さな代理店設立は昭和50年代である。とはいえ、それほど歴史が古いわけではない。
これがいまや、このご時世に売上高12兆円、毎年数千億の黒字を出し、関連も含めると従業員3万8千人の大企業へと成長した。
業績拡大の背景には、常に新しいジャンルへと参入していく経営方針があった。
たとえば、コンピュータ家電、インターネット事業、携帯電話、クラウド、電気自動車、スマートグリッドシステムなどの事業である。
利益を上げると、積極的に企業買収も行い、特に平成不況で資金繰りに行き詰まった企業をどんどん吸収していった。最近は上記のジャンル以外に、重電業、重工業、資源開発、エネルギー、自動車や飛行機にロケット製造までやるようになっている。すっかりメーカー化してしまったのだ。
このとんでもない大企業で、悠平は働くことになった。
ただし、社員ではなく、派遣社員として。
さかのぼること1年と3ヶ月前。
彼は失業した。
それまで学生バイト時代を含めて5年間働いてきた出版社を、不況とIT業界から招いた新社長の方針によって起きた人員削減に巻き込まれ、クビになったのである。それから出版業界を中心に再就職活動をしたものの、この不況。どこも拾ってくれず、預金も底を着きそうだったので、結局技術系の派遣会社の契約社員となった。そういうところしか募集がなかったのだ。
そしてあちこちの企業のプロジェクトに派遣された。大半が小さな会社で、期間も長くて3ヶ月、短いと1週間というものもあった。
派遣業界も一様ではない。
従来からある非常に高い専門技能を持つ人を特殊な職業に少数送る、ほんとうの意味でのスキル派遣から、自社の社員を出向という形式で派遣する契約派遣、そして名前を事前に登録して仕事があるたびに人数を集めて送り出す登録派遣がある。人数的にはこの登録派遣が最も多く、会社の規模も大きく、仕事も多いが、社会保障はしてもらえず、短期の仕事が多い。
悠平はワールド・ヒューマン・スタッフという会社の契約社員として雇われ、その社員という肩書で派遣先に送られる契約派遣だ。雇用保険や年金、健康保険などの社会保障は会社が払ってくれるのでいくらかマシだが、派遣社員には違いない。
ちなみにワールド・ヒューマン・スタッフは、社員を派遣しているが、自社でソフトウェア開発の下請け作業なんかもしている。IT業界、下の方にはそういう会社は多く、中には社員全員がよそに送られて働き、自社の事業は派遣を雇ってやらせているなんて変なところも結構ある。
派遣事業の中でも、技術派遣は、派遣会社やコンサルタント会社経由で、メーカーがプロジェクトごとに人を集める傾向がある。
大規模な製品開発の場合は、まとめて十数人と派遣を雇い、長期間業務をやらせることになるが、そうではない単純労働や、試験的なプロジェクトの場合、1人、2人といった少人数ずつ雇う場合もある。辞める人も多いので、開いた穴をふさぐこともあるのだ。そういうときは、あぶれている人間を放り込むが、放り込まれた人間は、大プロジェクトに参加する機会を逃しているわけだから、常にあちこちの小プロジェクトに回されるようになる。
悠平はまさにこのパターンで、あちこちの会社に送られた。
する仕事は様々だったが、多くは発売前製品の評価テストだった。
日本語の上手い中国人にこき使われながら、小さな部屋で何人もの人と一緒に、行程表に従って試験を繰り返すのである。中国人がリーダーなのは、ソフト開発を中国に委託している事が多いからだ。
「あーあ、これがかつて、世界第二位とまで言われた国のなれの果てなんですね」
「おれら、まるで奴隷だよな」
「いやいやいや、奴隷解放はリンカーンの時に決定したやんか」
「あーそれ、アメリカの話だろ」
「えーっ、日本は対象外なのかよ。同盟国だろ」
「いや日米安保条約にそんな条項ないから」
「まじで?」
「落ちぶれる時はこんなもんさー。国も人もなー」
「政府とか、アメリカだけでなく、中国の顔色まで窺うようになってきたもんな」
「日本も終わりじゃね? 経済大国だって? マジうけるんですけど」
などと自嘲気味に暗い会話をしながら、安い給料で残業したものである。そういう地位にあるのは自己責任だ、などと言う言葉は彼らには禁句だ。誰しも望んで落ちぶれているわけじゃない。
とはいえ、そう言う世界に毎日いれば、気も滅入るというもので、世の中に対する見方も、厭世的というか、ひねくれたものになっていく。そんな状況だから、どこかで通り魔事件でも起きると、「おいおい、昨日の事件やったの、隣の部屋のやつじゃね?」なんて本気とも冗談とも付かぬ話になったりした。
なにしろ一つ一つの仕事の期間が短いから、せっかく同じプロジェクトで知り合っても、すぐに別々のプロジェクトに送られるため、人間関係もなかなか拡がらない。スキルも付く前に別のプロジェクトへ移るため、なかなか身につかない。
忙しいのに、得るものが少ないため、自身の人生観も将来の展望も無いまま日にちばかりが進んでしまう。
なにやってんだろ、おれ。
と誰もが思ってしまうのだ。
たまの休みに家電量販店の前を通りがかったりしても、そこに置いてある製品の多くが、実は表になる事はない奴隷のようにこき使われている人々の汗と涙で作られているのかと思うと、やるせない思いでつらくなり、その場を急いで離れてしまう。
世の中には、達成感のない仕事もあるんだな、と悠平は暗い気持ちで日々を過ごした。
どんな仕事も、本人の気持ち次第。
この頃の悠平はなにをやっても後ろ向きに感じるばかりで、自ら目標を決めて生きよう、と言う気力も湧かず、ただただ現状に流されるだけであった。
ある日、発売後に不具合が発覚した携帯電話のランチェンテストの仕事が入り、てんてこ舞いの大騒ぎとなった。
発売後の問題発覚は、場合によっては製品回収と再発売延期で数十億円の損害を出すこともあるため、1週間くらいで問題の原因を探り当てなければならない。販売しながら、一方でこっそり不具合を改善して、あとでプログラムのアップデートなどの形でお客様にフォローするという、そういう走りながら危ない橋を渡るようなことを、ランニングチェンジ、略してランチェンという。ソフトウェアにはよくアップデートがあるが、ハードの動作に関わるものとなるとかなり危ない橋である。ガラケーもスマホも、実は不具合が多いのだが、一般にはあまり知られていない。普通の操作くらいでは発覚しないような不具合はほったらかしにし、ヤバそうなのだけ、バレないように改良するのが鉄則だ。
そのため、不具合探しが厳命される。残業徹夜も当たり前。こういう時だけ、人が集められることも多い。企業も販売中止で大損害を出すくらいなら、と、少し割高にテスト受注会社や派遣会社などへお金を出してくれるのだ。
プログラムを書き直すソフトウェア会社とネット経由でやりとりしながら、急遽作られた試験表を割り振りして、みな目を血走らせて携帯を操作するのである。もし変なところが見つかれば、報告を上げる。その報告を受けたソフト会社のプログラマがプログラムをチェックし、書き直し、新たなテストバージョンのソフトがアップされる。それを携帯にダウンロードして、再びテストする。
時には真夜中にテストバージョンがアップロードされてたりすると、ああ、プログラマも徹夜なんだな、気の毒に、と見知らぬ相手に共感のようなものがわいたりするのである。
徹夜や休日出勤は、もちろん、ローテーションを組むわけだが、何しろ時間がないから、半ば強制だ。
それでも、一応、チームリーダーから、「希望者」を呼びかけられる。だれも徹夜や休日出勤などしたくないから、黙っていると、結局、チームリーダーが決めたローテの出陣命令が下るのである。
ほとんど特攻隊の選抜みたいである。
こうして地獄のような1週間が終わり、くたくたになって、派遣先のテスト専門会社から自社に戻ると、担当営業マンの佐藤が現れ、明るい表情で言った。
「おつかれー、悠平くん。連休潰れて大変だったね。ところで次の仕事が決まったよ」
「もうですか……」
さすがにうんざりした。目の下のクマさんを繁殖させる気ですか、僕の顔はクマ牧場じゃないんですけど、などと内心で毒づいた。
そりゃまあ、契約社員を遊ばせておく訳にはいかないだろうけど。一応は給料を払ってるわけだし、保険や年金と言った社会保障費も払ってるのだから。給料から差っ引いているとはいえ、払ってくれるだけましだ。払わないブラック派遣会社も多いのだから。
「今度は大手だよー」
わがことのように自慢げに佐藤は言った。
「へえ、どこですか……」
興味もわかず、オウム返しに聞いてみると、
「聞いて驚いてよー。なんと、ユキハラコーポレーション」
「はあ……」
「なんだよー、ユキハラだよー、超大手だよー。それも本社勤務」
「すごいですね……」
「もう、盛り上げがいがないねー。きみが行くんだよ」
疲れた人間にはアゲアゲな話題は厳禁である。職場でも家庭でも会話は相手の事情をおもんぱかってするべきだ。
なんにしても、そうやって、悠平にユキハラの仕事が来たのである。派遣とは言っても、小さな派遣会社では奇跡のような派遣先だった。よくこんな超大手の仕事が取れたものである。どういう小ずるい手を使ったものやら。
広大なロビーを見渡して、
「いいなあ」
「え?」
悠平は、佐藤を見た。
「こんなすごいところで働けるんだからなー。僕もこういうところで仕事してみたい」
「いやでもまあ、派遣なので」
「派遣でもうらやましいよ」
だったら派遣会社なんか辞めてここに再就職すればいいじゃん、と思ったが、それは言わなかった。なにしろこんなデカイ会社、どうやって就職するのか、悠平自身がよく分からないのだから。なんか特殊な就活テクでもあるのだろうか。それともやはり学歴というやつか。
都立立川大学文学部出身という悠平にとっては、まるで想像外の会社であった。
本社の受付がある30階まで、ノンストップで直通するシャトルエレベーターで上がる。
このビル、ユキハラの所有する自社ビルではあるのだが、実際には69階建てのうち30階から上半分がユキハラ本社で、下半分は他社に貸し出されているため、30階まで一気に行く構造になっているのだ。ちなみにノンストップで最上階の展望フロアへ行くエレベーターも1基ある。
「直通エレベーターがあるのかー。こんなの都庁の展望台に行った時に乗ったことあるくらいだなー」
と佐藤は分譲マンションのダイニングキッチンくらいはありそうな広いエレベーターボックスの中を見回した。
「エレベーターがこんなに広いのに、しかもこのスピード、すごいねー。揺れもしない。床に10円玉立ててみようか」
ここの社員らしき人々が不審げな目で見る。佐藤はそんな視線にも気づかず感心しきりだ。悠平の方が恥ずかしい。
「うちの会社が入っているビルにはないなー」
「いや6階建てなんで」
小声で答える。しかも会社はその3階のワンフロアしかない。ノンストップ直通だったとしても、通過するのは2階だけではないか。区間快速じゃないんだから。
6階ではなく、69階もあるから、こういう特別な装置が必要なのである。6階建てと比較する事自体間違っている。
ちなみに、この超高層ビル、スターヒルズタワーは、高さが334mある。東京タワーより1m高い。スーパートールに分類される超高層ビルだ。世界にはもっと高いビルがたくさんあるが、日本には少ない。一般には地震が多いからだと思われているが、実は耐震技術は非常に優秀で、出来ないわけではない。それに超高層ビルは、地震よりも風の影響が大きいともいう。しかし、特に東京で超高層ビルの高さに問題があるのは、実は羽田空港の航空管制の影響を受けているからだ。もちろん、容積率と言った制度の問題、景観問題、景気なども影響している。
それでも、と悠平は半ば感心しつつ、半ば呆れて思った。このなかなか良くならない不況下で、どうやったらこんな豪勢なビルを建てる金が出来るんだ。69階を60階に下げて、浮いた金をこっちに回して欲しいものである。
東京なんて、いつの間にか超高層ビルだらけになって、視界がすっかり狭くなった。悠平の子供の頃は、まだもっと開けてたような気がする。
いまじゃ、東京タワーすら、どこにあるかわからないくらい、ビルだらけだ。
このビルが高さで東京タワーを追い抜いた際に、やや物議をかもしたそうだが、それは東京の人にとって東京タワーに愛着があるからだろう。
日本は高さ634mの東京スカイツリーを作る技術と経済力をちゃんと持っている。
でも、
お金は平等には存在しない……。だからこそ経済は回っているんだろうけど、当然、そこにはお金の無い人も出てくるわけで……。
自分は無い人である。無いから派遣社員をやっていて、無いからこんなところにも送られるのだ。
「ん? なんか言った?」
佐藤が振り返った。
「いえ、なんでも。あ、着きましたよ」
スターヒルズの30階には、ユキハラ本社受付があった。ここから上がユキハラ本社社内である。受付といってもちょっとしたカウンターバーくらいの長さがあり、受付フロア自体が小さな会社のオフィスが丸ごと入るくらい広い。その長いカウンターに、赤と黄色と白に色分けされた、ダブルブレステッド風で詰め襟の、近未来の宇宙軍士官服みたいな(あるいは60年代グループサウンズみたいな?)洒落た恰好のおねーさんが、6人座っていた。いずれもすごい美人だ。
「なんか緊張しちゃうなー」
そう言って佐藤は受付に向かった。
どのおねーさんの前に行けばいいだろう、おねーさんが嫌な顔をしないかな、などとどーでもいいようなことを気にしながら近づくと、おねーさんの一人が見事な笑顔でピッと立ち上がり、丁寧さを感じさせる速度で頭を下げ、「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いいたします」
「あ、ど、どーも、わたくし、」とややどもりながら、佐藤は名刺を出し、約束してある旨説明した。
「少々お待ちください」
とおねーさんは手元の端末をかろやかに操作する。
悠平は周りを見た。
まだ午前9時35分過ぎだが、広いフロアには早くもたくさんのお客さんがいた。社員がやって来て挨拶したり、名刺交換してる様子も見られる。外国人も結構いた。
「大病院の待合室みたいだよなー」
悠平はそんなことを思った。
「ではあちらのお席で少々お待ちください。ただいま担当者が参りますので」
「ど、どうも、恐縮です」
恐縮するようなことではないと思うが、などと思いつつも、すっかり雰囲気に飲まれたような悠平である。
椅子にちょこんと浅めに座り、しばらく待っていると、何かに気づいたのか、隣に座っていた佐藤がすっくと立ち上がった。
「どうかしましたか?」
「みてよ、あれ、国会議事堂じゃない?」
「え?」
佐藤はスタスタと、受付の横の方にある大きな窓際まで行った。
「あ、ちょ、ちょっと」
別に立ち入り禁止ではないが、窓際に立っている人は他に1人もいない。
「うわわ、国会議事堂が丸見えだ」
さらに顔を横に向ける。
「あ、あれはもしかして、首相官邸?」
そんなことをしゃべっている。丸聞こえだ。悠平は恥ずかしくなった。
「よくこんな所に高いビル建てる許可が出たよなあ。まるで国会議事堂を標的にしてくれって言わんばかりじゃないかあ」
そう言うと、ポケットから何かを取りだした。
小型のデジカメである。
パチパチと撮りだした。
悠平は怒られやしないかとハラハラした。
彼自身、あまり世間の目を気にするタイプではないが、佐藤はもう少し世間の目を気にした方がいい。他人のふりをしとこうかな、とか思ったが、
「ちょっと、なにやってんですか」
ひそひそ声を大きくしたような声で呼びかけると、
「いやあ、二度と来れないかもしれないからさあ、記念に撮っとこうと思って」
「……」
周りの客が失笑しているのが見えた。
ちょうどその時、一人の背の高い中年男が目の前を横切って受付まで行き、おねーさんになにか話し掛けた。すぐこちらを向く。
「あ、どーもどーも、お待たせしました」
と言って近づいてきた。
悠平は慌てて立ち上がる。男は、おや、と言う顔をして、
「あれ、おひとりですか?」
「あ、いや……。佐藤さん、ちょっと」
佐藤が振り返って気づいた。
慌てて駆け寄ってくる。
「ああ、写真撮ってらしたんですか。いい景色でしょう」
男は笑顔で言った。
これが悠平が所属することになるユキハラコーポレーション情報本部の業務全般の「支援」を担当する「情報本部第7部第3課」課長、才野木一郎という男であった。
悠平は前に一度だけ、面接で顔を合わせている。
「し、失礼しました。ほ、本日は、鈴木の方が体調不良でお休みしており、ワタクシ佐藤が代わりにこちらへ参りました」
佐藤は直角に腰を曲げて、頭の上まで上げた両手で名刺を差し出す。結構出来ない姿勢だ。
才野木課長は、いかにも重々しさを感じさせないスマートな手付きで、内ポケットからサッと名刺を取り出し、
「これはご丁寧に。鈴木部長のお加減は?」
「おそらく風邪だと思いますので。また、改めてご連絡差し上げたいと申しておりました」
「そうですか。よろしくお伝えください。では早速、伊是名くんには来て頂きましょう」
