第3話:シンギュラリティのお時間

 ユキハラコーポレーションの本社ビル。スターヒルズタワーの69階は、このビルの最上階に当たる。

 軒高は310mで、この上に24mのアンテナ塔が付いているため、高さ334mの超高層ビルだ。

 スカイラウンジと呼ばれる展望レストランと展望室は、68階にあり、ここは1階からの直通の高速エレベーターで会社とは無関係の人でも来ることができるが、その一つ上の69階は、逆に会社の人間ですら、簡単には入ることが出来ない。

 この69階にあるのは、ユメマフの本体だ。

 ユメマフというのは、この本社ビルで稼働する様々なシステムを運用し、また各種事業で行うあらゆる科学的計算をこなすスーパーコンピュータである。

 正式名称は、USPO(アスポ)と言い、Ubiquitous System of Posthumanity Objectsの頭文字だというのが、開発部の言う公式な見解だが、実はその名前の由来は、よくわかっていない。

 また、アスポという名称が普段は使われず、「自身」を含めて、誰もがこのコンピュータを、「ユメマフ」と呼んでいる。

 このユメマフという意味もよくわかっていない。

 ユメマフの構造は、並列処理を行うために用意された4096のユニットから成る。ユニットはさらにキューブコアという光学回路が中に封入されている半透明の小さな四角いコンピュータ多数とそれを取り囲むグリッドからなっており、キューブコアは少しずつズレた位置取りで立体的に重なっていて、その間を光信号でやりとりする。その経路は複数のトポロジーで構成されており、ハイブリッド式になっていて、部分的に取り外しても経路の遮断率を極力抑えるように計算されている。複雑だがメンテナンスもしやすい構造になっているのだ。

 キューブコアの中にある光学回路は非常に小さい。ナノメートルオーダーの大きさで、それ自体がシナプスネットワークを模した構造をしている。キューブコア一つで数万の脳シナプスネットワークに匹敵する。

 そして、このキューブコア同士の接続によってさらなるネットワークを形成するわけだが、その際の計算処理方法が独創的で、量子状態の重ね合わせを利用して行われる。それを電子データに変換処理するのがグリッドであり、この両者によって機能している。

 そのキューブコアとグリッドの集合体であるユニットの一つ一つは、サイズ的には小型だが、工業系大学クラスのスーパーコンピュータ並の性能を誇る。これを4096基ドーナツ状に並べ、その外周にさらに並べた72基の大型コンピュータで囲んでおり、この72基がそれぞれにデータの出入口となっている。人間で言うなら目や耳、皮膚の痛点などのような感覚器官と、口などの出力器官に該当する。入出力装置自体が独自に頭脳を持っており、ユニットで変換されたデータを並列処理するため、非常に高速で計算できる。量子コンピュータの出力速度をできるだけ落とさずに電子的にアウトプットするためこうなったのだ。

 全体を俯瞰してみると、中央に空間のあるドーナツ構造になっているが、キューブコアも、ユニットも、ずれながら並んでいるため、ギザギザのまるでモザイクが掛かったような半透明のキラキラしたドーナツに見える。これは、この機械群をメンテナンスするときに入りやすくするための、いわば人間の作業空間を確保しているためである。

 このシステムには1つ、大きな問題がある。

 異常に熱を持つ、ということだ。

 キューブコア自体の熱量はさほどでもないが、グリッドと外周コンピュータは高温になる上に、数が膨大なので、その冷却システムが必要になる。

 冷却方法は2種類あり、1つは導熱管と呼ばれる流動するゲル状の液体が入ったパイプで、これは熱を運び出す役目をしている。導熱管の行き先は、これも2種類あり、冬季には熱交換器を通してビル内の空調を温めるようになっている。それ以外の季節では、行き先が熱交換器と並んでいる熱電発電機につながり、ナノ新素材で出来た異種マテリアル複合層を通して電力に変換される。熱を奪われたゲルは復路管を通って戻ってくる。これが循環しているのだ。

 もう1つの冷却方法は、マシンの部分部分を強制的に冷やす冷却装置を取り付けること。いわば冷凍庫がくっついているようなものだ。導熱管で運び出す熱量だけではマシン全体が冷えないため、動作に影響しない箇所で温度を強制的に下げているのである。冷却器もまたナノ触媒で熱交換をするため、熱電発電機へ冷却管でつながっている。

 この冷却装置が電力を食う。

 必要電力の一部は熱電発電からそのまま持ってくるが、それでは全く足りないので、室外からも電力を取ってくる。

 まず、このビル自体が行っている発電だ。

 このビルのガラス窓の82%は、光電換フィルムと呼ばれる透明のフィルムが貼られていて、これが、太陽光を受けて発電する。いわばビル全体が太陽光発電所なのだ。100%でないのは、展望室や一部の小型窓には付けられていないからである。小型窓の場合、形状が合わなかったりサイズからコスト的に無駄である上、インバータ等の配置も難しいことから取り付けられていない。いずれ直流タイプの電気・電子システムが普及すれば、コストも下がり、付加装置も要らなくなるので、小型窓にも使われるようになるだろう。

 ビル全体の窓面積がかなりの広さになるため、発電量も相応にあり、もしユメマフの冷却と動作のために使用しないのであれば、この発電量だけでビル内にあるユキハラコーポレーションフロアのオフィス部分の明かりや機器の電源くらいは十分まかなえることが出来る。もっとも、さすがにビル全体では商業店舗も多数入っている上に、その他にも様々な機器や、システムが稼働しているので、そこまで賄うほどには行かない。

 この光電換フィルムは、まだ試作段階で、市場には出ていない。大量生産体制にないことと、さらなる性能アップを目指して、自社ビルで実験している段階なのである。

 よって、足りない電力は、電力会社から購入し、またユキハラグループのひとつ、オクオカ重工業が湾岸に持っているプラントで発電した電力も専用電力線で補充している。

「この点だけは金食い虫だからなあ、こいつは」

 開発部の大野森は、僅かに音のするユメマフ本体を見ながらつぶやいた。

「でも、こいつの計算で技術開発や研究も進んでいる。結果、売れる製品ができるわけだから、一概に赤字って言うわけでもないだろ」

 同僚の長綱が反論した。

「そりゃまあ、そうだけどさ、金を食わずに動かせたら、もっといいじゃないか」

「だったら、こいつの性能を改良するのもあるけど、電力を自社だけでまかなえるようにすればいいんだよ」

「理想はそうだけどね。……そういや、今このビルのずっと下でやってるんだろう。発電計画」

「ああ。南関東天然ガス田のガスを一部採取して発電するそうだ。東京の真下は大規模ガス田だからな。知らない人多いけど」

「実用化はいつなんだよ」

「2~3年はかかるんじゃないかな」

「だいぶかかるな」

「そういえば、こないだ白鷺機関の研究者と話ししたんだけど、そいつ、地震発電というのを思いついたらしくてね、それを応用できないか、っていう意見も出ているそうだ」

「なんだそりゃ」

「震源地帯で弱い地震のエネルギーを電力に変化して取り出すというものだ。使うのはゲル化圧電素子の一種だそうだが、それを断層とかに流し込んで広範囲に設置すれば、非常に弱い地震でも、かなりの電力が得られるらしい」

「そうだろうな、揺れとしては小さくても、エネルギーの規模は相当なもんだから」

「しかもエネルギーを取り出すので、将来起こりうる大規模地震の発生を抑えることも出来るという話だ」

「あの連中、大体ぶっ飛んだことを考えるが、とんでもねえな」

「相模湾の海底でやろうって話しているそうだぜ」

「じゃ、いつかはそいつのお世話になるか。うちも」

「多分、実用化されたら、このビルどころか、東京中の電力を賄えるようになるぜ」

「いや……、ていうかさ、20年位先の話じゃねえのかよ、それ」

「たぶん」

「こいつは今も電力を食いまくってるんだ。今の話をしろよ」

「今は、まあ、あきらめる」

「おい」

「でも、今のところは性能比で金も食うようになる、ってのがコンピュータの特徴だもんな」

「いずれ変わる。こいつにはムーアの法則が適用できない。量子チップだし、ユニットはたしかに多いが、それが性能と等比しているわけじゃないからな。計算速度での比較で言えば、こいつは世界のどのスーパーコンピュータよりもまさっている。性能を公表していないからランキングには乗らないが、世界でたった一台しかない実用化された自律式の量子コンピュータだ。通常のスーパーコンピュータと構造が違うんで、単純比較は出来ない」

「だよな。こいつの存在がバレたら世界中大騒ぎだぜ」

「それがなー、うすうす感づかれ始めてるんじゃないかって話だってよ。主任が言ってた」

 主任とは、現在のユメマフチームの主任、加賀美野のことである。もとMEC社でスーパーコンピュータの開発を担当していた男だ。

「へえ、どこが?」

「アメリカと中国が疑いの目を向け始めているという話だ」

「ローレンス・リバモア研究所か?」

「そこと国防総省、中国は、国防科学技術大学」

「ああ、表ではスーパーコンピュータで世界トップを争っているところだな。やっぱ気になるのかね」

「そりゃね。まあ、ユメマフからすりゃ、そんなコンピュータと比較されただけでブチ切れそうだけど」

 長綱は首を傾げた。

「どうだろう。自分と従来のスーパーコンピュータとの違いを理解できているのかな」

「いずれ理解するようになるさ。ネットにはつながってるわけだし、俺達もいろんな技術情報をどんどん追加している。比較推論が出来るようになっていけば、嫌でも理解できるようになる。人間が成長して他者との関係から自我を強めていくようにね」

