4 ふたり
わたしはアトリエで、木炭でデッサンをしながら、ふと空腹を覚えて消しゴムである食パンの白い部分を、汚れていない方の手でむしって一口食べた。
木炭のデッサンでは消しゴムに食パンを使う。
それをおもむろに一口食べたのだった。
「お前・・・食うなよ」
隣で同じようにデッサンをしている健太郎がそれを見て笑いながらそういった。
「わたし木炭ってどうしても苦手」
ため息混じりにわたしはそういった。
「鉛筆は得意じゃん」
健太郎も一口食パンを食べた。
「鉛筆はね・・・慣れてるから」
立っていたわたしは椅子に腰掛けてもう一度ため息を吐いた。
もう受験シーズンはすぐそこだった。
年が明けて1月になっていた。
「明けましておめでとうございます。今年も各務様にとって、よい1年になりますように。」
「明けてめでたいことなどない。今日は昨日の続きであり、明日は今日の続きである。つまり昨日と今日はさほど変わらないのだ。」
そんなやり取りを、あのメールの人としたのだった。
それはわたしの本心だった。
昨日が今日になっただけで、目出度いことなどないのだ。
ただ年が変わったからといって、昇る太陽に変化はない。
だが、わたしは通院しているメンタルクリニックに今年初めて赴くと「明けましておめでとうございます」と言ったのだった。
「おめでとうございます。変わりないですか?」
「はい」
「地獄の夢はまだ見ますか?」
「あ、そういえば最近見てないです」
「いいことですね」
「ええ・・・」
わたしが教祖なんてしていることは、この主治医でも知らない。
そんなこと言ったら入院でもさせられかねない。
「最近楽しいことはありますか?」
そう聞かれて、わたしは戸惑った。
メールの人とメールをするのは正直楽しい。
でもそれを説明するのはなかなか億劫だった。
「特にないですね」
「受験勉強は進んでいますか?」
「まあ、それなりに」
本当に、「それなり」だった。
美大の受験は実技がある。試験も重要だが、実技も重要なのだ。
実技は木炭でのデッサンだ。
わたしの木炭への苦手意識は拭えることはなく、受験に対して心配の念はあった。
主治医とのそんな会話を思い出し、アトリエでわたしはまたため息を吐いた。
受験、駄目かもしれないな。
「ため息吐くと、幸せ逃げるぞ」
健太郎がオブジェを見つめて木炭でそれを描きながら話しかけた。
「各務様のお言葉?」
「俺様のお言葉」
そんなことは知っている。わたしはそんな、ため息がどうこうなんて言ったことはなかった。
わたしがため息について言及するときがあったら、なんていうだろう・・・。
オブジェを見つめながら、そんなことを考えた。
何も浮かんではこなかった。
オブジェは、梅酒を漬けるときのビンに林檎が入って、なおかつロープがビンに絡んでいる、なんとも表情を描くのが難しい、いやらしいオブジェだった。
ビン、林檎、ロープ、どれもうまく描かないと質感が出ない。
鉛筆でも難しいのに、木炭でなんて描けない。
それでもわたしは立ち上がり、続きを描いた。描いては食パンで消し、また描く。
でも一向にうまく描けないのだった。
「わたし、普通の大学行こうかな」
ぽつり、とわたしはそういった。
「今更?!」
健太郎がびっくりして、描く手を止めてこちらを向いた。
「俺らデッサン専攻してるから、世界史とか数学とか勉強してないのに、そんなの無理じゃね?」
そうなのだ。
周りの子が世界史やら数学やらを2時間みっちり勉強している間、わたしたちデッサン科の人間はデッサンに勤しんでいるのだった。
「そうだよねぇ・・・」
わたしはまたため息を吐きそうになったが、先ほどの健太郎の言葉を思い出し、留まった。
ため息なんて吐かなくても、幸せって逃げていくんじゃないだろうか。
「健太郎は今幸せ?」
わたしが投げやりにそう訊ねると、健太郎は少し考えて「幸せかな」と言った。
「お前もいるし」
そう付け足してくれた。
「各務様もいるしね」
わたしは嫌味っぽくそういった。
「何お前、嫉妬してるの?」
健太郎が面白そうに笑いながらそういうので、わたしは少しむっとした。
「したって各務様には叶わないよ」
健太郎の中では、わたしより各務なのだろうと、わたしはそう思っていた。
宗教とはそういうものである。
人の心の大半を占める。
そうでなければ、成り立たないものなのだ。
「まあそういうなよ」
健太郎はそうわたしをなだめた。否定はしないのだ。でも悪い気はしなかった。何故なら各務はわたしなのだから。
「受験終わったら、お前も各務様を崇める会、行く?」
「えっ?!」
メールの人がいってたやつだ!
健太郎も行ってるんだ。わたしは初耳だった。
「なにそれ、なにするの?」
「各務様のことについて話し合うんだよ」
予想してた答えが返ってきたが、わたしは動転していた。健太郎がそんなのに行ってるなんて。
「おまえたち、さっきから全部話聞こえてるぞ」
講師がそう注意してきたので、わたしたちは黙った。
「すいませーん」
「かがみさまって、今ネットで流行ってるやつか?」
「えっ!」
わたしと健太郎は同時にそういった。
「僕もサイトは見たことあるよ。なかなかおもしろいな、あれ。おまえたちあれにはまってるのか?」
わたしは驚いていた。そんなに広まっているのか。
わたしの知らないところで、各務は一人歩きしているようだった。
「なんすか?それ」
健太郎がしれっと言った。
「なんだ、違うのか」
講師はがっかりしたようだった。
苦痛だったアトリエの時間も終わり、わたしと健太郎は駅へと向かった。
「お前あんまり各務様の名前出すなよ?まあ俺も出したけど」
「ごめん」
「お前には全然刺さらないの?各務様」
「えっ」
わたしは戸惑った。わたしに刺さるわけがない、というか、刺さりようがない。
わたしが困って黙っていると、健太郎は「まあいいけど」と言った。
「でも馬鹿にすんなよ?」
俺は本気なんだから、と健太郎は呟いた。
「してないよ」
「そう?ならいいけど」
駅について、わたしたちはホーム立った。
先ほどの講師の件といい、今の健太郎の真剣な表情といい、各務はすごい力を持っている、とわたしは痛感していた。
わたしなんかが各務をやってていいのだろうか、とすら思うほどだった。でもそんなこと誰にも相談で気やしない。
駅のホームに電車が滑り込み、わたしの髪の毛を揺らした。
吹いてくる風は冷たくて、わたしは身震いした。
わたしは、各務は、ひとりぼっちだった。
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