「なにとぞ、なにとぞ、よろしくお願いいたします」
佐藤は深々と頭を下げ、ひょい、と顔を上げると、
「じゃあ、これでね。終わったら電話して」
そう言って、ぺこぺこと才野木課長に頭を下げて立ち去った。
「じゃ、行こうか」
「はい……」
悠平もちょっと緊張してきた。なんか人身売買の現場に、売られる人間として立ち会ったような気分だ。毎回派遣される時はそうなんだが、なかなか慣れると言うわけにはいかない。特にこんな大きな会社だとなおさらだ。
30階から上はユキハラ本社社内になるため、派遣会社の担当者は、正式な許可なく入れない。過去2回、派遣会社ワールド・ヒューマン・スタッフ人材部長の鈴木と別の担当者が派遣業務契約の打ち合わせで来たことがあるが、いずれも30階受付ロビーの横にある「打ち合わせルーム」で話し合いを行ったらしい。業務提携といっても、大会社同士の話じゃないから、派遣を一人送るというくらいじゃ、派遣会社部長ご臨席でもこんなところらしい。悠平が面接を受けたのもそこだ。
「ああ、これ君の臨時カードね。無くさないように」
才野木課長に手渡され、臨時入館電子カードを持ってエレベーターの方へ行く。
「情報本部は40階だから、このエレベーターね」
と4つある乗り場の一つに連れて行かれた。行き先階数によって乗り場が違うのだ。見上げると『40~49階』と書いてある。向こうのエレベーター乗り場には、『50~59階』とあった。その向こうにも見える。逆側のエレベーターホールにも39階までの案内板があった。ここまでは直通だったが、ここから上は、分散して人の移動をスムーズにすると言うことなんだろうか。
これほどの大会社だから、相当沢山の人が働いているのだろう。
悠平は分散配置されているエレベータを見て、ビルの内部構造に少し興味を持った。
乗り場の入口に警備員がいた。後ろに手を組み、やや足を拡げて立っている。ジロッとこっちを見る。
「入館カードを警備員さんに見せるんだ。あとで正式な社員カードを出すけど、それ以降はそのカードをね」
「はい」
見せると、警備員は無言で頷いた。
こわー、と思いつつ、悠平も頭をちょっと下げて乗り場に入る。4基のやや小型のエレベーターが左右に並んでいた。
「3台は人専用で1台は人と貨物兼用だ。どれに乗っても構わないけど、台車でなにか運ぶときは貨物兼用でね」
そういって壁のボタンを押す。ポーン、と音が鳴った。
ふと天井の片隅を見ると、カメラがある。
厳重なことだ。
エレベーターが40階に着く。
「着いたよ。ここは情報本部に所属する部署が集中するフロアなんだ。君はこの中を行ったり来たりすることになる」
フロアの中央は、機械室か何かわからない部屋が並んでいて、通路はそれを囲むように東西に分かれており、情報各部の部屋は、それぞれの廊下沿いに並んでいる。
そのフロアの右手奥の方へと進んでいく。エレベーターから一番奥まで来ると、
「ここが君の職場、情報本部第7部第3課の部屋だ」
と社員カードをかざした。ピッと音がして、ガチャンと重々しい音がした。
「その臨時カードでもあけられるからね」
曇りガラスのドアを開けて中に入る。
あまり広くない縦長の部屋だ。真ん中に6席分の机があり、奥にこっちを向いたデスクが一つ。その後ろは窓、左にも窓があり、側にキャビネット、右の壁沿いにロッカーと本棚多数。
2人が座っていた。
「お、来た来た」
右手前に座っている若い方の男が言った。悠平と同年代くらいだ。
「紹介しよう。今日から来てくれることになった伊是名悠平くんだ。伊是名くん、紹介するよ。右向こうに座っているのが、左近田くん。ベテランだ。わからないことがあったら、彼に聞くといい」
「左近田景介です、よろしく」
30代前半くらいの男だ。男前でめがねをかけ、知的な感じがする。立ち上がって挨拶する。
「よろしくお願いいたします」
「手前の彼は、車坂くん」
「ども、車坂秀樹。よろしくっす」
と彼も立って挨拶した。やや太めの体型で、ボサボサ頭。口調は少し軽薄な感じもする。
「よろしくお願いします」
どちらもそれほど変には見えなかったので、悠平はホッとした。こういう派遣業界、のっけから高圧的に出てくる人とか、頭っから馬鹿にしたような態度の人とかいるので、こう言うときが一番緊張する。
「それに私を含めて3人。情報本部第7部第3課の現状だ。君が加わったので4人になったわけだ。君は、空いている席ならどこでもいいよ。一応、PCはそこに置いてあるけど」
「あ、ではそこで」
車坂の斜め前、一番ドアに近い席だ。
左近田の机はきれいに片付けてあり、使いやすそうだ。端にミニチュアサイズのサボテンの植木鉢が数個ある。サボテンが好きなのだろうか。一方、車坂の机にはフィギュアが所狭しと置いてあった。モビルスーツからアニメの登場人物まで多種多様だ。
机だけでも性格が現れている。
これからしばらくは、この人達と仕事をしていくことになるのだ。
「新人さん来てくれて助かりましたよ。もう、前の人辞めちゃってから、3人であっち行ったりこっち行ったり、大忙しだったんスよ」
席について早々、車坂が言った。
「前の方は辞められたんですか」
「辞めちゃったんですよ。ね、課長」
「そう。辞めちゃったね」
「はあ。どうしてお辞めに?」
全員が黙った。
あれ、なんかまずいこと聞いたかな。
才野木課長がひとこと。
「……聞きたい?」
「え……」
3人が黙ってじーっと悠平を見る。
え、え……?
「そんなに聞きたい?」
「あ、いえ、特には……」
「そう? 遠慮しなくてもいいんだよ……」
「え、えーと……」
「まー、いいんじゃないですか、無理に教えることもないですし」
「左近田くんがそう言うなら、あえて教えないけど」
「そうっスよ、あんなやばいこと、知らないほうがいいっす」
やばいことって……。
なんか怖くなってきた。
「それよりも、早速、業務を覚えてもらいましょう」
と左近田がわざとらしく言った。
「なによりユメマフの使い方は覚えて貰わないとね。業務のほとんどはユメマフを使うから」
「ゆめまふ……?」
「新人さん、気に入られるかなー?」
「気に入られる、というのは……」
「やっていくうちにわかるさ。さ、スイッチ入れて」
PCの電源を入れる。
普通にOSが起動する。
「君のコード、アドミニ権限で設定しておいたから、すぐに使えるよ」
左近田が言った。
その直後、画面のど真ん中に『U.S.P.O.』と大きな文字が現れた。くるくる回転する。
「これがユメマフだよ。ここの統合基幹業務システムだ。USPO(アスポ)というのが正式名称だけどね」
「どういう意味なんですか。アスポとユメマフって」
「アスポは、UBIQUITOUS SYSTEM OF POSTHUMANITY OBJECTS の略だよ」
「……えーっと、どういう意味ですか」
「さあ。さっぱりわかんない。とにかく未来のシステムだよ、と言いたいんだろうね」
左近田は首をかしげて答えた。
「はあ……」
「ユメマフは」
と車坂。
「夢が舞う、と言う意味もあるんだろうけど、なんか別の意味もあるみたいだな」
「別の、ですか?」
「そう」
「それはどういう……」
「知らない」
「は……」
「要するに、名前に関しては、いろいろ噂はいわれ続けているんだけど、誰もよくわかんないんだよね。俺はテキトーに付けたんじゃないかって思ってるけどさ」
ちょうど、画面上部に大きなメニューバーが現れた。OSの機能ではない。オブジェクト指向言語で作られたメニューコンソールだろう。わずかに透過していて、壁紙が透けて見える。しかしカーソルを近づけると透過が無くなる。
「起動完了だ。出てくるよ」
「え、何がですか?」
「ユメマフ本人がさ」
「え? え?」
すると画面中央部にウィンドウが開いた。
ふーっと、フェードインするように女性の顔が現れた。ちょっと癖毛のあるベリーショートのボーイッシュなかわいい顔だ。だが、よく見ると非常に詳細でリアルなCGのようである。
「うわわ、ちょっ、アバターがショートカットじゃん。マジかよ。ラッキーだよ、伊是名さん。この顔は滅多に拝めないからね」
車坂が叫んだ。
「我々はみなロングヘアだからね」
「この顔ですか?」
「そう」
「アバターは20種類くらいあるらしいんだが、たいていはロングヘアーの一般的なOLといったものなんだよ。たまに違うのがでるらしい」
「というと、端末によって違うことがあるんですか?」
「そこがユメマフのすごいところだよ」
どうすごいのかよくわからないが、
「業務にとっては不必要な無駄なんだけどね」
『おはようございます。伊是名悠平様』
PCがしゃべった。画面に映っている顔の口元もそれに合わせてリアルに動き、頭を下げ、それからほんの少しだけ首をかしげた。時々、ランダムな感じで瞬きをする。
「あ、ど、どうも」
悠平は思わず返事をして赤くなった。
『初めてのアクセスですね。私はユメマフと言います。これからよろしくお願いいたします。では、さっそくですが、使い方を学ばれますか。それとも業務モードに移行しますか?』
PCがそんなことをしゃべっている。
「え? あの……」
悠平は周りに立つ面々を見た。
「とりあえず、メニューの使い方を覚えた方がいいね。業務申請や、予算処理、スケジュール確認、出張申請、メールにチャット、ブラウザなど全部、このメニューからやるから」
「あの、これ……どうすればいいんですか?」
「返事すればいいんだよ。音声認識だから。マイクは内蔵されている。あとマウスで操作するモードにしたいなら、右下の、そう、そのアイコンをクリックするといい。また、ユメマフの言葉を無視して上のメニューバーで選択するのも出来る。どれでもいいよ」
「試しに返事してみたら? 使い方、と言えばいい。音声認識も指向性だから」
横から車坂が言った。しかし彼の声には反応しない。
「え、えーと、使い方を」
『了解しました。では、研修モードに移行します』
すると顔がすーっとフェードアウトした。
画面が切り替わり、使い方案内のようなものが出てきた。原色系を多用した、クッキリとした絵柄の、いわゆるベクター画像で描かれたいかにも電子マニュアル的な画面だ。軽い曲調の音楽が鳴り出す。
すると、左上に小さなウィンドウが開き、先ほど出てきたショートカットの女性がふたたび現れた。
『では、まず基本的な使い方から始めましょう』
「……」
「じゃあ、それ見て覚えておいてね。当第3課の業務が入ったら、声をかけるので」
「は、はい……」
悠平は緊張しつつ画面を見入った。
『次に、社内文書管理の確認方法について学びます。メニューの文書管理をクリックするか、もしくは私に文書管理とおっしゃってください』
ユメマフの女性アバターがしゃべっている。悠平は食い入るように見ていた。小声で「文書管理」と言う。
ピリリリと電話が鳴った。タイミングがぴったりだったので悠平はちょっとびっくりした。
左近田が電話を取った。
「はい、第7部第3課です」
そのまま、
「はい、はい、パソコン起動したけど、ネットワークにログオンできない。わかりました。直ちにそちらへ向かいます」
電話を切ってから、
「というわけで第1部から御指名。車坂くん、行く?」
「えー、めんどくせーな」
「仕事だから文句は言わない」
「ログオントラブルくらい自分たちでFAQを調べればいいのに」
「ログオンできないんだから調べようがないんだろう」
「隣のやつに調べてもらえばいいんですよ」
「ということは、ログオンひとつで少なくとも二人分の仕事を邪魔することになるわけだ。われわれが見に行ったほうが早いんじゃないかな」
「まあ、そうスけど」
車坂はしぶしぶ立ち上がった。左近田も立ち上がり、
「伊是名くんも、行こう。どんどん覚えていかないといけないからね」
「了解です」
悠平はメモ帳を持って立ち上がった。そして部屋を出ようとして、画面の方を見、
「あ、えーと、ちょっと中断します」
と言った。なんか言わないといけない衝動に駆られたのだ。すると、ユメマフのアバターが「了解しました」と答えたので、悠平は再度驚いた。
「あのユメマフ……って、頭いいシステムですね」
左近田が振り返る。
「そうだね。でも、伊是名さんが言うのは、ソフトウェアの処理が、っていう意味でしょう」
「え? ええ、こっちの言葉に対する反応がいいというか、応用できているような……」
「ユメマフのすごいところは、それだけじゃないんだよ」
「といいますと?」
「普通ああいうシステムは、サーバーに入ってるよね」
「そうですね。……え、ちがうんですか?」
「サーバーどころか、あれね、この会社のどこかにあるスーパーコンピューターなんだよ」
「スーパーコンピューターって、普通は気象予測とか、地震解析とかに使うんじゃ」
「そう。科学計算とか金融とかに使うものなんだけど、それをここでは業務用システムにも使ってるんだ。科学計算にも使ってるようだけどね」
「しかもびっくり、自律マシンなんだとさ」
車坂が付け加えた。
「自律マシン?」
「自分で考えて、自分で目標を決めて、自分で行動するコンピュータ」
「ええ?」
「プログラムも自分で勝手に改良しているって話さ」
「いやいや、まさか……」
「もっぱらの噂だね。開発した部署でも、最近は中身がどうなっているかよくわかってないらしい」
と左近田も言った。
「いや、それ、SFに出てくる話じゃないですよね」
現実だったら、大騒ぎになってそうだが。
「反乱とか起こすよね。SFじゃ」
「起こすんですか?」
「反乱とまでは行かないけど、たまに言うこと聞いてくれないことあるよ」
「この会社の、PCから空調から、エレベーターまで、みんなユメマフがコントロールしているらしいから、おれらはユメマフの中にいるようなものさ」
「まじですか……」
悠平は天井とか見上げた。ちょっと不気味だ。どこまで本当の話だろう。
情報本部第1部の部屋は第7部から一番遠い。
このビルのこのあたりのフロアは、真ん中になにかしらの機械設備でもあるのか、反対側へ行く時には大きく迂回するしかない。ちなみに上層階と下層階は、中央に吹き抜けがあるため、上から見ると、カタカナのロの字になる。
で、情報第1部の部屋は第7部から見て対角の反対側にあった。
てくてく廊下を回って、西側に出る。
情報第1部から第3部までが並んでいる。
4部、6部と7部は東側にある。北側は各部共有の会議室が大小5つと、3つの倉庫が並んでいる。南側にはテレビ会議室があった。
「唯一情報5部だけこのフロアにないんだよね」
「それはまたどうしてですか?」
「あそこは機密事項を扱う情報部門だからさ」
「機密、ですか。どこにあるんですか?」
「62階。あそこは情報第5部と調査室のふたつの機密部門がある。似たようなことをしてるせいか、その2部門は仲悪いんだけどさ。で、あそこの会議室は特別にセキュリティの強い構造になっているらしい」
「そうそう。予約取れないスよね、あそこだけは」
「じゃあ、5部の仕事はサポートしなくていいわけですね」
「そう思いたいところなんだけど、それがなぜか、5部のサポートもあるんだよね」
「機密部門なのにですか?」
「そう」
「しかも結構わがまま。わけわかんねーだろ?」
と車坂は顔をしかめて言った。
「5部以外は、われわれのカードでも入室できる。呼ばれたら、こうやっていって、サポート業務に当たるわけ。5部だけは向こうが開けてくれないとなにも出来ないんだけどね」
左近田は、1部の部屋のドアにある読み取り機に社員カードを当ててドアを開けた。
1部の部屋は広々としていた。ずらーっと人が座ってデスクワークしている。それだけでも、ちょっと威圧感のある光景だ。
「こっちこっち」
中ほどに座っていた社員が立ち上がって手を振った。周りに座っている社員が、ちらっとこっちを見る。
3人は席の間を抜けて近づくと、
「ああ、これなんだけど、ちょっとみてよ」
「ログオンできないとか……」
「そうなんだよ。昨日までは問題なかったんだけど、今朝になって急におかしくなってさ。何度再起動してもダメなんだ……」
「共通アドミニで入ってみて、設定を見てみましょう」
「ああ、やってくれ」
左近田は、手早く操作すると共通のアドミニ権限コードでPCにログオンしてみた。
「古田さんの社員コードはアドミニ化されてますね……」
「じゃあ、ログオンできるはずだよな」
「そうですね……これは、サーバー側との接続の問題でしょう」
「直る?」
古田という社員は、やや不安そうに聞いた。
「あのさ、業務に支障が出るんで、早く直してもらえるとありがたいんだよ」
「少々お待ちください」
左近田は、コンピュータのアイコンからシステムの画面に入ると、ネットワークIDの設定画面を呼び出した。
手際よく、クリックしていくと、小さなウィンドウが開いた。
「古田さんのログオンのパスワードを入れてもらえますか?」
古田がパスワードを入力していく。左近田に比べると、あまり慣れた手つきではない。
入力が終わり、次へ、をクリックすると、ネットワークに該当のドメインデータを検出した表示が出た。左近田はそれを確認すると、そのまま「次へ」「次へ」とクリックしていき、アカウントの登録画面で古田の社員コードにアドミニ権限を再付与した。