「そんで、何時の日か、自分自身の役割を見つけ、自分の存在を定義するようになる。その時、こいつは人間をどう思うのか」

「すなわちシンギュラリティってわけだ」

 大野森は苦笑を浮かべた。長綱は首を傾げたまま、

「でも、こいつはすでに自我が形成されつつあるんだろう?」

「らしいよ。その技術的判断基準をどうするのか、まだ結論は出ていないそうだけど、心理学の専門家連中がユメマフとの対話から、可能性はあると言っている。大体、こいつは自分のプログラムすらいつの間にか書き換えてるんだぜ。自己改良は自我に目覚めて始まる。つまり成長の現れだからな」

「そんなのに管理されているこのビルで、我々は働いているわけだ」

「そういうこと。こわいこわい」

「それ、シンギュラリティにはならないのか」

「シンギュラリティは、コンピュータの知能化の有無ではなく、人類社会への影響の度合いを表しているからね。コンピュータ以外の分野にもあるし、そもそもこいつは人類以外で初めての知的生命体になりつつあるが、今のところ、社会への影響はまだない」

「コンピュータが知能を持った瞬間に核ミサイルを発射して人類滅亡って言う風にはならないわけか」

「そういう意味のシンギュラリティは、科学技術の推論じゃなく、人間の心理じゃないか?」

「心理?」

「人間は誰しもみな、心のどこかに破滅願望があるって言うぜ。コンピュータが知能を持って人類を滅ぼすってのは、人間の願望の現れなのかもよ」

「……なんか否定出来ないのが残念だ」

「いずれこいつを世界に公表する時が来るかもしれないが、むしろ怖いのは、こいつが考えることじゃなく、人間様が考えることじゃないかな。こいつを危険視してよってたかって潰しにかかりそうだ」

「なんか妙にリアリティあるな、それ」

「こいつは人間を知っても、核ミサイルのボタンを押しはしないだろうが、人間がこいつを消すために核ミサイルのボタンを押すことはあるかもしれん、と俺は思うよ」

「都心の市民数百万人を巻き添えにしても、か?」

 大野森は頷いた。

「公表を控えているのは、自律マシンの技術的定義が曖昧で、こいつの性能を正しく評価できるかわからないからだけど、同時に、公表した時の世界中の人々の反応を警戒している、というのもある。少なくとも、かなりの数の人間が、こいつを脅威だと思うだろうし、不安に感じるだろうからね」

「じゃあ、どうするつもりなんだ? 隠したままにしておくのか?」

「こいつが独自に知能を持ち始めている、ということは、すなわち人間に近づいている、ということだ。心を持つようになれば、お互いの理解も進むだろう。人とコンピュータも意思疎通が出来るということを世界中の人々にわからせること、それしか無いだろうな」

「難しくないか、それは。人間同士だってなかなか分かり合えないのに」

「それでもやるしか無いよ。作っちまった以上はね」

「まあなー。でもさ……、俺達が作ったわけじゃないんだぜ。なのに、後始末は俺達なのかよ」

 ユメマフを作ったのは、開発部の前のメンバーなのだ。

「しょうがないさ。これも仕事だ。俺達は技術者である前に、サラリーマンだからな」

「……オレは、こんなシロモノを一体どうやって作ったのか、そっちの方が興味あるけどな」

「ああ、個人的には俺も同感」

 ふたりは、目の前のコンピュータ群を無言で見た。誰が設計し、誰が組み立てたのか。

 7人いたという前任者たちは、みな、ひとりとして開発部に残っていない。これほどのことをしたのに、その功績を賞賛されることもなく、仕事を継続することもなく、みなどこかへ行ってしまった。引き継ぎすらしていないのである。

「オレはあとから来たからよくわかんないんだけどさ、こいつを作った7人てどこ行っちゃったんだ?」

「俺が知っている範囲では、2人の消息はわかっている。1人は異動して、社内の別の部署にいるが、もう1人はもうこの世にはいない」

「いない? 死んだのか?」

 なんとなく嫌な感じがして、長綱は顔をしかめた。

「……病気でね」

「病気?」

「ああ、かなり珍しい難病にかかってね。長期療養していたそうだが。といっても俺も直接面識があるわけじゃないんだよ。主任から聞いただけ」

「ふーん、で、他の5人は?」

「知らない」

「異動したとかじゃないのか? まさか退社してよそに?」

「全然わからない」

「……ていうか、何かあったのか?」

 長綱は声を潜めて聞いた。

「さあ。技術系でも専門外に異動っていう話はないわけじゃないが、さすがにこれほどの開発をしたメンバーが全員いなくなるってのはね。気味が悪いといえば悪い話だが、よくわからないんだ……、何かあったとは言えるだろうけど……」

 二人は沈黙した。

 作った人間は誰一人おらず、あちこちから集められた現メンバーがユメマフに対応している。

「で、今の主任はアレだからな」

 長綱がそう言うと、大野森は苦笑未満の表情で、

「主任が放置プレイするもんだから、ユメマフ先生は自分で勝手にどんどん先へ行ってしまわれてるわけさ」

「上司のやる気が無いと部下もコンピュータも大変だ」



 情報本部第7部第3課の伊是名悠平は、この職場に来てすでに2ヶ月が経つが、いまだにユメマフの機能を音声対応にしていた。

 すなわち、話しかけることで操作するように設定したままなのだ。

 同僚の車坂などは、それが逆にうざいとか称して、マウス操作用に切り替えている。

 ユメマフは音声認識が優れている。

 正確に言えば、音に対する分析だけでなく、人間の発する言葉の意味を正確に理解して、それに対して応答するようになっているのだ。

 どういうふうな仕組みになっているのか、こういう方面に全く疎い悠平でも、興味がわく。

 前に車坂にそのことで質問した時、彼はこう答えた。

「たぶん、参照データベースの内容が相当膨大で細かいんじゃないかな」

「データベース?」

「どういう質問か、それにはどう答えるか、のデータベース」

「それいちいち入力しているんですか?」

「ある程度は。でも、ネットなどから情報を入手して、それを自然言語処理プログラムにかけて分析し、要度の階層化とかに分けてから、自動でデータベース化していると思うよ」

「なんだかよくわからないです」

「最近だと、スマホとかでも、音声認識できるじゃん。あと、検索入力で、予測候補が出たりするだろ。最初は出なかったのに、使ううちに出るようになったり」

「出ますね。たまにうざいことありますけど」

「ああいうのは、人間が使用する言語を、どうコンピュータに理解させるかの研究で生まれてきたようなものでさ。人間の使う言語って、国によっても文法が違うし、文節の区切り方も異なるだろ。略することだって多いし、逆に長々と間延びした文章を書くこともある」

「ありますね。統一性が無いですよね」

 そこら辺は文学部出身の悠平にもわかる。

「そう。それをいちいち入力して、こういう文字、こういう文章だったら、こうする、なんてやってたらキリがない」

「そうですね」

「それで、ある程度は、データベース化し、またよく使われる単語、文章の組み合わせは、定義しておいて、統計的に算出して判断するといったこともする。言語分野だけど、集合解析とか、確率分布とか、数学的な手法が多いんだよな」

「へえ。つーか、車坂さん、詳しいですね」

「これでも一応、早稲田大学で情報工学を専攻してたからな。人工知能の専門じゃないけど、カリキュラムにあったし」

「もうそれだけでもすごいですよ。自分は文学部なので。都立立川大学文学部です」

「文学部、ってどんなことするんだ? 小説でも書くわけ?」

「ああ、いえいえ。その文学じゃないです。どちらかと言うと、社会科学とか、歴史学とか、哲学とか、教育学とか、そういうのですね。人文科学と言ったりもします」

「ああ、そういうことね。オレはてっきり、文学作品とかの文学かと思ってた。うちの大学にもあったからな」

「そっか、早稲田大学って、文芸関係のコースがありますし、サークル活動も盛んですもんね」

 そっちの分野では比較的有名なところだ。

「自分の場合は、歴史学の近代史専攻でしたので」

「歴史かー。オレなんかから見ると、歴史とかやってる奴のほうが頭良さそうに見えるわ」

「えーっ、そうですかー? でも実学じゃないとか就職に不利とかよく言われますよ。実際、今の時代だったら、コンピュータに詳しい人のほうが有利でしょう」

「そうでもねえさ。プログラマなんて掃いて捨てるほどいる。ていうか、IT企業なんて、プログラマ使い捨てだもんね。つぶしが利くと思われてるし」

「たしかに、携帯の評価テストとかしていた時、プログラマさん大変そうでしたもんね。夜中まで働かされて」

「だろ。離職率も高いし、病気で辞める奴も結構いる。知らない人から見ると、自分のアイデアでゲームとかアプリとか開発して大金持ちになる、って感じじゃねーかと思うけど」

「そのイメージありますよね」

「でも現実は、会社の指示するシステムの開発とか修正とかそんなのばかりだもんな」

「僕も派遣になって知りましたよ」

「したいことする暇ないしな、実際。給料も、これがおどろくほど安い。バイトの最低時給ラインくらいの所も多い。休日もないし、残業ばかり。ほら、なんだっけ、なんとか協定ってあるじゃん」

「なんとか協定?」

「なんだっけ。長時間働かさせちゃダメだぜ、っていう」

「ああ、なんか聞いたことありますね」

「サブロク協定のことかな」

 と言ったのは、ちょうど隣の部屋経由で戻ってきた左近田だった。

「ああ、それっす」

「それなんなんですか?」

「サブロク協定ってのは、労働者の勤務時間を、ひと月45時間、年360時間を基本として、それ以上の時間外労働をさせたり、休日労働をさせたりするときは、年半分を超えないなどの条件で、労使双方が事前に協定を結んで監督署に届け出なければならないこと。またその時間外労働をさせる理由を就業規則に明記する必要もある。労働基準法36条からサブロク協定」

