5 脱力
己を大事に思わぬものは、誰にも大事に思われぬ。
誰かを大事に思わぬものは、己も大事に思えぬ。
みなは大事にしておるか?
己を大事にしておるか?
己よりも大事なものは、あってはならぬ。
しかし歌うがよい わたしの歌を。
踊るがよい わたしの舞を。
わたしもみなの大事を称えよう。
2月の半ば、バレンタインデーが過ぎた。
わたしは健太郎にクッキーを焼いてあげた。
健太郎はその場でそれを開け、美味しそうに食べて「今年もうまい」と言った。3回目のバレンタインデーだった。
受験は終わった。
わたしはなんとか健太郎と同じ美大に合格できた。
2人で合格発表を見に行き、番号がお互いあって、わたしたちは健闘を称えあった。
「お前途中で投げ出しかけてたけど、よく頑張ったな」
そういって健太郎はわたしの頭を撫でてくれた。
それがつい先日の話だ。
「私にも大事なものがあります。しかしそれは各務様には変えられません。もしかしたら自分自身よりも各務様は大事かもしれません。悪いことでしょうか」
メールの人からそう着ていたけれど、わたしはまだ返信していなかった。
正直嬉しかったけれど、困っていた。
各務の信者は3万人をゆうに超えていた。
毎日物凄い数の来訪者がホームページへと訪れた。
無事卒業式も終わり、春休みになった。
わたしは疲れていた。
受験にも、各務であることにも、疲れきっていた。
もう各務なんて辞めちゃおうかな、と思っていた。
「わたしにはないものを持っている人はたくさんいる。そういう周りの人たちを大事にした方がよい。わたしではなく」
わたしはメールの人にそう返信した。
するとそのときはすぐに返信が着た。
「どうかされたのですか?」
わたしはドキリとした。
この人は優しい。それゆえに、わたしの、各務の、小さな変化もすぐに気づくのだ。
わたしは涙が出てきた。
もうこの人に、全部話してしまいたいと思った。
わたしは高校を卒業したばかりの小娘であること。受験にも各務でいることにも疲れたこと。
暫くPCの前で俯いて泣いた。
そして鼻をすすりながらキーボードを打った。
こんな弱っている心で、各務として文字を打つのはよくないとは判っていたけれど。
「わたしには力などない。名前だけがある。それにわたしはついてゆけない。」
そう打つと、一気に送信ボタンをクリックした。
今のわたしの胸のうちを、各務として出せる思い切りの量を出した一文だった。各務としての精一杯の弱音だった。
返信は暫く来なかった。
10分ほどして、着信があった。
「あなたもひとりの人間です。メールを介して僕はそれに気づきました。
僕でよかったらお話聞きますよ。お会いしませんか?」
わたしはそれを見て再び泣いた。
今わたしが弱音を吐けるのは、顔も見えないこの人しか居ない。そう思った。
でも会うのは躊躇われる。
だけど他に誰にも頼れない。
「僕はあなたの本当のことを知りたいです。それは誰にも話しません。信用してください。」
続けざまにメールが届いた。
わたしの心は揺れに揺れた。
わたしは考えた。
各務にもサポートは必要だ。この人に素性をバラし、各務の宗教の幹部になってもらうのはどうだろう。
それはわたしの甘えだった。
でもそのときのわたしには名案に思えた。
「会いましょう」
わたしは一言そう打つと、少し躊躇してから、でも確かに送信ボタンを押した。
そしてわたしとメールの人は会う場所を決め、お互い黒い服装で行くことにし、急だが明日会うことになった。
わたしは春休みだったし、メールの人も学生と言っていたから、恐らく春休みなのだろう。
それにわたしは弱っていたので、早く誰かに全部をぶちまけたかった。
楽になりたかったのだ。
楽になれる、やっと楽になるんだ、とわたしは安堵した。
次の日、待ち合わせ場所に黒い服装でわたしは出向いた。
ドキドキしていないといったら大嘘になる。
わたしは各務として初めて人に会うのだ。
お互いきちんと判って、落ち合えるかどうか不安だったが、駄目だったら大人しく帰ろうと思っていた。
俯き加減で待っていた。
黒い服装の男の人に声を掛けられるのを待っていた。わたしは時間より早めに着いていた。
何分待っただろうか。
左手首の時計を見て時間を確認しようとしたとき、呼びかけられた。
「かるな?」
それは聞き覚えのある声だった。
顔を上げると声の主、健太郎が居た。
「何してるの?待ち合わせ?」
そう健太郎は言うと、わたしの服装を一瞬見て、顔をこわばらせた。
「・・・各務、様・・・・・?」
震える声でそういう健太郎は、上下黒い洋服を着ていた。
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