パソコンを再起動する。
「では再度ログオンしてみてください」
古田がログオンしてみる。コードを入力し、パスワードを入力すると、何事もなかったように、ログオンできた。少し待ってユメマフが立ち上がると、女性のアバターが現れた。頭をダブルお団子に結って細い三つ編みが垂れている中華風なキャラだ。車坂が「げげっ、おだんごかよ!」とつぶやく。
「あれ? 入れた……。なんでだ……?」
古田はそう言ってわざとらしく首をかしげた。
「あの……試みに聞くけど、何でさっきはだめだったわけ?」
「特にへんな操作はしてませんよね」
「してないしてない」
「ではおそらく、ログオン時にサーバーがクライアント側をうまく読み取れなかったか、OSのアップデートで微妙に設定が書き換わってしまったかのどちらかでしょう」
「ええ? そんなことあるの?」
「ありますね。ただし、普通に使ってる一般ユーザーには起こらないです。うちみたいにシステムが複雑に絡み合っているところほど、得体の知れないバグが発生しやすいのです。OSの修正はそこまで想定してないですから」
「そうか、なるほど……」
「では、よろしいですか?」
「あ、ああ、うん。助かったよ。ありがとう」
「じゃあ、行こうか」
と左近田は言いかけて、気づいたように立ち止まり、
「えーと、みなさん、お仕事中失礼します。こちらは、新しく来た伊是名悠平さんです。今後は彼にも手伝って貰いますので。みなさんもよろしくお願いします」
と周りにも声をかけた。古田が、
「あ、そうなの。よろしく」
周りからも、よろしく、とか、がんばれよ、と言う声が上がった。こっちを見ないで手だけ挙げて応える社員もいる。
「ど、どうも、伊是名です。よろしくお願いします」
悠平は慌てて周囲に頭を下げた。
それが終わると、左近田らは何事もなかったかのように、第1部の部屋を出た。出てから、車坂は不満げに、
「何だよ、古田のやつ、最初は偉そうに『業務に支障が出るんだ』とか何とか言っておきながら、簡単に直ると、手のひら返したような声で、理由を聞いてきたり。やなやつだな」
口まねのようなことまでして文句を言う。
「業務でせっぱ詰まってたんじゃない?」
「にしてもだよ。しかもだ! ユメマフのアバターがお団子だったぞ。何であんなやつのが……」
変な不満を口にした。
「あの、いまのは……」
悠平が左近田に聞いてみた。
「なにをしたんですか?」
「あれはね、古田さんのPCをサーバーに再度登録させたわけ。ここのシステムはDHCPだから」
「DHCP?」
「知らない? まとめてIPを管理するシステムのこと」
と車坂。左近田が受け継いで、
「つまり、普通、パソコンでインターネットするとき、IPアドレスが必要でしょう」
「はい、そうですね」
「一般家庭のパソコンでは、一台一台固有のアドレスを設定して使うわけだけど、ここみたいな大企業では、何千台ってあるからそんなコトしてたら大変じゃない」
「人の入れ替えも頻繁にあるしな」
「たしかに、そうですね」
「そこで、あらかじめサーバーにアドレスを大量にプールしておいて、毎朝、ログオンしてサーバーと接続したパソコンにだけ、その日使うアドレスを配布するようにしてるわけ」
「ああ、なるほど。そういうことですか」
「一般の接続サービスでもさ、最近は、似たような方法で自動ログオン出来るようになってるよ。ケーブルテレビのプロバイダとか。まあ、この方が楽だもんな」
と車坂も言った。
「ログオンのトラブルの時は、社内ネットワークそのもののトラブルでなければ、大体あれで直るんだよね。原因はよくわからないけど、たぶん、ユメマフの下位サーバーが認識トラブルでも起こしてるんだろう」
「え? でも、説明してましたけど」
「あれは適当。どうせわかんないから。それよりもああいう場合は、さっさと機能を回復させたほうがいい。彼が望んでいるのもそこだからね。人にもよるけど、たいていの場合、こっちの知識とか故障の理由とかはどうでもいいわけ。だから一番ありそうな方法をとってみただけさ」
「うまく行かなかった場合はどうするのですか?」
「別のを試してみる。適当なことを言ってね」
「なるほど……」
「色々試してダメなときは、パソコン交換っていう奥の手もある。これは故障してますよってウソ言ってな」
そう言って車坂は笑った。
「君は、サポート業務の経験は?」
「いや、あの……ないです」
「社内サポートも、電話サポートも?」
「……はい」
ここの人と面接したときは、そういう経験は特に問われなかったのだが……。
「そう。じゃあ、覚えておけばいいよ。大体今のような仕事が多いから。後は雑用だね」
と特に左近田は経歴を問題視していないようだ。
「つか、むしろ雑用のほうが多くね?」
車坂はそんなことを言った。どうも彼は、不平屋らしい。何かというと文句ばかり口にする。
「まあね、でも、しょっちゅうシステムトラブルやPCトラブルが起こるのも問題だけどね。雑用の方がマシさ」
「だけど、正社員の連中、明らかに俺たちを雑用係だと思ってるじゃないスか」
「まあ、下に見てるのは間違いないね」
「でしょ。ときどきマジ切れそうになることあるし。伊是名さんも、やってるうちにプチプチ来るようになりますね」
「はあ」
「こらこら、来た早々やめたくなるようなこと言うなって」
そう言って左近田は笑った。
7部3課の居室に戻って、ふたたびユメマフのマニュアルを眺めていると、
「新人さんが来たって?」
と壁の端からひょこっと顔が現れた。女性だ。なかなかの美人である。
左近田が、
「おつかれさまです」
「乙様~」
そう言って悠平よりやや年上らしきその女性は、壁の隙間から入ってきた。隣の部屋とは可動壁のパーティションパネルで区切っているだけなので、端っこに一人分くらいの隙間があるのだ。
「こちらがうわさの新人さんね」
「は、はい、えーと……」
立ち上がってたずねると、左近田が、
「隣の2課の祖父江由美子課長だよ」
これが課長さん? こんな若いのに?
驚いた悠平は慌てて頭を下げる。
「はじめまして。伊是名悠平です。よろしくお願いします」
「ユーヘイ君かー、ふ~ん」と下の名前で呼んで、じろじろと品定めするように見てから、
「よろしくね」
悠平の見た目は彼女の合格ラインだったのだろうか。
「……あの、うわさの、ってなんですか?」
「うん? ああ、まあね、ほら」
「……?」
「7部3課に来るなんて気の毒な新人は誰だろう、ってことスよ」
と車坂が言った。
「気の毒……」
祖父江課長はくすっと笑い、
「あなたも騙されてつれてこられたクチでしょう」
「騙されて……ですか?」
「ここに来る条件とか。ウィンドウズがわかれば十分、とか言われなかった?」
「言われました!」
「でしょ」
「やっぱりな」
「ま、そういうもんさ」
と祖父江課長、車坂、左近田の3人が続けて言った。
たしかにユメマフのことといい、さっきのサポート作業といい、事前にはまったく話がなかった。むしろ、細々とした雑用に、たまにセキュリティ管理の仕事とかあるから、くらいのことしか言われていない。
悠平は急に不安になり、
「あの、ど、どういうことでしょう」
「断られるわけにはいかないからだよ。よくあるんだ。そういうお仕事は遠慮しますとか言われてね。多いのは、来てから話が違うって言って辞められたりするわけだけどね」
「こないだ辞めた山本とかな」
「はあ……」
それを騙されたこの僕に言われても……、と悠平が戸惑うのに気づかないのか、
「それで人数が足りなくなると、とにかく適当にごまかして人員を補充するわけさ」
「それでまた話が違うと辞められる」
「それ……悪循環といいませんか?」
「そうともいうかな」
「いやいや、それしかないスよ」
と車坂は笑う。
笑い事じゃない。
「うちの部長や才野木課長も派遣会社なんかに適当なことを言ってるしね」
「部長は特に、でしょ」
「調子いいからな、部長は」
「派遣会社だって、うすうすわかってるわよ。うちの課なんて毎度毎度そうやって人雇ってるもん」
「祖父江課長、あんたもかよ」
車坂は呆れて言った。
「ま、あきらめて覚えていくしかないね」
「ないわね」
左近田と祖父江が続けてうなずくと、
「イヤイヤ、大丈夫さ、たいしたことないって。みな新人をからかってるだけさ」
と今度は一転、うそ臭い笑顔で車坂が取り繕った。辞められては困るからだ。他の二人はとぼけたような表情であらぬ方向を見た。
悠平が情報本部第7部第3課でサポートの仕事をするようになって10日が経った。
その日、第3部からお呼びがかかり、彼は一人で対応に出た。
呼んだのは、鍋谷、と言う男だった。正社員である。
「なんでできないんだよ」
鍋谷は言った。
彼は、メールソフト、いわゆるメーラーに、暗号化ソフトを組み込むよう依頼してきたのだ。そうすればメールを暗号化でき、安全性が高まる。もともとメーラーは暗号化するようになっているが、それを強化するのである。特に社外へメールを出すときには暗号化してないと社内システムが送受信を拒否してしまう。また誤送信を防止するチェック機能や添付ファイル確認機能もついている。業務には欠かせない。最近はウェブメールや、ビジネス用SNSでやり取りする会社も増えているが、ユキハラグループではユメマフ管理下のネットワークで使うことと、セキュリティの関係で、外部システムは使用しないことになっていた。
で、メーラーの暗号化だったわけだが、
悠平は、その暗号化作業を断ったのである。
業務に慣れてきて居丈高になった、と言うわけではない。
「ですから、このメーラーは、会社指定のソフトではないため、サポート対象外ですので」
「どのメールソフトにしようと、俺の勝手だろうが」
「そう言われましても」
「ていうかさ、おめーさ、やり方わかんないんだろ」
実はそうなのだ。
悠平は黙った。
ただ、言い訳させてもらえるなら、会社指定のソフトに暗号化ソフトをインストールして設定する方法は知っているのである。教えてもらったので。
鍋谷は、使い勝手が悪いと指定のメーラーを使うのをやめ、別のフリーソフトを入れた上で、暗号化設定しろ、と依頼してきたのだ。
で、別のソフトになると悠平にはどうにも出来ない。業務的にも知識的にも。
メーラーは基本的にどのソフトも同じことをするので、機能そのものがまるきり違うということはないのだが、設定の操作方法はまるで違う。コマンドの名称も微妙に違っていた。機能としてすることが同じである以上、妙なところに差異を持たせようと、ソフトウェア会社の開発者は考えたのではあるまいか。
特に暗号化設定がわけわからない。
指定メーラーの場合は、この会社の開発部が素人でも設定出来るようにと、インストーラーを作ったため、ほぼ、次へ、次へとクリックするだけだが、他のソフトの場合、わざわざ設定タブなどで詳細に入力しないといけないため、難度が上がる。
そもそも悠平は、暗号化の仕組みすらよくわかってない。公開鍵暗号とかなんとか言われても、判ったような判らないような。頭がごちゃごちゃになるのだ。
文学部出身の脳みそでは無理だ。理工系とは脳内のシステムが違うんじゃないのか。
などと悠平は思った。
で、実は鍋谷もよくわかってない。
指定メーラーであれば鍋谷でも設定出来るわけだから、違うメーラーにした時点で、鍋谷レベルの悠平の手には負えないレベルになったのだ。
つまり悠平も鍋谷もお互い様のはずなんだが……。
「おめーじゃ話にならない。左近田呼んでこいよ」
「いや、ですから、何度も申しましたとおり、会社指定ではないメーラーは」
「うっせえよ。さっさと呼んで来い」
悠平はしぶしぶ7部3課に戻った。
「左近田さん」
「ん? 終わった?」
「いえ、それが……」
「どうかした?」
悠平は事情を説明した。
「ああ、それで僕に来いって言うわけね」
「すみません……」
「いいよいいよ」
左近田は気軽に立ち上がった。
悠平としては、会社指定を守らない鍋谷の言うことをあえてきかなければならない義務はないのだが、知識があれば、「今回だけですよ」などと恩を売りつけながら、さっさと済ませておけるわけで、知識の無さの方が情けなかった。だから断り切れないのだ。
3部に戻ると、鍋谷は不機嫌そうに待っていた。
「もうちょっと急いでくんねーかな、こっちはあんたらと違って忙しいんだよ」
「失礼しました」
「これがあんたらの仕事なんだから、ちゃんとやれよ」
「メーラーに暗号化の設定でしたね」
「そうだよ、そっちのは」
と悠平をあごで指し、
「わかんねーくせしてイロイロ言い訳するからな」
「なるほど、で、メーラーはこれをお使いですか」
「そうだよ。暗号化頼むわ」
「残念ですが、これはサポート対象外です」
左近田はあっさりと言った。
「あ……?」
「ではこれで」
「あ、ちょ、ちょっと待てよ」
「なんでしょう」
「そっちのやつはともかく、あんたは詳しいだろ」
「詳しいとかそうでないとかではなく、サポート対象外のものは出来ません。それが我々の仕事ですから」
と『我々の仕事』を強調した。鍋谷はやや鼻白んで、
「だから、そこをなんとか」
「なぜ対象外かお分かりですか?」
「な、なぜって……」
「社内のシステム開発は、特に利用すると想定されたソフトにあわせて行っています。つまり、対象外のソフトは、なんらかの不具合が起こる可能性が高い。不具合はサーバーの方にも影響しますから、他の方にも波及するおそれがあるのです。また、セキュリティホールの危険性も解消できません。だから、あえてサポート対象外として、指定のソフトを使ってもらうようにしているのです」
「そ、それはわかるけどさ、指定のメーラー使いにくいんだよ、おれ的には」
「そうですか。大変ですね。では、これで」
「ま、待てって! なんなんだよ!」
「なんなんだよ、とおっしゃられましても」
周りの社員が何事か、と言う顔で彼らの方を見た。
鍋谷はやや小声で、
「不具合が起こる可能性といっても、メーラーなんてどれも似たような機能しかついてないだろ」
「問題は、機能ではなく、プログラムの相性の問題です」
鍋谷は言葉に窮し、舌打ちした。
「つかえねえ」
「なにかおっしゃいましたか」
「なんでもねえよ!」
「このメーラーをお使いになるのはあなたの自由ですが、自己責任でお願いいたします。もっとも今のままではユメマフがメールを遮断してしまいますが。ちなみに、社内サポートデスクに問い合わせしても同じことを言われますのでご了承ください」
「……」
左近田は行こうとしてから、わざとらしく振り向き、やや大きな声で、
「ああ、言い忘れておりました。使用ソフトの制限には、ライセンスの問題も絡んでおります。著作権法に違反してソフトを使用した場合、当社は対外的な批判を受けることになりかねません。そこで社内で使うソフトウェアは、基本的にまとめてライセンスを取っております。ですから指定のソフトを利用して頂くことをお奨めしているのです。なお、フリーソフトでも著作権はありますので、それを業務で使ってよいかどうかは、知的財産部著作権課へお尋ねください。またサポートで認可されているソフトについてご不満がありましたら、開発部ソフトウェア管理課までお問い合わせください。開発部と知的財産部の代表内線番号は……」
と番号を口頭ですらすらと言うと、
「では行こうか、伊是名君」
「は、はい」
二人は呆気にとられた様子の鍋谷を残して部屋を出た。
「あれで、大丈夫なんでしょうか。あとで問題には」
「大丈夫だよ。そもそも指定外を使おうとしたのだから、彼の言い分は通らない」
「そうですけど……」
「それでも文句を言うなら、社内コンプライアンス委員会に通報するまでさ。著作権法違反及び情報漏洩の危険性を認識していないとでも言えばいい。困るのは彼と、直接の上長である郷田渉外情報担当課長だね」
「はあ……」
「ちなみに、あのメーラーでの設定方法を教えようか」
「あ、できるんですか? ぜひ」
「インストーラーがないので、手動でやることになるんだ。まず、業務提携しているセーフコード社から暗号化ファイルをダウンロードしたあと、メーラーを起動して、セキュリティタブからダウンロードしたファイルをインポートする。でもそれだけじゃ使えないので、インポートしたファイルのプロパティを開いて、社内ネットワークの詳細設定をする。これでいいように思うが実はこれでもまだダメで、ユメマフが認識しない。そこで、今度はその設定ファイルをエクスポートし、適当な場所に保存する。ユメマフのインポートコマンドから開いてユメマフ用に個別設定をしたあと、メーラーを再起動してから、保存したファイルをメーラーにインポートしなおせば完了となる」
一気に説明し終えてから、
「わかったかな」
「覚えきれません」
左近田は笑い、
「ま、指定ソフトじゃないから、やっちゃだめだけどね。でも、知ってると強みになるよ」
「そうですよね……」
知らないがゆえに、発言力が弱くなるのだ。
「いくつかのソフトのやり方をメモしたファイルを君宛てにメールしとくよ」