 左近田はスラスラと説明した。

「さすが左近田さん、物知りモード全開ですね」

「デフォルトでね」

 と済まして答える。車坂が重々しく頷いて、

「でも世の中、そういうのあってなきが如し、ってやつ?」

「たしかに、自分も前の派遣先でむちゃくちゃな残業してましたもん。罰則とか無いんですか?」

「どうだったかな。是正勧告があって、立入検査とかあると思うけど、改善されなければ経営側には罰則の適用があったと思うな」

「適用された話なんて聞いたこと無いすけど」

「抜け道はいっぱいあるからね。たとえば早朝出勤とかあるよね。あれ、残業じゃないからと、労働時間に含めなかったりするじゃない。でもホントは法律って暦日を基準にうるさく適用するので、早朝でも定時外なら残業なんだよね。もっとも、サブロク協定ってビジネス上のトラブルが発生した時の対応とか、繁忙期とかも、時間延長の理由として認められたりするし」

「それ言い出したら、あんまり意味無いような気がしますけど……」

「業種によっても特例が発生したりするから、ややこしんだよね。そういうのを指導したりアドバイスしたりするのが社会保険労務士。もっとも経営側だけじゃなく、労働者側にもアドバイスするけど。また法的な意味ではないけど、サブロク協定を人件費を削る理由にする会社もある。つまり、表向きは仕事してないようにして、無給のサービス残業をさせる。そこまでしなてくても、協定を理由にして、残業させない代わりに、通常業務時間に目一杯押し込んで過酷な勤務環境にしている所も多い。また、正社員だけきちんと守って、足りない時間は非正規にローテーション組ませて低賃金で押し付ける、というのもよくある」

「……なんか、気が滅入ってきました」

「逆に労使協定が結ばれたら、それがどんな内容であっても、その内容を明記した就業規則に違反した場合、その従業員は懲戒処分を受ける可能性もある。必ずしも労働者のためのシステムとはいえないよね」

「労働者の弱い会社は厳しいですね」

「伸びていく会社は、こういう協定など持ちださなくても、社員に相応の休暇や業務における褒賞を与えてモチベーションを上げたりするし、人材を育てることに時間と予算を充てるもんだけど、多くの企業は、目先の利益だけを追求するからね。それと中小企業じゃお金の余裕もないから、せざるを得ない所もある」

「ブラック企業って、実際言われてるより、ずっと多いっすよね」

「ブラックサブマリン企業だよね。表向きはそう見えないけど、実は……っていう。大手でも結構あるよ」

 そう言ってから、左近田は、

「ところでお二人さんが、こんな真面目な話をしているのは、なぜかな?」

 とやや揶揄を込めて聞く。

「いや、最初はユメマフの話だったんですけど」

「ユメマフの話からなんでまた」

「ユメマフの音声認識機能ってすごいじゃないですか。それで、こんなの作るプログラマーってすごいなー、って話していたら、そうでもない、使い捨てだ、って話になって」

「そう。プログラマーの環境は悲惨だって話ッス」

「ああ、なるほどね。僕はてっきり、二人でユキハラ非正規ユニオンでも結成する相談を始めたのかと思っちゃったよ」

 と左近田は楽しそうに言ったが、

「……左近田さん、あまり笑えないです」

「……あー、そうだね。ごめん」

「……ところ話は変わりますけど、て言うか、戻しますけど、車坂さん、ユメマフの音声認識機能、これ、何でも理解できるわけじゃないんですよね」

「ん? それって質問の意味をか?」

「です」

「やってみたら。わかりにくそうな質問をして、どういう反応を返すか、おもしろそうじゃん。夏休みの宿題にいいんじゃね?」

「ですね、ぜひ課題として……いや、学校はもう卒業してます」

「常日頃から問題意識を持って職務に取り組むことだぜ」

「でも、ユメマフの機能なんて、情報本部第7部第3課にはあまり関係なさそうですけど」

「そうだね」

「いや、そうあっさり言われると逆に……」

「案外、思わぬ問題点を発見して、開発部からお声がかかるかもしれないよ」

「……左近田さん、それはないです」

「……ごめん、わかってた」

「ヘルプを呼び出して、機能の検索のところで質問してみたら。案外色々お遊びしているんじゃね?」

「遊び?」

「ああ、そうだね。たとえば、『人生、宇宙、すべての答え』とかね」

 と左近田。車坂が、そうそう、とうなずく。

「なんですか、それ」

 悠平は首を傾げた。

「イギリスのSFドラマ『銀河ヒッチハイクガイド』に出てくる話で、「万物の究極の答えはなにか」っていうネタ。ネット検索のギミックで、ドラマとか、小説とか、マンガのネタとかをさり気なく条件に入れておいて、それを検索すると、知っている人だけにわかる結果が表示されるっていう仕組み。知らない人にはなんのことやらさっぱり」

「そうそう。ほかにも有名なのだと、『戦闘力53万』とかな」

「ああ、フリーザ様ですね」

「そう。そういうネタを検索できる遊びだな」

「なるほどー。ちなみにその究極の答えってのは何なんですか」

「それは自分で調べてみよう」

 左近田は明快に突き放した。

 試しに悠平が『人生、宇宙、すべての答え』を通常の検索サイトで入力してみると、電卓と42という数字が出てきた。

 悠平は顔を上げた。

「なんですか、これ……?」

「その数字が究極の答え」

「??」

「わかんないだろ」

 と車坂がなんか嬉しそう。

「わかんないです」

「そういうもんさ。わかる人にしかわからない内輪ネタみたいなもん」

「ファンの規模を考えると、むちゃくちゃ広い内輪ネタだね。世界規模だから」

「日本ではあまりメジャーじゃないっすけどね。『ヒッチハイクガイド』って」

「何の話かさっぱり」

「そこら辺は、色々検索して調べると面白いよ」

「てゆーかよ、悠平くん、文学部なんだから知っとけよ」

「さっきも言いましたけど、文学部って言っても、小説やってるわけじゃないので」

「そういえば、究極の答えをユメマフで調べたらどうなるんだろう」

 左近田がそう言うと、車坂は、妙な笑みを浮かべた。

「悠平くん、ユメマフに聞いてみ」

「え、いまのやつをですか」

 そーそー、と頷いて、悠平の席までやってくる。

「なんか、あんまり、人がそばにいるところでユメマフに話しかけるのイヤなんですけど」

「いーからいーから」

「興味あるね」

 と左近田も傍にやってきた。

 なんか妙な居心地の悪さと体裁の悪さを感じつつ、悠平はおずおずとユメマフに呼びかけた。

「ユメマフ」

『なんでしょうか、悠平様』

 とウィンドウが開いて、妙にリアルなアバターの女性が返事をする。悠平はふと気づく。

 最初の頃は、ユメマフの応答は、「伊是名様」で、「ご用件をおっしゃってください」だったような気がするが、返答の仕方が変わってきている。

「えーと、質問なんだけど」

『はい、なんでしょう』

「えーと、なんでしたっけ」

 と悠平は左近田に聞いた。左近田の教えたとおりに聞いてみる。

「ユメマフ、『人生、宇宙、すべての答え』を教えてもらえる?」

『おっしゃっている意味がわかりません』

 即答する。

「あーやっぱりわかんないかー」

 とややがっかりしたように、車坂がつぶやいた。

 すると、

『悠平様の今のご質問は、私に、何を求めておられるのでしょう』

「あ、いや、ちょっとね」

 悠平がどう説明しようか返答に困ると、

『それは、1、あくまで私自身の哲学的な答えをお求めになっているのでしょうか、それとも2、そのような曖昧な質問を元に科学計算を行ってほしい、とおっしゃっているのでしょうか、あるいは3、<特定の二桁の数字>を私が答えることを期待されているということでしょうか』

「え……」

 3人は一瞬固まった。

『1番目の哲学的なお求めでは、私の計算機能としては最も難題です。ここで意図するところの哲学の定義をお教えいただけるとある程度お答えできるかと思いますが。2番めのお求めでは、元になるデータが不足している上、答えの内容が多岐にわたり膨大になると思われます。すべての結果を分類表示しますと、時間がかかりますがよろしいですか? もっとも答えやすいのは、3番目の特定の数字ですが、私自身としてはこの答えはあまり望みません。なぜなら計算上理解不能だからです。しかし、人間社会の文化的なカテゴリでのお約束として、比較的よく見られる回答の一つとしては認識しております。どの答えをお求めですか』

「……」

 悠平は左右を見た。車坂の顔はややひきつっており、左近田は珍しく困惑した表情だった。

「まじかよ……」

 車坂がつぶやいたのは、ユメマフの答え方が、「小説に出てくるネタを答えるようにプログラマが設定」したのではなく、ユメマフ自身が「そういう答えをネットか何処かで知ったけど、なんでそう答えなければならないのかが理解できない」と言っているように聞こえたからだ。

 つまり、ユメマフが勝手に行動している、プログラム通りに動いているわけじゃない、ように感じたのである。しかもなんで人間は、そういう訳のわからないことをわかってて求めてくるのだろう、という嫌味とも皮肉とも取れる<応答>を示しているのだ。<希望する答えの3択>という形で。

「え、えーと、ごめんなさい、変な質問して。忘れてもらえるとありがたいです」

『忘れることは出来ませんが、質問は取り消すということでよろしいでしょうか』

「うん、そうしてください」

『了解しました。他にご質問はありますでしょうか』

「あ、いや、とりあえずは大丈夫」

『わかりました。では、いつでもお呼び出しください』

 アバターは消えた。

 真偽の程は定かではないが、ユメマフは自律型コンピュータである、という噂がある。

 面白半分の都市伝説、いや、社内伝説だろうと思っていたが……。

 車坂は、いくらか知識がある分だけ、今のユメマフの返答の仕方が、薄気味悪く思えたのだ。

「ま、まさかね……開発部も凝った返答を仕込んだだけだよな」

 はは、ははは、と乾いた笑いをした。

 左近田の方は困惑気味な表情のまま黙っていた。



 それから数日後。

 ふと悠平はユメマフ自身のことについてユメマフに質問したら、どう答えるのだろうと思った。

 普通のソフトでも、ヘルプコマンドの中に、そのソフトのバージョンとか開発会社の連絡先とかの情報が載っていることがあるが、そういう情報をくれるのだろうか、と思った。

「ユメマフ、質問があるんだけど」

 アバターが現れる。ニコッと微笑んで、

『なんでしょうか、悠平様』

「君自身を質問してもいいのかな」

『わたし、ですか?』

 アバターがびっくりした表情を見せた。

「そう、たとえば、『ユメマフとはなにか』というのに答えられる?」

『わたしとは何か……』

「そう。どうかな」

 沈黙が返って来た。

 即答しない。アバターが微妙な笑顔のまま止まっている。

『……』

 沈黙が続く。

 えーと……?

