別れの日


 プラットホームの端に褪せた黄色のベンチがある。今日はそこに、男性が腰かけていた。両ひじを膝につけ、頭を抱えるようにして深く項垂れた彼は喪服をまとっていて。緩められた真っ黒なネクタイが寂しげに揺れている。

 それを横目に乗り込んだ電車の中。人の少ないその場所で、喪服姿の老夫婦が静かに言葉を交わしていた。窓の外に広がる畦道に、赤い色がぽつぽつ見える。する筈のない線香の匂いが鼻を掠めた気がして、少しだけ呼吸を止めた。

 この時期は、呼ばれる者が多いでなァ。

 降りる間際の呟きが、ぐらりぐらりと私を揺する。左手に握る手提げが、やけに重く感じられる。手向けた花の残像が目の前をちらついて離れていかない。

「貴方も誰かに呼ばれたのですか」

 見下ろした柩の中で、唇を引き結んで眠っていたあの人は、結局何も話してくれなかった。小綺麗に整えられた姿から、小さな箱に詰められた白色になっても、まったく応えてくれなかった。

「貴方は私をどう思っていたのでしょう」

 今日は薄暗い曇りの日だった。見上げた空は、今にも泣き出しそうであった。

 鞄の中でとぐろを巻いた数珠の紐。それがプツリと切れた気がした。あの人が好きだと言っていた水晶の、パキリと砕ける音がした。

 もう、何も思うことはなかった。

「……今日は皆さん、別れの日のようで」

 クスリと笑んだ私を叱るように、遠くで鋭い警笛の音がする。悲鳴とも何とも分からぬ声がワッとあがって静かになる。

 顔も知らぬ誰かの旅立ちに出会った日は、顔のよく知った人を見送った日でもあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る