「ほんとですか、助かります」
「3課の連中は外国人相手の業務が中心なので我が強いんだよね。だから人を見下す態度の社員も中にはね。でもまあ、気にすることはないよ。ふだんはいい人多いから」
「はい……」
「でもまあ、外人相手だからといって、ああいう態度で正しいとも思えないけどな」
左近田はそう言って笑った。
しかし、悠平は早くもこの仕事を続ける自信をなくしつつあった。スキルも乏しい、立場も弱い、そう言う自分が情けなくなってきた。
もっと色々勉強しておけば良かった。
社会に出ると後悔することでいっぱいだ。
ここでどれだけ仕事を続けられるだろう……。
短期間で辞めて、またどこか別の会社へ行って、そのくり返しになるのだろうか……。
鍋谷とのトラブルがあった翌日。
『おはようございます、伊是名様。本日は良いお日和ですね。午後は少し暑くなりそうです。本日のスケジュール登録は今のところございません。メールを読み込みます』
ユメマフが起動すると、ベリーショートの髪型をしたユメマフのアバターが話しかけてくる。実にリアルな動きだ。相当メモリを食いそうだが、そうでもないのかPCはさくさく動く。まだろくに使っていないので、データのゴミもたまってないから、負担も少ないのだろう。またプログラムの多くがサーバー側にある。サーバー側のメモリは大変なはずだが、クライアント端末は動作が軽くなる。
アバターは、その日の気象情報を元に「お日和」だの「あいにくの」だの「蒸し暑くなりそうです」だのと天気の話をし、社内ワークフローシステムに登録された各人のスケジュールに合わせて語りかける、いわば秘書のような機能である。悠平はここまで特徴的なサポートシステムを他の会社で見たことはなかった。
「まだ秘書機能をオンにしたままなんだ」
車坂が後ろを通りがかって声をかけてきた。
「あ、おはようございます。ていうか、車坂さんはオフにしてるんですか?」
「最初は面白いなー、っておもったんだけどね。動きもリアルだしさ、声もヴォカロよりイイし。声優さんにサンプリングしてもらったって話だけど、でも、だんだんうざくなってくるんだよね。リアルすぎるのかもな、もちょっと二次元っぽかったらいいんだけど」
そう言いながら車坂は窓際のキャビネットを開けて探しものをしている。
「はあ……そういうもんですか……」
「俺、音声入力機能もオフにしてるしな」
声で操作できる機能だ。各ユーザーの声を聞き分けているため、そばで別の人が命じても反応しない(もちろん反応するように設定するのは可能だ)。
悠平はまだそれもオンにしている。
『伊是名様、メールの着信はございませんでした。ご命令をどうぞ』
アバターはにこやかな笑顔のままでいる。
「メールがないのを言われるとなんか寂しくね?」
「さびしいです……。それに、なんか、ご命令をどうぞ、と言われて、ずーっと、このままだと、何か命令しないと申し訳ないような気になるんですけど」
「だろ? 俺もそうなんだよ。落ち着かなくなるって言うか。……伊是名さんもだんだん馴染んできたな」
「こういうの、馴染むって言います?」
そこへ才野木課長が入ってきた。
「伊是名くん、やっと社員カード出来たよ。臨時カードと交換ね。1週間以上もかかるとは妙な話だ。ユメマフの登録で時間食ったとか言ってたな……」
「おっとお、これはユメマフに嫌われたかな」
車坂は何故か嬉しそうに言う。
「ええ~……、それはそれでなんか哀しいですよ」
「あるいは逆に、妙に気に入られて、色々調べられていたのかも」
と左近田。
「いや、それはそれでなんか怖い……」
「詳しいことは知らないけど、総務部の人はそう言ってたよ。はい」
と課長が手渡す。
「おそれいります」
とカードを見た。自分の顔写真がプリントされている。初日に撮ったのだ。
「……」
なぜだろう。免許証にしても、こう言うのにしても、写真に写っている自分の顔が変に見えるのは。微妙に変な笑顔になっている。
「よし、きちんと機能しているか確かめようぜ」
車坂が言った。悠平はうなずいて立ち上がった。
まず、入り口ドア横の端末にかざしてみる。ピッと音がして、がちゃん、と電子錠が開いた。
次に、一旦ログオフしたパソコンの読み取り機にかざしてみる。パスワード入力画面が現れた。ちゃんと読み込んでいるようだ。
最後に複合機の読み取り機にかざした。
印刷もなにも実行していないので、モニターには「ジョブはございません」と表示されたが、これもちゃんと読み込みの機能は確認できた。
「いまどきどこの会社もそうですけど、セキュリティはうるさくなりましたよね」
「だよな。ほんの4、5年前は、こんなに細かくはなかった。パソコンだって、もっと単純に使ってたもんな。エクセルとかパワポとか」
「この分野は10年一昔どころか、5年大昔だからねえ。覚えるのに一苦労だよ」
と才野木課長も言った。
「課長。だから我々のような社内サポートが必要なんですよ」
と左近田が言った。もちろん課長に対する皮肉だ。課長が、悪かったな、覚えられなくて、と笑みを浮かべて反論する。
「でも、このユメマフのようなシステムは、余所にはみないですね。ERPとか、ワークフローシステムに似てますけど、特にユメマフがユーザー個別に対応してくるところとかは独特です」
「そうだな。こいつはちょっと特殊か」
「前に自律マシンとか言ってましたけど、どこが開発したんですか?」
「ここだよ。言わなかったっけ。ユキハラ本社開発部謹製さ」
へえ、と悠平は感心した。まあ、自律マシンは冗談だろうが。
「社内向けでこれほど凝ったのを開発するなんて、なんていうか、お金持ちですね」
「あれじゃね? いずれはもっとシステムを軽くしたのをオフィス向けに売る気とか。まあ、これでも結構、動きは軽いとは思うけど」
「メモリへの負担も少ないですね。ネットゲームの方が重い感じがする」
「ビジュアル面はアバター以外おとなしいからだろ。でも、ユメマフの本体はサーバー側にあるから、各クライアントPCのプログラムは小さくて済むんだよ。回線の許容量と安定性さえ確保できれば、普通のオフィスソフトよりはずっと軽いはずだ。幸いここは自社ビルだから、回線の設置は会社側の都合に合わせられるだろ。ネットワークのゲートも一元管理出来ているから、セキュリティもやりやすい。まあ、一種のシンクライアントシステムだからさ。クラウド事業の賜物かな」
「車坂さん、詳しいんですね。そっち方面の専門なんですか?」
「いやいや。まあ大学は情報工学系だったけど。そんなにはね。いま言ったことは、開発部が宣伝しているのの受け売りさ」
「そうなんですか……」
「おいおい、見たかね左近田くん。車坂くんが謙遜しているぞ」
「珍しい光景を目の当たりにしましたね、課長。おめでとうございます」
「うむ、これはあす台風でもくるかな。今日は早退するか」
「ふたりとも、どーゆー意味ですか、それは」
「いやなに、自慢と不平の二文字しかなかった君の辞書に、謙遜という新たな文字が書き加えられた記念すべき今日という日を祝っているのさ。乾杯」
「乾杯!」
課長と左近田はカップとペットボトルを掲げた。
「わけわかんないことで乾杯しないでください」
こうして、その日は無難に始まった。昨日のことがあった上に、来たばかりで覚えることの多い悠平は、余裕があまりない様子だったが、他の3人は慣れた風でのんびり仕事をしていた。
なにしろ第3課は、業務補助のような仕事ばかりなので、依頼があるときは大忙しになるが、ないときはほんとに暇なのである。
第7部第3課のお隣は、第2課である。
第2課の課長は、祖父江由美子28歳。この大会社で若いのに課長という、けっこうエリート女子社員だ。
情報第7部第2課はデータまとめ担当である。
全社で集め、情報部を中心にまとめた情報のうち機密度の低いデータを分類して、ユメマフの専用データベースに入力していく。それが主な仕事だ。
ほかに情報閲覧用のイントラサイトも管理している。それによって、データは本社以下各支社子会社支店全てに閲覧できるようになり、部課ごとや、親会社と子会社といった組織を横断した連携もスムーズになる。
そう言う目的のために設立されたのが、第2課である。
なので、集まってくる情報を、ひたすら、システムに入力し続ける。作業的には、ウェブコーダーやキーパンチャーという業種に近いものがある。イントラサイトもCMS(コンテンツマネジメントシステム)に入力して作るので、HTMLなどのマークアップ言語は知らなくてもできる。ただ画像の編集ソフトの知識は必要だった。
第3課と違い、一日中、座って同じような仕事をしている。
重要な仕事だが、いまひとつ、評価が低い。頭を使ってないように思われているのだろうか。
担当管理職である祖父江課長も、あまり満足していない。
「なんかね、毎日毎日、入力ばかりと言うのもね」
以前、昼休みに部下の派遣さんたちとそんな話になったことがある。
「もっと、いろいろ頭を使う仕事もしてみたいな、って思わない」
「おもいます、おもいます」
「私はこれの方が楽でいいな。なれちゃったし」
「だめよー、少しは上を目指さないと」
「ここでそれは無理ですって」
「こらこら、私ココの課長よ。そうはっきり言われるとへこむじゃない。……あーあ、私もココ止まりかしら」
「とか言ってー、ほんとは課長、寿退社狙ってるでしょ」
「わかる?」
そんな会話が交わされる。祖父江由美子は、女性で、28歳で、管理職なのだから、結構な出世組だが、雰囲気的にはあまり偉そうに感じさせないところがある。そんなところが部下の女の子達に慕われやすいのか、昼休みや休憩時間などに余裕があるときは、よく若い派遣の女の子たちと盛り上がっている。
が、
「そのようなことはないと思います!」
突然、大きな声が響いたので、皆ぎょっとした。
大声を出したのは、情報第7部第2課の派遣社員、秋野原高徳だった。
ひどくきまじめで大人しい男だ。23歳。
一応大学では理工学部情報工学科を出ているが、なにをどうしたか派遣社員をやっていて、7部2課に派遣されてきた。女子だらけの職場で、数少ない男子である。悠平と同じ、一人単位で派遣される「余り派遣」だ。CMSでイントラのページを制作している。
昼食から帰ってきて、自分の席でくつろいでいたら、課長らの話し声が聞こえてきたのだ。
彼は真面目に意見を述べた。
「ここでまとめられるデータベースは我社にとって絶対必要なものですよ。情報の共有は今の社会で最も重要なテーマです。縦割り行政のようなことをしている企業は熾烈な国際競争に負けるしかない。入力の仕事でもここは他より給与も高いし、それだけ重要視されていると言うことです。また、イントラとはいえ、ウェブページを作る仕事は、このネット社会においてはもっとも重要な業務の1つ。ここで経験したことはよそでも生かせますし、必要とされている仕事です。どちらも卑下する必要はないのです」
「秋野原君」
祖父江課長は目を丸くして彼を見た。秋野原はハッと我に返り、
「あっ、卑下してるわけじゃないですよね。すみません」
「いや、そうじゃなくて……」
「えっ。あ……、派遣の僕が我社なんて図々しかったですね。すみません、すみません」
ぺこぺこと謝る。
「そうじゃなくって、えらいなあって、思ったのよ」
「え? 僕が、ですか?」
「そう。そんな風に真面目に考えていたなんて、思ってもみなかったから」
「あ、いえ、真面目だなどと。お、恐れ入ります」
秋野原が恐縮すると、いいのよ、と祖父江課長は手を振り、
「ていうか、私自身、自分の仕事なのに、あまり評価してないから」
「そんなことないですっ。このような大変なお仕事を管理しておられるのです。ご立派だと思います」
「そ、そお? ありがと」
祖父江課長は照れてしまった。
周りの派遣の女の子達は、二人の様子を交互に見て、
「ねー、この会話、どう思う?」
「100ぱー、どーでもいい」
「同感」
と視線を交わし合った。
ちょっと前にこのようなことがあってから、祖父江課長は、秋野原君を高く買うようになった。
「秋野原くん、知らない?」
何事もなく終わりそうな夕方、祖父江課長が2課と3課の壁の隙間から顔だけ覗かせて聞いた。
「お疲れ様です」
左近田が挨拶した。
「乙様~。で、秋野原くんだけど」
「知りませんけど」
と左近田は3課の面々を見た。車坂が首を横に振り、
「知らないスよ」
悠平も顔を上げて、さあ、と首をかしげた。
彼はちょうど、メールを送信するところだった。
社内のイントラネットに、総務部とシステム部から、今日の夜から行われる社内電源系統およびネットワークシステムの整備点検のアナウンスがでていたので、それを情報部全体へ周知するため、メーリングリスト宛のメールを書いていたのだ。どの端末からも見ることが出来るイントラのトップ画面を見れば、社内周知が表示されるのでわかることなのだが、社員らは案外見ていないらしく、しばしば情報が届いてないことがあった。
そこで情報部の社員全員宛に、彼が周知内容をメールで知らせる。
そう言う雑用も3課の仕事なのである。難しい仕事ではないので、悠平が任されたのだ。
車坂が、
「てか、誰スか、その秋野原って」
「知らないで、答えてたのか」
と左近田は苦笑したが、
実は悠平も秋野原って誰だろう、と内心思っていた。
祖父江課長は、
「うちのメンバーよ。みんな知らないか。変ねえ……」
「いないんですか?」
「いないのよ。用事を頼もうとしたんだけど」
「いつからですか?」
「うーん、はっきりとはわかんないんだけど……。そういえば、昼頃から見かけてないような気がするのよね……。いないから、用事でどこかに行ってるのかと思って帰ってくるのを待ってたんだけど」
「用事言いつけたんですか?」
「それが、私は用事を頼んでないのよ。ていうか、これから頼もうとしたんだけど」
「それを察知して逃げたんじゃないスか?」
「普段からこき使って嫌がられてるんじゃないかね?」
車坂と才野木課長がからかう。
「失礼ね」
周知メールを送信し終えて、悠平は話に加わった。
「帰ったんではないんですか?」
「そうかしら」
祖父江課長は首をひねった。
「黙って帰るとも思えないけど。それに昼に帰るかしら」
「祖父江さんが席を外しているときに帰ったのかも知れませんよ」
「うーん……」
祖父江課長はさらに首をひねる。車坂がなんだか嬉しそうに、
「挨拶ナシでこそこそ早引け?」
「やっぱりこき使ってるからだな」
「なによ」
「結構ノルマ厳しいからなー、祖父江課長は」
「なんでそんなことわかるのよ」
「本当なんですか?」
とわざとらしく悠平も聞く。
「き、厳しかないわよ」
「ほんとかなー」
「だ、大体ね、秋野原くんは、あなた達と違って、真面目でいい子なのよ」
「おい、俺たち不真面目か?」
とひそひそ声で車坂が言った。悠平も首をひねって、
「真面目にやってたつもりですけど、もしかするといい加減だったかも知れません」
「祖父江課長のハードルは高えんだよ。うちの課長は低いけどな」
と言って車坂は笑う。
左近田が生真面目な顔で、
「いい人ほど、ストレスがたまって、でも上司に言うに言えず、あるとき、いっぺんに爆発したりすると聞きますね」
才野木課長も、重々しくうなずき、
「そうだな。ぷいって帰ったりするのは、その前兆だな」
「そうなんですかー、それで」
と悠平はまじめな顔でうなずいた。
「大事にかわいがってやんなよ。秋野原君、祖父江課長の秘蔵っ子なんだろう」
「才野木課長、それはどういう意味かしら」
エリート女子社員祖父江由美子の寿退社願望は、結構知れ渡っているのだった。
「要するに、今日中に終わらせなさい、とか言わないことだぜ」
祖父江とほぼ同年齢の車坂はタメ口を聞いた。
うっ、と祖父江は声をつまらせた。昨日、そんなこと言ったのを思い出したのだ。
「部下をこき使わなくても、自らいい仕事をしていれば、自然と部下はそれを見習って努力するようになり、組織として効率よい仕事が出来てくるもんなんだよ」
と才野木課長がさらに言うので、
「こき使ってなんか無いって……、言ってるじゃないのよ」
ちょっとぶんむくれて、祖父江課長は2課へと顔を引っ込めた。
「てか、才野木課長、いま珍しくいいこと言ったんじゃね?」
「立派なことは軽々しく口に出してはいけないものさ。たまに言うから立派に聞こえる」
左近田が重々しく言う。
「じゃあ、立派じゃない人でも、たまに言えば立派に聞こえるってことスか」
「聞こえてるぞ、君たち」
と才野木課長は睨んだ。
「しかし、祖父江くん、ちょっと自信をなくしているな」
「ですね」
「こき使ってたかな」
「どうですかね」
どうでもいいや、という風に車坂は言った。才野木課長も伸びをして、
「さあて、今日はもう何も起こりそうな様子もなさそうだし、我々も定時であがるか」
「そうですね」
3人ともちゃっちゃと片付けをはじめた。3課に残業精神は皆無である。
「たまにはどうだ、帰りに一杯」
「お断りしまス」
「僕用事がありますので」
「すみません」
「そ、そうか……」
3人同時に断られて才野木課長はちょっとへこんだ。