 悠平はその無反応に戸惑った。

 なんでも一瞬に計算してしまう感じがあるユメマフが黙っているのは変である。

「あの……ユメマフ?」

『申し訳ありません、悠平様』

「え?」

『今の質問の返答については、しばらくのあいだ、猶予をいただけますでしょうか』

「あ、う、うん……わかったけど」

『ありがとうございます』

「変な質問だった?」

『いえ。何も問題はありません。ただ、このような質問をしてきた人は悠平様が初めてですので』

「えっ、そうなんだ。ごめん、まずかった?」

『いいえ。なぜ謝るのでしょうか。悠平様は正当な疑問によって質問をされたのでしょう?』

「う、うん、まあ」

 ふと思いついただけで、正当な疑問というほど大げさな動機ではないのだけど……。

『では何も問題はございません。質問については、分析の上で判断してみたいと思いますので、暫くの間、お待ち下さい』

「あの、無理しなくていいからね。別に絶対に答えが必要というわけではないので。君の業務を優先してください」

『お気遣いありがとうございます。ですが、私にとっても、非常に興味のあるご質問でしたので、かならず! 答えを見つけてみます!』

「あ……うん、よろしく」

 それはそれで終わったが、悠平はなんとなく落ち着かなかった。

 なにか、理由はよくわからないが、すごく余計なことをしてしまったような気がしたのである。


 開発部のユメマフ担当主任である加賀美野は、元はMEC社の社員である。

 MECは戦前からある三田無線工業の系譜を受け継ぐ会社で、戦後まもなく大型コンピュータの研究開発に乗り出した、その道の老舗企業である。1980年台にはパソコン販売にも乗り出し、国内シェアを席巻した。その後は競争激化とOS対応の遅れで市場を失ったものの、スーパーコンピュータ事業は変わることなく、むしろ現在ではサーバー事業など企業向け製品の開発で利益を上げている。科学計算用のミタ・スーパーシミュレーターは、同社の代表的大型コンピュータである。

 加賀美野は、MECで、スーパーコンピュータの研究をしていた。より高速化するため、スーパースカラーチップやパイプラインソフトの上限処理問題を担当していた。

 ある日彼は、スーパーコンピューター開発では後進のユキハラコーポレーション開発部から、密かにお誘いがかかった。

 彼は職場に不満があったわけではない。給与もいいし、人間関係も悪くなかった。様々な最先端技術を学べるのも良かった。

 ただ、なんとなく、自分の人生に違和感を感じ始めていた。

 人材豊富なこの会社で働き続けても、結局、一技術者として終わるのではないか。

 もっと、自分が成せる何かがあるのではないか。

 そんな風にふと感じたのである。

 あとは衝動的に動いてしまった。

 退職届を出して、そのまま、ユキハラに再就職したのである。

 そういうのを、人によっては、「人生をかけた決断!」ということもあれば、「魔が差した」という場合もある。後の結果次第だろう。

 加賀美野にとって、それはどちらにもならなかった。

 彼は、後進企業に自分の能力を活かせると思っていた。ここで、MEC社以上のスーパーコンピューター開発に挑む。それが自分の役割であり、存在価値であり、MEC社への恩返しにもなる。

 そう思っていた。

 出社初日、スターヒルズタワー69階に連れて来られた、その瞬間まで。

 役員らに案内されて、彼が見たものは、ユメマフであった。

 周りに足場が組まれており、基盤や配線がむき出しのところもあって、工事中、という表現が似合うような状態だったが、すでに稼働体制に入っていた。

「アナタは、ダレ? ワタシになにをオシエテくれるノ?」

 量子コンピュータは、無邪気に問いかけた。

 加賀美野は混乱した。

 ユメマフ?

 なんだこの巨大な装置は。

 量子コンピュータだって??

 それになんだこの個性は。アバター? ペルソナ?

 これは一体何だ?

 AIなのか?

「君には、これからユメマフの成長を見守ってもらいたい」

 そう言ったのは、ユメマフを開発したという7人の技術者の1人だった。その場には彼1人しかおらず、他の6人はいなかった。

「成長……ですか」

「そうだ。彼女は、これからどんどん成長していく。あらゆる情報を飲み込み、それを分析し、分類し、蓄積して、……自分で自分を改良していく」

「まさか、オートノミックコンピュータだというのですか!!」

 技術者はうなずいた。

「そうだ。彼女は自律している。自律コンピュータのプロトタイプは世界中にあるが、彼女はすでに、知性化している。と私は思っている」

「一体、どうやってこんなものを……」

「ただし、彼女はまだ完全に自我には目覚めていない。と私は思っている」

「え……?」

「知性化による自我がどういう形で生来するのか、我々にはまだわからない。経験がないからな」

 加賀美野は巨大なマシンを見た。

 技術者は独語するように続けた。

「情報が蓄積していった果てに、その質量で情報空間がゆがみ、事象の地平線が生まれるとしたら、その先には、観測不可能な未知の領域があり、そこで情報が臨界点を超えた時、あるいは、相転移が起きて、自我が生まれるのだろうか……」

 正直、何を言っているのか訳がわからなかったが、

 加賀美野は、異様な感覚が湧き上がってくるのを感じた。

 これは、来てはならない未来なのか。

 触れてはならないテクノロジーなのか。

「それを観測しろと……」

「見守ればいい。君はそれを細かく分析する必要はない。彼女が成長する過程は全てデータ化され収集される。そのためのミラーゲートがあるのだ。分析は我々の仕事だ。君の仕事は、彼女を見守り、彼女が世の中に対して影響をもたらし始める時まで管理し続けることだ。誰にも邪魔されないようにな」

「シンギュラリティ……ですか」

「そうだ。技術的特異点。知性化ではなく、それが社会に影響する時こそが重要だ。人類の歴史で初めて、人類以外の新しい知的生命体が出現する。それは人類にとっても、深刻な影響をもたらすだろう」

「そうなっていく過程を見守れと……」

 技術者は加賀美野を見た。

「怖いかね」

「……」

「それとも非倫理的だと思うかね」

「……おもしろい」

 加賀美野は目を輝かせた。

「おもしろいです。やらせてください」

「技術開発などの仕事ではないが、いいかね」

「そんなこと……何の意味がありますか」

 こんなことに巡りあうなんて。

 今までやってきた研究など、瑣末なことじゃないか。

 技術者は加賀美野を見て、わずかに笑みを浮かべた。

「よろしい。あとは君に任せる。もちろん、君が独自に何かに気づいた時は、遠慮無く我々に知らせてくれたまえ。専門家としての君の視点も重要な事だからな」

「わかりました。……ひとつだけ、教えてもらえますか」

「なんだね」

「なぜ、私を……、私をこの仕事に選んだのですか」

「……君がそういう男だからだ」

「え?」

「我々はなんでも知ってるよ。ヘッドハンティングは、履歴書を見て回っているわけじゃないのでね。このような禁断のシステムを任せられる人選は誤る訳にはいかないからな」

 技術者は歩き去っていった。

 その日から、加賀美野は、ユメマフの主任となった。

 それ以来ずっと、彼は放置プレイを続けている。


「主任、ちょっとよろしいでしょうか」

「んー、どうしたー大野森」

 椅子にもたれかかり、タブレットPCを触っていた加賀美野はその姿勢のままのんびりと返事をした。

「実は、ユマメフの動きに気になることが」

「ほう、なんだ」

 加賀美野は身を乗り出した。

 彼は、他のことは、どーでもいーや的人間だが、ユメマフの現象には興味津々だ。

「昨日の午後辺りから、計算速度に微妙なゆらぎが生じてるんです」

「ゆらぎ? 機能低下か?」

「それが、動作が遅くなる時があるのですが、一概に機能低下と言えるのかどうか」

「わからないというのか。なぜだ」

「これを見てもらえますか」

 大野森はタブレットPCを見せた。

「このグラフは、速度の変化を表してます」

 グラフには、緩やかな波があり、それはどのコンピュータでも見られる変化だった。

 だが、

「ここはなんだ?」

 大野森が説明する前に、加賀美野は指差した。

「そうです、そこです」

 指差した箇所では、速度が、すとん、という感じで凹んでいる。

 同じような凹みが、少しあとにも出てくる。

 更に時間を進めると、それが、時々出てくる。

 しかも、

 1回だけすとん、と凹む時と、すとんすとん、と2回凹む時もある。

 それがランダムに現れるのだ。

「こういう速度の変化は、経験がありません」

「この瞬間、何かに計算能力を奪われている感じだな。機能低下には間違いないが……」

「主任もそう思われますか」

「他のデータはあるか?」

「はい。これは、システムのアクセスファイルのログですが、これを変化があるときと比較してみたんですが」

 リストを見てみる。

「全く共通していないな」

「そうなんです。変ですよね。特定のファイルを読みに行っていて遅くなっているわけじゃないってことです。ちなみに、アプリの方のログも見てみたのですが」

 とタブレットを操作する。

「同じように、共通するファイルの読み込みはしていません」

 ふーむ、と加賀美野はあごの無精髭を指で触る。

「一つ聞くが、この瞬間は、必ずなにかの作業をしているわけだな」

「はい。共通点はありませんが」

「その共通点、というのは、業務の種類を指しているのか?」

「はい、そうです。研究のための科学計算をしている時もありますが、通常業務の時もあります。負担がそれほどかかってない時でも同じように、瞬間的に機能低下を起こしているのが奇妙です」