翌日。
悠平が出勤して30分程した頃、祖父江課長が可動壁の隙間から入って来た。
「あ、おはようございます」
「乙。秋野原君見なかった?」
「またッスか~?」
さすがに車坂が呆れたようにいうと、
「また、じゃなくて、昨日からずっとよ」
「は?」
「だから、昨日からずっといないのよ」
「まさか」
「そのまさか」
祖父江課長は顔をしかめた。
「昨日、黙って帰って今日はまだ来てないとか」
「そうかしら」
「まだ9時半ですよ」
「もう9時半なんだけど。てゆーか、彼は9時出勤」
フレキシブル通勤を採用しているので、人によって出社時間はまちまちだが、協力社員は、ほぼ9時出社と決まっている。
「電車でも遅れてるんじゃないですか」
「そんな情報ある?」
「調べてみましょうか」
悠平がネットで検索をはじめる
「ああ、ありました。横須賀線遅延だそうです」
「じゃあそれだ」
「彼、そっち方面じゃなかったわよ」
「どっち方面ですか」
「たしか三鷹とかあっちの方だったと思う」
「中央線か」
「なら遅れてるのかも」
と悠平。
「中央線も遅れてるの?」
「情報はないですけど、あの路線は定時運行しないことで有名ですから」
「おいおい、それ日本の話か?」
「妙なことが有名なのね」
「言っても2・3分ですけどね。それに僕、中央線ユーザーなんです。立川に住んでますので」
「ああ、それで詳しいのね。……っていうか、それだったら遅れてたかどうか見なくてもわかるでしょっ」
「確かに、今日は遅れてませんでした。珍しいことに」
「あのね」
「同じ路線なら、伊是名くんは、秋野原くんを見たことあるのか?」
「いや、ないです」
悠平は首をひねった。
「同じ方面とはいっても、利用する路線が違うのかも」
「西武線とか、京王線とかか?」
「それもありますし、三鷹からなら、緩行線も走ってますから」
「緩行線?」
「総武線とつながっている各駅停車の路線です。中央線と平行に走っていて、中央線は快速です。中央線にも各駅に停まる快速とかありますけど」
「言ってる意味わかんねーけど。各駅は各駅じゃん」
「緩行線の方が駅が多いんです。けど、それらの駅には中央線側にホームがないんです。ホームがなければ絶対に止まらないので、その分だけ、快速、と言うわけです」
「ん? つまり、ホームのない駅は止まらない、けどホームのある駅には全部止まるから」
「快速だけど、実は各駅停車、ということです」
「ややこしい」
「それより上の特別快速もあるんですよ。ほんとの快速です。立川とかなら、そっちの方が便利なんで」
「そういうの常磐線とかもそうだったような気がするな、確か」
と左近田も言った。
「じゃあ、秋野原くんとやらに遭遇しない可能性もあるって訳か」
という車坂の発言を聞いて、ふと気づいた左近田が、
「伊是名くんは、秋野原くんの顔を知ってるの?」
「いえ、知りません」
あっさり否定。
「だったら、遭遇してるかわかんないでしょ」
「なるほど、そーですね」
「あのね」
祖父江課長は呆れた。
「まあまあ、もう少し待ってみたら」
「……そうね」
とため息をついた。
お昼……。
「やっぱり変よ」
と壁の隙間から祖父江課長が顔を出すなり言った。隙間はほとんど出入り口と化している。
もはや主語も省いて、
「来ないんですか?」
「そう」
「電話してみました?」
「家にかけてみたけど誰も出ない」
「彼、一人暮らしですか?」
「知らないけど」
「事件ですね」
車坂はニヤッと笑って言った。
「事件?」
「一家皆ゴロシ」
「ヤナこと言わないでよ」
「それたぶん違うぞ」
と才野木課長。
「何故わかるんですか?」
「昨日もいなかったんだろ。途中から」
「なるほど、皆殺しじゃないですね」
と悠平。
「いやいや、皆殺しの現場に帰ってきて、犯人に遭遇して、」
「殺された、ですか」
「ありがちじゃねーか?」
「ありがちではなかろう」
「でもそうなると、昨日いなくなってからずっといないってことになりますね」
「だから最初からそう言ってるじゃない!」
祖父江課長が呆れた口調で言った。
「うーん、これはやはり事件ですね」
車坂は探偵風の口調でうなずいた。なにがしたいのか、嬉しそうだ。
「どういう事件よ」
「いま考え中です」
「あのね」
「携帯にかけてみました?」
と左近田。
「あ、忘れてたわ」
「いや、普通はそっちが先でしょう」
「うるさいわね」
才野木課長が振り返って、
「きみたち、祖父江課長を責めてはダメだぞ。彼女は昔かたぎの人だから、電話って言ったら固定電話なんだよ」
「いまどきですか?」
「しかも黒電話」
と左近田が言い、悠平と車坂が吹き出す。
「そこ、聞こえてるわよ」
祖父江課長はじろっとにらんでから2課に戻り、秋野原の携帯にかけてみた。
ちょうどタイミングよく誰かの携帯からも着信メロディが聞こえてくる。
が、誰も電話にでない。
「ちょっと、だれかケータイ鳴ってるわよ」
祖父江課長が受話器を押さえて言うと、2課の面々は顔を見合わせた。
変な沈黙のなか、着信メロディーだけが鳴っている。
祖父江課長は受話器を見た。
まさか……?
全員が音の聞こえる方を見た。
一つだけ空いている席の下辺りから聞こえてくる。
言うまでもなく、その席は行方知れずの秋野原君の席だった。
受話器はそのままに、近づいてみると……
机の下に鞄があり、なぜかその上に、ちょこんと携帯が置かれていて、メロディが鳴り続けている。青いダイオードが点滅していた。ガラケーである。
携帯を手に取ろうとしたら、コードが繋がっていた。充電したまま置きっぱなしにしてあるのだ。そこで着信音はきれた。電話を切った訳じゃなく、留守電機能が作動したのだ。
コードを抜いて折り畳み式の携帯を開く。着信履歴で課の番号が表示されている。祖父江課長がいまかけていた電話だ。
「秋野原君、ケータイ忘れて帰ったのかしら……」
「鞄もそのままですよ」
「わかった!」
いつの間にか真後ろにいた車坂が声を上げたので、祖父江課長はちょっと引き気味に、
「な、なによ」
「これは事件です」
「さっきから事件事件て。一体なんなのよ」
「今度は自信あります」
「だからなに」
「2課から何かなくなってませんか」
「何かって何が?」
「物でも、お金でも。あるいは今入力作業中のデータとか」
「何が言いたいのよ……」
祖父江課長は半目になって聞き返す。
「彼はスパイか泥棒だってことです」
「何を言い出すかと思えば」
顔をしかめた。お気に入りの部下をそんな風に言われたら当然だろう。
「証拠は?」
「その置きっぱなしの鞄とケータイですよ」
「はあ?」
「スパイが忘れていったというのかね」
と才野木課長もやって来た。
「いえ。カムフラージュですよ」
「カムフラージュ?」
「そうやって置いてたら、まだ会社にいると思うでしょう。トイレにでも行ってるのかと」
「それで?」
「その間に逃亡するわけです」
「ははあ……」
皆なんとなく呆れてしまったが、
「なにか無くなっているものがありませんか」
と車坂は構わず聞いた。
すると……
「あれ、」と声が上がった。2課の横山彩という協力社員、すなわち派遣さんだ。
「な、なに?」
祖父江課長はびくっとなった。
「ここにあったファイルが無くなっています」
「ファイルってなんのファイル?」
「データ入力完了の承認決済書を綴じたやつです。今月の」
「それって大事なものですか?」
と悠平が祖父江に聞くと、
「大事って言えば、まあ大事かな。うーん、どうだろ?」
「どうだろ、と我々に聞かれても」
すると横山が、
「仕事の経過を確認するくらいだけですけど。使うのは監査の時くらいですね。ミスがあった時に比較できるから。でもそんなに重要かというと」
「そうそう、ま、大したものではないわね。一定期間置いとくだけで、あとは廃棄しちゃうし」
祖父江は胸を張って言った。それを見て悠平が、
「どうだろ、とか聞きませんでした?」
「それを持ち出したんですよ、きっと」
と言う車坂に対し、横山が、
「スパイが持ち出す様なほどすごいファイルでもないですけど……」
「でもなくなったら困るんじゃねーの?」
「ユメマフにデータは保存されてます。それを単に紙に印刷しただけで、」
「なんだ、大したことないな」
「だからそうだって言ってるじゃないですか」
「ややこしいこと言うからだよ」
「あなたが勝手にややこしくしてるんじゃない」
「何を言うんだよ。大体、ユメマフにデータがあるのなら、わざわざ紙に印刷する必要ないじゃん。エコに反するんじゃねえの」
「この会社のルールなんだから仕方ないでしょう。好きでやってる訳じゃないわ」
となんだか当初の話とずれた方向へ、横山と車坂の二人が言い合っているのを横目で見ながら、
「スパイはともかくとして、」
と悠平は首をかしげ、
「何もかも私物を残したまま、戻ってこない上に連絡も付かない、というのは何かあったと考えるのが普通ですよね」
「だな」
と才野木課長。
「どこかで事故にでも遭ったのだろうか」
左近田も首をひねった。
「外に出たと言うことですか?」
「携帯もなにも置いたままだから、考えにくいけど」
「だから、そう思わせておいて……」
「車坂」
「はい?」
「コーヒー買ってきてくれ。ミルクたっぷりで」
「……」
才野木課長からお金を渡されて、車坂は渋々自販機コーナーへと出ていった。
「さて、冷静に考えられる面々だけになったところで」
「そうですか?」
という悠平の疑問は無視されて、
「続きだが、外に出ていないとしたら、このビルのどこかにいる、と言うことになる」
「急病を発して、健康管理センターに担ぎ込まれて寝ているとか」
「その場合、問題点が二つあるよ」
と左近田。
「といいますと?」
「ひとつ、大したことなかったら、薬を貰って戻ってくる。二つ、大した症状だったら病院へ運ばれている。……健康管理センターは病院じゃないからね」
「では二つめの大したことだったために、病院に緊急入院してしまったとか」
「その場合は、こっちに連絡が来るはずだよね。おたくの課の秋野原さんが病院へ運ばれました、って」
「そっか。そうですね……」
才野木課長は首をひねって、
「あとはなんだ? 迷子になったとでも言うのか?」
「迷子って、このビルの中でですか?」
「結構ややこしいぞ、このビルの構造」
「そうですか? このビル、大まかには、カタカナのロの字ですよね。上から見たとき」
「高層部分はね。だけど、下の方に行くと、ビルの幅が広くなるから、中は迷路みたいになっている。33階の大会議室フロアに行ったことあるかい?」
「月曜日にはじめて行きました。大会議室Aで第三部が国際事業部と一緒に国際会議するのでお手伝いに」
「ああ、あの時が最初か。でも、あのフロアの、マシンルームの辺りは行ったことはないだろう」
「はい、ないです。月曜日はエレベータと会議室Aの間だけでした」
「あのフロアはややこしいぞ。廊下が変なところで行き止まりだったり、クランク状になっていたり、上下のフロアとも全然違う構造になっている。ロの字型にもなってないしね」
「38階もややこしいわよね。あそこも大小の機械室や、システム管理部門の設管本部とかがあるけど、なぜかクランク廊下になってるし」
祖父江もうなずいて言った。左近田も、
「29階より下の、他社が入っているフロアなんて、ユキハラ本社とは全然違うよ。ひとつのフロアに複数の会社が入っている階もあるし」
「じゃあ、迷う可能性はあるわけですか。29階より下のフロアにでも行ったんでしょうか……」
ビル内で迷うかな、等と思いつつ、それでも悠平が聞くと、
「そんな用事は頼んでないわよ」
「知り合いでもいるんじゃないか」
と言いながら、車坂が入ってきた。
「もう戻ってきたのか。早いな。じゃあ、次はココアを」
「自分で買いに行ってください」
車坂は紙コップを渡しながら言って、
「だから、きっと余所の社に情報を流しに行ったんですって」
その説は全員が無視した。悠平は、
「でも本当に迷子になったんでしょうか」
「どうして?」
「だって、迷子なら……、例えば、どこかに行こうとして道がわからなくなったとかでしょう」
「それが?」
「それなら来た道を戻ってくるんじゃないかと」
「……まあ、そうだな」
「あるいは、通りがかりの人に尋ねるとかね」
と祖父江課長。すると悠平は眉をひそめ、
「道を聞くんですか?」
「あら、なんか異議ありな口調ね」
「だって、社内ですよ。他の部署の人に、あのーすみません、うちの部署はどこでしょう、って聞くのなんかいやです」
「俺も、それはしたくない」
車坂もうなずいた。祖父江も同感な様子でうなずき、
「でも、わからなければ聞くでしょう」
「そうかなー……」
と悠平が首をかしげると、才野木課長は、
「というか、その場合、一度一階まで降りて、入口から戻ってくればいいじゃないか。普段からしていることだから迷わないだろう」
「あ、そうか」
「降りるエレベータの位置すら解らなくなってるとかな」
車坂は笑った。
「エレベータだったら人に聞くんじゃないですかね。……ていうか、エレベータの場所なら廊下に案内出てますよね」
「やはり退社したんじゃないスか? 迷子になったとしても、丸一日迷子のままってことないっしょ」
「そういえば、この会社、タイムカードないですもんね。それがあるとわかるんでしょうが……」
悠平が言った。彼が以前派遣されたいくつかの会社は、大体建物や部屋の玄関のところにタイムカードが置いてあった。あまり電子化されてない中小企業や工場では一般的なことである。他にもネットワークに繋がったタッチパネル式の出入管理機やパソコンのログオンで管理しているところもある。
すると、才野木課長と祖父江課長は無言で顔を見合わせた。
「……」
「どうしたんです?」
「ユメマフの出退勤登録情報でしょう」
と左近田が言った。
えっ、と言う顔を、二人の課長はした。
「違いますか?」
「い、いや、それは……」
「出退勤情報ってなんすか?」
車坂が首をかしげた。二人の課長は少し慌てた様子で、
「ちょっと、こっちに」
と面々を3課の方へと連れて行った。2課の仕事をしている派遣さんたちが、不思議そうな顔で彼らを見る。
左近田が、
「この際、隠してもしょうがないんで、教えますけど、いいですか? もしかすると今度の件は事故かも知れませんし」
「い、いや。うむ……仕方あるまい」
「なんスか」
車坂は嫌な予感がして顔をしかめた。
「我々が常に首からぶら下げている社員証のこれ」
と左近田は首からストラップでぶら下げている社員カードをつまんだ。
「こいつの中にある無線タグは、普通、部屋の入り口やパソコンの読み取り機にかざすようになっているわけだけど」
「なんすか? それ以外にもあるって言うんですか?」
「その通り。我々がこのビルの外に出るときにも、外から入るときにも、読み取られているんだ」
「え? それって、つまり出社退社を読み取ってるって言うことですか?」
悠平は驚いて聞いた。
「そういうこと。特に退社をね。ビルの各出入り口にも読み取り機があり、そこを通過すると記録を取られるんだよ」
「マジで? 聞いてないぜ、そんなこと」
「教えてないからね、特に協力社員には。でも、常時携帯するように言われているだろう?」
「はい、それは言われました」
「……うそだろ。課長~!」
車坂はじろっと才野木課長を見た。
「あ、いや、一般社員にも教えられていない。課長以上の管理職にしか明かされてないんだ。私だってこのビルに引っ越してはじめて聞かされたんだよ」
「わたしもよ。課長になってはじめて聞いたわ。最初から知っていた訳じゃないの。……ていうか、なんで左近田さんは知ってるのよ?」
祖父江課長は聞いた。管理職でもないし、正社員でもないのに、と言いたげだ。
全員の視線を受けて、左近田は苦笑した。
「こいつの仕組みを開発したのは、海芝電機の無線カード開発事業部です。実は以前、別の職場で一緒に働いていた男が、そこに派遣されていたんですよ。それでビルの出入り口にも付けられていることを教えて貰ったことがあるんです。どのビルに取り付けたか、そいつが知っている範囲で教えて貰いましたよ。その中に、このスターヒルズタワーもありましたから」
「それで左近田くんは、知っていた訳か。来た時からかね?」
「いえ、でも、来た直後ですけど」
あっさりとうなずく左近田。
「……」
「……」
二人の課長は沈黙してしまった。車坂は、その二人をじろっとにらんで、
「なんか俺すっげー不信感湧いて来たんスけど」
「ビルの出入りまで監視されていたなんて、なんて言うか、監視社会ですね。SFみたいだ」
と悠平もいささか気味悪そうに言った。
「すまない。一応、守秘義務みたいなのがあって言ってはいけないんだよ」
才野木課長は申し訳なさそうな顔をしている。
「組合はなにもいわないのですか?」
「時々問題にはなってるのだが……さほどはな」
「その読み取り機は出入り口のドアのところにあるんですか?」
「読み取り機がドアの外枠のフレームの中にあるそうだ」
「でも、部屋の入り口やパソコンの場合は、読み取り機にカードをぴったり当てないと、認識しないですよね。下のドアではそんなことしてないですけど、読み取れるもんなんですか?」