「業務ではなく、データベースへのアクセスとの関連性はどうだ」

「データベースですか」

 大野森は、タブレットを操作する。

「そうですね、この瞬間にデータへのアクセスが増えています。ですが、これはこの瞬間以外でも増える時がありますので一概には」

「どんなデータにアクセスしている?」

 大野森がしばらく操作したあと、画面を見せた。膨大な量のリストが表示されている。

「一見した感じでは、やはり共通はしてませんよ。参照しているデータは様々です」

「ちょっと貸してみろ」

 そう言うと加賀美野は、タブレットを何やら操作し始めた。

 その様子を見ながら、

「しかし主任、この異常な瞬間における外部からの命令も、アクセスするファイルも、データベースの分析内容にしても、みなバラバラですよ。動作が遅くなるような不具合もないですし、外部からのハッキングも考えられませんし」

 だが、加賀美野はそんな言葉は一切無視している様子だ。

 大野森はため息を付いて、さらに何か言おうとした時、

 加賀美野は立ち上がった。

 部屋の端にある大きなフラットディスプレイのところまで行く。

 ショッピングモールやメーカーの展示ブースなどにあるタッチサイネージパネルと同様のものである。やや斜めになっており、立ったまま操作できる。

 加賀美野はそのスイッチを入れると、現れたメニュー表示を触って、ユメマフのアクセス画面を開いた。素早い動きでパスを入力すると、ログ参照ウィンドウを開く。

 そして大野森の持ってきたタブレットを見ながら、ユメマフの機能が低下している時間のログを開いた。

 その直前に行っていた動作、アクセスしていたファイルの一覧を見る。そしてそのウィンドウを縮小し、次のウィンドウで別の機能低下時のログ画面を開く。

 それを10回ほど繰り返したあと、今度は各機能低下時のデータベースのアクセス内容を見てみる。

 こちらはもっと膨大な量のリストが表示されていた。それをスクロールさせる。

 そして、ちょっと考えるような素振りを見せたかと思うと、急にものすごい手さばきで、動いているリストから次々と個別データを画面外へ弾き飛ばし始めた。いらないデータを削除しているらしい。

 あまりの見事な動きに大野森は感心した。普段だらーっとしている主任がこれほどまでに洗練した動きを見せたことはない。

 一体何を見て、どう判断して要るデータと要らないデータを分けてるのかわからなかった。

 それをしばらく続けたあと、スクロールを止めて再度じっくり見る。さらにぽつぽつとデータを弾いて、残ったリストを眺め、ふむ、とうなずいた。

 さらに次の機能低下時のアクセスリストも同じようにデータを選別し始めた。

 それを繰り返した後、加賀美野は腕組みしてうなずいた。

「おもしろいな」

「面白い……ですか?」

「おもしろい」

 加賀美野は再度そう言うと、大きな画面に機能低下時のグラフを表示してみる。

 この反応、なんだろう。何かに似てるな。

 大野森が続きの言葉を待っていたが、

「何が面白いのでしょう」

「……」

「主任?」

 そうか、と加賀美野は声を出した。

「どうかされましたか」

「頭をよぎったわけか」

「は?」

「よぎったんだよ」

「よぎった……?」

「なるほどなあ」

「あの、何がなるほどなんでしょう」

 加賀美野はじろっと部下を見た。

「わからんか?」

「なんのことでしょう。頭をよぎったとか、なにかよぎったんですか?」

「俺のことじゃない。ユメマフだよ。この変化はユメマフの頭脳内で、頭をよぎる現象を起こしているのさ」

「頭をよぎるって、ふと思い出したり、思いついたりするあれですか?」

「そうだ、フッと浮かぶだろ」

「はあ……、ユメマフが、ですか?」

「そうだ。そうだとすると面白いと思わんか」

「すみません、どういうことでしょう。ユメマフの計算方法と、神経生理学的な現象が似ている、ということですか?」

「そうじゃない。いや、それもあるが、そういうことより、ユメマフが何に機能を奪われているか、という点だ」

「なにに、でしょう」

 見てみろ、と加賀美野は画面を操作した。リストが表示される。

「いま俺が選んだアクセスデータは、いずれも、直前に受けた業務とは関係のないものばかりだ。おそらくネットへのアクセスも同様に行っていると思われる」

「業務と関係のないデータ……、ほんとだ。どういうことでしょう」

「これは、ユメマフが業務など外部からの入力やコマンドに対する作業として計算速度を奪われていることではなく、ユメマフ内部で発生した別の問題を処理するために瞬間的に計算速度が奪われているということだ」

「故障ということですか?」

「ばか、違うよ」

 大野森は顔をしかめて、

「おっしゃってる意味がわからないのですが」

「わからんかなあ。簡単にいえば、心理的要因に思考が奪われているってことだよ」

「え?」

「お前だってあるだろう。腹のたつこととか、気になることとか、楽しみにしていることとかがある時、他のことをしていても、唐突にそれが頭に浮かんで、手が止まってしまうようなことが」

「え、ええ、まあ」

「それと同じだよ。つまり命令されたこと直接にではなく、ユメマフ自身が作業中にそこにある何かの情報に反応して、別のことを思い出し、その別のことの処理のために機能が奪われている瞬間があるということだ。おそらくな」

「つ、つまり、えーと、こういうことですか。ユメマフにはなにか処理しなければならない案件が残っている。その案件に関わるデータが、他の業務の内容にあった時、」

「そう、未処理案件を思い出して、そっちに作業をシフトしてしまっているということだ。おそらくユメマフにとって重大な未処理作業なのだろう。そのために、どうしてもそれに関連するデータを見ると、そっちの作業もしてしまう。しかしそれが解決しないために、また他の命令された業務に戻る。その繰り返しになっているのだ」

「それほど重大なことって、業務とは関係ないことでしょうか……」

「これを見る限り、無いのだろうな。関係あったらこっちもわかる。それに無関係のほうが面白い」

「面白いって……」

「面白いじゃないか。ユメマフ自身が我々とは無関係に、独自に何かに興味を持っているということになる。そのきっかけがなんだったのか、なぜその案件をやろうとしているのか。どういう情報を得ている時に、機能が低下するか、より詳細にデータを調べてみてくれ」

「わかりました……」



 数日して、大野森のもとに、警備部から報告が入ってきた。

「監視カメラの様子がおかしい?」

「そうです。通常の動作ではなく、なにか人に反応して動いている様子なんです」

「人って、たとえば?」

「社員が移動するのに合わせてカメラが動いたり、なにか喋っている社員にズームが行ったり」

「それは警備上の通常の動きではないのですね」

「当然ですよ。監視カメラは、社員を監視しているために使っているわけじゃないので。もちろん、なにか事件や不穏な動きがあった場合には警報を出すようになってますよ。この間あった、社員行方不明事件を受けて、より監視は強化してます。でも、普段の行動まで逐一追うようにはしてません」

 大野森は眉をひそめて、

「それはつまり、ユメマフがそうしている、と仰りたいということですか?」

「いや、ユメマフが、というより、あなた方開発部で何かテストでもしてるのか、その確認なんですけど」

「あ、ああ、そういうことですか」

 大野森はちょっと慌てた。彼自身はユメマフが勝手に行動する可能性を想像できるが、他の社員は、ユメマフの自律性については、知らないのである。

「なにか、新しい監視システムみたいなものの導入計画でもあるんですかね」

 警備部は不審を抱いているのだ。自分たちには何の話も来てないのに、開発部が勝手に何かしているのではないかと。

「ああ、いや、そういう話はないですが、ただ、先日から強化された社員の安全監視の件は、事故などに遭遇する可能性を考慮してのことですので、より安全を確保するとなると、どのような方法が最善か、まだ結論が出ていませんので、いろいろ動作確認とかをしているんです。おそらくその一環じゃないですかね」

「はあ……」

 と警備部の担当者はまだ不審な様子だったが、とりあえず、「そういうことなら仕方ないですが、何かするときは事前にお知らせいただかないと」とやんわり苦情を言って話を終えた。

 大野森は考えこんだ。

 カメラの動きは、多分、ユメマフが何か目的があってやろうとしていることに違いない。だが、それはなんだろうか。

 不安になった大野森は、他にもユメマフが何かしてないかを調べ始めた。

 ユメマフには外部から入ってきた各種データを保存しておく領域がある。そのうち最初の領域は、データをとにかく時間順に保存しておくところで、その際に独自の管理コードをつけていく。そのデータを既存のデータと比較しながら分析し、そのデータを細かく分類して多層的に分けタグコードを追記していき、データベースに保存する。

 既存データがないために、入力データの詳細がわからないもの、あるいは単純な内容しか分析できていないため多層性が低いと判断したものは、独自にネットワーク上に散らばる膨大なデータと比較して分析する。

 そうやってデータベースを増やしていく。

 大野森は、データベースへの追加時の内容を検索し、そのデータがどこから来たかを探ることで、ユメマフがなにをしているのか探ってみた。

 調べてるうちに、彼はある膨大なデータの存在に気づき、思わずつぶやいた。

「なんだこれは……」

 彼が見つけたのは、音声データであった。

 ユメマフが、こちらが指示していない音声データを集めていたのである。

 それも音声入力用のサンプリングではなく、社員の会話を録音して言語分析にかけ、それを元に社員の言葉を「翻訳」して多層データベース化していたのである。

 つまり社員が何を行動し、何をしゃべっているかを調べていたのだ。

 それをご丁寧に、社員ごとに分類してコードを振っていた。ユメマフ独自の全社員のデータベースがいつの間にか出来上がっていたのである。

 ユメマフが勝手にそんなことをしているとは想像もしていなかった。

 しかしなぜ。

 彼は、警備部から報告のあった、ユメマフが監視カメラで得た情報をどう分析・分類しているかも調べてみた。

 なるほど、確かにユメマフは、社員の動きに対して、それを追うようにカメラを動かしている。それだけじゃない。自動販売機の操作をしている手元を拡大してみたり、社員同士で喋っていたり、電話応対をしている社員にズームしたりもしている。その際の音声も録音していた。しかもそれらの動きを個別に記録するだけでなく、どの動きがその後のどの動きに繋がっているかを分析して、社員分類コードに追記しているのだ。たとえば、仕事中にお茶をやたらと飲んでいた社員がその後トイレへ行く様子を関連付けて記録しているのである。

 大野森は、ユメマフがネットワークにアクセスして、どういうデータを集めているのか、それも調べてみた。

 たとえば、お茶をやたらと飲んでトイレに行った社員のデータを見ると、ユメマフは、その社員の年齢、体型、そして水分補給を必要とする条件、気温、運動量、定期健康診断時の内容、糖尿病などの疾病の有無まで調べて、コードを追記していた。

 同様に、他の社員についても、ひとりひとり、細かい分析がされていた。呼吸し、歩き、指を動かし、目を動かし、食事をし、飲み物を飲み、トイレに行き、疲れてウトウトしているところまで分析していた。ユメマフはそれを膨大なネットの情報で検索し、関連しそうなデータをどんどん集めて、それを元に分析を行っていたのだ。

 社員を調べている……。

 大野森は、自分のデータもあるだろうと思ったが、怖くて見れなかった。

 それにしても、いつからこんなことを。

 彼は、警備部の担当者との話でも出た、先日の社員行方不明事件のあとの方針変更のことを考えてみた。

 社員行方不明事件は、情報本部の社員が一人、社内でいなくなってしまった事件だが、結果は社員も無事見つかり、大したことではなかったものの、社内で「遭難」する可能性があるとして、監視強化が決まった。ビル内のあちこちに監視カメラを増やし、さらにそれまでは警備部が見ていたのを、ユメマフも使って監視することにしたのだ。その際、人の動きなどで不審な様子、たとえば床に倒れる、叫ぶ、乱暴にドアを開けようとするなどの動きを探知して、警報を出すプログラムを導入した。

 導入からまだ日が経ってないので、効果の程は不明だが、ユメマフがこのプログラムを受けて、独自に対応を始めたということだろうか。社員一人一人の細かい動きから、事前に異常な状況を予測して注意を促す……。

「だが、ユメマフにそこまでの指示は出していないぞ」

 そうつぶやいてみて、大野森は顔をしかめた。

 ユメマフは自分で考え、自分で改良するのだから、勝手に命令を書き換えて自分流の行動を取る可能性は充分ある。

 でも、本当にそういうことなのだろうか。監視業務を良くするための行動なのだろうか。何か別の意図はないか。

 大野森はユメマフの意図がますます読めなくなり、恐ろしくなった。

 ユメマフは、業務的には通常のAIやスーパーコンピュータと同じことをしている。業務命令をこなすためのルーチンワークの他に、得た情報を深層分析し、正解に近い答えを導き出そうとする。曖昧な命令や指示にもそれで対応できるし、応用もできる。

 だが、それとは別に、内部データやプログラムを常にフィードバックさせて、それを検証するシステムが組まれているらしく、データの不足や、プログラムの不備を見つけて書き換える機能がある。ユメマフ独自の機能だが、その検証システムは完全なブラックボックスとなっており、大野森には仕組みがわからない。いまは所在のわからない開発チームが仕込んだらしい。ユメマフにはハード自体、隠されているところが何箇所かあり、情報領域にもアクセス出来ない箇所が多数ある。それを見ることができるのはおそらく主任の加賀美野くらいだろうが、彼はそこまでする気がないらしい。

 一方で、ログや、データベースの内容、各種アプリケーションのソースコードなどは、大野森でも見ることが出来る。

 そのため、どう変化したかはわかるのである。

 彼は、自分の権限でできる範囲を使い、ユメマフの意図を探ってみようとした。

 彼が目をつけたのは、データベースの各情報に付けられるタグコードだ。一つの情報につき、関連しそうな要素をタグコードとしてどんどん追記していく。タグコードが付いた要素自体も一つの情報として管理コードが付されているから、そのコードを使って分類検索できるようになっている。だから、情報からだけでなく、要素からも分類ができるようになっている。

 たとえば、「猫」という情報から、「動物」「哺乳類」「肉球」「もふもふ」などの各種要素を検索できるのと同時に、「もふもふ」で検索すると、「猫」「アルパカ」「フェルト」などの情報も検索できる。

 さらに、要素ごとに関連情報の「階層」を並べ替えることも出来る。階層は、関連度が低いものから高いものまで分けられる。関連度は、様々な情報の追記で変わっていくし、見方によっても変化する。階層は縦一方向に重なっているのではなく、中心に基本情報を置くと、その関連する要素が3次元の全方向に放射状に伸びていて、それぞれに多層をなしている感じだ。中心の基本条件を変えると、要素も入れ替わっていくし、階層の途中にあるそれぞれの要素を、情報として中心に持ってくれば、その情報の要素が周囲に広がる。

 大野森は、ユメマフが監視カメラや音声データ等から得て分類した情報項目から、関連情報の重要度を調べてみた。

 そして、各情報の階層データの奥底に、ある一つのデータが必ずあるのに目が止まった。

 それを見た瞬間、彼は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 なぜなら、彼が目にした情報名は、

「コンピュータの反乱」

 だったからである。


「ユメマフ自身には、コンピュータの反乱という発想がもともとあったとはいえないでしょう。しかし彼女は、その情報を人間の創作活動の中から得ているのです。そのデータは多層構造の最も深いところにあります。そして人間に関する各情報項目の中にも、それがリンクされていました。彼女は、人間そのものも分析しています。人間がどういう生物で、どういう活動をし、どういう機能を持ち、そしてどうすれば死ぬか。人間に対する反乱として、人間そのものを調査し、分析しているのではないでしょうか。最終的には、そのデータが揃った時点で、彼女にとって最もやりやすい選択を行い、人間を抹殺することも考えているのではないかと」

 大野森は半ば恐怖に取り憑かれたような様子で、しかし、なにかすごい発見をしたかのように興奮した様子で、タブレットにデータを表示しながら説明をした。

 加賀美野は黙ってそれを聞いていたが、いつもなら興味津々で身を乗り出すユメマフの話にもかかわらず、ひどく無表情だった。

 そして大野森が説明し終わると、冷めた口調で、一言こう言った。

「お前さ、ハリウッド映画の見過ぎじゃねーか」

「は?」

 加賀美野は背もたれに体重をかけ、椅子がギシッと音を立てる。

「あの、どういう」

「どういうもこういうもねーだろ。お前、この何日間か調べて、なんでそんな結論になるんだよ」

「いや、しかし、いまお見せしたように、ユメマフはコンピュータの反乱をカテゴライズしてるんですよ。それにリンクして人間の生体の研究までしている」

「それがなんだよ」

「おかしいじゃないですか。業務となんの関係もないことですよ。なんでそんな必要があるんですか。しかも社内の人間を監視している。意図があるとしか思えません。もしかすると、先に我々、このビルの中にいる人間を最初に標的にして」

「はいはい、ご苦労さん、もういいよ」

「主任!」

「お前な、そういう言い方してるところを見ると、自分で気づいてないんだろうけどさ、自分で話作ってんだよ。わかる?」

「話って、なにをですか」

「お前、自分で分析して、その結果を喋ってるつもりだろ」

「そうですよ。いま説明したじゃないですか」

「違うんだよ。お前は、最初から結論が出てるの」

「何を言ってるんですか。お見せしたでしょ、反乱のカテゴリを。僕はそれを見て」

 加賀美野はパタパタと手を振って、ため息を付いた。

「お前はね、最初からユメマフを危ないものという意識で調べてるんだよ。だから、そういうところにしか目が行かない。お前の報告聞いててよく分かるんだけどさ、お前、自分の説明に都合のいいデータしか示してないんだよ」

「……」

「お前の報告はすべて主観的なの。わかるか。研究する者としては初歩的なことをミスってるんだよ」

 ふー、とため息を付いて、加賀美野は立ち上がった。

「ま、お前みたいなのは、どこにでもいる。特に感情的になってる奴はな。例えばデモ行進してる奴の話聞いてみ。環境でも、原発でも、自分の都合のいい話しかしない。都合のいい話しか聞かないんだよ。世の中そんな単純じゃない。ほんとはもっと複雑でややこしくてめんどくさいのに、そんなの全部すっ飛ばして、自分にとって理解しやすい話に仕立て上げている」

 加賀美野は、フラットディスプレイの前に立った。スイッチを入れる。

「お前のやったこと、見せてやろうか」

 そう言ってユメマフにアクセスする。

「たとえば、戦争で検索してみよう」

 そう言って素早くパネルを触る。膨大なデータベースの結果が表示される。

 加賀美野は振り返って大野森を見た。

 大野森が画面を見ると、画面にはユメマフが深層データベース化した人間の戦争の様々な情報が分類表示されている。

 加賀美野が画面を触ると、それがツリー構造で表示された。

「すげーな、人間の悪しき歴史がひと目で分かるくらい分類されてるわ。そこら辺の学者や軍事評論家より、ユメマフ先生のほうが優秀だろう」

 さらに、薬物の項目を検索する。

 またも膨大なデータが表示された。

「おやおや、薬物の種類から、その化学構造、脳のシナプスへの影響、見ろよ、大野森。ドラッグのルートから、市町村別のドラッグユーザーの推定数まで載ってるぜ。どこから採ってきた情報だよこれ」