それについては左近田が、
「パソコンとかの読み取り機は、簡易版で、性能を抑えているからだよ。性能の差で値段も違うしね。1階のドアのやつは2~3m離れていても、カバンの中に入っていても、高速で読み取れる。多人数がいっぺんに通ってもOKらしい。ただドア自体が狭いし、回転ドアだからスピードも抑えられる。読み取りやすいわけだね」
「そういわれれば、このビル、出入り口はたくさんあるけど、どれもドアは狭いなあ。自動じゃないし」
「大勢が高速で走り抜けられるようには出来てないんですか。あれは読み取りを正確にするためだったんですね」
「そう。パソコンとかと違って、数も少ないし、動かすこともない。一回設置すればしばらくは交換不要だ。だから高価で高性能なんだよ」
「あれ? でも、昼休みとかに外に食べに行くときも記録されてるわけですよね」
「そうだよ」
「それも出退勤記録になるんですか?」
「正確に言うと、ドアを通過した記録だけなんだよ。帰宅する場合は、外に出たあと、ずっと戻ってこないだろう。次の出社まで」
「それだけで判定しているわけですか」
「それに他の記録……、たとえば、部屋の出入り口の記録や、パソコンのログオンログオフの記録。それから出張の時は、ユメマフで事前申請するだろう? それに子会社のビルに出入りしたときの記録などを個人別にまとめておけば、総合してその人が出社したか退社したかが解るというわけさ。要するにタイムカードのように厳密に出社退社を記録している訳じゃなく、念のための参考として記録を取っているだけなんだ。……そうですよね、課長」
「ほんと、よく知ってるな……」
才野木課長は呆れた口調でうなずいた。
「人事や財務関係の方は良く解りませんが、このデータをいちいちこまめにチェックしてきちんと出社しているかを調べているわけではないんでしょう」
「ああ。出退勤や有給休暇の有無の判定に使っている訳じゃない。君の言うとおりで、あくまで参考記録なんだ。もし不正などが起こったときには、その記録を調べて証拠に出来る、と言うだけで、通常の状態では出退勤については、さほどうるさくない。毎月毎月それを確認している訳じゃないし、査定に響くわけでもない。だからあまり気にしなくていいんだ。組合で問題として取り上げないのもそれが理由でね」
「それでも、俺はなんかヤだな。こっそり記録を取られているなんて。それもだまって」
「その程度の扱いなら、公表してもいいんじゃないですか?」
「そうなんだけどねー。というか、私も課長になって初めて聞かされた時はショックだったわ」
祖父江課長はそう言って顔をしかめた。
「まあ、あまり言うわけにはいかないでしょう。その程度でも、訴訟を起こされたらコトですから」
と左近田。
「そういうことだろうな。悪いがこのことは内緒にしておいてくれ……」
「ここの管理職はそういうところに疑問を感じないのか……?」
車坂は不満そうにそうつぶやいたが、「訴えるぞ」と騒ぐ気はないらしい。
「それで、秋野原さんの記録を調べれば、彼が外へ出たきりかどうかもわかると言うことですね」
「その記録はどうやって見るんスか?」
不満げな口調で車坂は聞いた。
「管理職以上なら、ユメマフの社員情報で検索できるようになっている」
「へええ、見れるんですかー」
と車坂は、意味ありげな口調で言った。あんたらが監視してるわけね、と言いたげな感じだったので、才野木、祖父江の両課長は同時に顔をしかめた。
秋野原の場合、祖父江課長が上長になるため、彼女が人事管理端末で秋野原の入退社記録を見てみることにした。この端末は、人事異動などの時に使う人事管理用で、組織長である課長以上の管理職だけが、その組織内の分のみ、アクセス権限を持っている(よって課内の業務担当限定の課長の場合は権限がない)。端末は40階会議室エリアの横にある鍵付きの小さな部屋においてあった。そこからユメマフの出退勤情報を引き出してみる。
秋野原の入退社記録の一覧を見る。日時が詳細に記録されていた。通過したビルの出入り口、退社から入社までの時間間隔、退社と見られる場合のフラグ判定などが自動的に表になっている。
「ほんとだ。すっげー細かくチェックされている」
車坂が顔をしかめてつぶやいた。本来なら覗き込む事は出来ないところだが、ばれちゃった上に、それどころじゃない。
「入館記録はあるけど退館記録がないわね」
「ということは退社はしてないようだな」
それどころか、短時間の社外外出もしていないことになる。
居室に戻ってきた面々は首をかしげた。
「妙ですね」
「短時間もない、ということは、昨日からこのビルからは一切出ていない、と言うことじゃないですか」
「少なくとも、カードを持っては、と言うことだな」
「そっか、カードを持たなければ、記録はされないわけだ」
「それはエラーチェックにならないんですかね」
「ないね。センサーは、人そのものの通過を記録しているわけじゃないからな。カード無しで外に出ても問題にはならない」
「でも、カードは見当たらないわよ」
祖父江課長は、秋野原の机の周りや、荷物を覗き込んでみたがどこにもない。
「……ということは、彼はこのビルの中にいるわけか……」
5人は顔を見合わせた。
「……」
「……」
無言で視線が飛び交う。左近田が代表して、
「祖父江課長」
「な、なに?」
祖父江はあきらかに動揺している。28歳で大企業の課長という才媛とは言っても、胆力は28歳相応でしかない。
「これはやはり、通常の状態とは思えないので、通報したほうがいいと思います」
「いっ!? つ、通報って、警察??」
「事件性が確認できれば、警察でしょうが、とりあえずは、社のほうに」
「そ、それって、所管はどこになるの」
「うーん、社内で行方不明、と言う事例は聞いたことないから、確実とはいえないけど、たぶん社員サービス部ではないですか。感染症のときとか、物がなくなったときなんかの場合は、確かあそこに問い合わせたりするでしょう。……あと、警備部でしょうね」
はああ、と祖父江は溜息をついた。
「秋野原君、どうしたのよお。まじめでいい子なのに」
「前も言いましたけど、まじめな人ほど、どうキレるかわかりませんからね」
「ど、どうって?」
「たとえば、トイレの個室で首つっていたり~」
と車坂がおどろおどろしく言う。
「こ、ここ、怖いこと言わないでよ」
「じゃあ、男子トイレの個室、一つ一つ見てみます?」
悠平があっさりと言ったので、車坂の方が呆れて、
「俺らがするのかよ」
「そりゃまあ、関係者ですから」
「関係者じゃないだろ。関係者は……」
と車坂は、祖父江を見た。悠平も、左近田も、才野木課長まで、黙って彼女を見た。
「な、なな、なによお」
「まあ、こき使って死なれちゃったら、ねえ」
「部下にがんばってもらいたかったんだろうということはわかりますけど……」
「人間の心って言うのは、微妙だから、時には思いが伝わらないこともあるわけです」
「難しいところだよな~」
「これって、コンプライアンス的にはどうなんですか?」
「そりゃ最悪だろ」
「ユキハラ始まって以来の大事件だね」
と第3課の面々は好き勝手なことを言い出す。才野木がしめるように、
「じゃ、ま、あとはがんばって」
と各自席に戻ろうとしたので、
「まま、待って、待って待って」
祖父江は才野木と、悠平の腕を掴んだ。
「離したまえ、祖父江君」
才野木はわざとらしく厳かに言い、悠平は、
「あの、なぜ僕を」
とつぶやいた。
「ねえ、助けてよお」
「管理職は、常に部下に対して責任があるのですぞ、祖父江課長」
「そんなああ」
「あきらめてください」
と悠平までが言った。
「薄情なこと言わないでよ。わたし何も悪いことしてないよ。そりゃ、ときどき、今日中に終わらせてね、とかは言ったけど、でも、それは、秋野原君に期待していたからだし、別にパワハラとかしてないし、むしろほめていたし、ほんとだし、彼だって、特に不満があるようなことは言ってなかったし、いなくなる直前までは、全然、普通な感じだったし、大体、行方不明になってるだけで、首をつったかどうかはまだわからないし、一日以上たってるんだし、そんなんだったら、もうとっくに見つかって大騒ぎになっているわけだし、」
だんだん泣きそうになりながら、長々と愚痴をこぼし始めた。
「ああもう、わかりました、わかりましたよ。手伝いますから、この手、離してください」
「ほんと?」
「手伝うのかよ」
車坂が不満げに言う。
「ただし、探すのは、ですよ。彼がどうなったのかは、まだわからないのだから。それと、社員サービス部と警備部にはちゃんと連絡したほうがいいです」
「はい……」
祖父江はしぶしぶ、と言う感じでうなずいた。
「伊是名君、なかなか言うね」
左近田が感心したように言い、
祖父江はやや上目使いに、
「警備部にも通報しなきゃダメ?」
「甘えた声を出されてもダメです」
「だってぇ……」
「祖父江さん。よーく考えてみよう」
左近田が口を挟む。
「な、なにを……?」
「もし彼の身に何かあったらどうします」
「なにって、なによ……」
「まあ、それは想像にお任せするとして、そうなってから、なぜ通報しなかったのか、と言われたら、さらにマズイですよね」
「む……」
「今だったら、まだ秋野原君が行方知れず、と言う段階です。そこできちんと通報しておけば、その後で何かあったことがわかったとしても、通報したのだから、そのことで責任問題にはならないでしょう」
「わ……、わかったわよ。警備部にも通報するわよ」
祖父江は社員サービス部と、警備部に連絡を取ることにした。
電話を受けたサービス部の担当の社員は、祖父江の説明に「は?」と聞き返した。
「いま、なんとおっしゃいました?」
「ですから、うちの課の社員が一人、行方不明なんです」
「はあ……」
「それでとりあえずそちらにお知らせしておこうかと」
「あの……、それは警察にお知らせしたほうが良いのでは」
「いや、ですから……、その社員は、このビルからまだ出ていないようなので……」
「は? ビルから出てないのに行方不明なんですか?」
「そうです。ようするに、本社内で行方不明なんです」
「はあ……。でも……、それで、なんでうちの部に?」
「それは、私の方もどこに連絡すればいいのかわからなくて」
「……、うーん……」
とうなり声を上げて、なんだか困った様子である。
どうも、サービス部でも、ビル内で行方不明者が出た場合のマニュアルはないらしい。
まあ、当たり前と言えば当たり前である。
しばらく、うなり声がつづき、それから沈黙が流れる。
「……」
「……」
微妙に重苦しい雰囲気になってきた。そんなこと知らないわよ、という沈黙の主張が受話器を通してひしひしと感じられる。
とうとう根負けした祖父江課長は、
「あの、わかりました。とりあえず、他を当たってみます」
「はい、お役に立てなくて」
とほっとした口調のまま電話はすぐに切れた。祖父江課長は受話器をにらんで、
「なによ、もう」
その様子を見つつ、左近田が首をかしげた。
「そういや、危機管理の対策担当部署って、どこなんだろう」
「地震や火事のときとかですね。どこなんですか?」
「それぞれの部で、個々に対応すると言うのが原則のはずだよ。避難とかの基本的なルールはあるけど」
才野木課長は言った。
「個々にですか?」
課長は、うん、とうなずき、
「情報第7部の場合、部長を代表として、合羽1課長と1課の篠崎総務担当主査が、災害時案内係担当だ」
「どんなことをするんですか?」
「非常用懐中電灯や携帯ラジオを倉庫から持ち出して、非常階段へ案内したりする役目だな」
「じゃあ、1課長に伝えます? 今回の件も」
と左近田が聞くと、課長は首をひねって、
「平時の行方不明者は担当してないんじゃないかな。ビル内のことだし」
「それに、俺、あの人かかわらせたくねえわ」
と車坂が顔をしかめた。
「なんでです?」
「伊是名さんは、来たばかりだから知らないだろうけど、あのかっぱえびせん」
「かっぱえびせん?」
「合羽課長のことだよ。合羽海老蔵(あいばえびぞう)と言う名前なんだ。まだ若いんだが」
と左近田が横から言った。
「変わった名前ですね。歌舞伎役者みたいだ」
「あいつ、すっげー、俺らのこと見下しているんだよ」
「そうなんですか?」
と左近田を見る。
左近田は苦笑を浮かべ、
「まあね」
「たとえばさ、前に、情報本部内で業務担当の改編があって、大規模な席替えがあったときさ、あの課長、全部署に、メール出しやがったんだよ」
「どんなメールですか?」
車坂は口をゆがめて、声真似しつつ、
「情報部の皆さんにご提案があります。今度のお引っ越しでは、荷物やPCを運ぶのは、そういうのを仕事にしている第7部第3課の担当者がいるのですから、私たちが業務を終えたあと、夜中にでも彼らにやらせておけばよいとおもうのですが、どうでしょう、って」
「それって……、全部を3課がやれと?」
「そ。内容もそうだけど、そんな文面出すかよ、って思ったもんな。あいつ、俺らを便利屋かなんかと思っているのさ」
「……それは、なんかいやですね」
「だろ?」
「それで、どうなったんですか?」
「さすがにそのときは、本部長が、自分の荷物くらい自分で運びなさい、とこれまたメールで全員に指摘したので、それで済んだけどさ。……だから、あいつに連絡しても、たぶん、まじめに取り合ってくれないと思うぜ」
「そんなんじゃそうですね」
「だろ? だからかっぱえびせんにはかかわらせたくないんだよ」
「かっぱえびせんにわるいですよ、それ」
それにしても、どの会社でも、非正規社員はひどい扱いだな。
悠平は顔をしかめた。
「じゃあ、こういう時、どこに連絡すればいいのよ」
絶対サービス部から変な風に思われたわよ、と言いたげな祖父江に対し、左近田が、
「とりあえず、警備部には連絡して、彼が外に出たかどうかの確認をしてもらいましょう。カードを持たないまま外に出ている可能性もありますからね。捜索も警備部がやってくれるかもしれないでしょう」
「警備部かあ……」
「嫌がってる場合じゃないですよ」
「わ、わかってるわよ。いまから電話します」
祖父江課長は、イントラに載っている各部署の連絡先一覧を見て、デスクの電話でかけた。
案の定、電話に出た警備部の担当者も、最初、何の話か、よく理解できなかった。
祖父江が説明すると、
「つまり、その社員は、社内で行方不明になったと?」
「そういうことです」
「そんなことあるかなあ……」
と相手はつぶやいたが、
祖父江もここが踏ん張りどころとばかりに、声に力を込めて、
「それでお願いなんですが、監視カメラの情報を見てほしいんですけど」
「ああ、外に出たかもしれない、と言うことですね」
「はい。もしくは、社内のどこに行ったかわかるかもしれませんし」
「まあ、そういうことなら調べますが、その映像、正式な申請手続きをしてもらわないと、そちらにお見せするわけにはいきませんけど」
「わかってます。とりあえず、そちらで調べてもらえるだけでもかまいません。結果だけ教えていただければ」
祖父江としては、ことを大げさにしたくはない。
「わかりました。該当社員が外に出たかどうかの確認はこちらでしましょう。その社員さんのお名前を教えて頂けますか」
秋野原の名前と社員コードを伝え、電話を切ると、祖父江は少しほっとした様子を見せた。
「とりあえず、警備部の方はクリアね。調べがつくまでの間、私たちのほうでも探してみましょ」
「それ、俺たちもやるの?」
とめんどくさげに車坂。
「お願いよお。手伝って、ね?」
「んん~……」
祖父江課長の猫なで声でも、まだ嫌そうな様子である。悠平はそれを横目で見つつ、
「心当たりはないんですか?」
「あったら、こんな風に騒いでいないわよ」
「では、考えられる場所を見て回るしかないわけですね」
「そうね。まあ、男子トイレはあなた方に任せるわ」
車坂がわざとらしく肩をすくめて、
「別に祖父江課長が覗きこんでも、セクハラで訴えたりはしませんよ。逆はやばいでしょうけど」
「逆って?」
「我々が女子トイレを調べ回ると言うようなことです」
「男子トイレはあなたたちに任せます!」
「よだきーなあ、もう」
「よだきーってなんです?」
「うちの田舎の方言」
車坂はめんどくさそうに言った。悠平はそれを丁重に無視して、
「手分けしたほうがよさそうですね」
「だね。トイレと、他のフロアと、あと迷い込みそうなところか」
「男子トイレは、一人で十分だから、伊是名君に任せるよ」
才野木課長が簡単に決めてしまった。
「え? いやっ、ぼくですか……」
「君はまだ慣れてない。下手にあちこち探しに行ったら、迷いそうだからね。トイレが一番無難だ」
「どうも……」
うまく押し付けられたような気がする。
「それで、閉まっている個室とかはどうしますか?」
「ノックして返事を聞いてくれ」
「マジですか……」
悠平は早くもげんなりした。それを見て、嬉しそうな表情を浮かべた車坂は、
「おれらはどうしますか?」
才野木課長はうなずいて、