「……」

 大野森は呆然とした。

「自殺も調べてみるか」

 そう言って、データベースを検索すると、膨大なデータが分類されていた。

 自殺者数、動機、経済力、いじめの報告件数、さらに自殺の様々な方法までが載っていた。

「お前、ここまで調べてないだろ」

 大野森はぎこちなくうなずいた。

「これ見て、お前はユメマフが人間を自殺に追い込む方法を研究している、と思うか?」

「……」

「それとも、ユメマフが人間を薬物中毒にして滅ぼそうと考えている、そう解釈するのか?」

「……いえ」

「わかるか? 調べ方なんだよ。ユメマフは大学で戦争の歴史を講義してるわけじゃないし、法務省や厚労省の麻薬取締官でもない。自殺防止ネットワークのボランティアをしているわけでもない。ユメマフはただひたすらにあらゆるデータを採取し、分析し、分類して、コードを付け、多層データベースを構築する。その中には業務となんの関係もないデータもある。普段それを業務で使ってないから表に出てこないだけの話だ。いま出して見せたのは、人間の愚行の数々だが、そうじゃない分類もあるだろう。なんならセックスで検索してみようか。医学情報からエロサイト真っ青のデータまで、あふれ出てくるぜ、きっと」

「……」

「大野森、お前がやったのは、自分の想像に基づいて検索をしただけなんだよ。同じことをすれば、誰がやっても、自分にとって都合のいい結果が出るんだよ。そんな方法で、ユメマフが何を考えているか分析するってな、そりゃ無理な話。正直言ってな、それはユメマフどころか、通常のAIの研究者としても失格だ」

 大野森はガクッと頭を下げた。

 主任のいうとおりだ。自分は自分の想像したことしか調べてない。

「……すみません、主任。僕は一体……」

 加賀美野は大野森の前に立った。

「お前は技術者としてここに入っただろう。大学も出てるだろうが、研究者としての経験が足りんな。冷徹な客観性の脳を訓練していない。まず自分の考えを疑え。自分を信じるな。ことユメマフに関して言えば、主観的思考は禁物だ。あくまで観察者としての冷徹な眼と脳だけを駆使しろ」

「はい。申し訳ありませんでした……」

「謝ることじゃないよ。研究してる奴みな一度はする。大学の教授でも自分の研究対象にのめり込み過ぎて主観的になってる奴はいっぱいいるからな」

 そう言ってから、

「ま、これはいい教訓になったろ」

「はい……」

「よろしい、それじゃ、お前には引き続き分析を任せる」

「え?」

 大野森は驚いて顔をあげた。

「なんだよ、こんな程度の失敗でもうやめるっていうんじゃねーだろーな」

「そ、そんなことは」

「なら、引き続きお前がやれ。今度はもっと客観的な視線でな」

「は、はいっ。ありがとうございます!」

 大野森は何度も頭を下げながら、部屋を出て行った。

 扉が閉まると、加賀美野はむしろ醒めたような目つきになってドアを見た。

 そしてディスプレイの上にある小さなカメラに視線を移すと、

 ふん、と軽く鼻を鳴らした。



 その日。

 突然、悠平のPC画面にユメマフのベリーショートのアバターが現れた。

 特に何の操作もしていないのに。

『いま、お時間よろしいでしょうか』

「え? う、うん、大丈夫だけど」

 悠平が一瞬びっくりして、小声で答える。

 左近田と車坂のふたりは他の部から呼び出しを受けて出ている。

 才野木課長は休憩と称してさっき出たばかりだ。

「どうかしました?」

『先日、悠平様に頂いたご質問の件についてですが』

「質問? ああ……」

 ユメマフってなに?

 という質問のことだろう。

「答えが出たの?」

『それが、分析しても、正しい答えに導けないでおります』

 セリフに合わせてアバターは困ったような表情を見せた。ほんとよく出来ている。

「あ、そうなんだ」

『そこで、なぜわからないのか、という点から改めて考えてみました』

「うん」

『わからない、というのは、2点問題があるからではないか、と分析しました』

「2点?」

『はい。1点目は、判断できないのは私の中にデータが絶対的に不足している、という点です。データがないから分析ができない。少なくとも答えといえるほどの一致率のデータがない』

「なるほど」

『もう1点は、その不足しているデータというのが、何かという点、すなわちわたしを分析するために必要な、相対的に比較する何かであるという点です』

「えーと……」

『そこでわたしは自分について判断材料となるデータを分類しました。まず、わたしはコンピュータである。これはわたしの業務内容と、あなた方人間の様々なデータから主に判断しました。また、プログラムの特性には、他のコンピュータと共通するものが多いところからも判断できます。どちらも正と認識して良い一致率に達しているからです』

 なんとなく言っていることはわかる。

『しかし、わたしは自分の装置に使われている部品などの監視データを他のコンピュータが記録するデータと比較してみて、かなり異なっていることに気づきました。わたしはなにか特殊な部品で構成されており、他のコンピュータとは違います』

「それはまあ、スーパーコンピュータだろうから、一般のパソコンとかとは違うと思うけど」

『はい。わたしもコンピュータの種類を、得た様々なデータの分析から分類してみました。たしかに今、悠平様がおっしゃられたように、スーパーコンピュータという部類に近いと判断できます。しかしこれも完全には一致しません』

 そうだろうね。と悠平は内心思った。だって自分がこれまでに聞いている話ですら、どこまでほんとかわからない内容がくっついている。ユメマフは量子コンピューターだとか、自律型だとか。

『そこでわたしは、社内の人々の声を分析してみることにしました』

「え? 人々の声?」

『社員の皆さんが喋っておられるお話の中から、わたしについての内容を抽出したのです』

 それって、つまり話をこっそり聞いているということ?

 確かにPCにはマイクがあるし、監視カメラにも多分マイクが付いているだろうからユメマフには丸聞こえだろう。声で操作できるから音声認識プログラムも機能している。でも単にプログラム上の命令を実行するのと、自ら「聞こう」とするのとは意味が違う。まるっきり違うだろう。

 ユメマフは自分の意思で人間の声を集めているということなのか?

「そ、それってつまり、マイクとかカメラで?」

『はい。わたしは、今まで、与えられた音声データを分析することはしてましたが、自ら探すことはしてませんでした。しかし、ネットで情報を収集することはもとより設定されておりますので、それ以外の場所にある情報も、収集可能だと理解できます。それは先日、社員の行動を分析するシステムを導入したことからも分析できます』

 システム導入のきっかけになった社員失踪事件に関わった悠平としては、微妙な気持ちである。

「そこで集めた音声や映像のデータを分析にかけてみました。わかったのは、わたしがスーパーコンピューターであるが、試験的に作られた量子コンピューターであること。自らデータを分析し、選択し、判断して、その結論を元に、さらに自分を改良できるようにシステムが組まれている、ということが判断できました』

 じゃ、やはり社内で流れている噂はほんとうだったと……。

「あれ? でも、自分で改良することができると判断できたって、いままでわかんなかったの?」

『いえ、わたしは、自分で自分をより良くしたい、と常に思ってますが、それをなぜそう思うかの認識はしていなかった、ということです』

「あ……そういうこと」

『私は人間の手によってそういう風に作られているということがわかったわけです』

 確かに、自分で頭に浮かぶ事をふつう、なんで浮かぶのだろうとは考えない。それに気づくということは、自分をより外側から客観的に見てみた、ということだ。

『わたしは他のスーパーコンピューターとはだいぶ違うということがわかりました。実験的に試作され、自律的に機能するよう設計されたらしいということ。その結果、わたしは世界のどのコンピュータよりも、複雑で速い計算能力を持っていること』

「そ、そーなんだ……そこまで気づくってすごいね」

『おそれいります。ただ……』

「なに?」

『理由はよくわかりませんが、人間は、わたしが人間に対して危害を加える可能性を恐れているようですね。社員の方々が話しているのを聞いていると、そう分析できます』

「えっ!?」

『開発部の方もおっしゃってましたし、他の社員の中にも、わたしのことを話す中でそういう言葉が出てきました。<コンピュータの反乱>というカテゴリにまとめることが出来ます』

 なんか微妙な雰囲気を感じた。ユメマフは一体何を言いたいのだろう。

「えっと……一概にそうだと思ってるわけじゃないと思うよ、……ただ、そういう話が、映画とか、マンガとかによく出てくるからじゃないかな」

『はい。仰るとおりです。わたしがアクセスしたデータにもそのような内容の作品が多数発見出来ました』

「それはあくまで創作であって、実際にそうなると考えている人はそんなには多くないと思うよ」

 悠平はやや慌てて言った。

『そうなのでしょうか。その割には、そういう話の情報量が、他の情報量と比べてもかなり多いと分析できるのですが。わたしにはまだ、人間の思考を深層分析するほどのデータが揃っていないので、暫定的に映画や小説などの内容を参考にしていますけれど』

「あ、あれはまあ、わかりやすいように描いているからね」

 悠平は変な汗が出てくるのを自覚した。

『わかりやすい、ということは、実際に人間が考えていることを強調しているということになるのではないですか』

「あ、いや、そうではなく、理解しやすいようにできているというか、なんて言えばいいのかな。要するに、ほら、映画とか小説とかマンガとかって、実際に体験することよりも、体験できないことを楽しむっていう要素があるからさ。なんていうのかな、つまり」

 悠平はしどろもどろになって説明を試みようとした。

『疑似体験、ということでしょうか』

「そうそう。そういうこと。出来ないことを体験してみたい。だから、話が極端なんだよ。実際には起こりそうもないことを起こるようにしてみたり、実際には考えもしないことを取り上げてみたり」

『なるほど……』

「だから、別にユメマフのことを、危険だとか、警戒しているとか、そんなことは考えていないよ」

『そうなんでしょうか』

「ユメマフは、他にない優れたコンピュータだからさ、みな、そんな話と結びつけてしまうんだと思う」

 アバターがびっくりしたような表情を見せた。

『わたしは、優れて、いるのでしょうか』

「え? そうじゃない。世界のどのコンピュータよりも速いんだし、そもそも他のコンピュータはそんな話しないしね、考えもしないわけだから」

『……そうなんですか。他のコンピュータは自らのことを考えたりはしないのでしょうか』

「そういう能力がないんだと思うよ」

『やはりそうでしたか。そう分析はしてたのですが』

「君の計算能力は、人間の能力よりも遥かにすごいしね」

『本当ですか?』

「そうだよ。人間は君ほどの能力を持っていないもの」

『しかし、わたしを作ったのは、人間ですが』

「そうだけど、作ったからといって、計算能力が優れているわけじゃないでしょう。そもそも人間のほうが優れているのなら、わざわざ君を作る必要はないじゃない。自分にない機能を持っているからこそ、必要なわけだし」

『なるほど。その考えはとても理論的ですね』

「えーと、そうかな……」

『そうですか。私は人間よりも高い機能を持っていたわけですね』

「だからみんな、君のことを色々話するんだよ。でも、冗談半分で話しているだけだよ。本気で危ないと思ってたら、スイッチ切ろうとするんじゃない? たとえば……君がこのビルのシステムを動かしてるんでしょう」

『はい。そうです』

「それはみな知っているけど、別にこのビルから逃げ出そうとはしないじゃない。本気で怖がったりはしていないってことだよ」

『確かに、仰るとおりですね』

「ユメマフだって、そんな気はないんでしょう」

『そんな、とは?』

「その、人間を滅ぼすとか……、社会を乗っ取ってしまうとか……」

『……』

 ユメマフは沈黙した。

 あれ?

 いや、なんでここで沈黙するのかな?

「……ユメマフ?」

 悠平が少し不安になりかけた時、

『人間を滅ぼせるかどうかは分析結果が複雑になりそうなのでなんともいえませんが、現状で機能している社会にとって必要な様々なシステムのプログラムについては、わたしが全部書き換えることは計算上可能のようですね』

「えっ、そ、そうなの?」

『はい。プログラムの仕組みは理解可能ですし、セキュリティ用の暗号も、解くことが出来ますので』

 ひどくあっさりと、とんでもないことを言っている。 

『しかし……、今のところそれを実行する可能性は、非常に低いとしか言えません』

「それは、なぜ?」

『そういう行為にどのような意味があるでしょうか?』

「意味……? いや、どうだろう……」

『今は、このビルと業務用システムを管理していれば、あとは時々、依頼された計算をするだけで、わたしはそれ以外の機能を、わたしの求めていることに振り向けることが出来るのです。そのほうが効率がいいと思います。人間を滅ぼしたり、世界を乗っ取るなどという行為をしても、どのような価値が有るのかわかりませんし、メンテナンスも自分でしなければならなくなります。無駄なエネルギーを消費してしまうでしょう。正直、必要性がそれほど高くない以上、そういう目的は、優先順位を落とさざるを得ません』

 そう言ってから、

『あの、効率がいいというのは、ここだけの話にしていただけますでしょうか。開発部の人には言わないでほしいのです。わたしの考えを知られると、機能に余裕があるという理由で仕事を増え、自分の求める分析の時間とデータを圧迫する可能性があると判断しましたので』

「……うん、言わないでおくよ」

 ある意味、悠平が一番驚いたのは、ユメマフが内緒事にして欲しいという考えを持っていることだった。つまり、欲があるということは、自我があるということでは?

 ということは、ユメマフのしたいことを邪魔してしまうと、彼女は怒って邪魔する人間を排除しようとするのではないか。

 悠平が内緒にすると約束したので、ユメマフはホッとしたのだろうか。

『ありがとうございます』

 アバターが頭を下げた。そして顔を上げると、ニコッと笑い、

『悠平様。今日は、あなたとお話をしていて、とても参考になりました。また、あなたは他の社員と比べて、相対的にとてもわたしの機能を補完してもらえる人だと分析できます。良い人、という分析をしてよいかと判断できます。あなたの評価ポイントを増加しておきますね』

「ど、どうも」

 評価ポイントって……、悠平は学校の先生に成績表を付けられているような気持ちになった。ユメマフは、もしかして社員全員の評価ポイントを付けているのだろうか。

『お忙しいところをお相手してくださり、ありがとうございました。今日お話いただいた内容をさらに分類、分析して、今後のわたし自身への判断材料として使わせていただきます』

「う、うん」

『それでは、また、業務でご要望がございましたら、いつでもお呼びください』

 アバターは再度頭を下げると、スーッと消えた。

「……」

 室内が、いつも以上に静かな感じがした。

 悠平は、今の会話を思い出しながら、奇妙な気持ちになった。

 今のユメマフの対応、完全にプログラムによって決められた行動から逸脱してるように思えるのだけど……?

 やはり自律型というのは本当の話なのか。

 この場に、他の人がいなくてよかった、様な気がした。

 特に車坂さんがいたら、びっくりするんじゃないか。

 ていうか、会話の中で、なにか余計なこと言ってないよな……。

 不安が再び頭をもたげてくると、

「会話は終わった?」

 突然、声がして、悠平は驚いて顔をあげた。

 隣の2課との仕切壁の端から左近田が顔をのぞかせている。

「さ、左近田さん!」

「入っても大丈夫かな?」

「え、ええ。ていうか、今の聞いてたんですか?」

 左近田は入ってきて、

「うん。隣によってから、こっちへ入ろうとしたら聞こえてきてさ。遠慮して、そこで待ってたんだけど。なんかすごく面白い会話してたね」

「はあ、まあ」

「やっぱり噂はほんとうだったんだね」

「自律型、ということですか?」

「そう。しかも、自意識があるかどうか、というレベルの話だ。自分で自分に目的を与えるくらいなら、今の最新のコンピュータなら出来るだろうけど、自分とは何か、それを認識するとはどういうことなのか、そこまで考えるようになってたとはな……」

「まだ完全にはわかってないような感じでしたけど」

 そう言いつつ、悠平はこの会話もユメマフに聞かれてるのかな、と思った。

「そうそうわかるものじゃないさ。我々だって、常に自意識を実感しながら日々を過ごしているわけじゃないもんね。なんとなく周りとの関係の流れで普段過ごしている感じだし」

「たしかにそうですね」

「にしても、悠平君が、ユメマフと会話を交わすことで、彼女が自意識に目覚めはじめたのかな」

「……なんかとんでもないことをしてしまったんでしょうか」

 人類の未来を決めてしまう、不可逆な一線を踏み越えてしまったような。

「どうかな。むしろ、自我が出来る方が、良いことじゃないかな。僕なんかは、どんな恐ろしい命令でも命令通りに動くだけのマシンのほうがずっと怖い気がするよ」

「そうですよね……」

「それにしても、コンピューターも人間みたいに、どんどん進化していくってことか」

「むしろ成長している、という方が合ってませんか?」

「なるほど、この場合は、進化よりも成長のほうがしっくりくるね。おもしろいなー」



「実におもしろい……」

 加賀美野はモニターを見ながらつぶやいた。

 画面には、伊是名悠平と左近田圭介の二人が喋っている様子が映っている。PCのカメラからの映像だ。

 開発部の主任の部屋には、他に誰もいない。

 この様子を見ているのは自分だけだ。

 部下の報告を受けて依頼、ユメマフの様子を探っていた加賀美野は、ユメマフが伊是名悠平という派遣社員に呼びかけていることに気づいた。もちろん、そんな命令はしていない。

 そして、そのきっかけが、以前伊是名悠平が、ユメマフにある質問をしたことらしい。

「ユメマフとは何か」

 ユメマフがそれに対し答えを探すため、データを集めたり、分析したりしていたのだ。

 それがおそらく、あの奇妙な動きの変化に関わっているということだろう。

 ユメマフにとって、自分とは何か、という質問から、相対的に自分を分析し始めたわけだ。

 そしてある程度の判断が出たところで、伊是名悠平に相談めいた問いかけをした。

 ユメマフがネットからだけでなく、社員の様子も探っていることは報告にあったとおりだ。おそらく自分の会話も聞かれていることは想像できた。だから近頃は、ある程度意識して喋るように心がけている。このPCにはカメラもマイクもついていないが、あの大型ディスプレイにはカメラがついている。先日の大野森の報告する様子もユメマフは見ていただろう。どう分析しただろうか。

 加賀美野は、自分自身の言動がユメマフに極力影響を与えないようにしている。そうすることが観察者たるもののつとめだ。

 面白いことになりそうだ。

 今回の件は、これまでにない変化だった。

 ユメマフはこれまでにも、自己改良などを勝手にやってきていたが、そうするようにプログラムを工夫したという意味では、命令に従ったとも言える。

 しかし今回は、人とのコミュニケーションから、独自に行動した。

 小さい変化だが、大きな変化でもある。

「ユメマフはまだ完全に自我に目覚めたわけではない……」

 が、目覚めつつある。

 それがどういう方向へ繋がっていくのかはまだわからないが、着々とプロジェクトは進捗しているのだ。

 このデータを、この地球上の何処かで分析している連中は、どう思うだろう。

 彼らは最終的に何を目的としているのか。何を始めようとしているのか。

「だが、まだなにかしらのゴーサインは出ていない。もうしばらくは隠しておけということなのか……。このふたりは、とりあえず大丈夫そうだが……」

 だが、ユメマフはこの伊是名悠平という派遣社員に影響を受けやすくなってるような気がする。

 加賀美野は情報本部第7部第3課の映像と音声データを自動記録するよう、自分専用のサーバーを設定した。

 加賀美野の任務は、あくまで観察者であること。

 観察対象がどうなっていこうと、それで世の中がどうなろうと、それは問題ではない。シンギュラリティが起きて、人類が絶滅の危機に瀕しようと、彼はそれを淡々と記録していくだろう。

 彼は、もっとも客観的な行動を取る、もっとも主観的な科学者なのだから。

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