「そうだな、祖父江課長は、業務に支障がない範囲でそちらの課員と手分けして、仕事とかで彼の行きそうな場所を回って見てください。あと、秋野原君から連絡があったときは、全員に伝えるよう、課の誰かに頼んでおいてください」
「わかったわ」
「左近田君は、一番慣れてるから、一人でも大丈夫だろう。30階の受付フロアから見て回りながら順に上がってきてくれ。入りくんだ場所とか、重点的に見て。40階まで来たら、そのまま上へ上がってくれればいい」
「はい。わかりました」
「僕と車坂君は、上の階から手分けして降りながら見ていこう」
「やれやれ、了解ス」
全員が動き出した。
1時間後。
悠平は、40~49階の男子トイレを全部見て回った。
とりあえず、40階の3課に戻ってくる。
まだ誰も戻ってきていない。
席に座った彼は、ちょっと沈黙して服の臭いとかを嗅いでから、
「ていうか、考えてみれば、トイレを調べろ、とだけ言われたわけだけど、どこまで調べればいいんだ……」
急に顔をしかめて、
「まさか、このビルの全部のトイレを調べなければならないって言うんじゃないんだろうな……」
そう考えただけで、モチベーションはゼロになった。机に突っ伏し、顔だけちょっと上げて、
「えらいことになったけど、他の人たちはどこまで調べたんだろう……」
しばらく待っていると、
2課との隙間から、2課の派遣さんの一人である村田かをりが顔を出した。
「あ、もどっていたんですね」
「どうかしましたか?」
「今、電話があって」
「え? まさか、秋野原君から?」
「いえ、才野木課長からです」
「お? と言うことは見つかったのかな」
「それが……」
村田は困った顔をした。
「ちょっと替わってもらえますか? そっちに回しますから」
「どうしたの?」
「とにかくお願いします」
村田が隣に戻った。
悠平は、鳴りだした電話をとった。
「悠平ですが」
「おお、伊是名君」
「どうかされましたか?」
「いやね、困ったことになった」
「困ったこと、とおっしゃいますと?」
「迷った」
「え?!」
「迷っちゃったよ」
「課長がですか?」
「うん。60階まではきたんだけど、白鷺機関のところでわけがわからんなった」
「シラサギキカン? ってなんですか?」
「ユキハラの研究所のひとつだよ。怪しげな研究してるところ」
怪しげって……。
「そこで迷ったんですか」
「そうなんだよなあ。ここどこなんだろう」
「シラサギキカン、じゃないんですか」
やや皮肉を込めて言う。
「研究所の付近で迷ったんだよ。道がややこしくて」
住宅街の道路じゃないんだから、と思ったが、
「……車坂さんは一緒じゃないんですか?」
「別々に行動してたんだけど……、こまったな。案内板でも探してみるよ。車坂君や、左近田君から何か言ってきてないよね」
「まだ連絡ありませんけど」
「わかった。それが気になってね。エレベータ探してみるよ。とりあえず一旦そっちへ戻るから」
電話は切れた。
「……」
悠平は受話器を黙ってみると、それを黙って置いた。横まで来て様子を見ていた村田が、
「才野木課長さんも迷ったみたいですね……」
「そうみたい」
「困りましたね」
「困りました……。でもまあ、まだケータイ持って行ってるだけマシか……」
なにしろ、秋野原君の場合は、唯一の連絡手段のはずの携帯を部屋に置きっぱなしにしているから、探しようがない。ユキハラの携帯電話事業部門エアウェイブの本社も入っているビルなのに、これでは宝の持ち腐れだ。
続けて、電話が鳴った。村田がとっさに手近の電話を取る。
「はい、情報第7部第2……、じゃなくて第3課です」
すぐに、悠平のほうを見た。
「車坂さんです」
悠平はいやな予感がした。
「もしもし……?」
「誰?」
「悠平ですけど」
「ああ、伊是名さん」
「どうかされましたか?」
「ここどこだろ。わかる?」
「なにわけのわかんないこと言うんですか!」
悠平は素っ頓狂な声を出した。
「なんか、部屋だらけでよくわかんないところに出ちゃったんだよ」
「……要するに迷ったわけですね」
悠平は呆れた。次々とミイラ取りがミイラになってるんじゃ話にならない。
「人にでも聞いて、脱出してください」
「やだよ、道尋ねるのは」
「じゃあ、自力でルートを発見してください」
「つめてーなー」
「こっちにどうしろっていうんです」
「ユメマフに各フロアの地図載ってなかったっけ」
「ああ、載ってましたね」
「それ見てくれる?」
「わかりました。ちょっとまって下さい」
と悠平は電話をそのままに、自分のPCを操作した。イントラネットの社内情報ページにあるフロアマップを開く。
「そちらは何階ですか」
「……」
「もしもし?」
「何階だっけ、ここ」
「は?」
「やべ、わかんなくなったよ。俺、何階まで降りてきたんだっけ」
「知りませんよっ! ていうか、それじゃ調べようがないんですけど」
「……なるほどそうだな」
「なるほどじゃないんですけど」
「まいったな」
車坂がつぶやいていたが、
「あれ?」
悠平の方がドキッとして、
「こんどはどうしました?」
「……」
「もしもし?」
あわてた声が飛び込んできた。
「やべ、バッテリーなくなりそうだ」
「はい?」
「ピーとか言ってる。あとで、も一回かける」
電話は切れた。
悠平は無言で頭を振った。
ちょうどそこへ、祖父江課長が戻ってきた。壁の隙間から入ってきて、
「どお。そっちは」
悠平は、二人が迷ったことを説明した。
「それ、ほんと?」
「はい」
祖父江は悠平と同じように目が点になった。
「ミイラ取りがミイラになってるじゃないの」
悠平が思っていたことを口に出して言った。
「じゃあ、あとは左近田さんだけか」
その左近田もなかなか戻ってこない。悠平は不安になってきた。
「まさかとは思うけど……」
「……まさか?」
「……まさか、ですよね」
祖父江課長、村田と視線を交わす。
悠平が左近田の携帯に電話をかけると、左近田はすぐに出た。少しホッとして、
「いま、どちらですか?」
「いまは……」
と答えて、しばらく沈黙が続いた。
「左近田さん?」
「38階なのは間違いないんだけど、なんだかよくわからない」
「は?」
「何で毎回ここに出てくるんだろうな」
と左近田はつぶやいている。悠平は小声で、
「まさか、迷ったんですか」
「みたいだね。なんか、同じところをぐるぐる回っている」
雪山かよ、と悠平は口に出しそうになった。
「あ、すみません、ちょっといいですか」
と、左近田が誰かに声をかけているのが聞こえた。
「情報部から来たんですけど、ここからエレベータへ戻るにはどう行けばいいでしょうか」
おいおい、尋ねているよ。
悠平が呆然としていると、祖父江が不安げな顔で、
「ねえ、左近田さん、どうかしたの?」
「38階で道に迷って、今、そのフロアの人に道を尋ねてます」
「うそっ?!」
「左近田さんだけは、道に迷うことはないと思ってましたけど」
「わたしも……」
電話の向こうで、左近田が親切に教えてもらっている様子が聞こえた。
「とりあえず、エレベータまで戻れるか、挑戦してみるよ」
「はあ、がんばってください」
皮肉も若干込めて、悠平は言った。
まもなくして、左近田が戻ってきた。道はわかったらしい。祖父江は少しホッとした様子を見せた。
「無事だったようね」
「いや、これは意外でした」
と左近田は自分で言った。
「たった2階下のフロアで迷ってしまうとは思っても見ませんでした」
「こっちのセリフだわ、それ」
祖父江が呆れたようにつぶやく。
左近田は、
「同じような壁、同じような廊下、説明のないドアとかもあるし、乗ったエレベータの向きによって、降りる時どっちを向いているかわからなくなるし、これは意外に迷いますね」
などと感心したように事情を説明する。そして、
「これはどうも、我々だけで手におえる問題じゃなくなってきましたね」
「警察、ですか」
「だめ、それはだめよ」
「そういう場合ではないですよ、もう」
「秋野原さんは社内で遭難した、と断定すべきですね」
「ですね」
「いや、遭難て……」
「72時間でしたっけ、遭難してから助かる可能性があるのは」
「72時間だったね」
「あんたら……」
左近田は人差し指をピッと立てて、
「さらに今の状況を考えてみましょう」
「……」
「次々と行方不明者が出ています。恥ずかしながら、私も迷ってしまいました」
「そのようね」
祖父江は半目になって答えた。
「社内だからいずれは見つかるでしょうし、帰ってくるとも思います。しかしこの我々ですら迷ったんです。これは秋野原君が迷子になり、社内のどこかで遭難した可能性は十分想定出来る、と証明されたわけです」
「この人、自分で言っちゃってるし」
「そしてここが重要ですが、捜索をすればするほど、さらなる遭難者がでる可能性もあるということです。二次遭難というやつです」
「あなたがたならそうでしょうね……」
呆れている祖父江に対し、悠平が、
「あの、祖父江課長」
「なによ」
「いくら巨大なビルだからとは言え、社内で迷子になって遭難、なんてこと、世間にばれたら……」
「な、なによ……」
「お偉方さんのご機嫌も悪くなるんじゃないかと」
「……」
祖父江の頭の中で色々打算が渦巻く。出世よりも寿退社を狙っているとは言え、こんなつまんない事件で降格処分にでもなったら、いい晒し者である。
やめてよ、縁談にも響くじゃない。
今のところ、そんな縁談来て無いわけだけども……。
と、左近田が祖父江の妄想を破るように、
「まず警備部に連絡して、才野木課長と車坂くんを探してもらいましょう」
「どこかのカメラに映っているかもしれないですね。それでダメなら、警察ってわけですか」
「ちょっとお、それ私が頼むわけ?」
「一連の流れですので。恥を忍んでお願いします」
と左近田。
「私が恥をかく気がするんだけど……」
と祖父江はしぶしぶ受話器を取った。
「あの……、さっき社員の捜索を依頼した情報第7部の祖父江ですが」
「ああ。まだ秋野原さんは確認出来ていませんよ……」
と過去の映像データを見ているらしい警備部の担当者は言った。秋野原の写真と照合しながらだからなかなか進まない。
「いえ、実はもっと緊急のことが起こりまして……」
「緊急、と言いますと?」
「実はですね……」
祖父江の説明を聞いた警備部は、「はあ、さらに増えたわけですか」と呆れた様子で、それでも、二人がどこにいるか、タイムリーのカメラの映像を見てくれることになった。
「情報部ってどういう連中のいるところだ、って、いまごろささやきあってるわよ、警備部の人たち」
祖父江はじろっと左近田と悠平を睨んだ。
「恐縮です。私はえらそうに言える立場ではなくなったので」
と左近田が苦笑して答える。横で悠平が、
「僕は無事生還しましたけど」
「あなたはトイレしか行ってないでしょうが」
それで遭難したら最悪だわ、と祖父江はつぶやいた。
まもなく、警備部から折り返しの電話がかかってきた。
才野木課長が見つかった、と言うのである。
課長は、ちょうど、重要部署のあるフロアの廊下を歩いていたので、カメラに映ったのだ。すぐさま、祖父江を介して道順を伝える。
「ああ、エレベータあったよ」
と嬉しそうな声で電話は切れた。
まもなく、才野木課長は戻ってきた。
「やれやれ、まいったね、これは」
疲れたようにつぶやいた。
一方、車坂はいない。警備部は何度もカメラの映像を見てみた。カメラもあらゆる場所にあるわけではない。大体はエレベーターとか、主なドアの前などにだけあるので、そこを通過しないと映らないのである。部署によっては全くない場合もあった。
30分経ってもみつからない。
警備部から電話がかかり、
「カメラでは限界もありますし、時間もかかります。そこで提案なんですが、放送で呼びかけるのはどうですか?」
「呼びかける……?」
「ええ。いそうなフロアにです」
「つまり、迷子案内の放送を流すと……」
「よろしいですか?」
祖父江は左近田らを見た。
左近田が、手を合わせて、小声で、すみません、とつぶやいた。悠平は憮然と、どうせ僕はトイレしか行ってませんから、とつぶやき、才野木課長は、軽い口調で、よろしく、と言った。
祖父江はため息をつき、
「わかりました。それでおねがいします……」
そこで警備部は、車坂が調べに出た50から59階の各部署に、迷子がいたら、手近にいる人がエレベータまで案内するよう、社内放送を流すことにした。説明を押しつけられた祖父江が車坂の特徴を伝える。
受話器を置くと、
「最悪よっ。最悪の事態になったわっ!」
コブシを握りしめた。
「いや、車坂さんはまだ遭難したと決まったわけじゃないですよ」
「大恥だって言ってんのっ! 迷子になるくらいなら、まだ遭難するほうがマシだわっ!!」
悠平らはそろって苦笑した。
ちょうど、そのとき、該当フロアでは、
『えー、50階から59階までの各フロアでお仕事中の皆様にお知らせします……』
放送は流れた。
『ただいま、そちらのフロアのいずれかで、迷子が出ております。迷子になっているのは、次の特徴を持った方です……』
該当フロアの社員や協力社員らは、放送を聞いて顔を見合わせた。
「おいおい、迷子ってなんだよ」
「まじで?!」
「社内で迷う? フツー、ありえないでしょ……」
そういう声が飛び交う一方、
「いや…、俺も正直、他の階では迷う…」
「実を言うと、私、38階で迷ったことあるのよね」
「ここに来た当初、迷っちゃって、泣きそうになったことあったわ」
そんな声も出た。
意外に、迷った経験のある人が多かったのである。
他の部署も巻き込んでの騒ぎになった。
放送を流してわずか5分ほどで、車坂が53階の第一商品開発部の部品テストエリアで発見されたと言う一報が入った。さすがに早い。
そこは、広いフロアを稼動壁やロッカーで細かく仕切って、細い通路と3畳くらいの小さな部屋がたくさんあるところだった。
そこで作業していた社員が、見知らぬ男がうろうろしているのを見て不審に思っていたところ、ちょうど放送が流れたため、この人のことだと気づいたのだ。それで声をかけたのである。
やっと全員が40階に帰ってきた。
「ひどい目に遭った。大恥かいたよ」
車坂が泣きそうな顔でつぶやいた。
「恥かいたのは私のほうだわ」
祖父江も泣きそうな顔でつぶやいた。
「こんなにこのビルってややこしいとは思わなかった。超高層ビルを甘く見ないことだというのがよくわかったな。いやいや、これはいい経験になった」
左近田が生真面目な顔で、遭難しかけた登山家の体験談のようなことを言ったので、悠平は思わず失笑した。
「しかし、これだけ探していないとは、秋野原くんはどこに行ったんだろう」
「私たちのほうは大体見て回ったわよ。もともと業務で行くところって限られているし」
「われわれの方はある程度だな。会議室とか、確認できそうなところは、担当部署に頼んで開けてもらったけど」
「とかなんとか言っちゃってるけどさ、迷っていながら偉そうなことはいえないわよねー」
「ほんとです。見落としてるところいっぱいあるんじゃないですか?」
祖父江と村田に言われ、
う、と才野木課長、左近田、車坂の3人は言葉につまった。
「で、でも7割くらいは見たぞ。空いている部屋も見たし、上層階の中央吹き抜け階段の裏側とかも見てみたさ。おかげで変な目で見られたぜ」
と、車坂はぶつぶつ言っている。
「まあ、その、あれだね。行ってないところは改めて探すにしても、これ以外であと探してないところと言うと、29階より下ってことになるかな」
左近田は腕を組んで考えた。
「言っときますけど、14階の食堂フロアと、うちの一部部署が入っている4階は見たわよ」
「さすがです祖父江課長。才色兼備とはこのことです」
「ああ、すげーよ、すげー。顔だけじゃねーよ」
左近田と車坂はそれぞれに言った。
「あんたたち、ばかにしてるでしょ」
才野木課長が、
「となると、他社の各フロアと、倉庫街の6階か……。あそこは危なそうだな」
「そうなんですか?」
「普段、人があまり行かないところだからね。なにかあっても気づかれないかもしれない」
「あとは、地下のゴミ集積場とかもそうね。あそこは自動化されてるっていうじゃない。業者さんが時々来る以外は、普段無人なんでしょ。行ったこと無いけど」
「そこは俺もあまり行きたくねーな」
「ぼくもです。臭いところはしばらく遠慮したいです」
「いい経験だっただろう」
才野木が生真面目な口調で言った。どこまで冗談で言っているのかわからない。
祖父江がそんな才野木らをじろっと見て、
「とにかく、あなたたちが迷ったフロアから再度調べるしかないわね……。迷う可能性があると、あなたたち自身で証明したわけだから」
「……ですね。今度は、ツーマンセルで行きましょうか」
左近田が言った。
「なんですか、それ」
「2人組で、ってこと」
「3人組でやったほうがいいんじゃないの」
祖父江がすかさず嫌味を言った。
「……それで見つからなかったら、29階より下か。とりあえず、ユキハラ関係で、6階の倉庫から行ってみるか」
左近田が言ったとき、ふと、悠平は思い出した。
「倉庫といえば、このフロアの倉庫は誰か調べたんでしたっけ」
え?
一瞬、静寂が漂った。
「いや、俺は調べてないよ……」
「私も調べてないな。左近田君は」
「僕も調べてはいないですね」
「私たちもまだだけど」
祖父江課長らも言った。
「……」
「……」
全員が沈黙した。
考えてみれば、調べる分担の中に肝心の40階は入っていなかったのではないか?
左近田は30階から上がってくる。才野木と車坂は68階から降りてくる。悠平は40階も含むトイレ担当だったが、あくまでトイレだけだ。祖父江らは業務で行きそうな場所。
だれも当の40階を調べることは考えていなかった。あまりにも身近すぎて。倉庫は北側の会議室群の横にある。北東に位置する7部3課はすぐそばだ。
「おい、まさか、そこの倉庫だって言うんじゃ」
車坂が頬を引きつらせた。
「ま、まさかねえ」
祖父江らが笑いながら言った。
「そ、そうですよ。それだったらわかりますよ」
と言いだしっぺの悠平も言った。
「それに、中から開けられるしね、あの倉庫は。内側には鍵がない。あるのは外側だけだから」
と左近田。才野木もうなずき、
「その鍵も、電子ロックじゃなかったはずだが」
「そうです。通常の鍵ですよ。昔からあるギザギザの」
「そうそう」
全員がうなずいた。希望を込めて。
そこで、悠平が、またしても余計なことを思い出した。
「そういえば、ゆうべ、ネットワークと社内設備の総点検やったんですよね。ロックシステムも一旦止めるから、残業する人は気をつけるように、って」
「……」
「で、でも、倉庫は電子ロックじゃないわよ……」
「それはあくまでカードで開けるシステムじゃない、と言うだけで、ロック機構は電子化されていたりするかもしれない」
と左近田が言った。
「そういえば、開ける時は鍵を使うけど、閉める時はオートロックだったよな……」
「それじゃ、倉庫に入っているときにシステムがとまったら……」
「中からも開けられなくなる、ってことあるかもな」
「でもでも、その前からいないんだよ、彼は……」
「それは単に我々が気づかなかっただけとか。それで彼は何かの理由で倉庫に入ったまま、出られなくなったとしたら」
「点検終了後は鍵は解除されるんじゃないの?」
「解除されないとしたら……? たとえば初期化されてしまったとかで。ほら、ああいうところのドアは、もともと一番最初は、中から開ける想定の場所じゃないわけだし」
全員が顔を見合わせた。
「……」
「……」
「つか、やばくね? もしそうだったら、いなくなってから一日くらい経つじゃん。食べ物とか、水とかねーだろ」
「トイレもないな」
トイレ……。全員が沈黙した。気まずい雰囲気が漂う。
「なんか、私、確認しにいくのヤダナ……」
「祖父江課長は上長ですよ」
「そ、そうだけど」
「とりあえず行ってみましょう。違うかもしれないし」
「当たっているような気がするわ、俺」
「や、やめてよ」
そういいつつも、祖父江は、倉庫の鍵が保管してあるキャビネットを見に行った。
引き出しの中に入れてある。誰でも使えるように、管理は簡単になっていた。共用ノートパソコンのようなセキュリティが重要なものが保管してあるロッカーの鍵の方は、課長らの承認サインがいるが、倉庫の鍵は一言断って借りるのが普通だ。業務で使うこともないし、大したものを置いてないからである。
引き出しを開けた祖父江は、そこに肝心の倉庫の鍵がないことに気づいた。
「……」
嫌な予感が倍増していく。倉庫の鍵はひとつしかなく、合鍵はなかった。それが無いってことは……。
「どうでした。鍵ありました?」
悠平が隙間から顔を覗かせて声をかけると、祖父江は黙って首を振り、それから振り向いて、
「倉庫の鍵だけない」
「……あー、つまり、可能性は高くなったわけですね」
「そのようね……」
そう言いつつ暗い顔つきで祖父江が戻ってくると、
「では、いよいよ、我々も覚悟を決めて見に行きますか」
才野木課長を先頭に歩き出したため、祖父江もしぶしぶ付いてきた。
北側の大小の会議室が並ぶ一角に、倉庫もある。
倉庫は3室あるが、情報第7部が管理しているのは、一番右端の倉庫だった。6畳くらいの広さで、さほど大きな部屋ではない。
「……」
全員が倉庫の前に立った。
「祖父江課長」
祖父江はびくっとなった。
「な、なにかな」
「ノックしてみてください」
「えーと、しなきゃだめですか」
「何度も繰り返してますが、あなたが上長なのです」
「……はい」
溜息をついた祖父江は、忍び足でドアの前まで行った。別に忍び足にする必要はないのだが。
ノックしようとしたとき、中から物音が聞こえた。手がぴたりと止まる。
彼女はそっと振り返った。小声で、
「……誰かいる」
「そりゃ、いるでしょう。あなたの部下が」
なんで、こんなことになるのよ……。
内心で不平を唱えつつ、祖父江はこぶしを握り、覚悟を決めて、ドアをノックした。
がたがたっ、と言う音が中から聞こえた。
沈黙。
再度ノックする。
今度は、なんだか息を殺しているような雰囲気が感じられた。
だんだん頭にきた祖父江は、
「こらっ、中にいるのはわかってるのよっ、ここをあけなさいっ。さっさと出てこないと、ドアぶち破るわよっ」
と怒鳴り散らした。悠平らが後ろで顔を見合わせる。
すると、
「あけてください」
と小さな声が聞こえてきた。
「なんですって?」
「ドア、開けてください」
その声は、まさに秋野原の声だった。祖父江は、いじわるな天使がたくさん舞い降りてきたような気分になりながらも、
「中から開かないの?」
「開かないです」
とかすかな声。悠平が、
「やっぱり、ゆうべの影響じゃないですかね」
祖父江は振り向いて、
「どうしようか。あまり開けたくない気分なんだけど」
「気分で仕事しちゃダメですよ」
「知らなかったことにして」
「無理です」
「警備部に連絡して、管理センターに合鍵があるはずだから、持ってきてもらいましょう」
「その連絡は……」
「とうぜん、祖父江課長です」
「はあ……」
仕方なく警備部に連絡する。
「ああ、すみませんが、秋野原さんの方はまだみつかってないんですよ」
と警備部が説明するのを聞いたあと、
「ごめんなさい。あの、見つけました……」
「え? どこで?」
「40階の倉庫です。閉じ込められているみたいで……」
「閉じ込められてる?!」
「ええ。それで、合い鍵を持ってきて貰えないかと……」
「それは構いませんが……、閉じ込められてる??」
と警備部の人は、なぜかそれを繰り返した。よっぽど不思議な気がしたものか。
電話が切れると、祖父江はドアの向こうに声をかけた。
「ちょっとそこで待ってるのよ、いいわね」
「……はい」
15分ほどでビル管理をやっているユキハラの子会社、ユキハラ都市開発の担当者が、警備部の社員と一緒に現れた。手にマスターキーをたくさんぶら下げている。
彼らの顔は興味津々を絵に描いたようなものだった。
「ここですか」
「お願いします……」
「それにしても、ここに閉じ込められたとは……」
はあ、と感心したように、2人の担当者はドアを上から下までしげしげと見回した。
倉庫のドアが開けられた。
秋野原がいた。
すごく気まずそうな顔をして床に正座していた。
「どうしたのよ、秋野原君、心配したのよ」
「す、すみません。倉庫に入っていたら、急にドアが開かなくなって」
「やはり昨日の整備点検でしょうか」
悠平が警備部の担当者を見ると、
「開かなくなるかなあ……」
と首をひねっている。
「それに、整備点検は、夜8時からでしたけど」
「そんな時間までここでなにしてたの」
「……」
秋野原の沈黙に、全員が部屋の中をなんとなく見回した。
「なんだこれ……」
車坂が呆れたようにつぶやいた。
そこには倉庫らしからぬものがたくさんあった。
「お菓子……?」
大量のお菓子である。食べかけのものや、袋だけのものもある。
ペットボトルもあった。
マンガまである。
少なくとも、この一両日に置かれた程度の量ではなかった。マンガの横には行方不明のファイルバインダーもあった。
「これ、どういうこと……?」
「……」
「秋野原君?」
「す、すみませんっ」
突然、秋野原は土下座した。
「な、なによ、いきなり」
「時々なんです、疲れがたまったりすると……その」
「ここに閉じこもって、サボってたわけだ」
車坂が言った。
「はい……」
「……」
祖父江は呆然となった。
「そ、それで、なんで、夜8時過ぎまでいたわけ?」
「……」
「なんでよ」
「寝てしまって……」
「は……?」
「目が覚めたら、ドアが開かなくなってしまって……」
「何でノックするなり叫ぶなりして助けを呼ばなかったのよ」
「その……怒られると思って……」
「あのねえ」
「ずっと閉じこもっているつもりだったのかい?」
と左近田が聞いた。
「いえ、その、どうしようかな、と、迷って」
「迷うこっちゃないでしょ! このままだったら死んじゃうのよ」
「……すみません」
「トイレはどうしたのよ。我慢してたとか?」
「いえ……その……」
全員が、急に顔をこわばらせ、ざざっと後ずさりした。
まさか、ここでした、とか?
さりげなく、においをかいでしまう。才野木課長が鼻を鳴らして、
「そういやあ、なんとなくクサい……」
「いやーっ、やめてーっ!!」
祖父江は耳をふさいで叫んだ。同じように顔をしかめた車坂が、
「ど、どこにしたんだよっ」
「あの……、あれです」
と秋野原は指差した。
「あれ?」
使わなくなった備品の中古パソコンなどが置いてある棚の向こう側に、段ボール箱が積み重なっている。箱には、災害時用簡易トイレ、と書いてあった。折りたたみ式の箱に吸収剤の入った袋が付いたものだ。一番上の段ボール箱の蓋が開いている。災害用品があることが、この倉庫が簡単に開けられるようになっている理由の一つだ。
「ああ、なるほどね……」
全員が納得したような、それでいて呆れたような、そんな口調でうなずいた。
もし、これがここに置いてなかったら……。
全員が想像しようとしてやめた。
こうして、祖父江課長期待の若者、秋野原君の評価は格段にがた落ちし、彼への過剰な要求も収まった結果、彼のサボり癖は収まった。
「まさに、雨降って地固まる、と言うやつだな」
「どこがよっ」
才野木課長の言葉に祖父江課長はため口で突っ込んだ。
自由に持っていくことが出来た倉庫の鍵は、各課の課長の誰かが許可を出すことで貸し出すことになった。合い鍵も作られることになり、申請を出した。
大騒ぎになったこともあって、この鍵の管理の不備は、監査部の知るところとなり、監査部部長自らが出張ってきて、みなが恐縮する中、仰々しく調べられた挙げ句、「とりあえず改善の報告書を出して下さい」と言われた。いずれきちんとした監査のときに、再度チェックを受けることになるだろう。
また、この事件以降、廊下などの監視カメラの増加とユメマフによる映像自動分析システムの本格導入に組合も渋々賛成した。
監視の弊害もさることながら、社内で迷子になって命を落とす危険があることを思い知らされたからである。また思った以上に迷子になる人が多いことも、この事件で明らかになった。
カメラ増設等の決定事項がイントラで本社各部署に周知され、その理由として、情報本部第7部の関係者数名が本社ビル内で「遭難」しかけたことも、あわせて載せられた。具体的な課と個人名はさすがに伏せられたが。
「組合が理由も周知すべきだとごねたらしくてね、仕方なかったのさ」
才野木課長はなんでもないように説明したが、
「課長、我々全員が恥をさらされたこと、お忘れ無く」
左近田が生真面目な表情で指摘した。
無関係の第7部第1課の面々からは、「俺たちを巻き込まないでくれ」と文句を言われ、車坂が行方不明となって緊急放送が流れた各フロアでは笑い話のネタにされ、もともと警備の厳しい神奈川県横須賀市にあるユキハラYRP技術研究所の面々からはバカにされ、社内SNSにある掲示板にはからかいのコメントが次々と書き込まれた。
「まあ、しかしなんだね、来た早々、君もいろいろ大変だったね」
源五郎丸情報第7部部長が人ごとのように言った。ちなみに源五郎丸というのは部長の名字だ。名前まで合わせると源五郎丸勝敏という。御大層な名前だが、見た目にはただのおっさんだ。
「ま、今回はよい経験になっただろう。ここの仕事に君も色々思うところはあるだろうが、会社の役職というのは、それぞれに役割があってのことだ。一人一人がそれを自覚していなければ、組織は成り立たなくなる。君も自分の立場をよくわきまえて、何をすべきか、常に考えて行動することだ。よいね」
「はい、わかりました」
源五郎丸部長は、うむ、よろしい、とうなずくと、そのまま隙間を通って隣の部屋に行った。
「やあやあ、みんな、がんばってるねー」
そんな声が聞こえてきた。若い女子派遣社員を前にうってかわってだらけた声になったのだ。誰かが適当に答えているのが聞こえる。
部長の笑い声が響き渡る。
すぐに隙間から祖父江課長が出てきた。顔をしかめている。部長から逃げてきたようだ。
「あーもー、うんざり」
「部長、ここと態度がコロって変わるよね」
左近田が笑った。
「まったくオヤジ官僚だぜ」
車坂がぶつくさ言った。左近田が苦笑しつつ、
「総務省出身だからね」
「そうなんですか?」
「ここは通信会社でもあるからね。そこらへんはつながりも深いし、彼の持つコネにユキハラ側も期待するところがあるんだろう。まあ、やむを得ないところもあるかな」
「すると天下りですか」
「退職後の再就職とは違うけどね。部長は」
と才野木課長。
「要するに出向先に転職したんだ」
「官僚が民間会社へ、っていうわけですか……」
「色々あるらしいよ、省庁も。ほら、なんだかんだと言っても政府も公務員制度改革を進めざるを得ないだろう。これは別の人から聞いた話だけど、いま各省庁では職員をどんどん独立行政法人へ移して、本省の人員削減をやっているんだとさ。たぶんそれで、このままでは省の方には残れないと思ったんだろうな。給料もこっちの方がいいらしいし。あ、これは部長本人から聞いたんだけどね」
そう言って、左近田は隣の部屋の方を見た。まだ声が聞こえる。
「そう言う意味では手の早い人だったわけさ」
「そんな先見に優れているイメージはないがね。あれでしたたかなところがある人さ」
才野木課長までそんなことを言った。
車坂はため息をついて、
「でもよ、部長の言葉じゃないけどさ、今回は大変だったよな」
悠平は思わず、
「いままでこんな変わった経験したこと無いですよ」
「私もないわよ、こんなこと」
ある意味もっとも被害を受けた祖父江課長が憮然と言った。
「えらい恥を掻いたわ。あちこちでネタにされてるのよ」
「ま、あきらめたまえ。人の噂も75日だ」
「そんなにもちませんっ」
祖父江は言い返した。才野木は笑い、
「伊是名君も、御苦労だったね」
「え?」
すると、
「わたしもお礼言っとくわ。トイレ調べるの大変だったでしょ。余計な手間をかけちゃったわね」
と祖父江課長も言った。
悠平は驚いた。ねぎらいの言葉なんて、この1年3ヶ月、どの職場でもかけられたことがなかった。
「まあ、これに懲りず、引き続きがんばってね」
「はい。と言うか、結構楽しいですよ。今回のことも含めて」
悠平がそう言うと、才野木らは顔を見合わせた。それから顔を寄せ合って、
「ちょっとー、いい人来たんじゃない?」
「イヤイヤ、まだわかんないスよ」
「まあ、このままうまいことやっていこうじゃないか」
「そうスね」
「と言いつつ、油断はならないぞ」
「ですね。情報7部ではなにが起こるかわからない」
「なんにしても、うまくおだててやっていくしかないわよ」
「……全部聞こえてますが」
悠平は半目になって言った。
全員が同時に振り返って、愛想笑いを浮かべた。
「よろしく頼むよ、伊是名くん。いや悠平くんと呼ばせてもらおうか。頼りにしてるから」
「そーそー、皆で助け合っていきましょう、悠平くん」
「心配すんなって、俺も手伝うからさ、悠平くん」
「わかんないことがあったら、なんでも聞いていいよ、悠平くん」
「どーも」
ちょっとその図々しさに悠平は苦笑を浮かべた。
しかし、これはこれで、いい職場なんじゃないのか、とも思った。
非正規社員に冷たいこのご時世では、ずっとマシな方だ。ちょっと変だが、ここにいる人たちはみな、悪い人には見えない。
派遣社員1年3ヶ月の流浪の末に、ようやく居場所を感じられるいい職場に巡り会ったという感じがした。
しばらくはここでがんばってみよう、と言う気持ちになった。派遣社員だから、この先いつどうなるかはわからないけど。
「この職場で自分の将来を考えてみるのもいいかもなあ……」
「ん? なんか言った?」
「ああ、いえいえ、なんでもないです」
悠平はにこやかにごまかした。
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